汝の敵を愛せよ(太中/文スト)

 休日の朝は遅い。中也がベッドから抜け出したのは十時半を過ぎた頃だった。空腹感を覚えて、咥え煙草のまま、あまり使われていないキッチンに行くと冷蔵庫の中を検めた。
「何もねぇなあ」
 入っているのは酒類ばかりで、食材になるようなものはなかった。この場合、買い物をして調理するよりも外食した方が早い。
 食事を済ませた後にスーパーにでも寄るか。
 中也はそう思って冷蔵庫のドアを閉じ、流しで煙草を始末する。身支度をするために再び寝室へ向かおうとしたその時。
「お邪魔しまーす」
 聞き覚えのある呑気な声が玄関の方から聞こえてきて。中也はとても厭な予感を覚えながら、細く開けたリビングのドアから玄関へ続く廊下を覗いた。
「やあ、中也。相変わらず小さいね。ちょっと匿ってくれ給え」
 思った通り、太宰がのほほんとした様子で部屋に上がり込んでいた。此方へ向かってくる神出鬼没な元相棒に向かって喚く。
「小さいとか云うなッ! いや、それより、手前ェ! 何ナチュラルに他人ン家に上がり込んでるンだよッ! つーか、鍵はどうしたッ!」
 在宅中であっても施錠は欠かさない中也である。そもそもこのマンション自体、セキュリティが厳格で外部者はそう簡単に入れない筈なのだが。
「え? 私の手にかかればこんなの、何でもないけど?」
「こンの、犯罪者あああ!」
 中也は太宰の胸倉を掴んでガクガクと揺さぶる。
「出ていけ! 今すぐ!」
「えー、ちょっと私、困ってるのだけど」
「知るか!」
 中也はリビングへ入れさせまいと太宰の腕を掴んで玄関先へと引き摺っていく。と、電信音が鳴った。途端に太宰は渋い顔をする。彼は外套のポケットから携帯電話を取り出すと中也にぽいと放り投げるように手渡した。反射的に小さな機械を受け取った中也は表示された名を見て、匿ってくれという太宰の事情を察した。
 何で俺が、と思いながらも鳴り続ける携帯電話の通話ボタンを押す。
『太宰ーッ! 貴様今何処にいるんだッ! 今日という今日は赦さんぞッ!』
 マイクから流れてきた怒号に中也は眉を顰めた。怒り狂っているのは太宰の現相棒である国木田だった。彼も色々と太宰に振り回されているのだろう。そう思うと少し同情してしまう。
「おい、探偵社。太宰のクソ野郎なら俺ン家にいるぜ」
『何ッ!? それなら今すぐ叩き出してくれ』
「あいよ」
 国木田はふと声を潜めて云う。
『お前は確か……中原か? 何であの莫迦がマフィアの家にいるのか理解に苦しむが……』
「それは俺の方が知りてーよ。いきなり押し掛けて来やがって。アンタも苦労してるみてぇだが」
『ああ、全くだ。兎に角、あの阿呆を叩き出してくれ。お前の家は何処だ? 奴を回収しに行く』
「俺ン家はーー」
 そこで太宰が携帯電話を取り上げて通話を切った。
「おい、何しやがる」
「もう、中也ってば。匿ってって云ってるのに」
「承諾した覚えはねェよ。とっとと失せろ。目障りだ」
 探偵社の事情はどうでもいいが、太宰が目の前にいるのは不快だった。心が乱されて蓋をした筈の感情が溢れてしまうから。だが、太宰はそんな中也の気持ちには無頓着で。それがまた腹立たしくて、中也は唇を噛む。
「そんなに邪険にすることないでしょう。汝の敵を愛せよ、だよ。君には隣人愛が欠けてる」
「はあ? 何云ってンだ。何時から手前は切支丹になったんだよ。つーか、手前、人を愛したことなんざねェだろうが」
 中也は苦虫を噛み潰したような表情で太宰を睨む。すると太宰は何時になく真面目な口調で答えた。
「あるよ。それくらい。私にだって」
「は?」
「だから、人を愛したことくらいあるよって云ってるの」
「……手前が愛とか云うと気色悪ィな」
  肌が粟立って中也が身を震わせると「失礼しちゃう」太宰は面白くなさそうに唇を尖らせる。
「君は鈍感だから気が付いていないようだけど」
 そう云って太宰はずいっと中也に顔を近付ける。息が触れそうな距離に中也は鼓動を跳ねさせながら、慌てて身を引く。だが太宰はそれを赦さなかった。
「離せよ」
 抗う中也を無視して、太宰は彼の腰と細い顎を捕らえて唇を落とした。中也は信じられない思いで、抵抗することも忘れて彼の唇を受け止めていた。
「ふふ、変な顔」
 唇が離れると太宰は柔らかく笑む。そこで漸く中也は我に返った。一気に熱がのぼってきて、顔が燃えるように熱くなる。自分は今、真っ赤になっているのだろうと思って酷く居た堪れなくなった。それを誤魔化すために中也は喚く。
「手前……ッ、何で……裏切り者の癖に……ッ」
「私に置いていかれて、寂しかった?」
「ンな訳、ねーだろ……ッ!」
「じゃあどうして、そんな泣きそうな顔をしてるの?」
 ねぇ中也ーー優しい声に中也の胸が震える。これ以上はもう辞めてくれと叫び出しそうになってしまう。太宰の気持ちを知ってしまったら、自分の真情を吐露してしまったら、もう戻れなくなる。目の前で美しく微笑むこの男は、致死性の毒だ。死ぬまで離れられなくなってしまう。誰かに縋ること、溺れることは中也の矜恃が赦さなかった。と云うよりも、それは恐怖感なのかもしれない。ひとりで生きていけなくなることへの恐怖。
「手前、もう帰れよ。そして二度と来んな」
 中也は冷たく云い放って、太宰を押し遣った。
「そこまで云われちゃ、仕方ないなあ」
 太宰は大仰な溜め息を吐いて、国木田君まだ怒り狂ってるかなあなどと呟く。玄関で靴を履くと振り向かずに彼は告げた。
「中也。私は君を裏切り続けるよ」
 じゃあねと片手を振って太宰は出て行った。
 ひとりになった中也は閉まったドアを暫く見詰めて、太宰の言葉の意味を考えていた。
 それが彼の愛の言葉であることに気付いて中也は口惜しそうに唇を噛んだ。
「手前は何時も解りにくいンだよ……ッ!」
 吐き捨てた言葉は静寂に落ちて消えていく。
 次、彼が現れた時にどんな顔をすればいいのか。
 中也は溜め息を吐いて頭を抱えるのだった。

(了)
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