メフィストフェレスの恋
(4)
冬の深夜は底冷えがする。空高くかかった満月の光も冴え冴えとして蒼白く、冷たく輝いていた。
国木田は寝静まった街の中央にある公園広場にいた。石畳の地面に用意した白いチョークで歪まないように大きな円を描いていく。その中に正確にヘキサグラムを描き込む。そこで一旦、彼は外套のポケットからメモを取り出し、図形を確認した後、また身を屈めて地面にチョークを走らせた。今、国木田が人目を忍んで行っていることは悪魔を召喚するための魔方陣の描写であった。他でもない、メフィストフェレス――太宰を呼び出すためである。
あれから太宰は国木田の前に一度も姿を現さなかった。国木田は彼についてどのように考えたら良いのか長い間、迷い、戸惑っていた。そして秋が終わり冬の気配が強まる頃、国木田はある決意をした。辞職したのである。当然、上司である福沢は引き止めたが、国木田の意思は覆ることはなかった。聖職を退いてからと云うもの悪魔学の書物を読み漁り日夜、研究に勤しんだ。
もう一度、太宰に会うために。
彼の望みを叶えるために。
悪魔召喚の技法を片っ端から試した。しかしどれも悉く失敗に終わった。
今夜こそは――国木田は強く願いながら複雑な魔方陣を描き上げた。次の工程に移ろうとした時、見ちゃおれないね――不意に声がした。国木田は弾かれたように声の主を探して視線を四方に巡らせる。月影に蒼く染まった闇に人影はない。しかし国木田は確信していた。
「太宰だろう?姿を現せ、」
一陣の温い風が吹き抜けると突如、ぬっと音もなく闇の中から黒い塊が出現した。それは頭から黒いマントを纏った太宰だった。
「やぁ、国木田君。素敵な夜だねえ、」
にっこり微笑みながら太宰は云う。この美しい笑顔の下に邪悪なる者の正体を隠していると一体誰が予想するだろう。こうして改めて太宰の姿を見ても国木田が知っている悪魔像と上手く結びつかなかった。太宰は自分と変わらないただの人間に思えた。
「随分、悪魔を召喚するのに梃子摺っていたみたいだけど。まだ修行が足りないんじゃない?」
太宰が揶揄すれば、国木田は呆れて言葉を返す。
「何時から覗き見していたのか知れんが、悪趣味だな。解っていたならさっさと姿を現せ。お陰で随分時間を無駄にしたぞ、」
「へぇ?君は私を召喚するつもりでいたの。驚いたなあ、」
どう云う風の吹き回しだい――月光を双眸に鋭く宿して数メートル先に立つ相手を見詰める。
「私に恨み言を云うためかい?それとも悪魔との契約を交わすため?或いは私を殲滅するためかな?それとも、私に殺して欲しいのかな?」
酷く楽しげに言葉を吐く太宰を国木田は鼻で嗤う。
「どれも外れだな。お前に殺されるのは真っ平御免だ、」
「じゃあ、何さ?早くしないと、うっかり君のことを殺しちゃうよ?」
「ふん。やれるものなら、やってみろ、」
云うが早いか次の瞬間には国木田の喉元に鋭利な刃が突きつけられていた。
「最期に命乞いをするかい?」
冷酷な瞳。赤い唇は残酷に歪む。その顔がとても美しかったから。刹那、彼の腕に抱かれながら刃でこの胸を貫かれても良いと思った。
「今、俺を殺せばお前の願いは叶わない。それでも良いなら、」
「願い?」
太宰は一体何の話だと不愉快そうに目尻を吊り上げる。
「お前はそうやって空惚けているようだが。まあ、良い。俺は約束を果たしに来た、」
「……約束ねえ。どんな?話してご覧よ、」
太宰は不敵な笑みを浮かべながら刃物を握っていた手を退けて国木田に話の先を促した。
「――あれから。俺はお前と初めて会った時のことを全て思い出した。お前が俺に助けて欲しいと云った言葉の本当の意味も理解した。お前は自らの存在が消滅することを望んでいた。入水自殺を試みていたのもそれが理由だろう。尤も悪魔がそれで消滅するとは思えないが。お前がまだ救って欲しいと願っているなら叶えてやる、」
「仮に私がそれを望んでいるとして。君ひとりで私を斃すことが出来るのかい?ただの人間ごときに。返り討ちに合うのが関の山だ、」
どんなに人を集めて私に挑んでも無駄だよ皆殺してやる――太宰はせせら嗤う。
「残念ながら、俺はお前と殺し合うつもりはない。何故ならお前の本当の望みは滅ぶことではないからだ、」
太宰の暗い瞳が怯むように僅かに揺れる。国木田はそれを見逃さなかった。太宰、と静かに呼びかける。
「お前は俺を好きだと云った。お前はその想いが報われないと解っていたから、自身の終わりを俺に託した。その時が来たら殺して欲しいと。全く、悪趣味にも程がある、」
悪魔の思考回路は良く解らんな、ふうと息を吐く。それから真っ直ぐに太宰を見詰める。
「正直、俺が神に仕える道を選んだこと自体、悪魔であるお前の策略だと思ったら腹立たしいが。しかし、一つお前は誤算したな、」
「え?」
太宰が装う悪態を引き剥がすまで、あともう少し――国木田は勘付いていた。太宰がわざと残酷に、悪魔らしく振舞っていることに。
「俺がお前のことを好きだと云ったら?」
太宰は大きく目を見開いて愕然とした。私を好きだって?国木田君が?
「……そんな訳、」
弱々しい否定の言葉は国木田に届く前に消えていく。
国木田は記憶を手繰る。
「共に暮らした一月を思い返して……お前に困らされたこともあったが、でも俺は楽しかったんだ。心の何処かでずっとこの生活が続けば良いと思っていた、」
それに――決定的だったあの時のことを告げる。
太宰が「行かないで」と腕を掴んだことを。
眠りながら涙を流していたことを。
「縋っている相手が俺であれば良いと思った。涙を見てお前が望むなら傍にいてやりたいと思ったんだ、」
「……嘘、」
「嘘ではない。本当だ。俺は太宰のことが好きなのかもしれないとぼんやり思っていた矢先にお前の正体を知って、かなり混乱はしたがな、」
国木田は微苦笑する。
「俺は決断を迫られた。お前を忘れ、悪魔であるお前と敵対し、神に仕える道を全うするか、それとも信仰を捨て、今までの生き方を捨て、太宰を選び取るか。考えている時、迷っている時、頭の中でお前の泣き出しそうな顔や嬉しそうに笑う顔がちらついていた、」
太宰の残像は何時も国木田の胸裡に痛みを連れてきた。それが全ての答えであることを認めるのに数ヶ月の時間を必要としたのだった。
「お前はさっきから必死になって俺を拒絶しようとしていたが、徒労に終わったな。それにお前の行動にも矛盾がある、」
「何で……国木田君……、」
太宰は苦しげに顔を歪ませ、ナイフの柄を震える手で強く握り締める。こんなはずではなかったのに、と唇を噛み締めて。
国木田は優しげに微笑して告げる。右手を差し出しながら。初めて出会った時と同じように。
「太宰。好きだ。まだ俺のことが好きなら躊躇わずに俺の手を掴め。望み通り救ってやる、」
乾いた音を立ててナイフが地面に落ちて転がった。
太宰は信じられない気持ちで差し出された手と彼との顔を見比べる。赤い包み紙のチョコレートの記憶が蘇る。全ては、そこから始まった。
「……国木田君……、だって、私……、人間じゃないのに。君が穢らわしいと忌み嫌う存在なのに。人間に対して酷いこと沢山してきたのに……、」
さっきだって私は君を殺そうとした――太宰は顔を俯けて蒼い月光を反射して煌くナイフを見遣る。
「まあ、お前は悪として生まれた者だからな。そんなことは端から承知している。だが、俺を殺そうとしたのは本気ではなかった、」
幾らでもその機会はあったのだ。それこそ魔力を有する太宰にとって造作もないことだ。国木田の話に付き合うこと自体、初めから殺意はなかったことを示していた。そして太宰が姿を現したことにも、何か別の意図があってのことだろうと国木田は考えていた。そんなことを彼に云えば、君には敵わないねと力ない声が返って来る。
「……本当はね。正体を明かしてから、私に関する君の記憶を全て消そうと思っていたんだ。空白になった部分はどうにでも出来るからね。でも出来なかった。君の姿を見る度に、決心が揺らいでしまった。だから今夜こそはって思っていたのだけど……、」
本当に私は莫迦だね――告白する声は涙に潤んでいた。
「ああ、本当にお前は莫迦だ。そして、俺もな、」
堪らずに太宰を抱き締めた。
「……国木田君、」
「お前は俺のことが好きだ。そうだな?」
有無を云わさぬ強い口調にずるいよ国木田君と口の中で呟く。そんなことを云われたら肯定するしかないじゃない――、
「何か不都合があるのか?」
国木田は太宰の顔を覗き込む。
「だって、」
「だってもでもも無しだ、」
朱唇を指先でなぞり、言葉を遮る。戸惑ったように揺れる瞳を強く見返して答えろと迫る。
「……好き。私は、国木田君が好き、」
感情が溢れるように涙を落として国木田に縋った。
胸に太宰を抱きとめて慰めるように涙に震える背を撫でる。
「……太宰、」
国木田の声音は何処までも優しく、彼の名を呼ぶ。偽りである人の名前を。
少し躰を離して、こつん、と額を合わせる。至近距離で見詰め合う。濡れた太宰の瞳の中に虚像が映り込む。国木田の瞳の中にも太宰の虚像が映って。温かな息が触れ合うと太宰は身を堅くする。怯えるように。国木田は強張る痩躯を更に力を込めて抱き寄せる。
好きだ――酷く敬虔な気持ちで囁いて。
赤い唇に接吻した。
冬の深夜は底冷えがする。空高くかかった満月の光も冴え冴えとして蒼白く、冷たく輝いていた。
国木田は寝静まった街の中央にある公園広場にいた。石畳の地面に用意した白いチョークで歪まないように大きな円を描いていく。その中に正確にヘキサグラムを描き込む。そこで一旦、彼は外套のポケットからメモを取り出し、図形を確認した後、また身を屈めて地面にチョークを走らせた。今、国木田が人目を忍んで行っていることは悪魔を召喚するための魔方陣の描写であった。他でもない、メフィストフェレス――太宰を呼び出すためである。
あれから太宰は国木田の前に一度も姿を現さなかった。国木田は彼についてどのように考えたら良いのか長い間、迷い、戸惑っていた。そして秋が終わり冬の気配が強まる頃、国木田はある決意をした。辞職したのである。当然、上司である福沢は引き止めたが、国木田の意思は覆ることはなかった。聖職を退いてからと云うもの悪魔学の書物を読み漁り日夜、研究に勤しんだ。
もう一度、太宰に会うために。
彼の望みを叶えるために。
悪魔召喚の技法を片っ端から試した。しかしどれも悉く失敗に終わった。
今夜こそは――国木田は強く願いながら複雑な魔方陣を描き上げた。次の工程に移ろうとした時、見ちゃおれないね――不意に声がした。国木田は弾かれたように声の主を探して視線を四方に巡らせる。月影に蒼く染まった闇に人影はない。しかし国木田は確信していた。
「太宰だろう?姿を現せ、」
一陣の温い風が吹き抜けると突如、ぬっと音もなく闇の中から黒い塊が出現した。それは頭から黒いマントを纏った太宰だった。
「やぁ、国木田君。素敵な夜だねえ、」
にっこり微笑みながら太宰は云う。この美しい笑顔の下に邪悪なる者の正体を隠していると一体誰が予想するだろう。こうして改めて太宰の姿を見ても国木田が知っている悪魔像と上手く結びつかなかった。太宰は自分と変わらないただの人間に思えた。
「随分、悪魔を召喚するのに梃子摺っていたみたいだけど。まだ修行が足りないんじゃない?」
太宰が揶揄すれば、国木田は呆れて言葉を返す。
「何時から覗き見していたのか知れんが、悪趣味だな。解っていたならさっさと姿を現せ。お陰で随分時間を無駄にしたぞ、」
「へぇ?君は私を召喚するつもりでいたの。驚いたなあ、」
どう云う風の吹き回しだい――月光を双眸に鋭く宿して数メートル先に立つ相手を見詰める。
「私に恨み言を云うためかい?それとも悪魔との契約を交わすため?或いは私を殲滅するためかな?それとも、私に殺して欲しいのかな?」
酷く楽しげに言葉を吐く太宰を国木田は鼻で嗤う。
「どれも外れだな。お前に殺されるのは真っ平御免だ、」
「じゃあ、何さ?早くしないと、うっかり君のことを殺しちゃうよ?」
「ふん。やれるものなら、やってみろ、」
云うが早いか次の瞬間には国木田の喉元に鋭利な刃が突きつけられていた。
「最期に命乞いをするかい?」
冷酷な瞳。赤い唇は残酷に歪む。その顔がとても美しかったから。刹那、彼の腕に抱かれながら刃でこの胸を貫かれても良いと思った。
「今、俺を殺せばお前の願いは叶わない。それでも良いなら、」
「願い?」
太宰は一体何の話だと不愉快そうに目尻を吊り上げる。
「お前はそうやって空惚けているようだが。まあ、良い。俺は約束を果たしに来た、」
「……約束ねえ。どんな?話してご覧よ、」
太宰は不敵な笑みを浮かべながら刃物を握っていた手を退けて国木田に話の先を促した。
「――あれから。俺はお前と初めて会った時のことを全て思い出した。お前が俺に助けて欲しいと云った言葉の本当の意味も理解した。お前は自らの存在が消滅することを望んでいた。入水自殺を試みていたのもそれが理由だろう。尤も悪魔がそれで消滅するとは思えないが。お前がまだ救って欲しいと願っているなら叶えてやる、」
「仮に私がそれを望んでいるとして。君ひとりで私を斃すことが出来るのかい?ただの人間ごときに。返り討ちに合うのが関の山だ、」
どんなに人を集めて私に挑んでも無駄だよ皆殺してやる――太宰はせせら嗤う。
「残念ながら、俺はお前と殺し合うつもりはない。何故ならお前の本当の望みは滅ぶことではないからだ、」
太宰の暗い瞳が怯むように僅かに揺れる。国木田はそれを見逃さなかった。太宰、と静かに呼びかける。
「お前は俺を好きだと云った。お前はその想いが報われないと解っていたから、自身の終わりを俺に託した。その時が来たら殺して欲しいと。全く、悪趣味にも程がある、」
悪魔の思考回路は良く解らんな、ふうと息を吐く。それから真っ直ぐに太宰を見詰める。
「正直、俺が神に仕える道を選んだこと自体、悪魔であるお前の策略だと思ったら腹立たしいが。しかし、一つお前は誤算したな、」
「え?」
太宰が装う悪態を引き剥がすまで、あともう少し――国木田は勘付いていた。太宰がわざと残酷に、悪魔らしく振舞っていることに。
「俺がお前のことを好きだと云ったら?」
太宰は大きく目を見開いて愕然とした。私を好きだって?国木田君が?
「……そんな訳、」
弱々しい否定の言葉は国木田に届く前に消えていく。
国木田は記憶を手繰る。
「共に暮らした一月を思い返して……お前に困らされたこともあったが、でも俺は楽しかったんだ。心の何処かでずっとこの生活が続けば良いと思っていた、」
それに――決定的だったあの時のことを告げる。
太宰が「行かないで」と腕を掴んだことを。
眠りながら涙を流していたことを。
「縋っている相手が俺であれば良いと思った。涙を見てお前が望むなら傍にいてやりたいと思ったんだ、」
「……嘘、」
「嘘ではない。本当だ。俺は太宰のことが好きなのかもしれないとぼんやり思っていた矢先にお前の正体を知って、かなり混乱はしたがな、」
国木田は微苦笑する。
「俺は決断を迫られた。お前を忘れ、悪魔であるお前と敵対し、神に仕える道を全うするか、それとも信仰を捨て、今までの生き方を捨て、太宰を選び取るか。考えている時、迷っている時、頭の中でお前の泣き出しそうな顔や嬉しそうに笑う顔がちらついていた、」
太宰の残像は何時も国木田の胸裡に痛みを連れてきた。それが全ての答えであることを認めるのに数ヶ月の時間を必要としたのだった。
「お前はさっきから必死になって俺を拒絶しようとしていたが、徒労に終わったな。それにお前の行動にも矛盾がある、」
「何で……国木田君……、」
太宰は苦しげに顔を歪ませ、ナイフの柄を震える手で強く握り締める。こんなはずではなかったのに、と唇を噛み締めて。
国木田は優しげに微笑して告げる。右手を差し出しながら。初めて出会った時と同じように。
「太宰。好きだ。まだ俺のことが好きなら躊躇わずに俺の手を掴め。望み通り救ってやる、」
乾いた音を立ててナイフが地面に落ちて転がった。
太宰は信じられない気持ちで差し出された手と彼との顔を見比べる。赤い包み紙のチョコレートの記憶が蘇る。全ては、そこから始まった。
「……国木田君……、だって、私……、人間じゃないのに。君が穢らわしいと忌み嫌う存在なのに。人間に対して酷いこと沢山してきたのに……、」
さっきだって私は君を殺そうとした――太宰は顔を俯けて蒼い月光を反射して煌くナイフを見遣る。
「まあ、お前は悪として生まれた者だからな。そんなことは端から承知している。だが、俺を殺そうとしたのは本気ではなかった、」
幾らでもその機会はあったのだ。それこそ魔力を有する太宰にとって造作もないことだ。国木田の話に付き合うこと自体、初めから殺意はなかったことを示していた。そして太宰が姿を現したことにも、何か別の意図があってのことだろうと国木田は考えていた。そんなことを彼に云えば、君には敵わないねと力ない声が返って来る。
「……本当はね。正体を明かしてから、私に関する君の記憶を全て消そうと思っていたんだ。空白になった部分はどうにでも出来るからね。でも出来なかった。君の姿を見る度に、決心が揺らいでしまった。だから今夜こそはって思っていたのだけど……、」
本当に私は莫迦だね――告白する声は涙に潤んでいた。
「ああ、本当にお前は莫迦だ。そして、俺もな、」
堪らずに太宰を抱き締めた。
「……国木田君、」
「お前は俺のことが好きだ。そうだな?」
有無を云わさぬ強い口調にずるいよ国木田君と口の中で呟く。そんなことを云われたら肯定するしかないじゃない――、
「何か不都合があるのか?」
国木田は太宰の顔を覗き込む。
「だって、」
「だってもでもも無しだ、」
朱唇を指先でなぞり、言葉を遮る。戸惑ったように揺れる瞳を強く見返して答えろと迫る。
「……好き。私は、国木田君が好き、」
感情が溢れるように涙を落として国木田に縋った。
胸に太宰を抱きとめて慰めるように涙に震える背を撫でる。
「……太宰、」
国木田の声音は何処までも優しく、彼の名を呼ぶ。偽りである人の名前を。
少し躰を離して、こつん、と額を合わせる。至近距離で見詰め合う。濡れた太宰の瞳の中に虚像が映り込む。国木田の瞳の中にも太宰の虚像が映って。温かな息が触れ合うと太宰は身を堅くする。怯えるように。国木田は強張る痩躯を更に力を込めて抱き寄せる。
好きだ――酷く敬虔な気持ちで囁いて。
赤い唇に接吻した。