メフィストフェレスの恋

(3)

 休日の翌日。
 何時ものように国木田と太宰は小さなテーブルを囲み、夕食を共にしていた。国木田が今日あった出来事を話して聞かせていると、太宰が話の腰を折るようにして云った。
「何時か訊いてみようって思ってたんだけど。どうして国木田君は神父さんになったの?」
「うん?気になるのか?」
「まあね。ほら、国木田君って結構怒りっぽいし。信者の人に対して何時も怒鳴り散らしているのかなって思って、」
 太宰が可笑しそうに笑うのを横目で睨みながら、そんな訳あるかと鼻を鳴らす。グラスに注いだワインを一口、口にした後、国木田は口調を改めて云う。
「切っ掛けは、夢だ、」
「夢?どんな?」
 あれは確か――国木田は視線を宙に彷徨わせながら記憶を探って口を開く。
「そう……子供の頃に頻繁に見ていた夢だ。きっと夢の中では真冬だったのだろうな。外套を着て手袋をしていたから。俺が道を歩いていると道端で蹲っている人物がいる。顔ははっきりと思い出せないんだが、大人だった。その人物は酷く寒そうにしていて……冬なのに変に薄着でいたからな。俺は相手を可哀想に思って何か温かいものをあげようとするんだが、生憎何もない。服のサイズだって合わないしな。それで。外套のポケットを探ってみたら赤い紙に包まれたチョコレートが一粒出てきた。何もないよりはましだろうと思って、」
 ――これしか持ってないけど。あげる。
 ――ありがとう。君はとても良い子だね。
「相手はチョコレートを受け取って……それから妙なこと云った。時が来たら助けて欲しい、と。俺にはさっぱり意味が解らなくて聞き返すんだが、相手が何かを云いかけた時に何時も目が覚めてしまう。繰り返し同じ夢を見るものだから俺は或る時、両親に夢について話した。どう云う意味があるのか知りたかったからな。今思えば訊かれた両親も返答に困っただろうが、」
 国木田は遠い記憶を思い出して苦笑する。
「ご両親は何て?」
「相手のために祈りなさい、と。困っている人、苦しみに喘いでいる人、悲しみに打ちひしがれている人に手を差し伸べなさいと。夢で救いを求めているその人にもし現実に出会うことがあったなら、迷わずその手を掴めるようになりなさい、と……両親も篤い信仰を持っていたからな。それで俺は聖職に就くことを志した、」
 神学校へ入学し、数年間学んだ後、無事に卒業をして今に至る。
「へぇ、そうだったんだ、」
 太宰はワインが注がれたグラスに口を付けながら薄ら笑いを浮かべる。
「ねえ、国木田君。今君が語った夢が現実に起こったことだと云ったら?君が話しかけた人物が私だと云ったら?」
 鳶色の双眸を細め、挑むように国木田を見詰める。
「は?お前何を云って……そんな訳、」
「信じられない?」
 太宰は眼鏡越しの色素の薄い彼の瞳の奥を覗き込む。心裡すらも見透かすように。国木田は居心地の悪さを感じながら僅かに身を引いてお前は頭がどうかしたのかと半ば呆れたような口振りで云う。あり得ないだろう、と。
「当たり前だ。仮令、あれが現実だったとしても俺が助けようとした人物は間違いなく大人だった。年齢がどう考えても合わないだろうが。お前は俺と同い年なのだろう。あの時、俺はまだ十にも満たなかったからな、」
「常識で考えるなら、そうだね。でも、それは私には通用しない、」
 太宰は形の佳い唇に酷薄な笑みを刷く。初めて見る彼の冷ややかな表情に国木田は背筋が粟立つのを感じた。ぞわりと皮膚を這い上がる怖気。整いすぎた太宰の容貌が急に彼から人間性を剥奪したように見え、漠然と恐怖を覚えた。国木田は固唾の呑んで正面に座る人物に問いかける。声が微かに震えた。
「――お前、何者だ?」
 太宰は含み笑いをして告げる。
「私?私はね、人ではないものさ。君が信仰し、遂行する善と相反するもの。邪悪な意思を持ち、人間を唆し、誘惑し、欺いて堕落へと誘う存在、」
 悪魔さ――うっとりと美しく微笑んだ。
「……嘘、だろう?」
 俄かには信じられない。信じろと云う方が無理がある。しかし冗談だろうと一笑に付すことは出来なかった。太宰の目が、表情が、それを赦していなかったから。恐ろしい程、真剣な面持ちで国木田を見据えていた。真っ直ぐな視線に射抜かれて躰が縛されたように動かない。冷静に考えなければならないことは山程あったが、どれも思考がついていかなかった。ただ国木田の中にある第六感が警鐘を鳴らしていた。
 当惑する彼を見て自ら悪魔だと正体を明かした太宰は証拠を見せようじゃないかと国木田の腕を引いて立ち上がる。向かう先は寝室だった。一体どう云うつもりだと言葉で抵抗するが、掴まれた腕は振りほどけない。それ程強い力で掴まれている訳ではないのに。寝室のドアを開け、明かりをつけると太宰は国木田を引き摺り込む。
「さて。国木田君。見給え、」
 そう云って国木田を寝室の隅に置かれた姿見の前へ押しやった。
「君も聖職者の端くれだ。一度は耳にしたことがあるだろう?鏡は古来より、聖なるものであり、真実を映し出すものであると。故に邪悪なるものは映さない、」
 ほらご覧よ――国木田は驚愕した。大きく目を見開く。
 隣に立っている太宰の姿が鏡に映っていないのだ。
「お前、本当に……、」
 思わず眼前にある鏡と太宰とを見比べてしまう。
「ふふ。だから悪魔だって云ったでしょう、」
 微笑む顔は禍々しい言葉と裏腹にとても清らかで美しい。見入ってしまう。国木田ははっと我に返って太宰をきつく睨みつけた。
「貴様……、一体何が望みだ?俺に取り憑いて悪事をなすことか?それとも俺の命か?」
 云いながら至急、上司である福沢に知らせなければと焦った。こうしていてはどんな事態が引き起こされるか解ったものではない。すると太宰は国木田の胸の裡を読んで、
「ああ、その福沢って云う人。十数年前に私と一度、一戦交えたことがあったよ。当時、彼はまだ駆け出しのエクソシストでね。私が憑依した少女を救おうとして四人がかりで悪魔祓いに挑んだけれど……、まあ、結果はこの通りさ、」
 少女の魂は悪魔に奪い去られ、悪魔祓い師の一人が命を落とした。
「貴様……ッ」
 ぎりぎりと歯を噛み締めながら太宰の胸倉を掴む。
「私を滅ぼしてみるかい?」
 挑発的な言葉の裏には国木田を蔑む色が滲んでいた。お前には出来やしないだろう、と。実際に国木田はまだエクソシズムの技法を修めていなかった。悪魔祓いの秘儀を執り行うためにはバチカン公認の資格が必要なのである。退魔の儀式は常に命懸けであり、高度な技術と膨大な知識、強靭な精神力、強い信仰心が要された。
 数人がかりで挑んだ悪魔との闘いにエクソシスト達が敗れた事実は、国木田の目の前にいる悪魔が非常に強い魔力を有していることを示していた。
 国木田君――太宰は国木田の手を退けて一歩距離を詰めると険しい表情を浮かべている精悍なその顔にそっと手を触れる。慈しむような優しい手つきに国木田は咄嗟に身を引くことが出来なかった。
「国木田君。どうして私が何もせず、人らしく振舞って此処に留まっていたか解るかい?やろうと思えば何時だって君の命を、魂を奪うことは出来た。躰に憑依して君を意のままに操り、あらゆる悪徳を行い、神を冒涜することも可能だった。でもそれはしなかった。何故だか解る?」
 太宰の瞳が切なげに揺れる。国木田は悪魔の甘言に惑わされてはならぬ、太宰を突き飛ばして今すぐ福沢に連絡を取らなければいけない――それなのに躰が石になったように動かなかった。
 ねえ聞いて、と太宰は更に言葉を続ける。恰も告解するように。
「君は嗤うだろうけれど……私はね、君のことが好きになってしまったんだ。子供の頃の君にちょっと優しくして貰っただけで、好きになっちゃった、」
 自嘲する太宰を国木田は瞠目した。彼は一体何を云っているのかと。俺のことが好きだって?
「自分でも嗤っちゃうよね。悪魔が人間に恋をするなんてさ。莫迦みたい、」
 くしゃりと顔を歪ませる。今にも泣き出しそうな表情に国木田はチクリと小さな痛みを感じた。昨日、感じたそれと同じ痛みを。
 太宰はすっとその美貌を国木田に寄せる。離れろ――顔を背けようとする彼の顎を捕えて囁く。甘く、切なく、悲しげに。
「国木田君。今だけで良い。一瞬で良いから、私を好きになって、」
 愛して――唇を重ねた。淡い接吻。柔らかな熱を受け止めていたのは束の間だった。国木田は力任せに太宰を突き飛ばした。太宰はバランスを欠いて背後にあった姿見に背中を強く打ち付ける。派手な音がして鏡が割れた。破片が床に散らばる。
「貴様、ふざけるなッ!」
 国木田は激情を露にする。怒りも多分にあったが、激情の中心にあったのは受け止めきれない現実による混乱だった。
「こんなことが赦されるとでも思うのかッ!穢らわしい悪魔め……ッ!」
「良いよ。好きなだけ私を恨むが良い。呪えば良い、」
 悪魔は冷めた瞳をして冷血に嗤う。
「何れまた……、」
 太宰の姿が足元から細かな粒子となって砕け、さらさらと砂塵が舞うようにして形を失って消えていく。国木田は「待てッ!」反射的に手を伸ばすが、虚しく空を切るばかりだった。悪魔は跡形もなく消え去り、耳が痛い程の静寂だけが残った。
 国木田はふつふつと湧き起こる名の知れない感情に突き動かされて、割れた鏡に拳を叩き付けた。
「クソッ!」
 鏡面に細かな皹が走り、破片が拳に突き刺さる。血が滲んだ。
 そして唐突に遠い記憶が鮮明に蘇ってきて津波のように押し寄せてきた。
 差し出した赤い包み紙のチョコレート。
 太宰は優しく微笑みながら受け取って。
 ――あなたはずっと此処にいるの?ひとりぼっちなの?
 ――そうだねえ。ずっと独りだ。
 ――寂しくないの?
 ――さあ、どうかなあ。ああ、でも。今はちょっと寂しいかもしれない。
 ――じゃあ、僕が友達になってあげるよ。そうしたら寂しくないでしょう?
 ――うん。ありがとう。あ、そうだ。せっかく友達になったのだから、私のお願いを聞いてくれるかな?
 ――良いよ。お願いって何?
 ――その時が来たら私を助けて欲しい。
 ――え?どう云うこと?
 ――そうだなあ。云い換えると、私を殺して欲しいってことだよ。
 ――えっ!そんなこと出来ないよ。僕と友達なんでしょう?助けるのに殺すって変だよ。それに殺すって凄くいけないことだよ。
 ――ふふ。私が云っている言葉の意味は君が大人になったら解るよ。
 ――大人に……?……ねえ、あなたは、誰?名前は何て云うの?
 ――これは誰にも云ってはいけないよ。私の名前を口にすることもしてはいけない。良いね?
 ――……うん。解った。
 ――私の名前はね……、

「……メフィストフェレス、」
 太宰はあの時、そう云ったのだ。
 あの悪魔は人間に恋を覚えて、その相手に自身の終わりを託していたのだ。悪魔祓いによって滅ぶことを望んで。理由は知れぬが終わることが彼にとっての救済なのだろう。悪魔が救いを求めるなど随分と奇妙であるが。
 しかしこうなってくると国木田が己の意思で聖職者になったのか、甚だ怪しく思えた。全ては悪魔に導かれていたのではないかと。悪魔に利用されてしまったのではないかと。先月、川に流れている太宰を助けたことすら、悪魔の筋書きだとしたら。国木田は酷く遣る瀬無い気持ちになった。力なくベッドの縁に腰を下ろす。
「……悪魔、か……、」
 ぱたりと身を後ろに倒してベッドに沈み込むと疲労が重たく圧し掛かってきた。考えるべきこと、福沢に伝えるべきことは数多くあったが、思考が纏まらなかった。大きく溜め息を吐いて目を閉じれば鼓膜にこだまする太宰の声。愛して――国木田の胸の奥底に疼痛を呼び起こす。何故これ程までに痛むのか。解りかけた答えを、明示されようとする答えを、国木田は見たくはなかった。見てしまえば、きっともう後戻りは出来ないから。
 ――国木田君。
 嬉しそうに微笑む太宰の残像が脳裏に閃いて消えていった。
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