メフィストフェレスの恋
(2)
八月半ばの或る休日。
二人は食料品や日用品の買出しのためにショッピングセンターを訪れていた。
「ねえねえ、国木田君。私あれ食べたい、」
食品売り場へと向かう途中で太宰が先を行く国木田のシャツを引っ張って引き止めた。
一体何だと国木田が首を巡らせるとその先にはアイスクリームとクレープのメニュー写真が並んだ立て看板。国木田は拒否しようと口を開きかけたが、太宰が小首を傾げて「ね?良いでしょう?」と云うものだから言葉に詰まってしまった。どう云う訳か国木田は彼のこの仕草にえらく弱いのだ。国木田が困惑して眉間に皺を寄せていると「ねえってば」と太宰は無遠慮に顔を近づけてくるものだから始末に負えない。突如、彼に蘇生処置を施したこと――蒼褪めた唇に触れたことが生々しく蘇ってきて、国木田はうろたえながら身を仰け反らせて距離を取った。変に動悸がするのを悟られまいと怒ったふうに取り繕う。
「解ったから、そんなに寄るな、」
「わーい、やったあ、」
子供じみた歓声をあげながら太宰は国木田の腕を引く。国木田としては早く買い物を済ませて帰宅したかったが、嬉しそうな彼の態度を見ると満更でもない気持ちだった。
注文窓口に立つと店員が「いらっしゃいませ」と営業スマイルで迎える。
「国木田君はどれにする?」
食べる気はなかったが彼の言葉に誘われて国木田はメニュー表から珈琲味のアイスクリームを選んだ。
「私はバナナとチョコレートソースのクレープで、」
代金を支払い、品物を受け取ってイートインスペースに置かれた椅子に腰を落ち着けた。まだ昼時まで時間があるせいか、辺りは人が疎らで、立ち並ぶファストフード店の店員達も暇そうにしていた。
「国木田君、そのアイス一口頂戴、」
あーんと口を開けて催促される。まるで餌を強請る雛鳥だ。何となく気恥ずかしさを覚えながらも「ほら」と国木田はコーンに盛られたアイスを向かいに座る太宰に差し出す。喜色に弧を描く唇から覗く赤い舌がペロリとアイスを舐める。国木田はその動作に何だか落ち着かない気分にさせられた。胸の奥底がざわつくような。これは太宰と同居生活を始めてから時折感じているもので、ふとした瞬間に彼の中で湧き起こった。しかしその漣の意味を彼はまだ掴み兼ねていた。
「このアイスも美味しいね。じゃあ、私のもあげる、」
はい、とクレープを差し出されて国木田は目を瞬かせる。
「え、否、俺はいい、」
「そう云わずに。はい、口開けて、」
「ぐふッ」
無理矢理クレープを口の中に突っ込まれて息が詰った。が、太宰は目を白黒させる国木田には頓着せずに、にこにこと嬉しそうに笑んで「美味しい?」と訊ねる。噎せる苦しさに涙目になりながら何とかクレープを齧り切って太宰の手を退けた。咳き込みながらギロリと睨みつける。
「……き、貴様……、いきなり、何して、」
「ふふふ。美味しいものを一緒に食べるのは何だか幸せな気分になるねえ、」
太宰があまりにも暢気に云うので、国木田の怒気は呆気なく殺がれてしまった。出かかった文句の代わりに溜め息が零れた。
「あ、国木田君。クリームついてるよ、」
「え?」
自分で拭う前に太宰の指先が唇を掠めて、俄に鼓動が跳ねた。思わずガタンと一瞬、腰を浮かせてしまう。
「国木田君?どうしたの?」
「……何でもない、」
太宰の訝しげな視線を受けて、国木田は誤魔化すように一つ咳払いをすると、アイスクリームを口にした。味はよく解らなかった。騒ぐ心臓のせいで。
買い物を終えて帰宅した昼下がり。
リビングのソファに身を沈めて国木田は読書をしていた。太宰はその隣に腰掛けてテレビを見ていた。穏やかに寛いだ午後であった。
不意に左肩に重みを感じて国木田は本から顔を上げた。小さな寝息を立てた太宰が凭れかかっていた。買い物に出かけて疲れたのだろうか。
「太宰、寝るならベッドに行け、」
国木田が柔く揺すり起こすが太宰は生返事をするだけで目を開けない。それどころか、ずるずると身を傾けて国木田の膝の上に頭を乗せてしまった。所謂、膝枕の形である。また国木田の心裡がざわつく。こう一日に何度も意味が解らないままに心乱されるのは精神を消耗させた。半ば国木田は苛立って些か乱暴に太宰の肩を揺すったが結局徒労に終わった。これでは彼が目覚めるまで身動きが取れない。
「……おい、」
不満げな声を漏らしても答える者はなく。仕方ないと国木田は太宰の躰を抱えて寝室へと向かった。彼の身は川から引き上げた時とは違って随分と軽かった。頼りない程に。
肉の薄い躰をベッドにそっと降ろすと緩く腕を掴まれた。
「……行かないで……、」
ぼんやりとした声。すぐに太宰の手が離れて、力なくシーツの上に落ちた。
――誰かと間違えているのだろうか。
チクリと胸が痛んだ。
国木田は立ち去ることが出来ずに、ベッドの縁に浅く腰掛けた。背後を振り返って、眠っている太宰の顔を見遣った。
彼と暮らし始めて間もなく一月が経とうとしているが、国木田は太宰について殆ど知ることがなかった。彼が何も語らないからだ。家族はあるのか。親しい友人はいるのか。誰か特別な存在――恋人は?自殺の理由さえ知らないままだ。太宰の態度を見る限り、全く信頼されていない訳ではないようだが、彼が自らを語らないのは何か理由があるのだろう。此方から根掘り葉掘り聞き出すより、太宰の方から打ち明けるのを待つ方が賢明だろうと思われた。何時まで彼が此処に留まるのかは解らないけれど。
もっと心を開いてくれたら良いのに。
行かないでと求めた相手が自分だったら良いのに――国木田は手を伸ばして柔らかそうな太宰の蓬髪に触れようとして、はっとして手を止めた。一体俺は何をしているのだろうと。行き場を失った手を下ろしながら国木田は力なく項垂れた。と、太宰が何事かを呟いた。起きたのだろうかと改めて目を向けると、閉じた目尻からつう、と一筋の涙。流れた雫にと胸を突かれた。
「……太宰、」
何か悲しい夢でも見ているのだろうか――国木田は無造作に投げ出されている太宰の細い手を静かに握った。低い体温。
「大丈夫だ。何処にも行かない。傍にいるから、」
彼が望むなら傍にいてやりたいと思った。そう思ってから国木田は心乱す漣の正体とその意味が何を示しているのかを朧げに解し始めていた。
「……ん……、」
太宰は薄く瞼を開けた。醒め切らない視界に肌色が映って一気に覚醒した。視野いっぱいに広がる国木田の寝顔に一瞬、ドキリとしてしまう。自分がベッドで寝ていたことは何となく推測が出来るものの、隣で国木田が眠っていることは不可解だった。手を握られていることも。
太宰は包まれている手をそっと抜き取る。そうしてからまじまじと国木田の端正な顔を見詰めた。揃えられた睫毛も金色なのかと変なところで感心しながら、金糸の髪に触れる。さらりとした手触りが心地よい。目が閉じられているせいか、普段纏っている険しさの角が取れて何処か幼いような印象を与えていた。
太宰は目を細めて追憶する。
まだ年端も行かぬ子供だった国木田の姿を。
差し出された小さな掌の上に載せられた、赤い紙に包まれた一粒のチョコレート。
――これしか持ってないけど。あげる。
緊張していたのか、幼い顔は少し強張っていた。
「……君は昔と変わっていないね、」
太宰は薄く笑む。
真っ直ぐに向けられる眼差し。強い瞳。彼の手は昔と比べて随分と大きくなったが、他者へ差し伸べるその手の優しさ、温かさは変わらない。だから縋ってしまう。時折見せる国木田の挙動不審とも云える態度の訳を推測して期待をしてしまう。気持ちが抑えられなくなりそうになる。正直、もう潮時かもしれない、と思った。
太宰は小さく独白する。
「国木田君。私のことは忘れちゃってるね。無理もないけれど。でもずっと私は君のことを憶えていたよ、」
そしてずっと見ていた――国木田の滑らかな頬をそろりと撫でると、むずがるように眉根を寄せる。名残惜しさを感じながら手を引くと、ベッドから抜け出した。
「……ごめんね、国木田君、」
呟いた言葉は彼の耳へ届くことなく。
ただ穏やかな寝息だけがあった。
八月半ばの或る休日。
二人は食料品や日用品の買出しのためにショッピングセンターを訪れていた。
「ねえねえ、国木田君。私あれ食べたい、」
食品売り場へと向かう途中で太宰が先を行く国木田のシャツを引っ張って引き止めた。
一体何だと国木田が首を巡らせるとその先にはアイスクリームとクレープのメニュー写真が並んだ立て看板。国木田は拒否しようと口を開きかけたが、太宰が小首を傾げて「ね?良いでしょう?」と云うものだから言葉に詰まってしまった。どう云う訳か国木田は彼のこの仕草にえらく弱いのだ。国木田が困惑して眉間に皺を寄せていると「ねえってば」と太宰は無遠慮に顔を近づけてくるものだから始末に負えない。突如、彼に蘇生処置を施したこと――蒼褪めた唇に触れたことが生々しく蘇ってきて、国木田はうろたえながら身を仰け反らせて距離を取った。変に動悸がするのを悟られまいと怒ったふうに取り繕う。
「解ったから、そんなに寄るな、」
「わーい、やったあ、」
子供じみた歓声をあげながら太宰は国木田の腕を引く。国木田としては早く買い物を済ませて帰宅したかったが、嬉しそうな彼の態度を見ると満更でもない気持ちだった。
注文窓口に立つと店員が「いらっしゃいませ」と営業スマイルで迎える。
「国木田君はどれにする?」
食べる気はなかったが彼の言葉に誘われて国木田はメニュー表から珈琲味のアイスクリームを選んだ。
「私はバナナとチョコレートソースのクレープで、」
代金を支払い、品物を受け取ってイートインスペースに置かれた椅子に腰を落ち着けた。まだ昼時まで時間があるせいか、辺りは人が疎らで、立ち並ぶファストフード店の店員達も暇そうにしていた。
「国木田君、そのアイス一口頂戴、」
あーんと口を開けて催促される。まるで餌を強請る雛鳥だ。何となく気恥ずかしさを覚えながらも「ほら」と国木田はコーンに盛られたアイスを向かいに座る太宰に差し出す。喜色に弧を描く唇から覗く赤い舌がペロリとアイスを舐める。国木田はその動作に何だか落ち着かない気分にさせられた。胸の奥底がざわつくような。これは太宰と同居生活を始めてから時折感じているもので、ふとした瞬間に彼の中で湧き起こった。しかしその漣の意味を彼はまだ掴み兼ねていた。
「このアイスも美味しいね。じゃあ、私のもあげる、」
はい、とクレープを差し出されて国木田は目を瞬かせる。
「え、否、俺はいい、」
「そう云わずに。はい、口開けて、」
「ぐふッ」
無理矢理クレープを口の中に突っ込まれて息が詰った。が、太宰は目を白黒させる国木田には頓着せずに、にこにこと嬉しそうに笑んで「美味しい?」と訊ねる。噎せる苦しさに涙目になりながら何とかクレープを齧り切って太宰の手を退けた。咳き込みながらギロリと睨みつける。
「……き、貴様……、いきなり、何して、」
「ふふふ。美味しいものを一緒に食べるのは何だか幸せな気分になるねえ、」
太宰があまりにも暢気に云うので、国木田の怒気は呆気なく殺がれてしまった。出かかった文句の代わりに溜め息が零れた。
「あ、国木田君。クリームついてるよ、」
「え?」
自分で拭う前に太宰の指先が唇を掠めて、俄に鼓動が跳ねた。思わずガタンと一瞬、腰を浮かせてしまう。
「国木田君?どうしたの?」
「……何でもない、」
太宰の訝しげな視線を受けて、国木田は誤魔化すように一つ咳払いをすると、アイスクリームを口にした。味はよく解らなかった。騒ぐ心臓のせいで。
買い物を終えて帰宅した昼下がり。
リビングのソファに身を沈めて国木田は読書をしていた。太宰はその隣に腰掛けてテレビを見ていた。穏やかに寛いだ午後であった。
不意に左肩に重みを感じて国木田は本から顔を上げた。小さな寝息を立てた太宰が凭れかかっていた。買い物に出かけて疲れたのだろうか。
「太宰、寝るならベッドに行け、」
国木田が柔く揺すり起こすが太宰は生返事をするだけで目を開けない。それどころか、ずるずると身を傾けて国木田の膝の上に頭を乗せてしまった。所謂、膝枕の形である。また国木田の心裡がざわつく。こう一日に何度も意味が解らないままに心乱されるのは精神を消耗させた。半ば国木田は苛立って些か乱暴に太宰の肩を揺すったが結局徒労に終わった。これでは彼が目覚めるまで身動きが取れない。
「……おい、」
不満げな声を漏らしても答える者はなく。仕方ないと国木田は太宰の躰を抱えて寝室へと向かった。彼の身は川から引き上げた時とは違って随分と軽かった。頼りない程に。
肉の薄い躰をベッドにそっと降ろすと緩く腕を掴まれた。
「……行かないで……、」
ぼんやりとした声。すぐに太宰の手が離れて、力なくシーツの上に落ちた。
――誰かと間違えているのだろうか。
チクリと胸が痛んだ。
国木田は立ち去ることが出来ずに、ベッドの縁に浅く腰掛けた。背後を振り返って、眠っている太宰の顔を見遣った。
彼と暮らし始めて間もなく一月が経とうとしているが、国木田は太宰について殆ど知ることがなかった。彼が何も語らないからだ。家族はあるのか。親しい友人はいるのか。誰か特別な存在――恋人は?自殺の理由さえ知らないままだ。太宰の態度を見る限り、全く信頼されていない訳ではないようだが、彼が自らを語らないのは何か理由があるのだろう。此方から根掘り葉掘り聞き出すより、太宰の方から打ち明けるのを待つ方が賢明だろうと思われた。何時まで彼が此処に留まるのかは解らないけれど。
もっと心を開いてくれたら良いのに。
行かないでと求めた相手が自分だったら良いのに――国木田は手を伸ばして柔らかそうな太宰の蓬髪に触れようとして、はっとして手を止めた。一体俺は何をしているのだろうと。行き場を失った手を下ろしながら国木田は力なく項垂れた。と、太宰が何事かを呟いた。起きたのだろうかと改めて目を向けると、閉じた目尻からつう、と一筋の涙。流れた雫にと胸を突かれた。
「……太宰、」
何か悲しい夢でも見ているのだろうか――国木田は無造作に投げ出されている太宰の細い手を静かに握った。低い体温。
「大丈夫だ。何処にも行かない。傍にいるから、」
彼が望むなら傍にいてやりたいと思った。そう思ってから国木田は心乱す漣の正体とその意味が何を示しているのかを朧げに解し始めていた。
「……ん……、」
太宰は薄く瞼を開けた。醒め切らない視界に肌色が映って一気に覚醒した。視野いっぱいに広がる国木田の寝顔に一瞬、ドキリとしてしまう。自分がベッドで寝ていたことは何となく推測が出来るものの、隣で国木田が眠っていることは不可解だった。手を握られていることも。
太宰は包まれている手をそっと抜き取る。そうしてからまじまじと国木田の端正な顔を見詰めた。揃えられた睫毛も金色なのかと変なところで感心しながら、金糸の髪に触れる。さらりとした手触りが心地よい。目が閉じられているせいか、普段纏っている険しさの角が取れて何処か幼いような印象を与えていた。
太宰は目を細めて追憶する。
まだ年端も行かぬ子供だった国木田の姿を。
差し出された小さな掌の上に載せられた、赤い紙に包まれた一粒のチョコレート。
――これしか持ってないけど。あげる。
緊張していたのか、幼い顔は少し強張っていた。
「……君は昔と変わっていないね、」
太宰は薄く笑む。
真っ直ぐに向けられる眼差し。強い瞳。彼の手は昔と比べて随分と大きくなったが、他者へ差し伸べるその手の優しさ、温かさは変わらない。だから縋ってしまう。時折見せる国木田の挙動不審とも云える態度の訳を推測して期待をしてしまう。気持ちが抑えられなくなりそうになる。正直、もう潮時かもしれない、と思った。
太宰は小さく独白する。
「国木田君。私のことは忘れちゃってるね。無理もないけれど。でもずっと私は君のことを憶えていたよ、」
そしてずっと見ていた――国木田の滑らかな頬をそろりと撫でると、むずがるように眉根を寄せる。名残惜しさを感じながら手を引くと、ベッドから抜け出した。
「……ごめんね、国木田君、」
呟いた言葉は彼の耳へ届くことなく。
ただ穏やかな寝息だけがあった。