メフィストフェレスの恋

(1)

 国木田は毎日の日課である夕べのミサを終えて帰路に就いた。助祭職を一年務め、神父として任命されてから半年あまり。まだ神父と云う職に慣れ切っていない彼は帰宅時間を迎える頃には強い疲労を覚えていた。
 神父の一日は真に忙しい。朝の五時半に起床し、聖務日課である朝の祈りから始まり、早朝のミサが六時半、朝食は七時半、八時には教会が運営する学校に赴き、始業の前の祈りを挟んで、教壇に立つ。昼の祈り、昼食休憩を経て午後からも学校で仕事をし、その後は日によってまちまちだが、信者の有志を集めて聖書の勉強会を開いたり、教区の会議に出席したり、教会まで足を運べない信者を訪ねるなど、業務は多岐に亘る。一般世間では誤解されがちだが、聖職者はただ教会に籠もって神に祈りを捧げているだけではないのだ。
 そして帰宅してからも持ち帰った仕事の処理やミサで行う説教、聖書の勉強会のために聖書研究に時間を費やすことも多い。国木田もその例外ではなく、今日は学校で担当している数学の試験の答案を鞄に詰めて退勤した。自宅で採点作業を片付けるつもりだった。学校としては間もなく夏季休暇に入る時期だった。
 漸く日が沈み、辺りが暗くなって僅かに欠けた月が顔を覗かせる。国木田は歩き慣れた川辺を通って自宅へと急いだ。と、何気なく目を向けていた静かな川面が揺れる。棲息する魚が跳ねたか――少し珍しく思って彼は足を止め、川を眺めた。何か白っぽいものが流れている。ただの塵かと思えたそれは、人であった。
「おいッ!大丈夫かッ!」
 国木田は血相を変えて手にしていた鞄を放り投げると、躊躇うことなく川へと飛び込む。幸いにもこの川はあまり深くはない。水の流れも穏やかだ。しかし川幅はある。国木田は水を掻き分けるようにして進み、漂流していた人物の腕を掴むと、上半身を背後から抱えるようにして水面から引き上げる。水を含んだ衣服のせいなのか、腕の中でぐったりとしている人物――青年であった――は躰の細さに似合わず、随分と重い。水の抵抗も最初の比ではなく、腕力にそれなりに自信がある国木田でも川岸へと辿り着くには相当の力を要した。国木田は堅く目蓋を閉ざした青年に幾度となく呼びかけながら、何とか水中から陸地へと躰を引き摺り上げた。
 どれくらいの時間、川に流れていたのか、蒼褪めた彼は意識も呼吸もない。一瞬、もう手遅れかもしれないと思ったが、国木田は思念を振り払って応急処置に取り掛かる。気道を確保し、鼻を摘み、息を吹き込む。胸を強く圧迫し、心臓マッサージを施す。どうか目を開けてくれと願いながら。三度目の心臓マッサージの途中で、ピクリと青年の手が反応するのを国木田は見逃さなかった。
「大丈夫かッ!」
 意識を覚醒させるために大きな声で問うと、閉ざされていた目が薄く開かれた。正しく心肺機能が働きだしたのだろう、色を失った唇から水を吐き出して噎せる。苦しげな様子に国木田は彼の躰を横向きにさせ、背を摩って労わった。助かって良かった。国木田は安堵の息をそっと吐きながら、胸裡で神に感謝をし、十字を切った。
 蘇生した青年はパチリと目を大きく開いて、勢い良く半身を起こすと「ちぇっ」舌打ちをした。
「なかなか簡単には死ねないものだねえ、」
 至極平然とした態度で云った。しかも、やれやれと云ったふうに。
「お、お前、何を云って、」
 国木田は当惑した。こいつは何を云い出すのだ、と。しかし、青年は国木田に頓着することなく、冷えた視線を向ける。
「ああ、君が私の入水自殺を邪魔したの、」
「邪魔だとッ?俺はお前を助けようと……ッ!」
「私、別に頼んでないけど?」
「頼むとか頼んでないとか、そう云う問題ではなかろう!目の前で人が死にかけているのに見過ごす人間が何処にいる!何を差し置いても人命は優先させる、当然だろうが!」
 貴様は莫迦かと国木田は怒りに任せて吐き捨てると、青年は小さく笑う。
「何が可笑しいッ」
 キッと睨みつけると彼はますます笑みを深めて、
「随分、過激な神父さんだなと思って。――君、そうでしょう?」
 国木田の胸に下がっていた銀のロザリオを指す。着てる服もキャソックだしね、と付け加える。
「まあ……、そうだが、」
「ふふ、当たった、」
 無邪気に微笑みながら彼はよいしょ、とふらつきながら立ち上がるとたっぷり水気を含んだ衣服から水が滴った。これどうしようかなあとシャツの裾を絞りながら不快そうに顔を顰める。国木田も今になって胸から下が泥臭い水に汚れたことを思い出して、一刻も早く自宅に戻り浴室を使いたいと思った。
「おい。お前。行く当てはあるのか、」
「んー、まあ、適当に探そうかと、」
 気になって訊ねればのんびりした口調に頼りない答え。放っておいてはまた彼は自殺を試みるかもしれなかった。神の教えや愛を説く者として、人に希望と救いを与える者として、目の前の男をそのままにしておくことは出来なかった。当然、聖職者であることの役割を国木田は自覚してのことだったが、それ以前に彼の性格や気質に由来するところも多分にあった。国木田は元来、変に人の世話を焼く性質なのである。
 それに。今は問題なさそうに見えるが場合によっては彼を医師に診せる必要があった。そう云う意味でも彼を見捨ててはおけなかった。
「もし、行くところがないなら、うちに来い、」
 食事と寝床くらいは提供してやる――すると自殺未遂をした男は予想外の展開だったのか、少し目を丸くした後、
「じゃあ、お世話になろうかな、」
 遠慮がちに呟いた。
「そうか。――では、行くぞ、」
 国木田は鞄を拾い上げて、彼を伴って歩き出す。まだ足元が覚束無いようだったので国木田はそれとなく彼の腕を取りながら、普段よりも道行く速度を緩めていた。
 彼等は道すがらお互い名乗りあった。
 国木田が助けた男は太宰と云った。年齢も同じ二十二歳だと云う。
「俺の職はこの通りだが、お前は何を?」
「私?私は別に何も、」
 太宰は曖昧に微笑む。彼の表情はそれ以上問うことを禁じているようでもあった。もしかしたら何らかの理由で失業中なのかもしれないと国木田は考えた。自殺の理由もそれに関係している可能性も否定出来ない。今はあまり立ち入るべきではないと判断して国木田は「そうか」と僅かに頷いて、当たり障りのない話題へと転換させ、家路を辿った。

 国木田が帰宅した頃には八時半近くになっていた。何時もなら夕食を終えている時分である。
 一先ず、ずぶ濡れの太宰を浴室に押し込み、彼の分の着替えなどを見繕う。太宰は背丈はそれなりにあるが、躰が随分細いので明らかに国木田の服ではサイズが合わないが、そこは仕方ない。国木田も濡れた衣類を脱いで、取り合えず湯で濡らしたタオルで躰を拭いた。幾分かさっぱりしたが川水の泥臭い匂いまでは拭えなかった。風呂を使うまでの辛抱である。太宰と自分の服を纏めて洗濯機に放り込んで、稼動させた。それから部屋のエアコンをつけて、作り置きしていた夕飯を温めるためにキッチンに立つ。冷蔵庫の中を検めながら、躰のことを考えて太宰には別のメニューが良いだろうと考え、卵と味噌の粥を作ることにした。
 程なくして太宰が風呂から上がり、リビングにやってきた。
「国木田君、ありがとう、」
「ああ。今飯を用意するから、適当に座ってろ、」
 国木田はキッチンから顔だけ出して告げる。
「うん」
 太宰は洗い立ての蓬髪をタオルで拭きながら、ソファに腰を下ろして、興味深げに室内をきょろきょろと見回した。と、国木田がグラスとミネラルウォーターを載せたトレイを持って姿を現す。
「何だ、そんなに見て、」
 訝しく思いながらローテーブルにトレイを置く。
「否、神父さんってもっと質素な生活をしてると思ってたから。結構、普通だなって思って。テレビとかあるし。エアコンも、」
 国木田は苦笑する。一体どれだけ古臭いイメージを抱いているのかと。
「それはそうだ。聖職者といえどもテレビくらいは見るさ。通信機器だって職務で使う。ビジネスマンとそう変わりはない。贅沢は慎むべきだが、これくらいは別に普通だろう、」
 リビングにはテレビ、ローテーブル、ソファ、マガジンラック、細々とした物を納めた小ぶりの棚がバランスよく配置されており、床に敷かれた柔らかな色合いのグリーン系のラグが部屋全体に落ち着いた雰囲気を与えていた。カーテンも同系色でコーディネートされ、太宰は居心地の良さを感じていた。
 喉が渇いただろうと云って国木田はグラスに常温の水を注ぎ、ゆっくり飲めと太宰に差し出す。丁度飲み物が欲しかったので、ありがとうと礼を告げて口を付けた。
「何だか美味しそうな匂いがするね、」
 温かな食事の匂いに誘発されて太宰の腹がぐぅと鳴った。存外、大きな音に国木田は笑った。
「わ、笑わないでよ、」
 俄に羞恥を覚えて小さく抗議をすると、国木田はすまんと微苦笑しながら身につけたエプロンを外しながら云う。
「食欲があることは良いことだ。口に合うか解らんが。さて、食事にしよう、」

「ねえ、国木田君。これは、どう云うこと?」
「何がだ?」
 向かいに座る太宰は不満げに自分に用意された粥と国木田の前に置かれたチキンのソテーやトマトスープ、ライ麦麺麭を見比べている。
「何で私はお粥だけなのさ、」
「何でって。そんなの決まっているだろう。さっきまで死にかけていた人間に消化の悪い物を食わせられるか、」
「別にもう平気だもん、」
 太宰は頬を膨らませる。しかし国木田は取り合わず、手を組んで食前の祈りを捧げる。すると太宰は今がチャンスとばかりに立ち上がってキッチンへと向かう。それ程広くはない其処はリビング同様、整然と片付けられていて家主の几帳面さを表していた。太宰は躊躇うことなく棚や冷蔵庫を開けて、お目当ての物を探し出す。彼が欲していたのは酒類である。果たして酒類はあった。冷蔵庫の中に冷えたワインが。開栓済みであったがこの際構うことはない。嬉々としてボトルを取り出し、グラスを手にしたところで、おい何をしている――背後から国木田の声。振り返ると眉間に皺を刻んだ彼の腕が伸びてきてワインボトルを取り上げる。
「全く、お前ときたら。酒は駄目だ、」
「えー、何で。別にちょっとくらい良いじゃない、」
 私お酒強いしと云えば、そう云う問題ではないと国木田は睨む。
「とにかく。躰を労わることが優先だ。酒はまた今度出してやるから、今日は駄目だ。諦めろ、」
 云いながら国木田はワインボトルを冷蔵庫に仕舞う。勝手に開けるなよと釘を刺してリビングに戻る。渋々と云ったふうに太宰もその後に続いた。
「国木田君のケチー、」
「何とでも云え、」
 口吻を尖らす太宰に国木田は冷ややかに応じる。
「神父さんって本当はもっと優しいんじゃないのー。ああそうだ。ほら、あれ。求めよ、さらば与えられん。そう云う教えでしょう?国木田神父。求めてるんだから頂戴よ。ワイン、」
「くどいぞ。お前がどんな信仰を持っているか知らんが。それは、そう云う意味ではない。元はマタイ伝からの、」
「あー、解った。解ったから。もう良いから、」
 太宰は国木田の話が長くなりそうなのを察知して言葉を遮る。お前何も解っていないだろうと呆れて国木田は正しい意味を伝えようとしたが、説教は溜め息に取って代わって消えた。
「取り合えず、残しても良いから食え、」
 腹が減っているのだろうと促すと太宰は空腹を思い出したように、いただきますと粥に手を付けた。どうだと窺がうと「美味しい」笑顔が返ってきて自然と国木田の頬が緩んだ。食事中、太宰が物欲しげにチキンソテーを見るので「少しだけだぞ」と肉を切り分けて与えた。
「ありがとう。国木田神父、」
 へらりと太宰は笑って、これでワインがあれば最高なんだけどなあとこれ見よがしに云う。まだ云うかこいつは――国木田はげんなりと項垂れたのだった。

 食後の片付けを済ませると国木田はシャワーを浴び、洗い終えた衣類を干して持ち帰った仕事をリビングで広げた。太宰は物珍しさから横で答案の採点作業を眺めていたが、眠気が襲ってきて小さく欠伸をした。それに気が付いた国木田は先に休めと云う。
「うん。でも国木田君は?」
「俺はソファで寝る、」
 持ち帰った仕事はまだ半分残っている。あと三十分はかかるだろう。そもそも使っているベッドはシングルサイズだから二人並んで寝るには無理があった。太宰は些か申し訳なさそうにしたが国木田に気にするなと後押しされて、
「じゃあ、遠慮なく。先に失礼するよ。国木田君、おやすみ、」
「ああ、おやすみ、」
 寝室へと姿を消す太宰を見送って国木田はひっそり息を吐いた。今夜の就寝時刻は午前零時を過ぎそうだ、と。
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