国太SS
忘却に偽りを咲かせて
扉を軽くノックすると中からくぐもった声が応えて、太宰は室内に足を踏み入れる。微かに消毒薬の匂いがして、やはり此処は病室なのだと改めて思い知らされた。強すぎる夏の陽射しを避けるためか、窓は窓掛 に覆われていた。
「こんにちは、国木田君」
親しみを込めて、にこやに告げながら部屋の主に歩み寄る。白い寝台 の上に半身を立てて本を読んでいたらしい国木田は明らかに戸惑った様子で「どうも」と軽く会釈する。それから彼は必死に思考を働かせているような素振りを見せた。記憶を手繰っているのだろう。何となく国木田のその仕草を懐かしく思いながら、太宰は病室の隅に置かれていた椅子を引き寄せて腰を落ちつけた。
「……えっと、貴方は確か……」
国木田の視線が彷徨うの受けて、太宰は何度も繰り返して来た自己紹介をする。
「私は太宰。ついでに云うと今日は八月二日だ。今月は国木田君のお誕生日だよ」
そう云いながら棚に置いてあった卓上カレンダーを手して、今日の日付に赤インクのペンで印を付けた。
「私が此処に来た日はカレンダーにこうやって印を付けてるんだ」
国木田はじっと小さなカレンダーを見詰めて印の数を確かめる。そこで目の前にいる男が昨日もやって来たことを知って、取り繕うように微苦笑した。
「……ああ、太宰、さん。……すみません、何時も忘れてしまって」
「ううん。仕方ないよ。国木田君はそう云う病気だからね。私のことは太宰で良いよ」
「はぁ」
国木田は申し訳なさそうにして曖昧に頷いた。
国木田は二ヶ月程前から奇妙な病に冒されていた。一言で云えば、記憶障害である。最初は単なる物忘れ程度であったので、それが重大な病であることは誰も気が付かなかった。彼自身も単なる頭脳の疲労だと思い込んでいた程だ。しかし、病魔は確実に国木田を蝕んでいた。忘却と云う、病が。
「気分はどうだい?」
「これと云って特には……」
国木田は手元にある文庫本に視線を落とす。本は前半部分だけがやたらに草臥れている。繰り返し物語の前半だけを読んでいるのだ。それは彼の病状を端的に示していた。
国木田は一晩寝ると記憶が無くなってしまうのだ。翌朝には昨日の出来事をすっかり忘れていて、記憶が白紙になってしまう。今はまだ自分の名前などは辛うじて覚えているが、忘却は免れないだろう。人生そのものだと勤めていた仕事のことも、相棒であった太宰のことも既に記憶にないのだ。自分がどうして此処にいるのか、国木田があまり理解していないのも素人目でも明らかであった。
探偵社員皆が国木田の病状に心を痛めていたが、一番のショックを受けていたのは他でもない、太宰であった。だからこうして時間が赦す限り病院を訪れ、国木田を見舞った。
揶揄いこそしなかったが、太宰はかつてのようにおどけて国木田にあることないことを面白可笑しく話した。そうしているうちに少しずつ国木田も打ち解けてくるようで、時折、微笑を見せた。
ーーずっと、このまま笑顔でいて欲しいのに。私を覚えていて欲しいのに。
明日にはまた、忘れ去られてしまう。
「……太宰」
ぽつりと呟いた声に以前の国木田を見出して、太宰の胸は切なく震えた。しかし、何でもないふうに装う。
「なあに?」
「……俺は、夜が恐ろしい。眠りたくない」
国木田は寝台の上で膝を抱える。
「どうして?」
「また、太宰を忘れてしまうから……」
「国木田君……」
記憶を喪うことの恐怖は自己を喪失することに等しい。本来、知覚されることのない喪失だが、国木田は何処かで欠け行く己を感じているのかもしれなかった。
と胸を突かれた太宰はあること決意して、そっと国木田を抱き締めた。初めて腕に抱いた自分より大きな躰は思っていたよりも頼りなく、痩せていた。記憶を喪って行くように、躰の肉もまた削げて行くのだろう。死に近付くようにして。
「……太宰……?」
国木田はなされるままに、不思議そうに首を傾げる。
「国木田君。今夜は私が一緒にいるよ。それで眠らなければ良い」
「一緒に……?」
少し躰を離して太宰は国木田の顔を覗き込むと、幼子をあやすような笑みを向ける。しかし深い色を湛えた瞳は昏い闇を孕んでいた。
「病気のせいで国木田君は忘れているけれど、私と君は恋人関係なんだよ」
太宰の言葉に国木田はきょとんと目を瞬かせる。上手く理解出来ていないのだと察して、こう云うことをする関係なのだよーー国木田の薄く開かれた唇に自身のそれを重ねた。接吻もまた、初めてであった。
「……太宰が……恋人……」
「うん。そうだよ。私は君の恋人だ」
国木田の端正な顔を両手で包み込み、瞳を合わせる。
「……そうか、恋人か……」
国木田は自分に云い聞かせるようにして復唱する。太宰は満足気に微笑んで、愛を告白した。
「国木田君。好きだよ。愛してる」
「……ああ、俺も……お前を愛していたのだな」
国木田は済まなそうに呟いて、告げた。
「太宰、愛してる。俺を、忘れないでくれ」
縋るように腕を伸ばして太宰を抱き締めた。
愛しい男の腕の中で太宰はほくそ笑む。
国木田と恋人関係であることは真っ赤な嘘であった。ただ、太宰が一方的に彼を愛していただけである。記憶喪失に乗じて嘘を吹き込んだのだ。何を捻じ曲げてでも、国木田を欲しかった。彼を手に入れたかったのだ。酷く愛していたので。
恐らく、国木田はこの病室から出ることは敵わないであろう。彼が完全に壊れてしまうその時まで。否、壊れてしまっても。
ずっと、愛している。
(了)
扉を軽くノックすると中からくぐもった声が応えて、太宰は室内に足を踏み入れる。微かに消毒薬の匂いがして、やはり此処は病室なのだと改めて思い知らされた。強すぎる夏の陽射しを避けるためか、窓は
「こんにちは、国木田君」
親しみを込めて、にこやに告げながら部屋の主に歩み寄る。白い
「……えっと、貴方は確か……」
国木田の視線が彷徨うの受けて、太宰は何度も繰り返して来た自己紹介をする。
「私は太宰。ついでに云うと今日は八月二日だ。今月は国木田君のお誕生日だよ」
そう云いながら棚に置いてあった卓上カレンダーを手して、今日の日付に赤インクのペンで印を付けた。
「私が此処に来た日はカレンダーにこうやって印を付けてるんだ」
国木田はじっと小さなカレンダーを見詰めて印の数を確かめる。そこで目の前にいる男が昨日もやって来たことを知って、取り繕うように微苦笑した。
「……ああ、太宰、さん。……すみません、何時も忘れてしまって」
「ううん。仕方ないよ。国木田君はそう云う病気だからね。私のことは太宰で良いよ」
「はぁ」
国木田は申し訳なさそうにして曖昧に頷いた。
国木田は二ヶ月程前から奇妙な病に冒されていた。一言で云えば、記憶障害である。最初は単なる物忘れ程度であったので、それが重大な病であることは誰も気が付かなかった。彼自身も単なる頭脳の疲労だと思い込んでいた程だ。しかし、病魔は確実に国木田を蝕んでいた。忘却と云う、病が。
「気分はどうだい?」
「これと云って特には……」
国木田は手元にある文庫本に視線を落とす。本は前半部分だけがやたらに草臥れている。繰り返し物語の前半だけを読んでいるのだ。それは彼の病状を端的に示していた。
国木田は一晩寝ると記憶が無くなってしまうのだ。翌朝には昨日の出来事をすっかり忘れていて、記憶が白紙になってしまう。今はまだ自分の名前などは辛うじて覚えているが、忘却は免れないだろう。人生そのものだと勤めていた仕事のことも、相棒であった太宰のことも既に記憶にないのだ。自分がどうして此処にいるのか、国木田があまり理解していないのも素人目でも明らかであった。
探偵社員皆が国木田の病状に心を痛めていたが、一番のショックを受けていたのは他でもない、太宰であった。だからこうして時間が赦す限り病院を訪れ、国木田を見舞った。
揶揄いこそしなかったが、太宰はかつてのようにおどけて国木田にあることないことを面白可笑しく話した。そうしているうちに少しずつ国木田も打ち解けてくるようで、時折、微笑を見せた。
ーーずっと、このまま笑顔でいて欲しいのに。私を覚えていて欲しいのに。
明日にはまた、忘れ去られてしまう。
「……太宰」
ぽつりと呟いた声に以前の国木田を見出して、太宰の胸は切なく震えた。しかし、何でもないふうに装う。
「なあに?」
「……俺は、夜が恐ろしい。眠りたくない」
国木田は寝台の上で膝を抱える。
「どうして?」
「また、太宰を忘れてしまうから……」
「国木田君……」
記憶を喪うことの恐怖は自己を喪失することに等しい。本来、知覚されることのない喪失だが、国木田は何処かで欠け行く己を感じているのかもしれなかった。
と胸を突かれた太宰はあること決意して、そっと国木田を抱き締めた。初めて腕に抱いた自分より大きな躰は思っていたよりも頼りなく、痩せていた。記憶を喪って行くように、躰の肉もまた削げて行くのだろう。死に近付くようにして。
「……太宰……?」
国木田はなされるままに、不思議そうに首を傾げる。
「国木田君。今夜は私が一緒にいるよ。それで眠らなければ良い」
「一緒に……?」
少し躰を離して太宰は国木田の顔を覗き込むと、幼子をあやすような笑みを向ける。しかし深い色を湛えた瞳は昏い闇を孕んでいた。
「病気のせいで国木田君は忘れているけれど、私と君は恋人関係なんだよ」
太宰の言葉に国木田はきょとんと目を瞬かせる。上手く理解出来ていないのだと察して、こう云うことをする関係なのだよーー国木田の薄く開かれた唇に自身のそれを重ねた。接吻もまた、初めてであった。
「……太宰が……恋人……」
「うん。そうだよ。私は君の恋人だ」
国木田の端正な顔を両手で包み込み、瞳を合わせる。
「……そうか、恋人か……」
国木田は自分に云い聞かせるようにして復唱する。太宰は満足気に微笑んで、愛を告白した。
「国木田君。好きだよ。愛してる」
「……ああ、俺も……お前を愛していたのだな」
国木田は済まなそうに呟いて、告げた。
「太宰、愛してる。俺を、忘れないでくれ」
縋るように腕を伸ばして太宰を抱き締めた。
愛しい男の腕の中で太宰はほくそ笑む。
国木田と恋人関係であることは真っ赤な嘘であった。ただ、太宰が一方的に彼を愛していただけである。記憶喪失に乗じて嘘を吹き込んだのだ。何を捻じ曲げてでも、国木田を欲しかった。彼を手に入れたかったのだ。酷く愛していたので。
恐らく、国木田はこの病室から出ることは敵わないであろう。彼が完全に壊れてしまうその時まで。否、壊れてしまっても。
ずっと、愛している。
(了)