みつくりSS
祈雨
燃え盛る炎の先が壁や天井を舐める。黒煙が濛々 と立ち込め、視界を鎖す。みるみるうちに延焼し、辺りは炎の海と化した。遠くから人々の悲鳴が聞こえる。時折地面が大きく揺れて焼けた壁が崩れ落ち、吹き込んだ風に炎が煽られて火力が増した。
一体何が起こったのか判らなかった。判るのは自分はここで刀として朽ちること、ただそれだけだ。為す術もなく燭台切光忠は呆然とその場に立ち尽くして燃え広がる火と逃げ惑う人々、あらゆる建造物が崩れて瓦礫と化した無惨な光景を眺めた。
熱い、苦しい、怖い。
刀である自分はここから逃げ出すことはできない。
朽ちるならせめて戦で――元主である政宗公に振るわれて終わりたかったと燭台切は無念に思いながら隻眼に逆巻く炎を映し、やがて火に呑まれていく。
「……ただ、光忠、おい」
肩を揺すられて光忠ははっと目を醒まし、飛び起きた。ちらりと眼裏 に紅蓮の残像が翻る。荒く息を吐きながら両の手に視線を落とし、それから確かめるように自身の躰を抱き締めて掌で肩や腕に触れた。躰はどこも損なわれていない。そのことに安堵する。寝汗をかいたせいか、不意に寒気を感じて背筋が慄 えた。
「大丈夫か?」
横から聞き慣れた声がして光忠は視軸を転じた。と、大倶利伽羅の気遣わしげな眼差しと出会う。
「随分と魘 されていたぞ」
「五月蝿くしてごめん。起こしちゃったね」
光忠は眉尻をさげて弱々しく笑う。閉め切った障子戸の白さが仄めく室内は暗く、静まった気配にまだ真夜中であることを知った。気を取り直して「さ、もう一眠りしよう」光忠が布団に潜ろうとするとそっちに行っても良いかと大倶利伽羅が訊ねてくる。
「え、うん」
やや戸惑いながらおいでと布団を捲って躰を端に寄せると大倶利伽羅が空いた場所に身を横たえた。光忠の頭を胸元に抱き寄せる。
「伽羅ちゃん?」
急にどうしたの――驚いて隻眼を瞬かせると「あんたの真似だ」抑揚のない声音が頭上から降ってくる。
「光忠にこうされると俺はほっとする」
衣服越しに伝わる体温や包まれる匂いに心が寛ぐようになったのはいつからだろう。抱き締められると胸が苦しいまでに高鳴って逃げ出したいくらいだったのに、今となっては光忠の腕の中が一番心安らぐ場所だった。この温かで優しい安息の場所を他の誰にも明け渡したくないと常々思う。自分が在るべき場所は、帰るべきところは今主の元だと判っているが、それよりも何よりも光忠の隣が己の居場所だった。
僕は却って眠れなくなりそうなんだけど――光忠は小さく微苦笑を洩らす。
「ここ数日、魘されてるな」
「うん。というか、前から気が付いてたんだね」
「あんたのことだからあまりこういう部分には触れて欲しくはないだろうと思って見ぬふりをしていた」
「そっか。気遣ってくれてありがとう。伽羅ちゃんは本当に優しいね。それに比べて僕は駄目だ。格好悪い」
「俺は特段格好悪いとは思わないが。だが光忠の情けない姿は俺しか知らないと思うと気分が良い」
大倶利伽羅は薄く笑いながら烏玉 の髪に触れる。格好つけている彼は勿論好きだが、そうでない彼も好ましく思う。本人に言うと困った顔をされるが、格好がつかない光忠は頗る可愛いのだ。
もう伽羅ちゃんってば――光忠は眉根を寄せてるとふと眉間の皺をほどいて「昔の夢を見るんだ」静かに独白する。
「罹災して火に焼かれる最期の記憶だ。僕は逃げ出すこともできずにただ燃え広がる炎を見ている……」
まだ瞼の裏に鮮明に残る夢の残影。
大正十二年九月一日午前十一時五十八分。相模湾北西部を震源とする大地震が発生。死者・行方不明者約十万人以上出した未曾有の大災害は一瞬にして人々の生活も町も破壊し尽くした。光忠が収められていた徳川公爵家の小梅邸の蔵も無事では済まなかった。記録によれば震災の火災鎮火後に引き起こされた爆発によって水戸徳川家伝来の百六十余口の刀剣が焼失してしまったのだ。
「夢って不思議だよね。夢を見ている間はそれを現実だと錯覚してしまう。感じている恐怖は紛れもなく本物で目が醒めて初めて夢であったことに気が付く」
ただの夢を怖がるなんておかしいよね童じゃあるまいし――光忠は自嘲する。しかし大倶利伽羅は生真面目な態度を崩さずそんなことはないと否定した。
「誰だって己の死に際を直視するのは良い気分ではないだろう。あんたは夢の中で何度も死を繰り返している。夢見ている間感じている恐怖が本物なら尚更だ。俺もそんな夢を毎晩見るのは御免だな」
刀として使われることなく朽ち果てるのはどれだけ口惜しかっただろう。自分達は使われてこそ意味と価値がある刀だ。死に場所は後生大事に仕舞われる蔵の中ではなく、戦場が最も望ましい。だが光忠の場合、その最期も含めて燭台切光忠なのだ。仙台藩から水戸藩へ移されて震災で罹災し、無惨に焼失した後 、再び見出された。人間は「死も生の一部」と言うが、まさしく光忠はそれを体現している。一度死んで彼は生まれ変わった。美しく強く、在りし日の姿となって。
光忠が纏う漆黒は一度火を潜り抜けて甦ったことの証でもあるように大倶利伽羅は思えてならない。深く端正な漆黒は何ものにも染まらない。血の色にさえ。
地震が起きて火が燃え広がる中にあんたが取り残されたら――大倶利伽羅は徐に語る。
「俺が倶利伽羅龍に乗って光忠のところへ駆け付ける」
龍神は雨を呼ぶ。燃え盛る炎を降雨により鎮め、火に怯えて立ち竦む光忠を救い出す――何度でも。光忠は大倶利伽羅の言葉にと胸を突かれたように瞳を見開いた。それからふと眦を和らげる。
「本当に君は格好良いなあ」
「伊達男のあんたが惚れた男だからな」
当然だろうと言わんばかりの言動に光忠は笑った。
「伽羅ちゃん、どうもありがとう。おかげで良く眠れそうだよ」
おやすみ――光忠は目を閉じて大倶利伽羅の心音に耳を欹 てながら眠りの淵に滑り落ちていく。刹那、眼裏で鋼鐵のような黒龍の鱗がきらめいた気がした。
◆◆◆
驟雨 に景色が白く霞む。夥しい雨に見通しがきかず、足元も悪かった。
出陣先の天候は晴れのち雨。それも直に止むとのことだが、降りしきる雨は冷たく、容易に体温を奪っていく。濡れた戦装束は水分を含んで重たく肌に貼り付いた。遡行軍とやりあう前から第一部隊の状況は芳しくない。せめて雨を凌げる場所があれば良かったが、山の麓の拓けた草地には家屋もなければ大樹もない。あるのはごつごつとした大きな岩だけだ。光忠が隊長を務める第一部隊は岩陰に身を潜めて辺りを窺っていた。この少し先に歴史に名を残した武将の野営陣があり、どうやら彼等もこの雨で足止めを食らっているらしかった。
「大将の情報ではそろそろ奴等が姿を見せる頃合なんだがな」
「髪も服もびしょ濡れで最悪すぎるんだけど」
「早く帰城してお風呂に入って温まりたいなあ。このままじゃ風邪ひいちゃうよ」
薬研が注意深く捜索してる横で加州と大和守が緊張感のない言葉を交わす。光忠はそんな彼等を視界の端に捉えながら胸元で硬く拳を握った。
「なんか燭台切機嫌良さそうだね。こんな雨に降られてるのに」
「そうかい? まあこの雨もそのうち止むっていうし、雨模様の戦も乙なものさ。厳しい状況であればあるほどある意味僕達も鍛えられるしね」
加州に話を振られてそう答えると「そんなもんかなあ」大和守はどこか呆れたように言いながら首を捻る。
「そうだよ。それに雨は嫌いじゃないからね」
光忠は雨粒が落ちてくる天を仰ぐ。
――龍神は雨を呼ぶ。
この雨はもしかしたら大倶利伽羅が寄越した龍神が降らせたものなのかもしれない。仮令違ったとしても、今はそう思いたい。
出陣する前、戦装束の支度をしている際に棚の抽斗から見慣れない御守りを見付けた。それは万屋で売っているものではなく、どこかの神社仏閣の代物であることは明白であった。龍神の刺繍が施されていたので。贈り主は訊ねずとも判った。光忠の夢の話を聞いた彼が案じて用意したのだろう。
龍神の御守りは富、繁栄、健康、長寿、幸運や成功の引き寄せの他、災厄を避け、平穏な生活を守るとされている。この場合さしずめ悪夢避けといったところか。――焼失の夢を見てもきっと伽羅ちゃんが雨を連れて助けにきてくれる。
龍神の御守りは今、光忠の胸ポケットに大切に仕舞われている。無事に帰ったら彼に礼を伝えたい。
おい皆奴等が来たぞ――薬研の言葉に場の雰囲気が一変し、俄に緊張が走った。皆一様に表情を硬くし、刀の柄に手をかける。
光忠は太刀を抜刀し、高らかに宣言した。
「せっかくの晴れ舞台だ。格好良く行こう!」
――それから焼失の悪夢は見ない。
(了)
燃え盛る炎の先が壁や天井を舐める。黒煙が
一体何が起こったのか判らなかった。判るのは自分はここで刀として朽ちること、ただそれだけだ。為す術もなく燭台切光忠は呆然とその場に立ち尽くして燃え広がる火と逃げ惑う人々、あらゆる建造物が崩れて瓦礫と化した無惨な光景を眺めた。
熱い、苦しい、怖い。
刀である自分はここから逃げ出すことはできない。
朽ちるならせめて戦で――元主である政宗公に振るわれて終わりたかったと燭台切は無念に思いながら隻眼に逆巻く炎を映し、やがて火に呑まれていく。
「……ただ、光忠、おい」
肩を揺すられて光忠ははっと目を醒まし、飛び起きた。ちらりと
「大丈夫か?」
横から聞き慣れた声がして光忠は視軸を転じた。と、大倶利伽羅の気遣わしげな眼差しと出会う。
「随分と
「五月蝿くしてごめん。起こしちゃったね」
光忠は眉尻をさげて弱々しく笑う。閉め切った障子戸の白さが仄めく室内は暗く、静まった気配にまだ真夜中であることを知った。気を取り直して「さ、もう一眠りしよう」光忠が布団に潜ろうとするとそっちに行っても良いかと大倶利伽羅が訊ねてくる。
「え、うん」
やや戸惑いながらおいでと布団を捲って躰を端に寄せると大倶利伽羅が空いた場所に身を横たえた。光忠の頭を胸元に抱き寄せる。
「伽羅ちゃん?」
急にどうしたの――驚いて隻眼を瞬かせると「あんたの真似だ」抑揚のない声音が頭上から降ってくる。
「光忠にこうされると俺はほっとする」
衣服越しに伝わる体温や包まれる匂いに心が寛ぐようになったのはいつからだろう。抱き締められると胸が苦しいまでに高鳴って逃げ出したいくらいだったのに、今となっては光忠の腕の中が一番心安らぐ場所だった。この温かで優しい安息の場所を他の誰にも明け渡したくないと常々思う。自分が在るべき場所は、帰るべきところは今主の元だと判っているが、それよりも何よりも光忠の隣が己の居場所だった。
僕は却って眠れなくなりそうなんだけど――光忠は小さく微苦笑を洩らす。
「ここ数日、魘されてるな」
「うん。というか、前から気が付いてたんだね」
「あんたのことだからあまりこういう部分には触れて欲しくはないだろうと思って見ぬふりをしていた」
「そっか。気遣ってくれてありがとう。伽羅ちゃんは本当に優しいね。それに比べて僕は駄目だ。格好悪い」
「俺は特段格好悪いとは思わないが。だが光忠の情けない姿は俺しか知らないと思うと気分が良い」
大倶利伽羅は薄く笑いながら
もう伽羅ちゃんってば――光忠は眉根を寄せてるとふと眉間の皺をほどいて「昔の夢を見るんだ」静かに独白する。
「罹災して火に焼かれる最期の記憶だ。僕は逃げ出すこともできずにただ燃え広がる炎を見ている……」
まだ瞼の裏に鮮明に残る夢の残影。
大正十二年九月一日午前十一時五十八分。相模湾北西部を震源とする大地震が発生。死者・行方不明者約十万人以上出した未曾有の大災害は一瞬にして人々の生活も町も破壊し尽くした。光忠が収められていた徳川公爵家の小梅邸の蔵も無事では済まなかった。記録によれば震災の火災鎮火後に引き起こされた爆発によって水戸徳川家伝来の百六十余口の刀剣が焼失してしまったのだ。
「夢って不思議だよね。夢を見ている間はそれを現実だと錯覚してしまう。感じている恐怖は紛れもなく本物で目が醒めて初めて夢であったことに気が付く」
ただの夢を怖がるなんておかしいよね童じゃあるまいし――光忠は自嘲する。しかし大倶利伽羅は生真面目な態度を崩さずそんなことはないと否定した。
「誰だって己の死に際を直視するのは良い気分ではないだろう。あんたは夢の中で何度も死を繰り返している。夢見ている間感じている恐怖が本物なら尚更だ。俺もそんな夢を毎晩見るのは御免だな」
刀として使われることなく朽ち果てるのはどれだけ口惜しかっただろう。自分達は使われてこそ意味と価値がある刀だ。死に場所は後生大事に仕舞われる蔵の中ではなく、戦場が最も望ましい。だが光忠の場合、その最期も含めて燭台切光忠なのだ。仙台藩から水戸藩へ移されて震災で罹災し、無惨に焼失した
光忠が纏う漆黒は一度火を潜り抜けて甦ったことの証でもあるように大倶利伽羅は思えてならない。深く端正な漆黒は何ものにも染まらない。血の色にさえ。
地震が起きて火が燃え広がる中にあんたが取り残されたら――大倶利伽羅は徐に語る。
「俺が倶利伽羅龍に乗って光忠のところへ駆け付ける」
龍神は雨を呼ぶ。燃え盛る炎を降雨により鎮め、火に怯えて立ち竦む光忠を救い出す――何度でも。光忠は大倶利伽羅の言葉にと胸を突かれたように瞳を見開いた。それからふと眦を和らげる。
「本当に君は格好良いなあ」
「伊達男のあんたが惚れた男だからな」
当然だろうと言わんばかりの言動に光忠は笑った。
「伽羅ちゃん、どうもありがとう。おかげで良く眠れそうだよ」
おやすみ――光忠は目を閉じて大倶利伽羅の心音に耳を
◆◆◆
出陣先の天候は晴れのち雨。それも直に止むとのことだが、降りしきる雨は冷たく、容易に体温を奪っていく。濡れた戦装束は水分を含んで重たく肌に貼り付いた。遡行軍とやりあう前から第一部隊の状況は芳しくない。せめて雨を凌げる場所があれば良かったが、山の麓の拓けた草地には家屋もなければ大樹もない。あるのはごつごつとした大きな岩だけだ。光忠が隊長を務める第一部隊は岩陰に身を潜めて辺りを窺っていた。この少し先に歴史に名を残した武将の野営陣があり、どうやら彼等もこの雨で足止めを食らっているらしかった。
「大将の情報ではそろそろ奴等が姿を見せる頃合なんだがな」
「髪も服もびしょ濡れで最悪すぎるんだけど」
「早く帰城してお風呂に入って温まりたいなあ。このままじゃ風邪ひいちゃうよ」
薬研が注意深く捜索してる横で加州と大和守が緊張感のない言葉を交わす。光忠はそんな彼等を視界の端に捉えながら胸元で硬く拳を握った。
「なんか燭台切機嫌良さそうだね。こんな雨に降られてるのに」
「そうかい? まあこの雨もそのうち止むっていうし、雨模様の戦も乙なものさ。厳しい状況であればあるほどある意味僕達も鍛えられるしね」
加州に話を振られてそう答えると「そんなもんかなあ」大和守はどこか呆れたように言いながら首を捻る。
「そうだよ。それに雨は嫌いじゃないからね」
光忠は雨粒が落ちてくる天を仰ぐ。
――龍神は雨を呼ぶ。
この雨はもしかしたら大倶利伽羅が寄越した龍神が降らせたものなのかもしれない。仮令違ったとしても、今はそう思いたい。
出陣する前、戦装束の支度をしている際に棚の抽斗から見慣れない御守りを見付けた。それは万屋で売っているものではなく、どこかの神社仏閣の代物であることは明白であった。龍神の刺繍が施されていたので。贈り主は訊ねずとも判った。光忠の夢の話を聞いた彼が案じて用意したのだろう。
龍神の御守りは富、繁栄、健康、長寿、幸運や成功の引き寄せの他、災厄を避け、平穏な生活を守るとされている。この場合さしずめ悪夢避けといったところか。――焼失の夢を見てもきっと伽羅ちゃんが雨を連れて助けにきてくれる。
龍神の御守りは今、光忠の胸ポケットに大切に仕舞われている。無事に帰ったら彼に礼を伝えたい。
おい皆奴等が来たぞ――薬研の言葉に場の雰囲気が一変し、俄に緊張が走った。皆一様に表情を硬くし、刀の柄に手をかける。
光忠は太刀を抜刀し、高らかに宣言した。
「せっかくの晴れ舞台だ。格好良く行こう!」
――それから焼失の悪夢は見ない。
(了)