みつくりSS
桜の樹の下には
土と草の匂いが懐かしさを連れてくる。それは鋼鐵の匂いに似ているからなのかもしれない。
刀匠は鋼鐵を火に入れ叩いて余分なものを削ぎ落とし、水に潜らせ、再び火で熱して赫く灼けた鋼鐵を叩く――そうやって僕達は生まれた。この胸の奥で鳴る心の臓の音はきっと刀匠達が鋼鐵を叩く音なのだろう。
地面に横たわったまま、真っ直ぐに空を見上げる。視界一面に広がるのは薄紅色の花群れ。満開の桜は月光を受けて淡く発光したように夜闇に浮かび上がり、辺りを白く仄めかす。とても綺麗だからつい触れたくなってしまう。手を伸ばしてもここからは届かない。美しいものにはいつだって手が届かないのだ。月も星も、大好きな伽羅ちゃんにだって。
視軸を隣に転じる。
褐色の、端正な横顔。瞳を閉じた顔は静かに凪いでいる。滅多に感情を露わにしない彼らしい。伽羅ちゃんが纏う静謐な雰囲気と研ぎ澄まされた空気が好きだった。傍にいると心がほっとした。でも理由はそれだけじゃない。
手袋を外して投げ出された伽羅ちゃんの右手を握る。握り返されることのない手は体温を感じられない。それが少し寂しい。
伽羅ちゃん、大倶利伽羅――そっと名前を呼んでみる。彼は目を開けない。返事もない。ただ眠っているだけと思いたい。そう、少し疲れて眠っているだけだ。
僕が君のことを好きだと言ったら君はどんな顔をするのかな。仲間とか友人だとか、そう言う意味の好きではなくてもっと特別な感情で伽羅ちゃんのことが好きなんだ。
昔――仙台藩で君と出会った時になんて綺麗で格好良い刀なんだろうって目を奪われた。刻まれた倶利伽羅龍も鋭利に光り輝く刀身も。あらゆる罪障を焼き尽くす不動明王の化身である黒龍も伊達じゃない。孤高で威厳に満ちた姿形は幾ら見ても見飽きないくらいに、本当に美しかった。
でもね、僕が君に惹かれたのは容姿の美しさだけではないよ。伽羅ちゃんと刀剣男士として再会して一緒に暮らしている中で君のさりげない優しさや生真面目な部分とか可愛いものが好きなところや僕が作ったご飯やおやつを美味しそうに食べてくれる姿とか、そういう君を見て好ましく思ったんだ。初めて一緒に出陣した時、戦で思うままに刀を振って敵将を討ち取る姿がとても格好良くて思わず見蕩れてしまったのはここだけの秘密。
伽羅ちゃん、大好きだよ。
どうしてもっと早くに君に伝えなかったんだろう。
こんなことになるなら嫌われても良いから愛してるって言えば良かった。
不思議と痛みは感じないんだ。それどころか少し眠たい気がする。死ぬってこんな感じなのかな。それとも僕は今夢を見ているのかもしれない。伽羅ちゃんと二人きり、桜の樹の下で寝っ転がってお花見してる夢。ご馳走もお酒もなにもないけれど、綺麗な花があって最愛の人が傍にいる、それだけで充分、幸せ。
夢なら醒めたくないなあ。
ずっとこんなふうに君と二人でいたい。
土と草の匂いに混じって鉄錆の匂いがする。瞼が重くなる。躰の感覚が薄らいでいく。
「……伽羅ちゃん、好きだよ」
握った彼の手が僅かに動いた。
風に爛漫の桜が揺れて夜陰に花弁が舞う。一面の桜吹雪に意識が鎖されていく。
◆◆◆
視界の端に捉える――夥しい薄紅の中に漆黒が埋まっていた。
光忠、と名を呼んでみても声にならない。彼を揺り起こそうにも躰が動かなかった。自分の意思で動かせるのは目だけだ。俺は可能な限り視線を辺りに巡らせて状況を確認する。土と草の匂い、正面――空を覆う満開の桜。繋いだ手、右隣に横たわる光忠。
繋いだ白い手は温もりを感じなかった。じっと横目で光忠を見遣る。白い横顔にはなんの表情も浮かんでおらず、隻眼は閉じられていた。眠っているのだろうか。そうだったら良いと思う。光忠は強い刀だが、いつも働きすぎだからたまにはこんなふうに休息を取るのが望ましい。
戦に遠征、畑当番に馬の世話、掃除洗濯に始まり厨仕事も何でも卒なくこなす光忠は傍目から見ても働きすぎだと思う。だがそうやってまめまめしく立ち働く姿を眺めるのは好きだ。もっと言えば俺は彼のことが好きだった。
自覚したのは彼が仙台藩から水戸藩に移された頃だった。伽羅ちゃんまたね――笑って去っていた光忠の姿に胸が痛んだ。その痛みの意味を知った瞬間、自分に戀という感情があることに酷く驚いた。
光忠は昔から変わらない。いつも朗らかな笑みを絶やさず、誰に対しても親切で優しい。誠実で高潔、伊達男としての矜恃を持ち、誇り高いが決して傲ることはない。当然ながら刀剣男士としても申し分ない。鮮やかで華麗な太刀筋はまるで舞踏のようでもある。好戦的で凛々しい姿に何度見惚れたか判らない。あんな燃えるような激しい瞳で見詰められたらと愚にもつかないことを夢想したこともある。
光忠、ともう一度呼んでみる。声にはならないし、唇も上手く動かない。それでも不思議と彼には聞こえているように思えてならない。光忠好きだ、ずっと前から。俺の気持ちに応えてくれるのなら、あんたの秘密に触れたい。眼帯の下に隠しているその傷痕にどうか口付けさせて欲しい。
風が吹いて桜の梢が揺れ、地面に散り落ちた花弁が舞い上がる。風に巻き上げられた薄紅色に漆黒の輪郭がほどけて崩れていく。光忠が消えていく。叫ぶことも消失を食い止めることもできず、ただ眺めているより他なかった。
無情の景色を目の当たりにしながら、これは夢だと思った。俺は今夢を見ているのだ。光忠がこんな形でいなくなるわけがない。俺を置いて、鶴丸や貞を置いて消えるわけがない。夢なら早く醒めてくれ。起きて光忠の顔が見たい。おはようと笑いかけて欲しい。そして、直接伝えたい。あんたのことが好きだと。愛してるからずっと傍にいて欲しい、と。
掌の中に桜の花弁が一枚残る。光忠の欠片。
「……光忠、逝くな」
手に力を込めて、硬く拳を握った。
――桜の樹の下には折れて朽ち錆びた刀剣の欠片が転がっていた。
(了)
土と草の匂いが懐かしさを連れてくる。それは鋼鐵の匂いに似ているからなのかもしれない。
刀匠は鋼鐵を火に入れ叩いて余分なものを削ぎ落とし、水に潜らせ、再び火で熱して赫く灼けた鋼鐵を叩く――そうやって僕達は生まれた。この胸の奥で鳴る心の臓の音はきっと刀匠達が鋼鐵を叩く音なのだろう。
地面に横たわったまま、真っ直ぐに空を見上げる。視界一面に広がるのは薄紅色の花群れ。満開の桜は月光を受けて淡く発光したように夜闇に浮かび上がり、辺りを白く仄めかす。とても綺麗だからつい触れたくなってしまう。手を伸ばしてもここからは届かない。美しいものにはいつだって手が届かないのだ。月も星も、大好きな伽羅ちゃんにだって。
視軸を隣に転じる。
褐色の、端正な横顔。瞳を閉じた顔は静かに凪いでいる。滅多に感情を露わにしない彼らしい。伽羅ちゃんが纏う静謐な雰囲気と研ぎ澄まされた空気が好きだった。傍にいると心がほっとした。でも理由はそれだけじゃない。
手袋を外して投げ出された伽羅ちゃんの右手を握る。握り返されることのない手は体温を感じられない。それが少し寂しい。
伽羅ちゃん、大倶利伽羅――そっと名前を呼んでみる。彼は目を開けない。返事もない。ただ眠っているだけと思いたい。そう、少し疲れて眠っているだけだ。
僕が君のことを好きだと言ったら君はどんな顔をするのかな。仲間とか友人だとか、そう言う意味の好きではなくてもっと特別な感情で伽羅ちゃんのことが好きなんだ。
昔――仙台藩で君と出会った時になんて綺麗で格好良い刀なんだろうって目を奪われた。刻まれた倶利伽羅龍も鋭利に光り輝く刀身も。あらゆる罪障を焼き尽くす不動明王の化身である黒龍も伊達じゃない。孤高で威厳に満ちた姿形は幾ら見ても見飽きないくらいに、本当に美しかった。
でもね、僕が君に惹かれたのは容姿の美しさだけではないよ。伽羅ちゃんと刀剣男士として再会して一緒に暮らしている中で君のさりげない優しさや生真面目な部分とか可愛いものが好きなところや僕が作ったご飯やおやつを美味しそうに食べてくれる姿とか、そういう君を見て好ましく思ったんだ。初めて一緒に出陣した時、戦で思うままに刀を振って敵将を討ち取る姿がとても格好良くて思わず見蕩れてしまったのはここだけの秘密。
伽羅ちゃん、大好きだよ。
どうしてもっと早くに君に伝えなかったんだろう。
こんなことになるなら嫌われても良いから愛してるって言えば良かった。
不思議と痛みは感じないんだ。それどころか少し眠たい気がする。死ぬってこんな感じなのかな。それとも僕は今夢を見ているのかもしれない。伽羅ちゃんと二人きり、桜の樹の下で寝っ転がってお花見してる夢。ご馳走もお酒もなにもないけれど、綺麗な花があって最愛の人が傍にいる、それだけで充分、幸せ。
夢なら醒めたくないなあ。
ずっとこんなふうに君と二人でいたい。
土と草の匂いに混じって鉄錆の匂いがする。瞼が重くなる。躰の感覚が薄らいでいく。
「……伽羅ちゃん、好きだよ」
握った彼の手が僅かに動いた。
風に爛漫の桜が揺れて夜陰に花弁が舞う。一面の桜吹雪に意識が鎖されていく。
◆◆◆
視界の端に捉える――夥しい薄紅の中に漆黒が埋まっていた。
光忠、と名を呼んでみても声にならない。彼を揺り起こそうにも躰が動かなかった。自分の意思で動かせるのは目だけだ。俺は可能な限り視線を辺りに巡らせて状況を確認する。土と草の匂い、正面――空を覆う満開の桜。繋いだ手、右隣に横たわる光忠。
繋いだ白い手は温もりを感じなかった。じっと横目で光忠を見遣る。白い横顔にはなんの表情も浮かんでおらず、隻眼は閉じられていた。眠っているのだろうか。そうだったら良いと思う。光忠は強い刀だが、いつも働きすぎだからたまにはこんなふうに休息を取るのが望ましい。
戦に遠征、畑当番に馬の世話、掃除洗濯に始まり厨仕事も何でも卒なくこなす光忠は傍目から見ても働きすぎだと思う。だがそうやってまめまめしく立ち働く姿を眺めるのは好きだ。もっと言えば俺は彼のことが好きだった。
自覚したのは彼が仙台藩から水戸藩に移された頃だった。伽羅ちゃんまたね――笑って去っていた光忠の姿に胸が痛んだ。その痛みの意味を知った瞬間、自分に戀という感情があることに酷く驚いた。
光忠は昔から変わらない。いつも朗らかな笑みを絶やさず、誰に対しても親切で優しい。誠実で高潔、伊達男としての矜恃を持ち、誇り高いが決して傲ることはない。当然ながら刀剣男士としても申し分ない。鮮やかで華麗な太刀筋はまるで舞踏のようでもある。好戦的で凛々しい姿に何度見惚れたか判らない。あんな燃えるような激しい瞳で見詰められたらと愚にもつかないことを夢想したこともある。
光忠、ともう一度呼んでみる。声にはならないし、唇も上手く動かない。それでも不思議と彼には聞こえているように思えてならない。光忠好きだ、ずっと前から。俺の気持ちに応えてくれるのなら、あんたの秘密に触れたい。眼帯の下に隠しているその傷痕にどうか口付けさせて欲しい。
風が吹いて桜の梢が揺れ、地面に散り落ちた花弁が舞い上がる。風に巻き上げられた薄紅色に漆黒の輪郭がほどけて崩れていく。光忠が消えていく。叫ぶことも消失を食い止めることもできず、ただ眺めているより他なかった。
無情の景色を目の当たりにしながら、これは夢だと思った。俺は今夢を見ているのだ。光忠がこんな形でいなくなるわけがない。俺を置いて、鶴丸や貞を置いて消えるわけがない。夢なら早く醒めてくれ。起きて光忠の顔が見たい。おはようと笑いかけて欲しい。そして、直接伝えたい。あんたのことが好きだと。愛してるからずっと傍にいて欲しい、と。
掌の中に桜の花弁が一枚残る。光忠の欠片。
「……光忠、逝くな」
手に力を込めて、硬く拳を握った。
――桜の樹の下には折れて朽ち錆びた刀剣の欠片が転がっていた。
(了)