みつくりSS

おしまいの日。

 何だか変な感じだね――光忠は濡れ縁に立って呟く。彼の隣に座す大倶利伽羅は曖昧に頷きながら正面の庭に視線を放った。
 庭には柔らかな春陽が降り注ぎ、暖かそうな陽だまりの中で白い花が咲き零れていた。微風そよかぜに揺れる度に花弁がきらきらと光るように見え、その瞬きは恰も別れを告げているかのようでもあった。あの白い花の名前は何であったか、大倶利伽羅の記憶にはない。光忠に訊けば判るだろうが、訊ねるだけ無意味だ。直に消える。この本丸も、刀剣男士として受肉した自分達も。
 刀剣男士として人の身を得て刀を振るい、歴史改変を目論む時間遡行軍との戦いに漸く決着がついた。この本丸に刀剣男士が集められてから十数年目の出来事である。時間遡行軍を全て殲滅し、文字通り躰を張って歴史を守り抜いた。目的を果たしたのだ。主は長きに亘る遡行軍との戦いをねぎらい、厚く礼を述べた後、この本丸が解体されることを告げた。それは刀剣男士達が本来の姿――ただの刀に戻ることを意味していた。初めから薄々判っていたことであるから皆当然のように主の言葉を受け入れ、何も言わなかったが、内心はどうであったのかは知れない。少なくとも大倶利伽羅は割り切れないでいた。光忠はどうなのだろう――長身を見上げるが、白い横顔は凪いで穏やかだ。思い悩んでいるふうには見えない。
 ――また自分だけが、こんなにも心を乱されている。
「皆いなくなるとこんなに本丸は静かなんだね」
 光忠はどこか不思議そうに言いながら大倶利伽羅の隣に腰を下ろす。彼の言葉通り、本丸内には光忠と大倶利伽羅しかいなかった。共に戦で刀を振るった仲間達はひとり、またひとりと姿を消していなくなった。今までありがとう。どうぞお元気で。またどこかで会おう。そんな台詞を口々に言いながら。彼等はあるべき場所へと還り、沈黙を守っている。
 日々世話をしていた馬達も既になく、うまやはもぬけの殻だ。熱心に耕していた畑も今は見る影もなく、更地になっていた。生き物の気配は庭に咲いている花と間もなく消失する二振りだけだ。穏やかな静寂は終わりの日に相応しく、まるで夢を見ているようでもあった。――本当にこれが夢であったなら。
「伽羅ちゃんは何をお願いしたの?」
 出し抜けに問われて一瞬何のことか意味を図りかねたが、直ぐ様思い出した。主がこれまで尽くしてくれたことへの礼だとして、ひとつだけ願いを叶えると申し出たのだ。薄紅色の札が刀達に手渡され、それに願いをしたためた後、主による加持祈祷が執り行われた。札は焚き上げられ、灰は万葉桜の下に撒かれた。
「あんたは何を願った」
「それは秘密」
 光忠はにこりと微笑む。
「……あんたが言わないなら、俺も教えない」
 不公平は好まないと大倶利伽羅が口角を下げると光忠は伽羅ちゃんらしいねと朗らかに笑った。その笑顔が大倶利伽羅の胸を軋ませる。いつも通りの態度が却って憎らしい。未練も寂しさも見せず、別れを惜しむふうでもない光忠に苛立ちを憶えた。身勝手な怒りだとは自覚していたが、どうしようもなかった。そんな大倶利伽羅の胸中を悟ったのか、光忠は伽羅ちゃん、と優しく名を呼んで無造作に置かれた彼の手をそっと包むようにして掴んだ。
「好きだよ」
「は、」
 大倶利伽羅は両の眼を大きく見開いて隻眼を見た。酷く驚いた顔色の大倶利伽羅に対して光忠は神妙な面持ちを崩さない。どこまでも真っ直ぐに、真摯な眼差しを向ける。
「ずっと君のことが好きだった。それは同胞愛とかじゃなくて、もっと特別な好意だ」
 人間ひとで言うならば戀や愛というもの。そういう意味で光忠は大倶利伽羅を好いて慕っていた。気が遠くなるほど前から、ずっと。密かに抱いていた感情に名前があることを知ったのは人の身を得てからだった。
「あんた、なんでこんな時に、」
 突然の告白に大倶利伽羅は顔を歪めて俯いた。なぜ今になって好きなどと言うのだ。今更、どうして。
「こんな時だからだよ」
 抱き締めても良いかい? ――大倶利伽羅が黙っていると遠慮がちに背に腕を回される。光忠の匂いと衣服越しに伝わる温もりにつんと鼻の奥が痛くなり、視界が滲み出す。大倶利伽羅は戦慄く唇をきつく噛み締めた。
「強くて優しくて格好良い君のことが大好きだった。いつだって伽羅ちゃんは僕の支えで憧れだったよ。それは今でも変わらない」
 戦で白刃を閃かせる凛々しい姿も、馴れ合うつもりはないと常々公言しながら仲間が困っていたらさりげなく手助けする姿も、光忠が作った料理や菓子を美味いと言いながら平らげる姿も、十数年共にあった記憶はどれも鮮明で愛しさとなって光忠の中に灼きつき、剥がれない。たとえ躰が消えてなくなっても記憶は残り続けるだろう。彼を愛する想いごと。
「……あんた酷いな」
 言うべき言葉――伝えたい言葉は他に幾らでもあったが、大倶利伽羅の口を突いて出たのは恨み言だった。だが酷いのはお互い様だ。光忠ばかりを責めるのは間違っている。自分だって彼への気持ちをこれまで一度でも打ち明けようとはしなかったのだから。所詮報われぬと初めから諦めて。
「うん。酷くてごめんね」
「謝っても、赦さない」
「赦さなくて良いよ」
 それでずっと僕のことを憶えててくれるのなら――光忠は淡く微笑む。それからふと思い出したように「僕の秘密を教えてあげる」大倶利伽羅を解放すると右眼を覆う眼帯に手を触れ、外した。長い前髪を掻きあげる。晒された“秘密”に大倶利伽羅は瞠目して息を呑んだ。
「光忠、それ、」
 元主と同じように塞がれていたはずの右眼は今や金色に燃えるように輝いて大倶利伽羅を見返していた。
「いつから、」
「最後の戦が終わってから。もしかしたら神様からのご褒美かもね」
 今まで頑張ってきたからねと光忠はうそぶくと褐色の頬を両の手で包み、ああ君の顔がよく見える――濁りのない右眼から雫を落とした。大倶利伽羅は黒手袋に自身のそれを重ね合わせて顔を近付ける。息が触れ合う距離で視線を絡ませると長年焦がれていた唇へ口付けた。初めての接吻は海の味がした。
 人の身を喪ってもこの柔らかさも温かさも、きっと忘れないだろう。安らかな死の気配を纏った静寂の中で触れた愛の手触りはどこまでも優しかった。

 ◆◆◆

 ただいま、と広光が玄関のドアを開けるとおかえりなさいと光忠がにこやかに出迎える。
「思ったより早かったね。もっとゆっくりしてくれば良かったのに。ご両親だって今日一日くらいは君と水入らずで過ごしたかったんじゃないのかい?」
「別に今生の別れでもないんだ。昼飯は一緒だったんだから向こうも文句はないだろう。それに早く帰らないと誰かさんが寂しがるからな」
 広光は淡々と告げながら靴を脱いで部屋に上がり込む。光忠は苦笑いで彼の言葉を聞いてから「広くんがこんなに早く帰ってくるとは思ってなかったから夕飯の支度がまだなんだ。お腹減ってるなら外に食べに行こうか?」お窺いを立てる。
「いや、昼も外食だったから家で食べたい。飯作るのも手伝う」
「オーケー、判ったよ。でも広くんはゆっくりしてて良いよ。疲れただろう?」
 光忠は広光の前髪を掻きあげて秀でた額に唇を落とすと着替えておいでと自室に送り出した。一瞬、彼は何か言いたそうに光忠を見たが、おとなしく年長者の言葉に従った。玄関を上がって直ぐ右横のドアを開ける。そこが広光の部屋だった。
 宛てがわれた六畳ほど自室はまだ必要な家具が揃っていないせいでやたら広く感じられた。急ぎ入れたのはベッドだけで机も本棚も何もない。クローゼットを開けて着替えを出し、コートやマフラーを脱ぐ。ボタンを根こそぎ持っていかれた高校の制服から普段着へ袖を通した。
 今日、広光は三年間通っていた高校を卒業した。来月からは大学生となる。大学へは両親が住まう家からではなく、ここ――光忠の住まいであるマンションから通う手筈になっていた。勿論、それは広光の両親も承知の上である。広光が幼い頃から光忠の両親とも家族ぐるみの付き合いがあるのだ。
 初めは光忠に迷惑をかけるからと広光の両親は彼との同居に難色を示していたが、光忠が上手く彼等を説得して晴れて許可が降りた。自分達の目の届かないところで独り暮らしするよりは知っている誰かが傍にいてくれた方が安心できるという心理も働いたのだろう。それに昔から事あるごとに光忠を今時珍しいくらいに礼儀正しく品行方正な青年だと褒めていた広光の両親である。これほど心強い同居人もいないと喜んでいた。
 だが光忠の両親も含め、彼等は本当のことを何も知らない。自分達の息子が恋愛関係にあり、しかも前世からの繋がりがあるなどと。真実を知ったならば仰天して卒倒するに違いない。前世のことに関してはともかく、いつか恋人として光忠を両親に紹介する日がくるかもしれないと考えると浮き足立つような気持ちになってしまう。刀剣男士だった頃は周りのことは心底どうでも良かったが、今世ではなかなかそうはいかない。人間関係のしがらみは酷く面倒だとうんざりすることもしばしばだ。
 着替えを済まし洗面所で手を清めてからリビングへ行くと丁度光忠がコーヒーを淹れているところだった。数枚のクッキーをのせた小皿と共に湯気を立てるマグカップがダイニングテーブルに並ぶ。クッキーは広光のお気に入りのバタークッキーだ。
「本当はケーキも買ってあるんだけど。それは夕飯の後でね。今はこれ摘んで待ってて」
 光忠は愛用の黒いエプロンを身につけながら言った。エプロンは去年彼の誕生日に広光がプレゼントしたものだ。刀剣男士だった頃と同じように今世でも彼は料理好きでその腕も確かだ。会社勤めなどせずにカフェや飲食店でもやれば良いのにと思う。実際に以前、光忠にそう言ったら「広くんにご飯作るだけで満足してるから別に良いかな」そんな答えが返ってきた。
「光忠、あんたもこっちに来い」
「夕飯遅くなっちゃうけど、」
「少しくらい構わないだろ。俺が一緒に食いたいんだ」
 素直に言うと光忠はじゃあちょっとだけと自分の分のコーヒーを淹れて広光の向かいの椅子に座った。白いマグカップに口をつけながら「制服姿の広くんも今日で見納めかあ。何だかあっという間だったなあ」改めて卒業おめでとう、としみじみとした口調で告げる。
「俺としちゃ、やっとだがな。あんた、めちゃくちゃ目立ってたせいで女子が騒いでたぞ」
 広光は厭そうに片頬を攣らせる。姿形が刀剣男士であった頃と殆ど変わらない彼は高そうなスーツを着こなして広光の両親と共に卒業式に参列した。高身長かつ端正な顔立ちの彼が人目を惹かないはずもなく、一体誰の身内なのかと話題になっていた。そんなふうであったから広光は面倒ごとを避けるために光忠に気が付いても素知らぬ振りをしたのだった。光忠も何となく事情を察して学校内では彼に声をかけることなく、早々に引き上げて自宅に戻った。せめて一枚くらい一緒に写真を撮りたかったが、こればかりは仕方がない。後で広光の両親から写真を送って貰おうと心に決めた。
「もしかしてやきもち?」
「……誰が、」
「そういうところ、昔と変わらないね。伽羅ちゃん」
 光忠は悪戯っぽく笑って恋人のかつての名前を呼ぶ。――伽羅ちゃん、大倶利伽羅。
年齢のせいかあの頃より僅かに顔立ちは幼いが、しかし光忠の記憶にある通りの姿形をしていた。違いがあるとすれば躰に龍の彫り物がないこと、襟足が赤くないことくらいだろうか。喋り方や声の質も、纏う雰囲気も変わらない。そして自分を好きだと言って愛してくれるところも。主は本当にあの時の願いを叶えてくれたのだ――光忠は何か眩しいものを見るような目付きで瞳を眇めて年下の恋人を見遣った。
 本丸が解体される時、札にしたためた願い。
 ――人に生まれ変わってもう一度伽羅ちゃんと出逢いたい。
 それが光忠の願いだった。そしてそれは大倶利伽羅の願いでもあったのだ。人となって光忠と出逢い直したい――そう札に書いた。物心がついて初めて顔を合わせ時、刀剣男士だった頃の記憶が還ってきた。それからただの刀であった頃の記憶も次第に取り戻し、自然と恋仲になって今に至る。ただ大倶利伽羅にとって大誤算だったのは光忠より六歳も年下に生まれてしまったことだ。
「光忠、」
「なあに?」 
「今夜やるぞ」
 あけすけな言い方に危うく光忠は口に含んだコーヒーを噴き出しそうになった。
「ちょ、広くん、言い方」
「じゃあ言い方を変える。俺を抱け」
「僕が言いたいことはそういう意味じゃないんだけど、」
間怠まだるっこしいことは好きじゃない。あんたもよく知ってるだろ」
「うん、まあそれは判ってるけど。それはともかく。君を抱くっていうのは応じられないな」
「は、はあ!? なんでっ」
 広光は珍しく大声をあげて気色ばむ。光忠はそんな彼にやや驚きつつも落ち着きを払って告げた。
「なんでって、今月いっぱいは広くん高校生だろう。学校の先生だってそう言ってたでしょう。幾ら同意があるからって流石に高校生相手にそんなことできないよ。お酒と煙草とセックスは二十歳からってね」
「セックスが二十歳からなんて俺はそんなの聞いてないし、知らない。大体、同じ屋根の下で暮らしててあんたは我慢できるのか」
「我慢するし、できるよ。大人だからね」
 暗にお前は子供だからと莫迦にされているようで面白くない。ぷつりと広光の中で何かが切れた。
「俺はもうずっと昔から、それこそ何百年も待ったんだ。いつまで待たせる気だ。あんたにその気がないなら」
 浮気してやる――光忠を睨みつけて凄んでみせた。
 たかがセックス、されどセックス。躰の関係を介さない恋愛があるのも知っているが、それは広光が望んでいる関係性ではない。光忠の全てが欲しいのだ。同じ強さで光忠にも自分を欲しがってほしいと切望する。仙台藩にあった時から、ずっと。こんなことなら札に願い事を書いた時、光忠と同じ年齢で転生するように書けば良かったと広光はほぞを噛んだ。――こんなことってあるか。目の前に欲しいものがあるのに。つくづく光忠は酷い男だと思う。判ってて望むものを与えてくれない。今も、あの時も。
 広くん、と優しい声で名前を呼ばれる。いつかの時のようなそれに広光は内心、怯えた。別れを告げられると思ったのだ。勿論それは広光の思い過ごしだった。
「君の気持ちは判ったよ。来月になったら広くんの望んだ通りにするから、今月はちょっと待ってくれるかな。広くんのこと大好きだから大事にさせて」
 お願い、と額づくように懇願されて広光は頷くしかなかった。
「浮気しないでね」
「あんた意外、誰かとどうこうなるつもりは微塵もない」
 あれは本心ではないと念を押すように説明すると「それなら良かった」光忠は心底ほっとしたように微笑した。――今浮気したら光忠は泣くだろうか。泣くな。絶対。そんなことをちらと考えてあの日、彼が零した涙を思い出す。泣き顔はもう見たくはなかった。
 マグカップが空になったところで光忠は席を立つ。そろそろ夕飯の支度に取り掛からないと本当に遅くなってしまう。広光も座を立って恋人の後を追った。
「俺も手伝う。夕飯はなんだ?」
「広くんが大好きなハンバーグだよ。他はトマトスープとサラダ。デザートは広くんが好きなお店のチョコレートケーキがあるよ」
「それはいいな」
 広光が使ったマグカップを洗う横で光忠は冷蔵庫から玉ねぎやひき肉のパックを取り出す。手際よく必要なものを用意し、一緒にキッチンに立って料理をする――何でもない日常だが、酷く懐かしい。こういう生活がこれからも続いていくのだ。
「光忠、ありがとう」
「なに、急にどうしたの、広くん」
 光忠は不思議そうに金色の瞳を瞬かせる。
「あんたと一緒にいられることが嬉しいから、」
 さっきはつい駄々を捏ねてしまったが、共に寝起きして同じ食卓を囲む――本当はそれだけで幸せなのだ。愛する人の傍にいる、ただそれだけで。
「僕の方こそ、ありがとう。また僕と出逢って愛してくれて嬉しいよ。これからも宜しくね、広光くん」
 光忠は優しく笑いかけるとあどけない唇にキスをした。温かく、柔らかな感触はあの日、初めて交わした口付けと何ら変わらなかった。

(了)
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