みつくりSS

Schwarz Noire

 あの話は本当だったのか――大倶利伽羅は庭の茂みに身を隠すようにして蹲る右眼が潰れた黒猫を見てそう思った。
 毛艶が良い黒猫との距離を一歩詰め、地面に膝をつく。それから今にも逃げ出そうとする黒猫に落ち着いた声で話しかけた。
「光忠。大丈夫だ、何も怖いことはない。おいで」
 軽く腕を広げると黒猫は恐る恐るといった風情で茂みから抜け出て来、じっと大倶利伽羅を見ると一声鳴いた。辛抱強く待っていると猫は大倶利伽羅の近くまで寄ってきて差し出された手に小さな頭を擦り付けてくる。少しの間、好きにさせてから猫を抱き上げた。黒猫は大人しく大倶利伽羅の腕の中に収まっていた。
 他の刀と鉢合わせしないように気を配りながら大倶利伽羅は自室に戻り、黒猫の足の汚れをタオルで拭ってから膝の上におろした。猫は大倶利伽羅の膝の上が気に入ったのか躰を丸くしてその場から動こうとしなかった。
「光忠、腹は減っているか」
 背を撫でながら問うと返事をするようににゃあと鳴いた。しかし猫に一体何を与えたら良いものか判らない。それに今は猫の姿になっているとはいえ、この黒猫は自分の恋刀なのだ。変なものは与えられない。鶴丸や貞宗あたりに相談するのが良さそうだが、生憎二振り共に遠征に出ていて留守だった。そうなると頼れるのは主だけだ。現主を嫌っているわけではないが、気が進まない。こうなって初めて、いつもそれとなく大倶利伽羅の状況を察して声をかけてくれる光忠の存在の有り難さが身に染みた。
「今何が食いたい」
訊ねても答えは返ってこない。――一番相談したい相手なのに。
 そう、光忠は異常バグによって人の身から黒猫の姿に変じているのだ。
 二月二十二日に稀に異変が生じて刀剣男士が猫の姿になってしまうらしい――そんな噂を数日前にちらと小耳に挟んだのだが、流石に与太話だろうと思って大倶利伽羅は気に留めてなかった。あくまでも噂、所詮眉唾物。実際にその異常が本丸内で起こった記録もなかったので余計に信じられなかった。そもそもそれが本当だとしたら主から何かしらお達しがあるだろうと踏んでいた。しかし現実はあっさり大倶利伽羅を裏切った。
 大倶利伽羅が昼過ぎに戦から戻ってみれば最愛の刀の姿がなかった。今朝笑顔で武運を祈りながら送り出してくれた光忠は今日は畑番のはずだ。彼が本丸内にいる時は必ずお疲れ様と出迎えてくれるのに。一体どこにいるのか、戦装束も解かずに光忠が居そうな畑や厨をそれとなく覗いてみたが求める姿はなかった。仕方がないので自室に戻って着替えたものの、彼のことが気になり、再度探しに行こうと濡れ縁に立ってふと庭先を見たら。茂みの中から右眼が潰れた黒猫がいたのだ。瞳の色や黒い毛並みから直感的に光忠だと思った。そして猫になってしまう異常バグも本当だったのかと驚いた。
 噂話を話半分に聞き流していたので、どうやったら彼が元の姿に戻るのかが判らない。放っておいても大丈夫なのか、それとも何か特別な処置が必要なのか。食事のことだってある。馴れ合うのは不本意だが、緊急事態の今、そうも言ってられない。
「光忠、大丈夫だ。俺が必ず元に戻してやる」
 大倶利伽羅は柔らかくて温かい躰を優しく撫でながら決意する。と、不意に背後から「あ、伽羅ちゃん。戻ってたんだね。おかえり」お疲れ様と聞き慣れた声がして反射的に振り返った。
「み、光忠……!?」
 ぎょっとして部屋の入口に立つ長身を見上げる。今朝見た姿のままの光忠が不思議そうな顔でこちらを見ていた。
「あれ、猫ちゃん?」
 隻眼を瞬かせて大倶利伽羅の膝の上で丸くなっている黒い毛玉を見遣る。
「いや、だって、あんたは猫に、」
「僕が猫?」
「他の連中がこの間そう言って……あんたはどこ探してもいないし、てっきりこいつが、光忠だと……、」
 言いながら語尾が尻窄みになる。顔が燃えるように熱い。鏡で見なくても判る。今、酷い顔をしている。穴があったら入りたいとは正にこのことだ。勘違いも甚だしい。というか、莫迦げている。どうしようもなく恥ずかしいのに取り繕うこともできなくて「もういっそ殺せ」物騒な言葉を口走ってしまった。一方、光忠は大倶利伽羅の断片的な言葉を繋ぎ合わせて推測し、事態を把握した。猫になる異常バグの話は光忠も数日前に耳にしていたのだ。
「伽羅ちゃん。その猫ちゃん、僕だと思って助けようとしてくれたのかい?」
 光忠は大倶利伽羅の向かいに座ると穏やかに問うた。恋刀は視線を外して顔を羞恥に色濃く染めたまま小さく頷く。
「そっか。伽羅ちゃんは優しいね」
 淡く微笑しながらほらこっちにおいで、と黒猫を抱き上げる。にゃあと甘えたような聲で鳴く猫の顎下を撫でてやりながら「君は少し前から本丸に棲みついている猫ちゃんだね」と光忠が言ったので大倶利伽羅は弾かれたように俯けていた顔を上げた。
「そうなのか?」
「うん。多分、野良猫だと思うんだけど、結構人に慣れてるからどこかで餌を貰ってたのかもね。ご飯が欲しくなると姿を見せるから、無視もできなくてこっそりあげてたんだけど、この間長谷部くんに見付かって叱られてしまってね。無責任なことはするなって」
 光忠は困ったように眉尻を下げて苦笑する。確かにあの刀なら言いそうだと大倶利伽羅は二振りのやり取りを想像して納得した。規律や組織というものに対して厳しい態度を見せる彼は生真面目で勤勉、主にも忠実で信頼も篤いが、裏を返せば融通が利かないということでもあり、時々そのことで光忠と衝突しているのを大倶利伽羅は知っていた。とは言っても、大事になるわけでもなく、それなりに折り合いを付けて彼等なりに適切な距離感で上手くやっているようであった。
「長谷部くんの言うことは尤もだから、可哀想だけどご飯はあげないでいたんだよね。そうしたらこの子も諦めていなくなるかなって」
「たが庭の茂みにいたぞ」
「うーん、お腹が減って動く元気がないのかなあ」
 光忠は心配そうに黒猫を見遣る。すると大倶利伽羅は「判った。何か食い物を取ってくるから、あんたはそいつを連れて門の外に出てろ」断言して立ち上がる。黒猫をここから逃がすつもりだった。
「冷蔵庫に茹でたササミがあるからそれを持ってきて貰えるかな。万が一誰かに見付かって何か言われたら僕の名前出して良いから」
 大倶利伽羅は頷くと部屋を後にする。光忠も「さ、猫ちゃん、僕達も行こう」座を立ち、足音を忍ばせて外へ出た。
 数分後。
 大倶利伽羅が首尾良くくすねてきた鶏のササミを本丸の門前――敷地外で黒猫に与えると数日ぶりの食事にありつけたのを喜ぶように夢中になって食べた。一生懸命ご飯食べてる姿も可愛いよね、などと言いながら二振りは身を屈めて猫を見守っていた。
 粗方食べ終えると黒猫は器用に前足を使って顔を洗い、満足そうに一声にゃあと鳴いた。
「よしよし。もうここへ来たら駄目だよ」
 元気でね――光忠は小さな頭を撫でて別れの言葉をかけてやる。大倶利伽羅は何も言わず背中を撫でて別れの挨拶とした。黒猫は二振りの顔を見詰めながら左眼でゆっくり瞬きすると身を翻してどこかへと走り去って行く。すっかり姿が見えなくなるまで見送ると「あいつ大丈夫か」ぽつりと大倶利伽羅が呟いた。
「片目が不自由だろう。野良で生きていくには厳しいんじゃないのか」
「きっと大丈夫さ。今までちゃんと生き抜いてきたんだから。彼女は強いよ」
「彼女?」
 一瞬、耳を疑う。――いや、だってあの猫は。
「気が付かなかった? あの子は女の子だよ。とってもキュートで強かなレディさ」
 光忠は悪戯っぽく隻眼を細めて見せる。
 俺は雌猫を光忠だと思っていたのか――自分の激しい勘違いっぷりにどっと疲労感が押し寄せてくる。力無く項垂れてるとぽん白い手が頭に触れた。
「光忠?」
「伽羅ちゃん、本当にお疲れ様。言うのが遅くなってしまったけど、無事に帰ってきてくれて嬉しい」
 お出迎えできなくてごめんね――ぎゅうと躰を抱き締められて、大倶利伽羅はやっと自分がいるべき場所に帰ってきたように思った。安堵した途端、腹の虫が鳴った。
「光忠、腹が減った」
「お昼まだだったんだね。気が付かなくてごめん。何が食べたい? 何でも好きなものを作るよ」
「……鍋焼きうどんが良い」
「オーケー、美味しいのを直ぐ作るからね」
 連れ立って本丸の正門を潜ると大倶利伽羅がにゃあと言ったので、光忠は声を立てて笑った。

(了)
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