みつくりSS
春一番
ありがとうございました――万屋の主人に送り出されて光忠と大倶利伽羅は往来へと出た。頭上から照る白い陽射しの眩しさに大倶利伽羅は思わず顔を顰めた。蒼穹は眸 に沁みる碧さで澄んでいた。白雲がゆっくり流れていく。
「買い物はそれだけか」
長身の隣を歩きながら問うと「うん。必要なものは買えたよ。付き合ってくれてありがとう」光忠は手に抱えた紙袋に視線を落とす。購入したものは主に厨で使う物ばかりだが、その中に避妊具 の小箱がさりげなく混じっているのを大倶利伽羅は知っている。それが使われるのは一体いつになるのか、待ち遠しいような気持ちになって図らずも胸の裡がざわめいた。
「別に、今日は非番で暇だったからな」
光忠が外へ出るのを聞きつけて荷物持ちを申し出た。しかしそれは単なる口実である。近頃擦れ違いの生活が続いているせいで二人きりでゆっくり話すこともままならなかった。光忠はいつも通り今朝から厨仕事で忙しくしており、こうでもしなければ恋仲として一緒に過ごすことも難しかった。
「伽羅ちゃん、少し遠回りしても良いかい?」
「遠回り? 俺は構わないが。あんた時間は大丈夫なのか」
「五分くらいなら平気だよ」
じゃあこっちと光忠は大倶利伽羅の手を掴むと元来た道を逸れて進む。人通りが少ない道に出ると光忠は歩調を緩め、掴んだ手を指を絡めて繋ぎ直した。これは束の間の逢引きなのだと大倶利伽羅も察して黒手袋を握り返す。
「どこへ行く」
訊ねるが光忠は曖昧に頷くだけで答えない。と、吹き付ける強風に煽られて砂埃が舞い、髪を乱していく。
「洗濯物大丈夫かな。飛ばされてないと良いんだけど」
「本丸にいる連中がどうにかするだろ」
大倶利伽羅はにべもない。それは暗に今は余計なことを考えるなという独占欲にも似た感情の発露でもあった。彼の意図を正しく読み取った光忠はそれもそうだねと小さく微苦笑を洩らした。
風を背に受けながら道を歩く。ゴォと耳許で唸る風は土と水の匂いを孕み、やがて来る春の気配を感じさせた。
「春一番かな」
「何?」
光忠の呟きが風の音に紛れて聞き取れず大倶利伽羅は聞き返す。
「この風のことだよ。丁度今頃に初めて吹く強い南風を春一番って言うんだって。歌仙くんが言ってた」
「そうなのか。――春一番と言えばあんたのことかと思った」
「僕?」
光忠は左眼を瞬かせて恋刀を見遣る。
「二番は貞宗、三番は俺だ。尤も正確には番ではなく号だが」
大倶利伽羅が言っているのは『劒槍秘録 』の話である。伊達家に集められた膨大な蔵刀を管理しやすくするために明治時代になって刀剣鑑定家の本阿弥光遜 によって考案された整理法で、刀剣を保管する際に用いる外装の白鞘に鞘書――その刀剣の情報等を書き入れるのだ。より管理しやすくなるよう、鞘書に用いられたのが春夏秋冬と番号で、中でも春に振り分けられた刀剣は特に価値が高いとされている。しかしどういう訳か、春一号は欠番扱いになっており、記録がないらしい。
「もし春一号があるとしたら、それは光忠だ」
豊臣秀吉から伊達政宗、伊達政宗から徳川頼房へと主を変えた燭台切光忠。彼を欲しがり強引に奪い去ったとも、献上するように第三者が介入して取り成したとも伝え聞く。そうやって彼は仙台藩から水戸藩へ移された。大倶利伽羅にとって――貞宗や鶴丸もだが――今生の別れとなった。
光忠は含羞むように笑うと視線を左手に放つ。彼に倣うように大倶利伽羅もそちらに目を向けると色彩が乏しい景色の中に一際鮮やかな紅色が飛び込んできた。
「あれは紅梅か」
「そう。もう少し近くに寄って見よう」
光忠は大倶利伽羅の手を引いて畦道に降りる。辺り一帯に広がる田畑の表面は乾いて罅割れ、見る影もない。枯れ草が蕭条 と風に揺れる様は酷く侘しげだった。年中作物を絶やさない本丸の畑とは大違いだ。
梅の木の下まで来ると光忠は瞳を眇めてぽつぽつと開いた紅い花を眺め遣る。まだ咲き始めたばかりなのか満開には程遠く、膨らんだ蕾の方が多い。梅の木は他に二、三本あったが、どれも花をつけておらず、か細い梢を空へ伸ばしているだけであった。
「随分前にここを見付けてから、いつ花が咲くのかなって楽しみにしてたんだよね。もう少し暖かくなれば満開になるかな」
「……梅の花は懐かしいか」
「え? ああ、そう言えばそうだね。でも水戸藩に大規模な梅の植樹がされたのは僕が移ってからかなり後の話だよ」
光忠の言によれば江戸から梅の実を取り寄せたのは九代目の水戸藩藩主徳川斉昭だと言う。心身を癒すために構想された梅園は領民にも解放され、永きに亘って人々に愛されてきた。
「桜も美しいけれど、梅の花も可憐で綺麗だよね」
「そうだな」
大倶利伽羅も風に慄 えている紅梅を見詰める。白い貌 と漆黒の髪に良く映える紅梅は光忠に似合いの花だと思う。彼は梅の花を可憐だというが、大倶利伽羅は寒中にあって咲き誇る姿に一種研ぎ澄まされたような、凛とした美しさを見出していた。
こんな言い方は不謹慎だけど――ふと光忠は口を開いて独白する。
「こうしてまた皆と会えて嬉しいんだ。僕は最期、震災時の火事で焼け身になってしまったしね」
今でもその時のことを時折夢に見ては魘 されているのを、大倶利伽羅は知っている。叶うことなら当時に戻って彼を燃え盛る焔の中から救い出してやりたいと願ってしまう。
「時間遡行軍が現れなければ僕は受肉して顕現することもなければ、大好きな伽羅ちゃんと再会して恋仲になることもなかった。いつか必ず遡行軍との戦いも終わる時がくると思うけど、ずっと今の暮らしが続いて欲しいなって願ってしまう」
全ての戦が終われば自分達はただの刀に戻るのだろう。あるべき場所へと大切に仕舞い込まれて沈黙する――永い永い眠りの時。
「案ずるな。ただの刀に戻った暁には俺があんたに逢いに行く。黒龍に乗ってな」
不動明王の化身なんだから願いの一つや二つ叶えてくれるだろうと至極真面目な口調で大倶利伽羅が告げると光忠は声を出して笑った。途端に大倶利伽羅は口角を下げる。
「おい、光忠」
「ごめん、笑ったりして。凄く嬉しい」
光忠は片腕で大倶利伽羅を抱き寄せ、強く背を抱く。――やっぱり君には敵わない。改めて彼のことが好きだと思う。強くて優しい、僕の一匹龍王。
大倶利伽羅が広い背を抱き返すと甘えるように鼻先を擦り寄せてくる。あ、と無音のままに口を開くと無垢な色の唇が自身のそれに重なった。柔らかな熱を享受しながらこうして口付けを交わすことも随分久し振りな気がした。誰が見てるか知れないこんなところで――そう思ったのは一瞬で、大倶利伽羅は離れていく唇を追いかけて呼吸 ごと奪うように光忠に口付けた。
唇がほどけると「もうちょっと伽羅ちゃんと二人きりでいたいけど。そろそろ帰ろう」光忠はそう言って風に揺れる紅梅を振り仰ぐ。大倶利伽羅も紅い花を瞳に映して告げた。
「満開になったらまたここへ来たい」
「そうだね。また二人きりで花を見に来よう」
莞爾 する光忠を見て大倶利伽羅は春を告げる花が美しく綻ぶ様を想像した。
――紅梅が満開になるまで、あと。
(了)
ありがとうございました――万屋の主人に送り出されて光忠と大倶利伽羅は往来へと出た。頭上から照る白い陽射しの眩しさに大倶利伽羅は思わず顔を顰めた。蒼穹は
「買い物はそれだけか」
長身の隣を歩きながら問うと「うん。必要なものは買えたよ。付き合ってくれてありがとう」光忠は手に抱えた紙袋に視線を落とす。購入したものは主に厨で使う物ばかりだが、その中に
「別に、今日は非番で暇だったからな」
光忠が外へ出るのを聞きつけて荷物持ちを申し出た。しかしそれは単なる口実である。近頃擦れ違いの生活が続いているせいで二人きりでゆっくり話すこともままならなかった。光忠はいつも通り今朝から厨仕事で忙しくしており、こうでもしなければ恋仲として一緒に過ごすことも難しかった。
「伽羅ちゃん、少し遠回りしても良いかい?」
「遠回り? 俺は構わないが。あんた時間は大丈夫なのか」
「五分くらいなら平気だよ」
じゃあこっちと光忠は大倶利伽羅の手を掴むと元来た道を逸れて進む。人通りが少ない道に出ると光忠は歩調を緩め、掴んだ手を指を絡めて繋ぎ直した。これは束の間の逢引きなのだと大倶利伽羅も察して黒手袋を握り返す。
「どこへ行く」
訊ねるが光忠は曖昧に頷くだけで答えない。と、吹き付ける強風に煽られて砂埃が舞い、髪を乱していく。
「洗濯物大丈夫かな。飛ばされてないと良いんだけど」
「本丸にいる連中がどうにかするだろ」
大倶利伽羅はにべもない。それは暗に今は余計なことを考えるなという独占欲にも似た感情の発露でもあった。彼の意図を正しく読み取った光忠はそれもそうだねと小さく微苦笑を洩らした。
風を背に受けながら道を歩く。ゴォと耳許で唸る風は土と水の匂いを孕み、やがて来る春の気配を感じさせた。
「春一番かな」
「何?」
光忠の呟きが風の音に紛れて聞き取れず大倶利伽羅は聞き返す。
「この風のことだよ。丁度今頃に初めて吹く強い南風を春一番って言うんだって。歌仙くんが言ってた」
「そうなのか。――春一番と言えばあんたのことかと思った」
「僕?」
光忠は左眼を瞬かせて恋刀を見遣る。
「二番は貞宗、三番は俺だ。尤も正確には番ではなく号だが」
大倶利伽羅が言っているのは『
「もし春一号があるとしたら、それは光忠だ」
豊臣秀吉から伊達政宗、伊達政宗から徳川頼房へと主を変えた燭台切光忠。彼を欲しがり強引に奪い去ったとも、献上するように第三者が介入して取り成したとも伝え聞く。そうやって彼は仙台藩から水戸藩へ移された。大倶利伽羅にとって――貞宗や鶴丸もだが――今生の別れとなった。
光忠は含羞むように笑うと視線を左手に放つ。彼に倣うように大倶利伽羅もそちらに目を向けると色彩が乏しい景色の中に一際鮮やかな紅色が飛び込んできた。
「あれは紅梅か」
「そう。もう少し近くに寄って見よう」
光忠は大倶利伽羅の手を引いて畦道に降りる。辺り一帯に広がる田畑の表面は乾いて罅割れ、見る影もない。枯れ草が
梅の木の下まで来ると光忠は瞳を眇めてぽつぽつと開いた紅い花を眺め遣る。まだ咲き始めたばかりなのか満開には程遠く、膨らんだ蕾の方が多い。梅の木は他に二、三本あったが、どれも花をつけておらず、か細い梢を空へ伸ばしているだけであった。
「随分前にここを見付けてから、いつ花が咲くのかなって楽しみにしてたんだよね。もう少し暖かくなれば満開になるかな」
「……梅の花は懐かしいか」
「え? ああ、そう言えばそうだね。でも水戸藩に大規模な梅の植樹がされたのは僕が移ってからかなり後の話だよ」
光忠の言によれば江戸から梅の実を取り寄せたのは九代目の水戸藩藩主徳川斉昭だと言う。心身を癒すために構想された梅園は領民にも解放され、永きに亘って人々に愛されてきた。
「桜も美しいけれど、梅の花も可憐で綺麗だよね」
「そうだな」
大倶利伽羅も風に
こんな言い方は不謹慎だけど――ふと光忠は口を開いて独白する。
「こうしてまた皆と会えて嬉しいんだ。僕は最期、震災時の火事で焼け身になってしまったしね」
今でもその時のことを時折夢に見ては
「時間遡行軍が現れなければ僕は受肉して顕現することもなければ、大好きな伽羅ちゃんと再会して恋仲になることもなかった。いつか必ず遡行軍との戦いも終わる時がくると思うけど、ずっと今の暮らしが続いて欲しいなって願ってしまう」
全ての戦が終われば自分達はただの刀に戻るのだろう。あるべき場所へと大切に仕舞い込まれて沈黙する――永い永い眠りの時。
「案ずるな。ただの刀に戻った暁には俺があんたに逢いに行く。黒龍に乗ってな」
不動明王の化身なんだから願いの一つや二つ叶えてくれるだろうと至極真面目な口調で大倶利伽羅が告げると光忠は声を出して笑った。途端に大倶利伽羅は口角を下げる。
「おい、光忠」
「ごめん、笑ったりして。凄く嬉しい」
光忠は片腕で大倶利伽羅を抱き寄せ、強く背を抱く。――やっぱり君には敵わない。改めて彼のことが好きだと思う。強くて優しい、僕の一匹龍王。
大倶利伽羅が広い背を抱き返すと甘えるように鼻先を擦り寄せてくる。あ、と無音のままに口を開くと無垢な色の唇が自身のそれに重なった。柔らかな熱を享受しながらこうして口付けを交わすことも随分久し振りな気がした。誰が見てるか知れないこんなところで――そう思ったのは一瞬で、大倶利伽羅は離れていく唇を追いかけて
唇がほどけると「もうちょっと伽羅ちゃんと二人きりでいたいけど。そろそろ帰ろう」光忠はそう言って風に揺れる紅梅を振り仰ぐ。大倶利伽羅も紅い花を瞳に映して告げた。
「満開になったらまたここへ来たい」
「そうだね。また二人きりで花を見に来よう」
――紅梅が満開になるまで、あと。
(了)