みつくりSS
青と赤のsecond kiss
あ、お祭りやってる――隣を歩く光忠の声につられるように広光が視軸を正面に放つと往来に屋台が並んでいた。薄暮の空の下で納涼や神社の名前が書かれた提灯が明るく連なっている。どうやら屋台はこの近くにある神社まで続いているらしい。まだ祭りは始まったばかりなのか、人群れは疎らだ。たこ焼きや焼きそばの屋台の主人達は額に汗しながら忙しく鉄板の上で手を動かし、りんご飴やかき氷を売る屋台では客の呼び込みに必死だ。
「せっかくだから、ちょっと寄って行くかい?」
「そうだな。俺も少し腹が減った」
素直に広光が応じると光忠は「じゃあ決まり」と嬉しそうに笑った。
彼等は塾の夏期講習の帰りである。まだ高校二年生であるが、受験勉強は用意が肝心とばかりに夏休みに入ったのと同時に通うことになったのだ。尤も二人ともそれほど学業の評価は悪い方ではないし、広光に至っては幼馴染の光忠が通うから行くだけのことで、目的意識は薄い。広光の真意を知らない彼の両親は勉強熱心だと手放しに喜んで快く夏期講習に通うことを許可した。光忠も同様に「広くんと一緒に通えるのは嬉しい」と喜んだのを、広光はずっと忘れないだろうと思った。
微風 に乗ってソースが焼ける香ばしい匂いが漂ってくる。それに混じるようにして夏の夕間暮れの青草が灼熱に蒸され、地面が焦げるような匂いが微かにした。日が沈んでも日中の暑気は冷めず、肌に纏わりつくように空気が重い。今夜も熱帯夜になりそうだった。
二人は人の流れに従ってゆったり歩きながら道の片側に並んだ屋台を眺めて品定めをする。
「広くん、何食べる?」
「たこ焼きは食べたい」
「僕はかき氷が食べたいな。あ、カレーもあるよ」
白い指が示す方を見ると『インドカレー』の文字。そう言えば駅の近くにインドカレー店があったのを思い出す。この近辺は塾に行く時にしか立ち寄らないので――しかも駅と塾の往復十分というごく限られた移動範囲である――土地勘が殆どない。
「夏祭りの屋台にカレーは何だか変な感じだな」
「確かにあんまり見ないよね。地元のお店だから出してるのかも。――綿あめだ」
ふと光忠が足を止める。それから興味深そうに屋台の中で大きな機械を前に白い繭玉を生成している店主の動きを目で追う。熟練した手捌きに少しずつ握った割り箸に白く細い糸が絡んで巻き付いていく。
光忠は見かけに反して甘いものが好きな質 である。好きが高じて自ら手作りすることも多々あって、その場合は大抵、広光のところに持ってくる。家も近所なのだ。幼稚園に通う頃からの付き合い故、両家族とも交流があり、殊に母親同士は年齢が近いせいもあって姉妹のように仲が良い。
「食べたいのか」
待っててやるから買ってこいと促すと光忠はゆるく頭 を振ってへらりと眉尻を下げる。
「子供の頃は綿あめが凄く不思議な食べ物に思えて好きだったけどね。流石に今は良いかな」
それに。綿あめの袋に描かれている子供向けのアニメの絵柄――あれを持つのは少々恥ずかしい。十七歳、思春期真っ只中の男子高校生には不釣り合いだ。
「そうか。――光忠、たこ焼き」
「はいはい。買うの、ここで良い?」
綿あめの隣にあるたこ焼きの屋台を指すと広光は頷いた。屋台に歩み寄って声をかけると白いタオルをハチマキ代わりに巻いた店主が威勢よく「いらっしゃい」と言った。電球の光が眩しく瞳の底を射、鉄板から立ちのぼる熱気が彼等の頬を搏 った。
「たこ焼き一つください」
「光忠は食わないのか」
「僕は焼きそばを買うよ」
六百円になります――広光はテキストや筆記具が入った鞄から財布を取り出すと硬貨を六枚手渡した。店主は手際良くパックにたこ焼きを詰めていく。たくさん食いなと店主は白い歯を見せて笑って二個たこ焼きをおまけに追加してくれた。もしかしたら財布を取り出す時に広光の鞄の中を見て食べ盛りの高校生と察したのかもしれない。広光は「ありがとうございます」と礼儀正しく軽く頭を下げると中年の店主は破顔して「熱いから気を付けてな」言い添えてありがとうございましたと商品を手渡した。
「おまけして貰えて良かったね」
「ああ。あんたにも少しやる」
「ありがとう。じゃあ僕の焼きそばも少し分けてあげるよ。でも少し残念だな」
「残念? なにが」
「せっかく広くんとお祭りに来てるのに服がこれじゃあね。ちゃんと浴衣着て一緒に来たかったなって」
光忠は自身の黒いTシャツの裾を掴んで口角を下げる。元々夏祭りに行く予定がなかったので、お互いにTシャツにジーンズというラフな格好である。
女じゃあるまいし――とは流石に広光は言えなかった。寧ろ彼の浴衣姿を想像して突如心臓が乱れた。幼馴染の浴衣姿は幼少の頃、見たきりだ。自分も長いこと袖を通していない。色の白い彼のことだ、黒地の浴衣がとても似合うだろう。
「――来月に花火大会があっただろう。その時に着れば良い」
広光の呟きにぱっと光忠の顔色が明るくなった。
「もしかして一緒に行ってくれるの?」
「あんたに先約がないなら。俺もその日は特に予定はないからな」
努めて平静に言いながら俄に緊張が高まって心拍数があがる。どうか先約がありませんように女子と一緒に行くと断られませんように――文字通り心中で祈りながら、判決を言い渡される罪人にような気持ちになる。
「勿論、先約はないよ。うん、一緒に浴衣を着て花火大会に行こう」
「いや、俺は普通で良い」
俺のを見ても仕方がないだろうと特に感情をのせずに言うと、
「えー、なんで。広くんも着ようよ。広くん格好良いから絶対似合うよ。僕も広くんの浴衣姿見たいし」
ね! と念を押されるようにずいと顔を近付けられて広光の心臓が跳ね上がった。――光忠の顔が良すぎる。美の暴力とはこのことか。駄目だ死ぬ。
「……わ、判った。というか顔近い、」
真面 に相手の顔を見られなくて乱暴に手で光忠の顔を押しやるとぐえっと情けない声がした。
そんなやり取りをしながら歩いて焼きそばの屋台を見付けると一人前買い求めた。先に食べてから後でかき氷を買うか束の間悩んだが、混雑してから並んで買うのは面倒に感じたので今買うことにして、適当なかき氷の屋台を探して二つ購入した。光忠はブルーハワイ、広光はいちご味を。
両手に食べ物を抱えて座れそうな場所を求めて移動する。神社の方に進むにつれ、人が多くなる。大きな朱 い鳥居を潜ると参道の両脇に所狭しと様々な屋台が並んでいた。フランクフルト、射的、お面、チョコバナナ、落書き煎餅、ベビーカステラ、唐揚げ、イカ焼き、焼きとうもろこし、じゃがバター、あんず飴、お好み焼き、籤 売り。似たような屋台が続く。
彼等は雑踏を縫うように参道を歩いて境内へと続く長い階段をのぼる。階段をのぼり切ると正面に立派な社殿が灯明を燃やして鎮座していた。参道の混雑に反して境内は殆ど人気 がなく、ひっそりとしていた。光忠は御影石のベンチを見付けるとそこへ座ろうと広光を促す。
二人してベンチに腰掛けるとどちらともなく大きな溜息が洩れた。大した距離を移動していないのにじっとりと肌が汗ばんでいた。ひんやりとした御影石が気持ち良く、躰に籠った熱を奪っていく。
「冷めないうちに食べよう」と光忠は添えられた割り箸を手にするといただきます、と手を合わせてパックを開ける。広光も彼に倣うようして食前の挨拶をするとパックの蓋を開け、食欲を刺激する匂いを立てるたこ焼きを竹串に刺して少し冷ましてからそら、と光忠へ差し出した。と、幼馴染はやや戸惑ったように隻眼を瞬かせる。
「早く口を開けろ。落ちる」
尚も口許にたこ焼きを寄せるとおずおずといった風情で唇が開かれた。ひょいと口の中に放り込むと光忠ははふはふと熱そうに咀嚼した。美味いかと訊ねると幼馴染は薄く笑いながら頷いた。――美味しいものを食べている時の光忠は可愛い。そんなことを思って顔がにやけそうになる。見た目はクールで格好良いが、たまに見せる稚気ある表情がとても可愛いのだ。所謂ギャップ萌えというやつである。同時に懐かしい気持ちにもなった。光忠は昔から変わらない。誰に対しても優しくて朗らかで明るい。そして意外と頑固で硬派だ。そんなところも広光は好ましく思っていた。
広光も腹の虫を宥めにかかる。程良く冷めたたこ焼きは外側はカリッと、中はとろりとして美味しい。蛸も思ったより大きく、六個入りで六百円はなかなか良心的だ。しかもおまけが二個あるので屋台としてはかなりの大サービスだろう。
「広くんもはい、あーん」
箸の先に焼きそばを取って広光へ差し出してくる。――光忠からの「あーん」だと……!? これは夢か、夢なのか!?
「あ、あーん……?」
意識がおかしな方向へ走り出しそうになるのをどうにか堪えながら口を開けると焼きそばが押し込まれた。濃厚なソースの味が唾液を誘発させる。
「どう? 美味しい?」
「……ああ」
「もっと食べるかい?」
「光忠の分がなくなるだろう」
「気にしなくて良いよ。かき氷もあるし、家に戻ったら夕飯食べるから。それに僕は君が美味しそうに食べてる姿を見るのが好きなんだよね。凄く幸せそうでさ」
何でもないように告げる光忠の言葉に胸の奥がきゅっと慄 えるような心地がした。
――いつまで。
広光は唐突に思う。
いつまで光忠とこうしていられるのだろう。
幼稚園の頃から当たり前のようにいつも一緒にいた。高校も、広光は剣道の強豪校に推薦があったものの、光忠と一緒にいたいがためにそれを蹴って進学先を彼と同じ高校を選んだのだ。光忠は驚きながらも「また三年間宜しくね」嬉しそうに笑った。その笑顔も昨日のことのように憶えている。
今まではそれで良かった。
だが、これからは?
進路はどうするのだろう。光忠はどこの大学に行くのだろう。卒業後は就職するだろうから、そうなったら本当にもう彼と離ればなれになってしまう。いつまでも彼の後を追い回しているわけにはいかない――今になって悟って愕然とした。それに。来年の今頃は受験生である。現在のように遊んでもいられないのだ。光忠がどんどん遠くなる。こんなにも好きなのに。
「広くん? どうしたの?」
不意に黙り込んだ広光を不審に思って光忠は俯けている顔を覗き込む。
「あ、いや。……その、光忠は進路どうするんだ?」
取り繕うように淡い笑みを作る。上手く笑えている自信はないけれど。辺りが暗くなってきているのがせめてもの救いだ。
「まだ誰にも話してないんだけど、製菓学校に行こうかなって思ってて」
「え」
思わぬ言葉に広光は弾かれたように光忠を見た。と、一瞬目が合う。光忠は鮮やかなブルーに染まったかき氷をストロースプーンで崩しながら口へ運ぶ。広光もつられるようにしていちごシロップがたっぷりとかかった氷菓を食べた。人工的な甘さが冷たく胃の中へ落ちていく。
「驚いた? ほら、僕甘いものが好きだろう? 料理するのも嫌いじゃないし。だからパテシエになりたいなって少し前から思ってて。製菓学校は専門学校だけど、調べてみたら大卒の資格も得られる学校もあるみたいだし。まあ親は大学に行けって言いそうだから、パテシエはただの夢に終わりそうだけどね。広くんは?」
「俺は……まだ具体的には何も。どこかしらの大学には行くが」
「そっか。でも広くん、剣道強いから大学もそういうところに行くんじゃないかなって思ってたんけど。広くんが剣道してる姿見るの好きだから、これからも続けてて欲しいな」
勝手なこと言ってごめんと眉尻を下げる光忠に広光は視線を外したままぽつりと呟く。
「――もし、光忠が大学に行くことになったら、俺と同じ大学にするか……?」
返事がない。二人の間に重たい沈黙が降りる。
「悪い、変なことを言った。今のは忘れてくれ」
気拙くなって早口で前言撤回すると僕の舌どうなってる? ――光忠はれ、と舌を出して見せてくる。何の脈絡もない言葉に先程のことはなかったことになっているのだと突き付けられて、悲しみとも安堵ともつかない複雑な感情を抱きながら「青くなってる」広光が答えると「広くんの見せて」と距離を詰めてきた。わけが判らないまま舌を見せると「赤くなってる」そう言うが早いか、舌先を吸われた。驚愕に大きく瞳を見開くと躰を抱き寄せられ、唇が柔らかい熱を受け止めた。一体何がどうなっているのか意味が判らない。――光忠が俺にキスしてる。俺とキスしている。光忠と、キスを。そう思ったらボンッと一気に顔が熱くなった。頭から湯気が出そうだ。息が苦しくなって唸りながら力任せに光忠の肩を押し返すと唇が離れた。
「な、な、なんで……っ」
「あはははっ、広くん、顔真っ赤!」
「な……っ! 光忠……!」
おかしそうに笑う光忠に更に熱がのぼってきて恥ずかしいやら悔しいやら、意味が判らないやらで混乱しながら幼馴染の頭を拳で殴った。
「あ、ちょっ、殴らないでっ、痛っ!」
「今のは光忠が悪いっ」
「わー、ごめんて! 本当に広光待って! 力強っ!」
「うるさいっ」
「広くん、僕の話聞いてってば」
はあと大きく溜息を吐くとようやく気が済んだのか広光は拳を収めた。と、光忠が広光に向き直り、順序が逆になっちゃったけど――そっと褐色の手を取る。
「広くんが僕のことを恋愛的な意味で好きなのは気が付いてたよ」
「い、いつから、」
光忠の暴露に広光は酢を飲んだような表情 をする。
「はっきりそうと気が付いたのは中三の頃だよ。ほら、広くん推薦蹴ったことがあっただろう? 僕と同じ高校に行くって言い出した時。まあそれまでも何となくそうかなとは思ってたけれどね」
「そ……っ、そんなに俺は判りやすいのか……」
「他の子はどうか知らないけれど、僕にはすぐ判るよ。好きな子のことなんだし、何より昔から一緒にいるんだからね」
光忠と違って表情の変化に乏しい広光は何を考えているのか判らない人だと評されることが常だ。口数もあまり多くないため、一部では怖がられているが、逆にその厳寒級のクールさが良いのだと異性から好意を寄せられていることも多い。尤も、本人は光忠以外は興味ないとかなり冷淡な態度なのだが。
「さっきも僕が製菓学校に行きたいって言ったら凄く寂しそうな顔をしたから。本当は告白するのは卒業するまで待っていようと思ってたけれど、君があんまり寂しそうな顔するから、堪らなくなっちゃってキスしちゃった」
光忠は広光の右手を大事そうに両の手で包み込むように握る。
「ねえ、広光。僕もずっと前から君のことが好きだよ。君は憶えてないかもしれないけれど、実は小学生の頃、君にキスしたことあるんだ」
「は、」
話は小学四年生――十歳の頃まで遡る。
その日、途中で体調を崩した広光は保健室で休んでいた。同じクラスだった光忠は午後の授業が終わったので彼を呼びに行ったのだ。その時、養護教諭は何か用事があったのか、保健室にはいなかった。広くん入るよ――そう前置きしてからベッドを囲む閉じていたカーテンをそっと開けた。広光は眠っていた。その時の神々しいまでの寝姿をどう表現したら良いだろう。晩秋の暖かな陽射しの中で穏やかな寝顔を晒している広光を見て光忠は吸い寄せられるようにその無垢な唇へ自身のそれを重ねたのだ。
「だってあんたそんな一度も――」
中学生になってから光忠が周囲の女子に良く告白されていたのは広光も知っていた。そしてそれを全て断っているのも。光忠は人当たりが良いのでいつも多くの友人に囲まれ、人の輪の中心にいた。そんな彼を広光はいつも近くで見ていたから知っている。これまで広光には幼馴染や親友以上の感情を見せたことなど一度もなかった。
「そりゃあ、君のことが好きだって周りに知られたら広くんだって困るだろう。変な噂とか誤解が広まったら面倒なことになるし」
「本当に俺のことが好きなのか」
「うん。広光のことが大好きだよ。もっとたくさんキスしたいし、いつかそれ以上のこともしたいと思ってる」
「それ以上って、」
「エッチなこと」
「言うな莫迦ッ」
光忠の言葉に引いていたはずの熱がぶり返してくる。と、幼馴染はごめんと短く謝罪した。
「広光は? 僕のこと好き?」
広光の口から聞かせて――内緒話をするようにこつりと額を合わせて小声でねだる。
「好きだ。いつからなんてもう憶えてないくらい、ずっと前から」
吐露される真情を受けて光忠は隻眼を喜悦に細めると金色の瞳の中に映り込んでいた広光の姿が崩れ、睫毛が伏せられてどちらともなく唇が重なった。唇がほどけると光忠は蕩けるような微笑みを恋人に向けた。
「広くん、これからは彼氏として宜しくね」
(了)
あ、お祭りやってる――隣を歩く光忠の声につられるように広光が視軸を正面に放つと往来に屋台が並んでいた。薄暮の空の下で納涼や神社の名前が書かれた提灯が明るく連なっている。どうやら屋台はこの近くにある神社まで続いているらしい。まだ祭りは始まったばかりなのか、人群れは疎らだ。たこ焼きや焼きそばの屋台の主人達は額に汗しながら忙しく鉄板の上で手を動かし、りんご飴やかき氷を売る屋台では客の呼び込みに必死だ。
「せっかくだから、ちょっと寄って行くかい?」
「そうだな。俺も少し腹が減った」
素直に広光が応じると光忠は「じゃあ決まり」と嬉しそうに笑った。
彼等は塾の夏期講習の帰りである。まだ高校二年生であるが、受験勉強は用意が肝心とばかりに夏休みに入ったのと同時に通うことになったのだ。尤も二人ともそれほど学業の評価は悪い方ではないし、広光に至っては幼馴染の光忠が通うから行くだけのことで、目的意識は薄い。広光の真意を知らない彼の両親は勉強熱心だと手放しに喜んで快く夏期講習に通うことを許可した。光忠も同様に「広くんと一緒に通えるのは嬉しい」と喜んだのを、広光はずっと忘れないだろうと思った。
二人は人の流れに従ってゆったり歩きながら道の片側に並んだ屋台を眺めて品定めをする。
「広くん、何食べる?」
「たこ焼きは食べたい」
「僕はかき氷が食べたいな。あ、カレーもあるよ」
白い指が示す方を見ると『インドカレー』の文字。そう言えば駅の近くにインドカレー店があったのを思い出す。この近辺は塾に行く時にしか立ち寄らないので――しかも駅と塾の往復十分というごく限られた移動範囲である――土地勘が殆どない。
「夏祭りの屋台にカレーは何だか変な感じだな」
「確かにあんまり見ないよね。地元のお店だから出してるのかも。――綿あめだ」
ふと光忠が足を止める。それから興味深そうに屋台の中で大きな機械を前に白い繭玉を生成している店主の動きを目で追う。熟練した手捌きに少しずつ握った割り箸に白く細い糸が絡んで巻き付いていく。
光忠は見かけに反して甘いものが好きな
「食べたいのか」
待っててやるから買ってこいと促すと光忠はゆるく
「子供の頃は綿あめが凄く不思議な食べ物に思えて好きだったけどね。流石に今は良いかな」
それに。綿あめの袋に描かれている子供向けのアニメの絵柄――あれを持つのは少々恥ずかしい。十七歳、思春期真っ只中の男子高校生には不釣り合いだ。
「そうか。――光忠、たこ焼き」
「はいはい。買うの、ここで良い?」
綿あめの隣にあるたこ焼きの屋台を指すと広光は頷いた。屋台に歩み寄って声をかけると白いタオルをハチマキ代わりに巻いた店主が威勢よく「いらっしゃい」と言った。電球の光が眩しく瞳の底を射、鉄板から立ちのぼる熱気が彼等の頬を
「たこ焼き一つください」
「光忠は食わないのか」
「僕は焼きそばを買うよ」
六百円になります――広光はテキストや筆記具が入った鞄から財布を取り出すと硬貨を六枚手渡した。店主は手際良くパックにたこ焼きを詰めていく。たくさん食いなと店主は白い歯を見せて笑って二個たこ焼きをおまけに追加してくれた。もしかしたら財布を取り出す時に広光の鞄の中を見て食べ盛りの高校生と察したのかもしれない。広光は「ありがとうございます」と礼儀正しく軽く頭を下げると中年の店主は破顔して「熱いから気を付けてな」言い添えてありがとうございましたと商品を手渡した。
「おまけして貰えて良かったね」
「ああ。あんたにも少しやる」
「ありがとう。じゃあ僕の焼きそばも少し分けてあげるよ。でも少し残念だな」
「残念? なにが」
「せっかく広くんとお祭りに来てるのに服がこれじゃあね。ちゃんと浴衣着て一緒に来たかったなって」
光忠は自身の黒いTシャツの裾を掴んで口角を下げる。元々夏祭りに行く予定がなかったので、お互いにTシャツにジーンズというラフな格好である。
女じゃあるまいし――とは流石に広光は言えなかった。寧ろ彼の浴衣姿を想像して突如心臓が乱れた。幼馴染の浴衣姿は幼少の頃、見たきりだ。自分も長いこと袖を通していない。色の白い彼のことだ、黒地の浴衣がとても似合うだろう。
「――来月に花火大会があっただろう。その時に着れば良い」
広光の呟きにぱっと光忠の顔色が明るくなった。
「もしかして一緒に行ってくれるの?」
「あんたに先約がないなら。俺もその日は特に予定はないからな」
努めて平静に言いながら俄に緊張が高まって心拍数があがる。どうか先約がありませんように女子と一緒に行くと断られませんように――文字通り心中で祈りながら、判決を言い渡される罪人にような気持ちになる。
「勿論、先約はないよ。うん、一緒に浴衣を着て花火大会に行こう」
「いや、俺は普通で良い」
俺のを見ても仕方がないだろうと特に感情をのせずに言うと、
「えー、なんで。広くんも着ようよ。広くん格好良いから絶対似合うよ。僕も広くんの浴衣姿見たいし」
ね! と念を押されるようにずいと顔を近付けられて広光の心臓が跳ね上がった。――光忠の顔が良すぎる。美の暴力とはこのことか。駄目だ死ぬ。
「……わ、判った。というか顔近い、」
そんなやり取りをしながら歩いて焼きそばの屋台を見付けると一人前買い求めた。先に食べてから後でかき氷を買うか束の間悩んだが、混雑してから並んで買うのは面倒に感じたので今買うことにして、適当なかき氷の屋台を探して二つ購入した。光忠はブルーハワイ、広光はいちご味を。
両手に食べ物を抱えて座れそうな場所を求めて移動する。神社の方に進むにつれ、人が多くなる。大きな
彼等は雑踏を縫うように参道を歩いて境内へと続く長い階段をのぼる。階段をのぼり切ると正面に立派な社殿が灯明を燃やして鎮座していた。参道の混雑に反して境内は殆ど
二人してベンチに腰掛けるとどちらともなく大きな溜息が洩れた。大した距離を移動していないのにじっとりと肌が汗ばんでいた。ひんやりとした御影石が気持ち良く、躰に籠った熱を奪っていく。
「冷めないうちに食べよう」と光忠は添えられた割り箸を手にするといただきます、と手を合わせてパックを開ける。広光も彼に倣うようして食前の挨拶をするとパックの蓋を開け、食欲を刺激する匂いを立てるたこ焼きを竹串に刺して少し冷ましてからそら、と光忠へ差し出した。と、幼馴染はやや戸惑ったように隻眼を瞬かせる。
「早く口を開けろ。落ちる」
尚も口許にたこ焼きを寄せるとおずおずといった風情で唇が開かれた。ひょいと口の中に放り込むと光忠ははふはふと熱そうに咀嚼した。美味いかと訊ねると幼馴染は薄く笑いながら頷いた。――美味しいものを食べている時の光忠は可愛い。そんなことを思って顔がにやけそうになる。見た目はクールで格好良いが、たまに見せる稚気ある表情がとても可愛いのだ。所謂ギャップ萌えというやつである。同時に懐かしい気持ちにもなった。光忠は昔から変わらない。誰に対しても優しくて朗らかで明るい。そして意外と頑固で硬派だ。そんなところも広光は好ましく思っていた。
広光も腹の虫を宥めにかかる。程良く冷めたたこ焼きは外側はカリッと、中はとろりとして美味しい。蛸も思ったより大きく、六個入りで六百円はなかなか良心的だ。しかもおまけが二個あるので屋台としてはかなりの大サービスだろう。
「広くんもはい、あーん」
箸の先に焼きそばを取って広光へ差し出してくる。――光忠からの「あーん」だと……!? これは夢か、夢なのか!?
「あ、あーん……?」
意識がおかしな方向へ走り出しそうになるのをどうにか堪えながら口を開けると焼きそばが押し込まれた。濃厚なソースの味が唾液を誘発させる。
「どう? 美味しい?」
「……ああ」
「もっと食べるかい?」
「光忠の分がなくなるだろう」
「気にしなくて良いよ。かき氷もあるし、家に戻ったら夕飯食べるから。それに僕は君が美味しそうに食べてる姿を見るのが好きなんだよね。凄く幸せそうでさ」
何でもないように告げる光忠の言葉に胸の奥がきゅっと
――いつまで。
広光は唐突に思う。
いつまで光忠とこうしていられるのだろう。
幼稚園の頃から当たり前のようにいつも一緒にいた。高校も、広光は剣道の強豪校に推薦があったものの、光忠と一緒にいたいがためにそれを蹴って進学先を彼と同じ高校を選んだのだ。光忠は驚きながらも「また三年間宜しくね」嬉しそうに笑った。その笑顔も昨日のことのように憶えている。
今まではそれで良かった。
だが、これからは?
進路はどうするのだろう。光忠はどこの大学に行くのだろう。卒業後は就職するだろうから、そうなったら本当にもう彼と離ればなれになってしまう。いつまでも彼の後を追い回しているわけにはいかない――今になって悟って愕然とした。それに。来年の今頃は受験生である。現在のように遊んでもいられないのだ。光忠がどんどん遠くなる。こんなにも好きなのに。
「広くん? どうしたの?」
不意に黙り込んだ広光を不審に思って光忠は俯けている顔を覗き込む。
「あ、いや。……その、光忠は進路どうするんだ?」
取り繕うように淡い笑みを作る。上手く笑えている自信はないけれど。辺りが暗くなってきているのがせめてもの救いだ。
「まだ誰にも話してないんだけど、製菓学校に行こうかなって思ってて」
「え」
思わぬ言葉に広光は弾かれたように光忠を見た。と、一瞬目が合う。光忠は鮮やかなブルーに染まったかき氷をストロースプーンで崩しながら口へ運ぶ。広光もつられるようにしていちごシロップがたっぷりとかかった氷菓を食べた。人工的な甘さが冷たく胃の中へ落ちていく。
「驚いた? ほら、僕甘いものが好きだろう? 料理するのも嫌いじゃないし。だからパテシエになりたいなって少し前から思ってて。製菓学校は専門学校だけど、調べてみたら大卒の資格も得られる学校もあるみたいだし。まあ親は大学に行けって言いそうだから、パテシエはただの夢に終わりそうだけどね。広くんは?」
「俺は……まだ具体的には何も。どこかしらの大学には行くが」
「そっか。でも広くん、剣道強いから大学もそういうところに行くんじゃないかなって思ってたんけど。広くんが剣道してる姿見るの好きだから、これからも続けてて欲しいな」
勝手なこと言ってごめんと眉尻を下げる光忠に広光は視線を外したままぽつりと呟く。
「――もし、光忠が大学に行くことになったら、俺と同じ大学にするか……?」
返事がない。二人の間に重たい沈黙が降りる。
「悪い、変なことを言った。今のは忘れてくれ」
気拙くなって早口で前言撤回すると僕の舌どうなってる? ――光忠はれ、と舌を出して見せてくる。何の脈絡もない言葉に先程のことはなかったことになっているのだと突き付けられて、悲しみとも安堵ともつかない複雑な感情を抱きながら「青くなってる」広光が答えると「広くんの見せて」と距離を詰めてきた。わけが判らないまま舌を見せると「赤くなってる」そう言うが早いか、舌先を吸われた。驚愕に大きく瞳を見開くと躰を抱き寄せられ、唇が柔らかい熱を受け止めた。一体何がどうなっているのか意味が判らない。――光忠が俺にキスしてる。俺とキスしている。光忠と、キスを。そう思ったらボンッと一気に顔が熱くなった。頭から湯気が出そうだ。息が苦しくなって唸りながら力任せに光忠の肩を押し返すと唇が離れた。
「な、な、なんで……っ」
「あはははっ、広くん、顔真っ赤!」
「な……っ! 光忠……!」
おかしそうに笑う光忠に更に熱がのぼってきて恥ずかしいやら悔しいやら、意味が判らないやらで混乱しながら幼馴染の頭を拳で殴った。
「あ、ちょっ、殴らないでっ、痛っ!」
「今のは光忠が悪いっ」
「わー、ごめんて! 本当に広光待って! 力強っ!」
「うるさいっ」
「広くん、僕の話聞いてってば」
はあと大きく溜息を吐くとようやく気が済んだのか広光は拳を収めた。と、光忠が広光に向き直り、順序が逆になっちゃったけど――そっと褐色の手を取る。
「広くんが僕のことを恋愛的な意味で好きなのは気が付いてたよ」
「い、いつから、」
光忠の暴露に広光は酢を飲んだような
「はっきりそうと気が付いたのは中三の頃だよ。ほら、広くん推薦蹴ったことがあっただろう? 僕と同じ高校に行くって言い出した時。まあそれまでも何となくそうかなとは思ってたけれどね」
「そ……っ、そんなに俺は判りやすいのか……」
「他の子はどうか知らないけれど、僕にはすぐ判るよ。好きな子のことなんだし、何より昔から一緒にいるんだからね」
光忠と違って表情の変化に乏しい広光は何を考えているのか判らない人だと評されることが常だ。口数もあまり多くないため、一部では怖がられているが、逆にその厳寒級のクールさが良いのだと異性から好意を寄せられていることも多い。尤も、本人は光忠以外は興味ないとかなり冷淡な態度なのだが。
「さっきも僕が製菓学校に行きたいって言ったら凄く寂しそうな顔をしたから。本当は告白するのは卒業するまで待っていようと思ってたけれど、君があんまり寂しそうな顔するから、堪らなくなっちゃってキスしちゃった」
光忠は広光の右手を大事そうに両の手で包み込むように握る。
「ねえ、広光。僕もずっと前から君のことが好きだよ。君は憶えてないかもしれないけれど、実は小学生の頃、君にキスしたことあるんだ」
「は、」
話は小学四年生――十歳の頃まで遡る。
その日、途中で体調を崩した広光は保健室で休んでいた。同じクラスだった光忠は午後の授業が終わったので彼を呼びに行ったのだ。その時、養護教諭は何か用事があったのか、保健室にはいなかった。広くん入るよ――そう前置きしてからベッドを囲む閉じていたカーテンをそっと開けた。広光は眠っていた。その時の神々しいまでの寝姿をどう表現したら良いだろう。晩秋の暖かな陽射しの中で穏やかな寝顔を晒している広光を見て光忠は吸い寄せられるようにその無垢な唇へ自身のそれを重ねたのだ。
「だってあんたそんな一度も――」
中学生になってから光忠が周囲の女子に良く告白されていたのは広光も知っていた。そしてそれを全て断っているのも。光忠は人当たりが良いのでいつも多くの友人に囲まれ、人の輪の中心にいた。そんな彼を広光はいつも近くで見ていたから知っている。これまで広光には幼馴染や親友以上の感情を見せたことなど一度もなかった。
「そりゃあ、君のことが好きだって周りに知られたら広くんだって困るだろう。変な噂とか誤解が広まったら面倒なことになるし」
「本当に俺のことが好きなのか」
「うん。広光のことが大好きだよ。もっとたくさんキスしたいし、いつかそれ以上のこともしたいと思ってる」
「それ以上って、」
「エッチなこと」
「言うな莫迦ッ」
光忠の言葉に引いていたはずの熱がぶり返してくる。と、幼馴染はごめんと短く謝罪した。
「広光は? 僕のこと好き?」
広光の口から聞かせて――内緒話をするようにこつりと額を合わせて小声でねだる。
「好きだ。いつからなんてもう憶えてないくらい、ずっと前から」
吐露される真情を受けて光忠は隻眼を喜悦に細めると金色の瞳の中に映り込んでいた広光の姿が崩れ、睫毛が伏せられてどちらともなく唇が重なった。唇がほどけると光忠は蕩けるような微笑みを恋人に向けた。
「広くん、これからは彼氏として宜しくね」
(了)