みつくりSS

大きな向日葵の下で

 頬に何か硬いものが触れてふと意識が浮上する。大倶利伽羅は薄目を開けて頬に触れたものを確かめようとした。 つるりとした手触り。硬い。細長い。なんだこれは――醒めきらない頭で指先でまさぐると憶えがある金属のそれに一気に覚醒した。瞠目する大倶利伽羅が抱き着くように抱え込んでいたのは刀だった。自分のものではない、刀。咄嗟に息を殺して気配を窺い、ちらと横を盗み見る。隣に敷かれた布団の中で光忠がすうすうと健やかな寝息を立てて眠っていた。彼が眠っていることに安堵の息を吐いてほっと躰を緩めると大倶利伽羅は静かに身を起こした。それから改めて隣を見遣る。
「戻ったのか。おかえり、光忠」
 小声で告げる声音に答えるものはない。光忠は深く寝入っているようだった。彼が一体いつ帰城したのか知れなかったが、大倶利伽羅が床に就いた後――恐らく真夜中頃だろう。長期の遠征に駆り出されていた光忠の顔を見るのは実に半月振りであった。
 大倶利伽羅はそっと手を伸ばして白い寝顔に触れる。暖かい。こうして見ると目を閉じているせいか、幾分か幼く見えた。長い前髪を軽く払って隠れていた右眼を晒す。瞼を縫い閉じる引き攣れたような傷痕を指先でなぞると光忠はむずがるように小さく唸って大倶利伽羅に背を向けてしまった。少しだけ名残惜しく思いながら大倶利伽羅は身支度するために布団から抜け出した。
 床の間にある刀掛けに光忠の刀を戻すと内番着に着替え、布団を上げてから洗面所へ向かった。まだ早朝とだけあって本丸内は酷く静かだ。それもあと一時間もすればあっという間に騒々しくなるだろう。本丸内が一番騒がしくなる時間帯は大抵決まっていて、殊に朝餉の前は忙しないせいもあって落ち着かない。ひっそりしているのは主が寝起きしている部屋くらいのものだろう。普段あまり顔を合わすことのない主も今はまだ眠っているに違いない。
 顔を洗い、歯を磨いてから畑へ出た。大倶利伽羅は今日、畑当番なのだ。夏は気温が上がる前に水やりをしなければならないので普段より一時間も早く起きるのが常である。
 水場へ行くと同じく畑当番の長谷部がいた。彼は大倶利伽羅の姿を認めると事務的な口調で朝の挨拶を口にする。大倶利伽羅も「おはよう」と返すと時間通りだなと長谷部は満足そうに呟いた。何事にも几帳面できちんとしていないと気が済まない苦労性のこの刀は口うるさいところはあるものの、不思議と大倶利伽羅は長谷部に居心地の良さを感じていた。長谷部の、無闇やたらにこちらに踏み込んでこない距離感が丁度良いのかもしれない。それに比べ、旧知の仲である連中の距離感や馴れ馴れしさといったら。今更零しても仕方がないことではあるけれど。
「俺はこちら側から水やりをするから、大倶利伽羅は向こうから頼む」
 長谷部は向日葵が咲き群れている一帯を指差す。朝陽も相俟ってそこだけ金色こんじに燃えているようだ。
「それからゴーヤ、茄子、トマト、キュウリ、玉蜀黍とうもろこしを収穫してくれ。俺も手が空き次第野菜の収穫をする」
 昼餉は千代金丸お得意のゴーヤチャンプルーだそうだ――長谷部はそう付け加えると今日も暑くなりそうだと雲ひとつない蒼穹を仰いだ。つられて大倶利伽羅も頭上に目を放つ。淡い色に染まった朝空は手で触れたら冷たそうだ。
 長谷部は足元で蜷局とぐろを巻くホースの端を手にして三つある蛇口のひとつを捻った。と、ホースの口から水が流れ出す。大倶利伽羅も同じようにもう一本のホースを手に取ると真ん中の蛇口を大きく捻って水を出した。ホースを引っ張り、管を通って溢れる水を青いバケツに受けながら長谷部に指示された向日葵畑まで移動する。群生する向日葵の間に入って行き、ホースの口を指先で潰すように持って水を散布する。飛び散る流水に土が黒く濡れ、葉が水を弾き、光の加減で小さな虹ができる。土と水、青臭いような向日葵の香気が大倶利伽羅の鼻先をった。土と水の匂いがどこか懐かしいのは鋼鐵から生まれ、火と水を何度も潜ってきたからなのかもしれない。
「しかし、良く育ったな」
 水やりをしながら己の背丈より高い向日葵を見上げる。黄色の花弁は目が醒めるような鮮やかさだ。色のせいか、一輪咲いているだけでもぱっとその場が明るくなる。向日葵の花は嫌いではない。明るく華やかな雰囲気がまるで光忠みたいで。向日葵みたいなくだんの彼は種がれるのを楽しみにしているらしい。「向日葵の種は食べられるんだよ。殻を剥いて食べるんだ。サラダに入れたり、軽く炒って塩をまぶして食べたり。お菓子のトッピングにも使えるよ」と言っていた。料理好きの彼らしい言葉だ。
 そういえばいつだったか、粟田口の短刀の誰かが向日葵の迷路を作りたいのだと言っていた。しかし実際はそこまでの面積はなく、迷路を作るのだとしたら畑の一部を潰さないといけないだろう。大所帯の本丸の台所事情を考えると向日葵の迷路は残念ながら叶わない夢に終わりそうだ。
「……丁度これくらいか……?」
 大倶利伽羅は首を傾げて目の前にある向日葵を見詰める。少しだけ爪先立ちになり、大輪の黄色い花へ顔を近付ける。伽羅ちゃん――甘く名前を囁く唇が迫ってきて、息が触れ合って、それから腰を抱かれて、目を閉じて、光忠の唇が――、
 伽羅ちゃん――不意に鼓膜を揺らす馴染んだ声音に大倶利伽羅は現実に引き戻された。
「み、光忠……っ」
 はっとして振り返ると内番着姿の光忠が立っていた。握っていたホースの端が足元に落ちて流水が小さな川となって流れていく。おはようと微笑む顔を見て瞬時に大倶利伽羅の耳に熱が集まった。今にもぼん、と湯気が出そうなほどだ。真面まともに相手を見られなくて半ば狼狽えながら視線を外す。
「い、いつからそこに、」
「えっと、わりと最初から」
 光忠も些か困ったようにへらりと眉尻を下げて笑うと身を屈めてホースを拾い上げ、傍らのバケツにその端を突っ込んだ。バケツに水が溜まっていく。
「だってあんた今日非番じゃ、」
「うん、そうなんだけど。目が醒めちゃったから手伝おうと思って。それで畑に来てみたら伽羅ちゃんがいたから。何してるのかなって思ったんだけど。――もしかして、口付けがしたかったのかい?」
「それは……、」
 ますます顔を赤らめて言い淀む大倶利伽羅に光忠は笑みを深める。
「ねえ、昨夜のこと憶えてる?」
「え?」
 出し抜けに問われて大倶利伽羅が弾かれたように俯けていた顔を上げるとこちらを真っ直ぐに見詰める隻眼がきゅうと細められた。
「伽羅ちゃん、僕が帰ってきたらわざわざ布団から起き出しておかえりって言ってくれたんだけど、僕に抱き着いてなかなか離れてくれなくてさ」
 お風呂に入りたいから、ちょっと着替えたいから、主への報告があるから、良い子だから少しだけ待っててと言っても大倶利伽羅は厭だの一点張り。どうせまた俺のことを置いていくつもりなんだろうとまで言い出す始末で、どうにかこうにか宥めすかすのに随分と骨が折れたのだ。
「僕が主への報告を済ませてお風呂から戻ってくると君は僕の刀を抱きかかえて寝ちゃってたんだよね」
 あれ凄く可愛いかったから写真撮っておけば良かったなあ――のんびりと告げる光忠の言葉を聞いて大倶利伽羅は今朝、光忠の刀を抱いていた理由を初めて理解した。理解した途端、猛烈な羞恥心に襲われて逃げ出したい衝動に駆られながら、しかし大倶利伽羅は力なくその場にへたり込んだ。――昨晩の自分をぶった斬りたい。いっそ殺してくれ。今すぐに。
「伽羅ちゃん? 大丈夫?」
「全然大丈夫じゃない重症だ……!」
 恰も怨敵に出会った如くキッと睨み付けると隻眼がぱちぱちと瞬きしてふっと口許が柔らかく綻んだ。伽羅ちゃん――光忠は穏やかに名前を呼びながら顔を隠すように伏せている大倶利伽羅の前にしゃがんで「こっち向いて」そっと倶利伽羅龍が棲む腕を掴む。と、鳶色の頭が左右に揺れる。
「君は不本意というか失態だと思っているだろうけど、でも僕は嬉しかったよ。伽羅ちゃんはこんなにも僕のこと好きでいてくれるんだなあって」
 光忠と違って大倶利伽羅は普段から好意や愛情表現を直截にする方ではないし、その数も少ない。寝ぼけていた末の行動とはいえ、昨晩の離れたくないという大倶利伽羅の言動は彼の本心なのだと知って光忠は心底嬉しく思ったのだ。
「僕も君のことが大好きだよ」
「……あんたは本当に狡い」
 大倶利伽羅は力なく呟く。たった一言、大好きという言葉ひとつでいとも簡単に抱えた羞恥心も後ろめたさも全てどうでも良くなってしまう。そんな自分に呆れながら、やはり光忠のことが好きなのだと改めて思う。
 光忠はショートグローブの手を握ると促すように軽く引く。と、伏せられていた精悍な顔が現れる。まだ熱の冷めない褐色の頬に手を触れて顔を近付けた。ひくりと大倶利伽羅の喉がふるえる。
「光忠、長谷部が、」
「大丈夫、誰も見てないよ」
 向日葵が隠してくれるから――バケツから水がざっと溢れて土の上を流れていく。できたばかりの小川に重なり合う影と朝の夏空が不鮮明に写った。
 滾々こんこんとバケツから零れ落ちる水は向日葵を透かして届く朝陽にきらめいて静かに輝いていた。

(了)
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