みつくりSS
1/f
こうも雨続きだと困っちゃうね――光忠は独り言を零しながら室内から庭先に視線を放つ。
丁度梅雨時期とあり、雨は数日前からしとしとと降り続き、一時的に小止みにはなるものの、空を覆う雨雲は晴れることなく重く垂れ込めていた。陽射しが遮られているために辺りは薄暗い。室内となれば尚更で、昼下がりだというのに電灯が必要だった。
重苦しい空模様も相俟ってこれからやってくる夏季の訪れを予期させるかのようなむっとした暑さが肌に纏わりつき、雨季特有の不快感を生じさせていた。どうにもこの時期は慣れない。からりと晴れていた皐月の抜けるような青空が恋しい。だがそんな思いを抱いているのは本丸で暮らす者達だけらしく、畑や庭で栽培される植物達は文字通り恵みの雨とばかりに葉を色濃く茂らせて色鮮やかな夏の花を咲かせていた。
襖や窓を開け放ち、少しでも風通しを良くして部屋に吊るした洗濯物を乾かそうと光忠は腐心していたが、どうにもその効果は芳しくなく、昨日から衣紋掛けに吊るされた内番着のシャツは湿っぽいままだ。シャツが一向に乾かないので今日は動きやすいジャージではなく、ワイシャツにネクタイ、ベストという出て立ちである。着慣れているから窮屈さは感じないものの、ネクタイを締めているせいなのか少々暑い。ネクタイを外したところで誰に咎められる謂れはなかったが、しかしだらしがないことを嫌う光忠には服装を着崩すという発想はなく、格好はいつでも整えておくべきとの信条を律儀に守って首元の黒ネクタイは折り目正しく結ばれている。
ふっと微風が吹き込む。あまり涼しい風ではなかったが、白い頬を撫でる軟風は土や水の匂い、草花の青臭さと共に幾らかの清涼感を齎した。
ああ良い風だ――二日かけて乾かした洗いたてのタオルを畳む手を止めて光忠が呟くと不意に左肩に重みを感じた。視界の端に見慣れた髪色を捉えて光忠は僅かに頬を緩めた。
「どうしたの伽羅ちゃん、」
先程まで部屋の壁に凭れて本を読んでいたはずの大倶利伽羅は文庫本を手放して光忠の肩に撓垂 れかかると小さく欠伸を洩らした。どうやら眠らしい。
「昼寝するならお布団敷こうか?」
「いや、必要ない」
暗にこのままでいたいのだと言われて光忠は口許に微笑を浮かべた。こんなふうに判りやすく甘えてくる彼は少し珍しい。片手で柔らかな髪をくしゃりと撫でると涙で潤んだ琥珀色の双瞳 が細められた。――猫ちゃんみたい。可愛いなあ。緩んだ頬がますます緩んでそのまま戻らなくなりそうだ。そんなことを頭の片隅で思って光忠は意識的に唇を引き結んだ。
「雨音は不思議と眠くなるな」
「そうだねえ、前に何かで読んだことがあるけれど雨音は僕達が持っている生体リズムと同じなんだって。心音とか呼吸とか。何とかのゆらぎっていうらしいんだけど」
なんだったかな――光忠は首を傾げて記憶の糸を手繰る。
光忠が言っているのは1/fゆらぎのことである。これは自然界に広く見られる、一定のようで僅かに変化するリズムのことであり、雨音や川のせせらぎ、焚き火、人間の心拍や呼吸の他、脳波や声なども含まれる。このリズムが人に安心感や心地良さを与えるためにリラックス効果を齎し、それ故に眠気を催す――らしい。
すると大倶利伽羅はやや眠たげな声音で「そうか。じゃああんたの声を聞いてて眠くなるのはその何とかゆらぎのせいか」合点がいったように口にする。
「え、そうなの?」
初耳だと隻眼を瞬かせて恋刀を見遣ると彼は小さく頷く。
「あんたの声は耳触りが良いからな」
光忠の声は柔らかい。普段の穏やかな話し振りからして、彼の声音を形に表すとしたら丸だろう――大倶利伽羅は常々そう思っている。伸びやかでまるい声音は大倶利伽羅の耳朶を優しく揺らす。しかし時としてそのまるみのある声は大倶利伽羅の深いところまで響いて隠されている感覚を呼び醒まし、官能の導火線に火をつける。
僕の声で眠くなっちゃうのは伽羅ちゃんだけだと思うけどなあ――光忠はおかしそうに笑う。だが悪い気はしない。自分に安らぎを見出してくれるのは単純に嬉しい。それだけ信頼されている証左であるから。
光忠は大倶利伽羅の肩を抱くとそのままころりと畳の上に転がった。おい――些か驚いたように琥珀色の瞳が白い貌 を見た。
「僕も少し眠くなっちゃったから」
一緒に昼寝しよう、と痩躯を緩く抱き締めた。
「……流石にそんなにくっつかれると暑いんだが」
「どこまで耐えられるか僕と我慢比べね」
光忠は笑ってぎゅうと大倶利伽羅を抱く腕に力を込める。湿気のせいでいつもより癖が出ている鳶色の髪から洗髪剤と髪油の匂いが仄かに香るのをすんと嗅いだ。良い匂い。伽羅ちゃんの匂い。少し甘くてほんの僅かにぴりっとした匂い。敷布 の上で乱れる赤い毛先から立ちのぼる匂い。
「おい、光忠。離せ、暑い」
「光忠はもう寝たので聞こえませーん」
「いや思い切り聞こえてるだろ、」
あんた子供か――腕の拘束から逃れようにもびくともしない。大倶利伽羅とて決して非力ではないのに、体格差、刀種違いのせいか純粋な力では敵わない。たまに一体その躰のどこにそんな馬鹿力があるのかと訝しく思うくらいだ。
クソ――大倶利伽羅は内心で悪態をつくと諦めたように息を吐いて脱力した。暑いことには暑いが密着した躰から伝わる温もりが恋刀の体温だと思えば愛おしくもある。そっと広い背を抱き返すと一回り大きな躰が僅かに身動ぎする。眠くなったというのは本当のようでさらさらとした雨音に混ざって微かな寝息が聞こえた。光忠は寝起きも良いが、寝付きも頗る良いのだ。
束の間迷って大倶利伽羅は白い首元に結ばれた黒ネクタイを解いた。寝るには窮屈だろうと思って。こんなふうに彼のネクタイに触れるのは随分久し振りのような気がした。
――起きたら結んでやるか。それでまた、ほどいて。たったそれだけで彼には伝わるはずだ。
おやすみ、と白い耳に唇を触れると大倶利伽羅もすとんと眠りの淵に落ちていった。
降り止まない静かな雨が午睡と静寂を深めていく。
(了)
こうも雨続きだと困っちゃうね――光忠は独り言を零しながら室内から庭先に視線を放つ。
丁度梅雨時期とあり、雨は数日前からしとしとと降り続き、一時的に小止みにはなるものの、空を覆う雨雲は晴れることなく重く垂れ込めていた。陽射しが遮られているために辺りは薄暗い。室内となれば尚更で、昼下がりだというのに電灯が必要だった。
重苦しい空模様も相俟ってこれからやってくる夏季の訪れを予期させるかのようなむっとした暑さが肌に纏わりつき、雨季特有の不快感を生じさせていた。どうにもこの時期は慣れない。からりと晴れていた皐月の抜けるような青空が恋しい。だがそんな思いを抱いているのは本丸で暮らす者達だけらしく、畑や庭で栽培される植物達は文字通り恵みの雨とばかりに葉を色濃く茂らせて色鮮やかな夏の花を咲かせていた。
襖や窓を開け放ち、少しでも風通しを良くして部屋に吊るした洗濯物を乾かそうと光忠は腐心していたが、どうにもその効果は芳しくなく、昨日から衣紋掛けに吊るされた内番着のシャツは湿っぽいままだ。シャツが一向に乾かないので今日は動きやすいジャージではなく、ワイシャツにネクタイ、ベストという出て立ちである。着慣れているから窮屈さは感じないものの、ネクタイを締めているせいなのか少々暑い。ネクタイを外したところで誰に咎められる謂れはなかったが、しかしだらしがないことを嫌う光忠には服装を着崩すという発想はなく、格好はいつでも整えておくべきとの信条を律儀に守って首元の黒ネクタイは折り目正しく結ばれている。
ふっと微風が吹き込む。あまり涼しい風ではなかったが、白い頬を撫でる軟風は土や水の匂い、草花の青臭さと共に幾らかの清涼感を齎した。
ああ良い風だ――二日かけて乾かした洗いたてのタオルを畳む手を止めて光忠が呟くと不意に左肩に重みを感じた。視界の端に見慣れた髪色を捉えて光忠は僅かに頬を緩めた。
「どうしたの伽羅ちゃん、」
先程まで部屋の壁に凭れて本を読んでいたはずの大倶利伽羅は文庫本を手放して光忠の肩に
「昼寝するならお布団敷こうか?」
「いや、必要ない」
暗にこのままでいたいのだと言われて光忠は口許に微笑を浮かべた。こんなふうに判りやすく甘えてくる彼は少し珍しい。片手で柔らかな髪をくしゃりと撫でると涙で潤んだ琥珀色の
「雨音は不思議と眠くなるな」
「そうだねえ、前に何かで読んだことがあるけれど雨音は僕達が持っている生体リズムと同じなんだって。心音とか呼吸とか。何とかのゆらぎっていうらしいんだけど」
なんだったかな――光忠は首を傾げて記憶の糸を手繰る。
光忠が言っているのは1/fゆらぎのことである。これは自然界に広く見られる、一定のようで僅かに変化するリズムのことであり、雨音や川のせせらぎ、焚き火、人間の心拍や呼吸の他、脳波や声なども含まれる。このリズムが人に安心感や心地良さを与えるためにリラックス効果を齎し、それ故に眠気を催す――らしい。
すると大倶利伽羅はやや眠たげな声音で「そうか。じゃああんたの声を聞いてて眠くなるのはその何とかゆらぎのせいか」合点がいったように口にする。
「え、そうなの?」
初耳だと隻眼を瞬かせて恋刀を見遣ると彼は小さく頷く。
「あんたの声は耳触りが良いからな」
光忠の声は柔らかい。普段の穏やかな話し振りからして、彼の声音を形に表すとしたら丸だろう――大倶利伽羅は常々そう思っている。伸びやかでまるい声音は大倶利伽羅の耳朶を優しく揺らす。しかし時としてそのまるみのある声は大倶利伽羅の深いところまで響いて隠されている感覚を呼び醒まし、官能の導火線に火をつける。
僕の声で眠くなっちゃうのは伽羅ちゃんだけだと思うけどなあ――光忠はおかしそうに笑う。だが悪い気はしない。自分に安らぎを見出してくれるのは単純に嬉しい。それだけ信頼されている証左であるから。
光忠は大倶利伽羅の肩を抱くとそのままころりと畳の上に転がった。おい――些か驚いたように琥珀色の瞳が白い
「僕も少し眠くなっちゃったから」
一緒に昼寝しよう、と痩躯を緩く抱き締めた。
「……流石にそんなにくっつかれると暑いんだが」
「どこまで耐えられるか僕と我慢比べね」
光忠は笑ってぎゅうと大倶利伽羅を抱く腕に力を込める。湿気のせいでいつもより癖が出ている鳶色の髪から洗髪剤と髪油の匂いが仄かに香るのをすんと嗅いだ。良い匂い。伽羅ちゃんの匂い。少し甘くてほんの僅かにぴりっとした匂い。
「おい、光忠。離せ、暑い」
「光忠はもう寝たので聞こえませーん」
「いや思い切り聞こえてるだろ、」
あんた子供か――腕の拘束から逃れようにもびくともしない。大倶利伽羅とて決して非力ではないのに、体格差、刀種違いのせいか純粋な力では敵わない。たまに一体その躰のどこにそんな馬鹿力があるのかと訝しく思うくらいだ。
クソ――大倶利伽羅は内心で悪態をつくと諦めたように息を吐いて脱力した。暑いことには暑いが密着した躰から伝わる温もりが恋刀の体温だと思えば愛おしくもある。そっと広い背を抱き返すと一回り大きな躰が僅かに身動ぎする。眠くなったというのは本当のようでさらさらとした雨音に混ざって微かな寝息が聞こえた。光忠は寝起きも良いが、寝付きも頗る良いのだ。
束の間迷って大倶利伽羅は白い首元に結ばれた黒ネクタイを解いた。寝るには窮屈だろうと思って。こんなふうに彼のネクタイに触れるのは随分久し振りのような気がした。
――起きたら結んでやるか。それでまた、ほどいて。たったそれだけで彼には伝わるはずだ。
おやすみ、と白い耳に唇を触れると大倶利伽羅もすとんと眠りの淵に落ちていった。
降り止まない静かな雨が午睡と静寂を深めていく。
(了)