みつくりSS
Blue&Yellow
今年の春から週に二、三回朝の電車の中で見かける男の子がいる。褐色の肌の、すらりとした体躯に金眼。モデルみたいに手脚が長い。柔らかそうな鳶色の髪の毛は襟足が長くて毛先が赤く染っている。服装はいつもシンプルだけれど、そのせいもあって彼の素材の良さが際立って見えた。今日は黒いジーンズに白いTシャツ、黒いボディパックに重たそうなトートバッグを肩にかけたスタイルだ。シルバーアクセサリーがとても似合いそうな容貌は硬質な美しさともいうべき一種近寄り難い雰囲気がある。綺麗な薔薇に鋭利な棘があるみたいに。刀のように研ぎ澄まされた凄み――そんな言葉が脳裏に浮かぶ。
彼は混雑する電車の中でいつも出入口付近に立って窓の外をぼやりと眺めていた。目付きが少し眠たそうだ。きっとこれから学校――大学へ行くのだろう。予想通り彼は僕が乗り込んだ駅から三駅先にあるS大の最寄り駅で降車していく。
彼と電車を乗り合わせること、約八分。このたった八分間、僕は彼を少し離れたところからこっそり盗み見ては密かに満足していた。朝の通勤時に彼を見かけると不思議と気分が高揚して今日一日良いことがあるように思うのだ。
午前中の業務が終わり、昼食を買いに外に出る。涼しい時期はお弁当を作って持ってくるけれど、夏場は何かと食べ物が傷みやすいので手弁当はお休みして買って食べる。今日は会社の裏手にあるパン屋さんのクロワッサンが食べたい気分だったので店へ向かう。ついでにコーヒーも買って来よう。それから明日の朝食用のパンも。
降り注ぐ強い陽射しの中、他のビジネスマンに紛れて往来を歩いていると、ふと何気なく見たカフェの店内に――窓際の席に見知った顔を見付けた。電車で見かける彼だ。
どうしてこんなところに彼が――そう思ったのも束の間、彼の向かいにトレイを持った女の子が座ったのを見て膨らみかけた気持ちが急に萎れた。一体僕は彼に何を期待していたのだろうと愕然とする。
女の子はきっと彼の友達――否、恐らく彼女だろう。あんなに格好良いのだ、彼女がいても少しもおかしくはない。それが証拠に電車で見かける時より随分と表情が柔らかい。女の子もどことなく楽しげだ。どんな声で、一体何を話しているのだろう。
「いいなあ」
無意識に呟いて立ち去ろうとした時、彼と女の子がこちらを向いた。と、彼と目が合う。あ、と思った瞬間、彼が小さく手を振った。え、僕に手を振ってる? 思わず周囲を見回してしまう。道行く人は僕を避けて足早に過ぎ去っていく。視線を戻すと女の子がおかしそうに笑っていた。彼も少し苦笑している。恥ずかしさのあまり顔が熱くなるのを憶えながら僕は遠慮がちに手を振り返した。すると彼はもう一度手を振ってくれた。急降下した気分が軽々と上昇する。
――やっぱり良いことがあった。
思わず顔がにやけそうになる。
「また電車でね」
聞こえるはずもない言葉をかけて僕は足取り軽くパン屋さんに向かった。
◆◆◆
授業が一限からある日は通勤ラッシュの電車に乗る。初めは辟易したが、今では週三回の楽しみだ。
プラットフォームに電車が滑り込んでくる。ドアが空いても殆ど降りる人はなく、既に混雑した車内に半ば無理やり乗り込む。冷房は効いているが人いきれで蒸し暑い。俺はドア付近に立ってざっと視線を走らせる。いた。学生やワイシャツ姿のビジネスマンに混じって一際目を惹く男の顔。白い容貌は恐ろしいほど整っていて背が高い。彼を見るようになってから二ヶ月近く経つが、長く伸ばした右の前髪の下にある眼帯が外されているのを一度も見たことがない。一体どうなっているのだろう。瞳は澄んだ金色。白いワイシャツはいつもきちんとアイロンがかけられていて黒いスラックスも綺麗に折り目がついている。クールビズなのだろう、ノーネクタイの首元は少しだけ開けられていてちらりと覗く肌に思わず目がいく。
俺は不自然にならぬよう、彼から視線を剥がして窓の外を眺める。本当ならもっと彼を眺めていたかったが名前も知らない相手をじろじろと見るのは不躾にも程がある。行儀が悪い。時折ちらと彼を一瞥すると、器用にも片手で携帯電話を操作していた。ネットのニュースでも見ているのかもしれない。
八分間、電車に揺られて通う大学近くの駅で降りる。彼とはここでお別れだ。彼と次会うのは明後日。大学が夏休みに入ってしまえば暫く会えなくなる。先の予定を思って少し寂しくなる。
走り去る電車を視界の端に捉えながら、彼は結婚しているのだろうかとぼんやり考えた。
「――で、この間話してた彼ってこの辺に勤めてるの?」
カフェオレとサンドイッチが乗ったトレイを手にしてやってきた乱が俺の向かいに腰を下ろしながら言う。真夏だというのに、彼は豊かな長い髪の毛を下ろしたままだ。暑くないのだろうか。
「多分。俺が使ってる電車の沿線でオフィス街となるとこの辺りが妥当だとあたりをつけた。まあ外れてる可能性の方が高いが。相手の素性はなにも知らないんでね」
「せっかくここまで来たんだから、相州くんの好きな人を見たいなあ」
「別に好きってわけじゃ……」
「えー、どう考えても好きでしょ」
乱はおかしそうに笑ってカフェオレに口を付ける。こいつにうっかり彼のことを話したのは間違いだったと今更のように思って頭を抱えた。
乱は高校生で俺のバイト仲間だ。今日は期末試験で学校は午前中で終わりということで昼時に落ち合った。目的は乱に彼を紹介――というのは少々おかしいが――することである。
先日、バイト中に電車で見かける男についてうっかり洩らしたら乱が是非見たい会いたいと言ったのだ。そうはいってもどこに住んでるかも知らない相手なのだ。見たければ朝電車に乗れと言ったが残念ながら乱の住んでる場所は俺が乗る路線とは少し離れているし、そもそも彼は普段自転車通学しているから朝電車に乗る習慣がない。普通ならここで諦めると思うのだが、乱は何がなんでも男を見たいらしく「それじゃあ彼が勤めている会社の近くで張り込めば良いじゃん」そんな突拍子もないことを言ったのだ。俺は半ばヤケクソになって乱の好きにさせた。どうせ言っても聞きやしないのだ。そんなわけで俺も午前の授業を終えると電車に乗ってオフィス街へ来たのだった。
「現れなくても文句言うなよ」
「判ってるってば。見られたらラッキーくらいの気持ちでいるよ」
乱はそう口にすると窓の外に目を向ける。
「あ。もしかして、あの人じゃない?」
言われて俺もそちらに視軸を転じると眼帯の男と目が合った。彼だ。男は少し驚いたような顔をしている。試しに軽く手を振ってみると彼は慌てて周囲を見回した。自分に手を振られているとは思ってないらしい。その様子がおかしくて笑ってしまう。乱も声を立てて笑いながら「なんか可愛い〜」とか言っている。男は少し恥ずかしそうにして手を振り返してくれた。俺も再度手を振る。それだけで胸の辺りがきゅっとなる。彼が何かを言ってる。なんて言ったのだろう。声を聞いてみたい。話してみたい。もっと彼のことが知りたい。
一頻り手を振ると男は眩しい陽射しの中を歩き去って行く。
「あの人なかなか格好良かったね。ふふ、相州くん、顔が恋する乙女だよ」
悪戯っぽく笑う乱を「うるさい」と睨み付ける。
「良かったね」
「なにが」
「あの人、指輪してなかったよ」
良く見てたな――内心で感心しつつも「指輪はしてなくても彼女はいるだろう」なんせあの容姿だ恋人がいない方がおかしい――自分に言い聞かせるように言うと「そんなの判んないでしょ」乱はどこか怒ったように眉間に皺を寄せる。
「なにもしないうちから諦めちゃ駄目だよ。相州くんらしくない」
確かに乱の言うことには一理ある。――今ここであの男に恋人がいなければ良いと願ってしまう。
「……そうだな」
「恋愛相談ならいつでもしてね」
ボク応援してるからね――乱の言葉を聞きながら明後日、朝の電車で会ったら声をかけてみようと思った。
(了)
今年の春から週に二、三回朝の電車の中で見かける男の子がいる。褐色の肌の、すらりとした体躯に金眼。モデルみたいに手脚が長い。柔らかそうな鳶色の髪の毛は襟足が長くて毛先が赤く染っている。服装はいつもシンプルだけれど、そのせいもあって彼の素材の良さが際立って見えた。今日は黒いジーンズに白いTシャツ、黒いボディパックに重たそうなトートバッグを肩にかけたスタイルだ。シルバーアクセサリーがとても似合いそうな容貌は硬質な美しさともいうべき一種近寄り難い雰囲気がある。綺麗な薔薇に鋭利な棘があるみたいに。刀のように研ぎ澄まされた凄み――そんな言葉が脳裏に浮かぶ。
彼は混雑する電車の中でいつも出入口付近に立って窓の外をぼやりと眺めていた。目付きが少し眠たそうだ。きっとこれから学校――大学へ行くのだろう。予想通り彼は僕が乗り込んだ駅から三駅先にあるS大の最寄り駅で降車していく。
彼と電車を乗り合わせること、約八分。このたった八分間、僕は彼を少し離れたところからこっそり盗み見ては密かに満足していた。朝の通勤時に彼を見かけると不思議と気分が高揚して今日一日良いことがあるように思うのだ。
午前中の業務が終わり、昼食を買いに外に出る。涼しい時期はお弁当を作って持ってくるけれど、夏場は何かと食べ物が傷みやすいので手弁当はお休みして買って食べる。今日は会社の裏手にあるパン屋さんのクロワッサンが食べたい気分だったので店へ向かう。ついでにコーヒーも買って来よう。それから明日の朝食用のパンも。
降り注ぐ強い陽射しの中、他のビジネスマンに紛れて往来を歩いていると、ふと何気なく見たカフェの店内に――窓際の席に見知った顔を見付けた。電車で見かける彼だ。
どうしてこんなところに彼が――そう思ったのも束の間、彼の向かいにトレイを持った女の子が座ったのを見て膨らみかけた気持ちが急に萎れた。一体僕は彼に何を期待していたのだろうと愕然とする。
女の子はきっと彼の友達――否、恐らく彼女だろう。あんなに格好良いのだ、彼女がいても少しもおかしくはない。それが証拠に電車で見かける時より随分と表情が柔らかい。女の子もどことなく楽しげだ。どんな声で、一体何を話しているのだろう。
「いいなあ」
無意識に呟いて立ち去ろうとした時、彼と女の子がこちらを向いた。と、彼と目が合う。あ、と思った瞬間、彼が小さく手を振った。え、僕に手を振ってる? 思わず周囲を見回してしまう。道行く人は僕を避けて足早に過ぎ去っていく。視線を戻すと女の子がおかしそうに笑っていた。彼も少し苦笑している。恥ずかしさのあまり顔が熱くなるのを憶えながら僕は遠慮がちに手を振り返した。すると彼はもう一度手を振ってくれた。急降下した気分が軽々と上昇する。
――やっぱり良いことがあった。
思わず顔がにやけそうになる。
「また電車でね」
聞こえるはずもない言葉をかけて僕は足取り軽くパン屋さんに向かった。
◆◆◆
授業が一限からある日は通勤ラッシュの電車に乗る。初めは辟易したが、今では週三回の楽しみだ。
プラットフォームに電車が滑り込んでくる。ドアが空いても殆ど降りる人はなく、既に混雑した車内に半ば無理やり乗り込む。冷房は効いているが人いきれで蒸し暑い。俺はドア付近に立ってざっと視線を走らせる。いた。学生やワイシャツ姿のビジネスマンに混じって一際目を惹く男の顔。白い容貌は恐ろしいほど整っていて背が高い。彼を見るようになってから二ヶ月近く経つが、長く伸ばした右の前髪の下にある眼帯が外されているのを一度も見たことがない。一体どうなっているのだろう。瞳は澄んだ金色。白いワイシャツはいつもきちんとアイロンがかけられていて黒いスラックスも綺麗に折り目がついている。クールビズなのだろう、ノーネクタイの首元は少しだけ開けられていてちらりと覗く肌に思わず目がいく。
俺は不自然にならぬよう、彼から視線を剥がして窓の外を眺める。本当ならもっと彼を眺めていたかったが名前も知らない相手をじろじろと見るのは不躾にも程がある。行儀が悪い。時折ちらと彼を一瞥すると、器用にも片手で携帯電話を操作していた。ネットのニュースでも見ているのかもしれない。
八分間、電車に揺られて通う大学近くの駅で降りる。彼とはここでお別れだ。彼と次会うのは明後日。大学が夏休みに入ってしまえば暫く会えなくなる。先の予定を思って少し寂しくなる。
走り去る電車を視界の端に捉えながら、彼は結婚しているのだろうかとぼんやり考えた。
「――で、この間話してた彼ってこの辺に勤めてるの?」
カフェオレとサンドイッチが乗ったトレイを手にしてやってきた乱が俺の向かいに腰を下ろしながら言う。真夏だというのに、彼は豊かな長い髪の毛を下ろしたままだ。暑くないのだろうか。
「多分。俺が使ってる電車の沿線でオフィス街となるとこの辺りが妥当だとあたりをつけた。まあ外れてる可能性の方が高いが。相手の素性はなにも知らないんでね」
「せっかくここまで来たんだから、相州くんの好きな人を見たいなあ」
「別に好きってわけじゃ……」
「えー、どう考えても好きでしょ」
乱はおかしそうに笑ってカフェオレに口を付ける。こいつにうっかり彼のことを話したのは間違いだったと今更のように思って頭を抱えた。
乱は高校生で俺のバイト仲間だ。今日は期末試験で学校は午前中で終わりということで昼時に落ち合った。目的は乱に彼を紹介――というのは少々おかしいが――することである。
先日、バイト中に電車で見かける男についてうっかり洩らしたら乱が是非見たい会いたいと言ったのだ。そうはいってもどこに住んでるかも知らない相手なのだ。見たければ朝電車に乗れと言ったが残念ながら乱の住んでる場所は俺が乗る路線とは少し離れているし、そもそも彼は普段自転車通学しているから朝電車に乗る習慣がない。普通ならここで諦めると思うのだが、乱は何がなんでも男を見たいらしく「それじゃあ彼が勤めている会社の近くで張り込めば良いじゃん」そんな突拍子もないことを言ったのだ。俺は半ばヤケクソになって乱の好きにさせた。どうせ言っても聞きやしないのだ。そんなわけで俺も午前の授業を終えると電車に乗ってオフィス街へ来たのだった。
「現れなくても文句言うなよ」
「判ってるってば。見られたらラッキーくらいの気持ちでいるよ」
乱はそう口にすると窓の外に目を向ける。
「あ。もしかして、あの人じゃない?」
言われて俺もそちらに視軸を転じると眼帯の男と目が合った。彼だ。男は少し驚いたような顔をしている。試しに軽く手を振ってみると彼は慌てて周囲を見回した。自分に手を振られているとは思ってないらしい。その様子がおかしくて笑ってしまう。乱も声を立てて笑いながら「なんか可愛い〜」とか言っている。男は少し恥ずかしそうにして手を振り返してくれた。俺も再度手を振る。それだけで胸の辺りがきゅっとなる。彼が何かを言ってる。なんて言ったのだろう。声を聞いてみたい。話してみたい。もっと彼のことが知りたい。
一頻り手を振ると男は眩しい陽射しの中を歩き去って行く。
「あの人なかなか格好良かったね。ふふ、相州くん、顔が恋する乙女だよ」
悪戯っぽく笑う乱を「うるさい」と睨み付ける。
「良かったね」
「なにが」
「あの人、指輪してなかったよ」
良く見てたな――内心で感心しつつも「指輪はしてなくても彼女はいるだろう」なんせあの容姿だ恋人がいない方がおかしい――自分に言い聞かせるように言うと「そんなの判んないでしょ」乱はどこか怒ったように眉間に皺を寄せる。
「なにもしないうちから諦めちゃ駄目だよ。相州くんらしくない」
確かに乱の言うことには一理ある。――今ここであの男に恋人がいなければ良いと願ってしまう。
「……そうだな」
「恋愛相談ならいつでもしてね」
ボク応援してるからね――乱の言葉を聞きながら明後日、朝の電車で会ったら声をかけてみようと思った。
(了)