みつくりSS

仮初の海

 空と海の境は夜に溶け、果てが知れない。無窮むきゅうの闇に潮騒が響く。風が弱いために海は穏やかだ。黒い海面はゆらゆらと揺蕩たゆたいながら盛り上がり、青白く発光する波を際立たせて砕けながら砂浜に打ち寄せる。波が起こる度に水は不思議な光を発して、恰も光そのものが深海から陸地へと投射されているかのようだ。
「あんたが見せたかったものとはこれか」
 大倶利伽羅は視線を海へ放ったまま隣に佇む光忠に云う。
「うん。とても綺麗だし、不思議な光景だったから伽羅ちゃんにも見せたかったんだ」
 どうだい?――光忠は期待を込めた瞳を隣に向ける。君も気に入ってくれると良いんだけれど。
「ああ、綺麗だ」
 大倶利伽羅は頷きながら波打ち際に歩み寄る。青白い光は大倶利伽羅の足元に触れて弾けるようにして引いていく。そして次の光が到達してまた弾ける。光の波を捉えようとして片手のグローブを外し、手を伸ばすと思いの外冷たく指先が濡れた。指先が触れたところから青白い光が広がっていく。
「こんなふうに海が光って見えるなんて不思議だよね」
「そうだな」
「夜光虫っていうから、初めは蛍みたいなものを想像していたけれど」
 光忠は小さく微苦笑しながら頬を指で掻く。
 夜光虫の話は先月顕現した千代金丸から聞いた。琉球の海では夏の頃、良く見えたのだと。神秘的な光に染まる夜の海の美しさを懐かしそうに語る彼の話をその場にいた刀達は興味深そうに聞き入った。誰かが千代金丸にこの近くの海でも見られるのかと質問したところ条件さえ整えば見られるはずだとの答えに刀達は俄に色めき立った。僕も見たい俺も俺も今度見に行こうぜ――そんな賑やかな声を光忠は皆に茶菓子を配りながら耳にして、いつか自分も見てみたいと密かに憧れを抱いた。
 初め光忠が夜光虫を見たのは偶然だった。遠征先で見たのである。一緒に遠征に出ていた刀達は物珍しい光景に驚嘆した。もっと近くで見たいと包丁が云ったものの、その時は躰を休める場所を探すことが優先されたために叶わずじまいであった。
 遠征から戻った光忠は夜光虫で海が青白く光る様を早速皆に話して聞かせた。話しながら大倶利伽羅にも見せたく思い、翌日の夕餉の後、彼を捕まえて夜の散歩に誘ったのだ。光忠からの誘いを大倶利伽羅はやや訝しく思いつつも、了承した。夜光虫が見られるかどうかは半ば賭けだったが、このところ気温が高い日が続いていたこともあり、果たして青白い光を放つ神秘的な海を眺めることができた。
「夜の海も良いものだね」
 光忠は潮の香りを堪能するかのように腕を大きく広げて深呼吸する。火と鋼鐵から生まれた刀である自分には海は馴染みのないものだが、去年の夏、本丸にいる刀総出で楽しく海水浴に興じことは大切な思い出の一つだ。尤も光忠の場合、食事の用意にかまけていて殆ど海には入らなかったのだが。
「海が好きなのか」
 大倶利伽羅は光の波を目で追いながら何気なく問う。月がない分、青白い光が殊更際立って見える。夜とだけあって海鳥の姿もさえずりすら聞こえない。ただ寄せては引いていく波音だけが鼓膜を揺らす。辺りには自分達以外、誰もいない。
「そうだねえ、昔はあまり縁がなかった場所だからね。海水がしおからいのも、こんなふうに光って見えるのも、常に波が浜辺に打ち寄せてくるのも、全てが興味深いよ」
「――常州でもか」
 ややもすると濤声とうせいに紛れてしまいそうな呟きに光忠は隻眼を見開く。大倶利伽羅は正面を向いたまま言葉を重ねる。――常州ではどんなふうに。奥州から離れた後、あんたはどう過ごしていた?
「気になるかい?」
「……別に、云いたくなければ云わなくても良い。今のは忘れてくれ」
 大倶利伽羅はややばつが悪そうに視線を足下に落とすと光忠は何かを考えるように天を仰いでから口を開く。月がないのは朔月のせいかと思っていたが、星も見えないので曇っているのかもしれない。
「伽羅ちゃん達と別れて、徳川家に行った後はそこでも他の付喪神達に良くして貰っていたよ。刀だけじゃなくて琵琶や鏡、茶釜や筆、巻物なんかの付喪神が居てさ。皆奥州がどんなところか聞かせてくれって。せがまれるままに話をしていたけれど、途中から話すのが少し厭になっちゃった」
 意外な言葉に大倶利伽羅はたれたように長身を振り返った。と、些か困惑したような顔色と出会う。こんなこと云うのも本当はちょっと格好悪くて恥ずかしいんだけど――光忠は大倶利伽羅を一瞥すると夜に溶けた水平線を見極めるように瞳を眇める。
「里心がつくっていうか、色々思い出して寂しくなってしまったというか……」
「やっぱりあんたは寂しがり屋だな」
 ふと薄く大倶利伽羅が笑うと光忠は気恥ずかしそうに顔を顰めてみせる。
「だって仕方ないじゃないか。僕は――」
 そこまで云って慌てて口を噤んだ。不自然に黙り込んだ光忠を大倶利伽羅は怪訝そうに見遣りながら「僕は? おい、何だ」気になるだろう――呑み込んだ言葉を吐き出せと促す。すると伊達男は柄になく狼狽えた様子で俯いてあーとかうーとか無意味に呻いてから、意を決したように大倶利伽羅と向き合うと歩み寄って距離を詰めた。ねえ伽羅ちゃん――そっとショートグローブが外された手を掴んで包み込むように握る。
「いつか伝えようって思っていたんだけれどね、今云うことにするよ。――僕、伽羅ちゃんのことが好きなんだ」
「は、」
 突然の告白に大倶利伽羅は大きく両の目を見開いて端正な白いかんばせを凝視した。光忠は今なんて云った?
「びっくりさせてごめん。でも最後まで聞いて。――伽羅ちゃん達と離れてみて――こうしてまた再会して判ったんだ。どうしてあんなに寂しくて恋しかったのか。常州に移ってから色んな付喪神も僕のことを歓迎して良くしてくれたのに、いつも何か物足りない気持ちだった。当時はそれを上手く云い表す言葉を見つけられなかったけれど、今なら判る」
 光忠は真っ直ぐに琥珀色の双眸を見詰める。瞬きすら赦さないような真剣な眼差しに大倶利伽羅は呪縛されてしまう。
「伽羅ちゃんが戦で刀を振るう姿も、僕が作ったご飯を美味しそうに食べてくれる姿も、普段の物静かな雰囲気も、少し含羞むみたいに笑う顔も、全部大好きなんだ。伽羅ちゃんとずっと一緒にいたいし、僕と同じ気持ちだったら良いなって思う。今すぐ返事をくれとは云わない。どうだろう、僕とのこと考えてくれないかな」
「……それは俺と恋仲になりたいということか」
「うん。僕は伽羅ちゃんと恋仲になりたい。そういう意味で君のことが好きだから」
「断る」
「え、」
「だから、断る」
「え、どうして!?」
 この場で振られるとは微塵も思っていなかった光忠は思わず大声で叫んだ。大倶利伽羅は掴まれた手を振りほどくと元来た方向へと歩き出す。ちょっと待って――光忠は慌てて想い人の後を追う。
「理由は? 僕のこと嫌い? やっぱりそういうふうには見れない? 男同士だから駄目なの? それとも君の好みじゃない?」
 ねえなんで? どうして?――光忠は振り返らない背中に矢継ぎ早に疑問をぶつける。
「ねえってば。理由くらい教えてくれても――」
「残念ながらどれも外れだ」
 大倶利伽羅は砂地を進む歩調を緩める。海を吹き渡る風に髪が乱れ、後ろ髪が吹き流される。穏やかな潮騒は絶え間ない。青白く光る波が僅かに大倶利伽羅の靴先を濡らした。已むことのない波音が張り詰めた空気を更に高め、彼等の間に落ちた沈黙を深めていく。
「伽羅ちゃん、」
「――俺はこれ以上、あんたのことを好きになりたくない」
 大倶利伽羅は静かに告げると足を止めて振り返る。
「それはどういう意味……?」
 光忠は瞠目して精悍な顔を見る。大倶利伽羅の言葉の意味が判らない。――これ以上、好きになりたくない。これ以上、とは? すると大倶利伽羅は眉根を寄せて苦しそうな表情かおをした。
「正直に云う。俺は光忠が好きだ。あんたが思うのと同じ意味でだ」
「だったら、」
「俺達は刀だ。今ある人の躰は仮初の姿だ。遡行軍との戦いがいつ終わるかは判らないが、しかしいずれは戦いも終わり、この姿も消えてなくなる。そうなった時またあんたと別れなくてはいけない。だから――」
 光忠が頼房に乞われて伊達家から離れた時、大倶利伽羅は胸にぽっかり穴があいたような寂しさの意味を悟ったのだ。
 本丸で再会を果たした後、光忠からの好意は薄々気が付いていた。今夜の散歩だって、誘われた時こそ訝しく思ったものの、伽羅ちゃんにも見せたかったという言葉に込められた意味がまるきり判らないほど大倶利伽羅とて鈍くはない。だがしかし。焦がれていたものを無くすことの痛みを知った今、手に入ったものを喪うことの痛みを想像をして身が竦んだ。だから光忠の気は持ちを拒絶したのだ。きっと次は耐えられないから。
 伽羅ちゃん――不意に逞しい腕に抱き寄せられた。ごめんね、と酷く優しい声が耳元で聞こえてと胸を衝かれた。
「寂しい思いをさせてごめんね。伽羅ちゃんにもう寂しい思いをさせないし、昔の分まで君のことを愛すから僕のことが好きならどうか逃げないで」
 愛することを怖がらないで――光忠は縋るように、何かにぬかずくように告げて愛しい相手を抱く腕に力を込める。どれだけ深く愛しているかを伝えるように。
「伽羅ちゃん、大丈夫だよ。仮令いつか離れてしまっても、お互いに愛し合った記憶があれば寂しくないよ」
 昔は気が付くのが遅すぎて何も伝えられないままだったが、今は違う。今ならまだ、間に合う。
「僕は君のことがずっと大好きだよ。愛してる」
「……あんた狡いな」
 大倶利伽羅は力無く呟きながら、つんと鼻の奥が痛くなるを感じて顔をくしゃりと歪める。――こんなふうに云われたら諦められなくなる。本当に忘れられなくなってしまう。
「君に愛して貰えるなら狡くもなるよ。――僕のこと嫌い?」
「いっそのこと嫌いになれれば良かったんだがな」
 光忠――大倶利伽羅は広い背を抱き返す。
「好きだ。ずっと前から好きだった。俺もあんたが愛おしい。だから最後まで離してくれるな」
 ――遡行軍との戦いが終わるその日まで。
 光忠は小さく頷くと大倶利伽羅に顔を近付けて頬に手を触れた。何か眩しいものを見るかのように瞳を細める。
「光忠……?」
「伽羅ちゃん、目を閉じて」
「なぜだ?」
 良く判ってなさそうな大倶利伽羅を、内心で可愛く思いながら光忠は甘く囁いた。
 ――今物凄く君に口付けたいから。
 途端に夜目でも判るほど大倶利伽羅の顔が真っ赤に染まった。

「真逆あんたがこんなに破廉恥な男だとは思わなかったな」
 大倶利伽羅は憤然として云い捨てながら足早に砂地を歩く。
「は、破廉恥って。確かにいきなり接吻したいって言ったのは少し悪かったなとは思うけど」
 でもそういう雰囲気だったし――光忠はすたすたと先を行く大倶利伽羅を追いかける。
「雰囲気の問題じゃない。気持ちの問題だ」
 まともに交際もしてないのに突然口付けたいとその顔で迫られてみろ。驚きすぎて折れそうになっただろうが。今思い出しても躰が爆発しそうになってるのにどうしてくれるんだ――大倶利伽羅は早口で捲し立てると「やっぱりあんたのこと振っておけば良かったな」ぼそりと呟いた。
「待って待って伽羅ちゃん。僕のこと捨てないで」
 光忠は慌てて大倶利伽羅の手を掴む。
「それじゃあさ、伽羅ちゃんがしたくなるまで大人しく待ってるから。口付けたくなったら僕にしてよ」
 それなら良いだろう? と言われて大倶利伽羅はああそうだな――頷きかけたところで、はたと気付いた。引いたはずの熱が再び顔に集まってくる。俺からするのか。光忠に。接吻を。は? 正気か?
「伽羅ちゃん? どうしたの?」
 突然動きを止めた大倶利伽羅を不審に思って彼の前に回り込むと俯き加減の顔を下から覗いた。え、顔赤いよ? 大丈夫?
「光忠、やっぱりあんたとは付き合えない」
「え?」
「俺には無理だ」
 大倶利伽羅はそう云うと突如走り出した。
「え、ちょっと! 伽羅ちゃん!」
 待って――足を取られる砂地をもろともせずに走り去る恋刀を光忠は追いかける。足早っ! 流石レアリティ三の打刀……じゃなくって!
「伽羅ちゃん、本当に待って!」
 別れる前に今後についてちゃんと話し合おう!――光忠の大声が潮騒に混じり、夜風が攫って言葉が千切れていく。彼の声が愛しい背中に届いたかどうか。
 夜の海は、神秘的に青白く発光しながらさざめくように揺れている。

(了)
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