みつくりSS
誘「 」色
加州、と呼ばれて手元に落としていた目線を上げると部屋の戸口に大倶利伽羅が立っていた。珍しい客人に加州は赤い瞳を僅かに見開いて「何か用?」首を傾げる。馴れ合うつもりはないと半ば口癖のように言う彼の方からこうして声を掛けてくることなど滅多にない。それは加州も同じで、特別用事がなければ大倶利伽羅と言葉を交わすことはなかった。
大倶利伽羅は座卓の上に置かれた小さな爪紅を顎でしゃくりながら「それはどこで手に入る」感情をのせずに尋ねた。非番である加州は今しがた爪紅を塗り直していたところで、必要な道具が広げられていた。爪紅、爪切り、爪鑢 、ちり紙、色持ちや艶を出すための上塗り。
「どこって、万事屋だけど? 大倶利伽羅も爪塗るの?」
「否、俺ではなく光忠が、」
「燭台切?」
意外な名前が出てきて加州は鸚鵡返しに問うた。そうではなくて光忠が俺の爪に塗るのだと大倶利伽羅は訂正しようとしたが、言えば要らぬ詮索をされると悟ってそうだと頷いた。加州は特に怪しんだり訝る様子もなく、そう言えば燭台切はいつも身なりを気にして整えてるもんねと軽く応じて「使うなら貸すけど」爪紅の小壜を手に取って大倶利伽羅に差し出す。
「それは良い。自分で買う」
邪魔したな――大倶利伽羅が踵を返すと加州の声が追ってきた。
「万事屋に行くなら俺も一緒に行くよ。丁度上塗りが無くなりそうだから」
大倶利伽羅がうんともすんとも言わぬ間に加州はショートグローブに包まれた手を引いて廊下を進んだ。
◆◆◆
「――それで、加州くんと万事屋へ行って来たのかい?」
光忠は部屋の隅に置かれた文机の上を見遣る。そこには大倶利伽羅が昼間買い求めた爪を塗るための道具一式が並べられていた。大倶利伽羅が頷くと「本当は僕が選びたかったんだけど」光忠は眉尻を下げて微苦笑を洩らす。
「あんた出陣していなかっただろう」
門松が取れた頃にはやれ戦だ遠征だと立て続けに部隊が派遣され、本丸は忙しない日常を取り戻していた。光忠は今朝早くから出陣し、戻ってきたのは日が沈む頃だった。加州と同じく非番だった大倶利伽羅は光忠の帰りを待ち侘びた。非番なのだから好きに過ごせば良いものの、加州と買い物に出た以外は自室に籠って気も漫ろに無為に過ごした。一日が酷く長かった。無傷で戻って来た光忠を認めて初めて遅々として進まなかった時計の針がやっと動き出したように感じ、大倶利伽羅はほっと胸を撫で下ろしたのだった。
「光忠のも、買ってある」
「僕の?」
隻眼を瞬かせると大倶利伽羅は文机の抽斗を開け、中から掌にすっぽり収まってしまう小壜を取り出す。爪紅――加州が使っているそれより濃くて深い赫である――の小壜の隣に並べられたのは漆黒のそれであった。燭台切光忠という刀の佇まいに相応しい色。彼が纏う、深い闇の色。
「俺も光忠の爪を塗りたい」
良いだろう――光忠の手をそっと掴み、黒手袋の指先を軽く噛んで脱がしにかかる。恰も挑発し、誘惑するような仕草に光忠は腹底を熱くした。背筋が慄え、肌が粟立つ。
「良いよ。先に伽羅ちゃんの爪を塗らせて」
光忠はもう片方の手袋を外し、大倶利伽羅に膝を崩すように言うと素足を大事そうに掌で包む。寝間着の裾から覗く褐色の肌からは仄かに湯上りの匂いがした。爪の長さは整えなくても良さそうだったので爪鑢で表面を磨いていく。ひとつひとつ丁寧に己の爪が綺麗に磨かれていくのを眺めながら、大倶利伽羅は、何だか自分自身がとても上等なものであるかのように錯覚してしまう。優しく、丁寧に触れる光忠の白い手が好きだと思う。磨かれた爪は電灯の光を艶やかに弾いて桜貝のよう。
爪の表面を整えた次は折り畳んだちり紙を指の間に挟んでいく。この工程に一体何の意味があるのかと大倶利伽羅が訝ると「染料が隣合う指につかないようにするんだよ。こうすると塗り易いしね」光忠は説明して机上から赫い小壜を取る。
「そうなのか。知らなかった」
「僕も本で調べるまでは知らなかったよ。爪は色を塗るだけじゃなくて、貴石を模した極小の硝子玉なんかも使って装飾するんだってね。確かデコるって言うんだったかな」
「ああ、加州がたまに言ってるあれか」
加州は日頃から「可愛くしてないと主から愛されない」と言って憚らない。だらしないのは論外として、彼や光忠ほどには見目に拘りを持たない大倶利伽羅としては二振りの装いに傾ける情熱が些か不思議に思われた。
光忠は小さく細い刷毛を器用に操って大倶利伽羅の爪を赫く染めていく。むらなく均一に、少しもはみ出さずに。先日、自分には上手くできそうにないと弱気な言葉を零していたが、全くの嘘だ。
「あんた本当に器用だな」
「そう? 普通だと思うけど。でも伽羅ちゃんに褒めて貰えるのは嬉しいな」
にこりと微笑みかけられて俄に心臓が跳ね上がる。自分だけに見せる甘い顔は何度も目の当たりしても慣れない。ときめく胸を鎮めるように視線を外してぼんやりと文机の上に鎮座する漆黒が詰まった小壜を眺めた。
こういうの良いね――束の間の沈黙を挟んで光忠が口を開く。
「何が、」
「僕の手で君が益々 美しくなっていくのが」
思った通り赫が似合うと光忠は満足そうに喜色を浮かべて爪先を塗り終えた右足の甲をそっと撫でる。情が込められたその手付きに大倶利伽羅はひくりと喉を慄わせた。畳の上で固く拳を握る。
「……あんたは見かけによらず独占欲が強い」
涼しい顔色の下に隠している慾望を探るように大倶利伽羅は瞳を眇めて隻眼を見詰める。一瞬絡んだ視線がふっとほどけて光忠は眦を和らげた。
「こういう僕は嫌いかい?」
「訊き方が狡い」
「伽羅ちゃんのことが好きだから、狡くもなるよ」
「今度は開き直りか」
言葉とは裏腹に大倶利伽羅の口調は柔らかい。白い手が滑らかな褐色の肌を這う。素足を軽く持ち上げて金色の双眸を真っ直ぐ見据えながら、ねえ知ってる? ――悪戯っぽい笑みを口許に浮かべる。
「誰かに爪を塗って貰うのは、その相手を誘惑している――そんな意味があるそうだよ」
君はどうかな――光忠は赫く彩られた爪先に唇を軽く押し当て、挑むような眼差しを向ける。左眼が燃えるように輝いていた。その光輝は大倶利伽羅の深いところで眠っていた慾に火を着ける。
「――爪紅が乾いたら、光忠の好きにして良い」
「それなら早く爪を塗り終えないとね」
光忠はのんびりとした語調で告げると左足の爪に染料を含ませた筆を走らせた。
◆◆◆
翌日。
いつもの時間に起床した加州は寒さに身を慄わせながら顔を洗うために洗面所へ向かうと先客――内番着姿の燭台切がいた。彼は加州の姿を認めると「おはよう」にこやかに朝の挨拶をする。加州も挨拶を返し、燭台切の隣に立って蛇口を捻って湯を出す。と、ふと視界に入った彼の手を見て赤い瞳を瞬かせた。あまり目にすることのない彼の素手――その指先。爪が黒く染められていた。昨日の昼間、大倶利伽羅と連れ立って万事屋へ買い物に行ったことを思い出す。
「燭台切。それ、良かったら塗り方教えようか?」
余計なお世話だと思いつつ、ついそんなことを言ってしまったのは爪紅の仕上がりが不恰好だったからだ。所々、染料がはみ出してる上に塗り方にもむらがある。常日頃から身嗜みや着飾ることに気を遣っている彼らしくない。爪紅の扱いにはややコツがいるのだと加州が言うと、燭台切は礼を口にした後「僕はこれが気に入ってるから良いんだ」薄く笑って片手を翳し、束の間眺め遣ってから手袋を嵌めた。加州は「そうなの? まあ燭台切が良いなら構わないけど」湯を掌で掬って顔を洗う。
「加州くん。今度爪のデコり方、教えてね」
背後でそんな言葉を聞いて顔を上げた時には既に燭台切の姿はなかった。
(了)
加州、と呼ばれて手元に落としていた目線を上げると部屋の戸口に大倶利伽羅が立っていた。珍しい客人に加州は赤い瞳を僅かに見開いて「何か用?」首を傾げる。馴れ合うつもりはないと半ば口癖のように言う彼の方からこうして声を掛けてくることなど滅多にない。それは加州も同じで、特別用事がなければ大倶利伽羅と言葉を交わすことはなかった。
大倶利伽羅は座卓の上に置かれた小さな爪紅を顎でしゃくりながら「それはどこで手に入る」感情をのせずに尋ねた。非番である加州は今しがた爪紅を塗り直していたところで、必要な道具が広げられていた。爪紅、爪切り、
「どこって、万事屋だけど? 大倶利伽羅も爪塗るの?」
「否、俺ではなく光忠が、」
「燭台切?」
意外な名前が出てきて加州は鸚鵡返しに問うた。そうではなくて光忠が俺の爪に塗るのだと大倶利伽羅は訂正しようとしたが、言えば要らぬ詮索をされると悟ってそうだと頷いた。加州は特に怪しんだり訝る様子もなく、そう言えば燭台切はいつも身なりを気にして整えてるもんねと軽く応じて「使うなら貸すけど」爪紅の小壜を手に取って大倶利伽羅に差し出す。
「それは良い。自分で買う」
邪魔したな――大倶利伽羅が踵を返すと加州の声が追ってきた。
「万事屋に行くなら俺も一緒に行くよ。丁度上塗りが無くなりそうだから」
大倶利伽羅がうんともすんとも言わぬ間に加州はショートグローブに包まれた手を引いて廊下を進んだ。
◆◆◆
「――それで、加州くんと万事屋へ行って来たのかい?」
光忠は部屋の隅に置かれた文机の上を見遣る。そこには大倶利伽羅が昼間買い求めた爪を塗るための道具一式が並べられていた。大倶利伽羅が頷くと「本当は僕が選びたかったんだけど」光忠は眉尻を下げて微苦笑を洩らす。
「あんた出陣していなかっただろう」
門松が取れた頃にはやれ戦だ遠征だと立て続けに部隊が派遣され、本丸は忙しない日常を取り戻していた。光忠は今朝早くから出陣し、戻ってきたのは日が沈む頃だった。加州と同じく非番だった大倶利伽羅は光忠の帰りを待ち侘びた。非番なのだから好きに過ごせば良いものの、加州と買い物に出た以外は自室に籠って気も漫ろに無為に過ごした。一日が酷く長かった。無傷で戻って来た光忠を認めて初めて遅々として進まなかった時計の針がやっと動き出したように感じ、大倶利伽羅はほっと胸を撫で下ろしたのだった。
「光忠のも、買ってある」
「僕の?」
隻眼を瞬かせると大倶利伽羅は文机の抽斗を開け、中から掌にすっぽり収まってしまう小壜を取り出す。爪紅――加州が使っているそれより濃くて深い赫である――の小壜の隣に並べられたのは漆黒のそれであった。燭台切光忠という刀の佇まいに相応しい色。彼が纏う、深い闇の色。
「俺も光忠の爪を塗りたい」
良いだろう――光忠の手をそっと掴み、黒手袋の指先を軽く噛んで脱がしにかかる。恰も挑発し、誘惑するような仕草に光忠は腹底を熱くした。背筋が慄え、肌が粟立つ。
「良いよ。先に伽羅ちゃんの爪を塗らせて」
光忠はもう片方の手袋を外し、大倶利伽羅に膝を崩すように言うと素足を大事そうに掌で包む。寝間着の裾から覗く褐色の肌からは仄かに湯上りの匂いがした。爪の長さは整えなくても良さそうだったので爪鑢で表面を磨いていく。ひとつひとつ丁寧に己の爪が綺麗に磨かれていくのを眺めながら、大倶利伽羅は、何だか自分自身がとても上等なものであるかのように錯覚してしまう。優しく、丁寧に触れる光忠の白い手が好きだと思う。磨かれた爪は電灯の光を艶やかに弾いて桜貝のよう。
爪の表面を整えた次は折り畳んだちり紙を指の間に挟んでいく。この工程に一体何の意味があるのかと大倶利伽羅が訝ると「染料が隣合う指につかないようにするんだよ。こうすると塗り易いしね」光忠は説明して机上から赫い小壜を取る。
「そうなのか。知らなかった」
「僕も本で調べるまでは知らなかったよ。爪は色を塗るだけじゃなくて、貴石を模した極小の硝子玉なんかも使って装飾するんだってね。確かデコるって言うんだったかな」
「ああ、加州がたまに言ってるあれか」
加州は日頃から「可愛くしてないと主から愛されない」と言って憚らない。だらしないのは論外として、彼や光忠ほどには見目に拘りを持たない大倶利伽羅としては二振りの装いに傾ける情熱が些か不思議に思われた。
光忠は小さく細い刷毛を器用に操って大倶利伽羅の爪を赫く染めていく。むらなく均一に、少しもはみ出さずに。先日、自分には上手くできそうにないと弱気な言葉を零していたが、全くの嘘だ。
「あんた本当に器用だな」
「そう? 普通だと思うけど。でも伽羅ちゃんに褒めて貰えるのは嬉しいな」
にこりと微笑みかけられて俄に心臓が跳ね上がる。自分だけに見せる甘い顔は何度も目の当たりしても慣れない。ときめく胸を鎮めるように視線を外してぼんやりと文机の上に鎮座する漆黒が詰まった小壜を眺めた。
こういうの良いね――束の間の沈黙を挟んで光忠が口を開く。
「何が、」
「僕の手で君が
思った通り赫が似合うと光忠は満足そうに喜色を浮かべて爪先を塗り終えた右足の甲をそっと撫でる。情が込められたその手付きに大倶利伽羅はひくりと喉を慄わせた。畳の上で固く拳を握る。
「……あんたは見かけによらず独占欲が強い」
涼しい顔色の下に隠している慾望を探るように大倶利伽羅は瞳を眇めて隻眼を見詰める。一瞬絡んだ視線がふっとほどけて光忠は眦を和らげた。
「こういう僕は嫌いかい?」
「訊き方が狡い」
「伽羅ちゃんのことが好きだから、狡くもなるよ」
「今度は開き直りか」
言葉とは裏腹に大倶利伽羅の口調は柔らかい。白い手が滑らかな褐色の肌を這う。素足を軽く持ち上げて金色の双眸を真っ直ぐ見据えながら、ねえ知ってる? ――悪戯っぽい笑みを口許に浮かべる。
「誰かに爪を塗って貰うのは、その相手を誘惑している――そんな意味があるそうだよ」
君はどうかな――光忠は赫く彩られた爪先に唇を軽く押し当て、挑むような眼差しを向ける。左眼が燃えるように輝いていた。その光輝は大倶利伽羅の深いところで眠っていた慾に火を着ける。
「――爪紅が乾いたら、光忠の好きにして良い」
「それなら早く爪を塗り終えないとね」
光忠はのんびりとした語調で告げると左足の爪に染料を含ませた筆を走らせた。
◆◆◆
翌日。
いつもの時間に起床した加州は寒さに身を慄わせながら顔を洗うために洗面所へ向かうと先客――内番着姿の燭台切がいた。彼は加州の姿を認めると「おはよう」にこやかに朝の挨拶をする。加州も挨拶を返し、燭台切の隣に立って蛇口を捻って湯を出す。と、ふと視界に入った彼の手を見て赤い瞳を瞬かせた。あまり目にすることのない彼の素手――その指先。爪が黒く染められていた。昨日の昼間、大倶利伽羅と連れ立って万事屋へ買い物に行ったことを思い出す。
「燭台切。それ、良かったら塗り方教えようか?」
余計なお世話だと思いつつ、ついそんなことを言ってしまったのは爪紅の仕上がりが不恰好だったからだ。所々、染料がはみ出してる上に塗り方にもむらがある。常日頃から身嗜みや着飾ることに気を遣っている彼らしくない。爪紅の扱いにはややコツがいるのだと加州が言うと、燭台切は礼を口にした後「僕はこれが気に入ってるから良いんだ」薄く笑って片手を翳し、束の間眺め遣ってから手袋を嵌めた。加州は「そうなの? まあ燭台切が良いなら構わないけど」湯を掌で掬って顔を洗う。
「加州くん。今度爪のデコり方、教えてね」
背後でそんな言葉を聞いて顔を上げた時には既に燭台切の姿はなかった。
(了)