みつくりSS
月を呑む
やあ良い月夜だ――燭台切光忠は唄うように告げて漆黒の夜空に掛かる満月を瞳に映す。真円を描く輪郭は蒼く燃え、冴やかな光を放っていた。手を伸ばせば届きそうな滴る月を大倶利伽羅も光忠の隣で眺めて、あの月は光忠の失われた右眼なのかもしれぬと唐突に思った。金色 に輝く月輪が目を瞠るほどに美しかったので。
彼等は庭に面した濡れ縁に腰掛けて先程歌仙から貰った酒を片手に季節外れの月見酒と洒落込んでいた。カタログの能書きにあった通り酒の中には金粉が入っており、盃に注ぐ時にきらきらと輝きながら舞う様は見目にも華やかで確かに祝いの席に相応しい。光忠が一緒に酒を飲もうと誘った際、大倶利伽羅は「せっかく歌仙から貰ったのだからあんた一人でゆっくり飲め」と断ったのだが「僕が一緒に伽羅ちゃんと飲みたいんだよ」駄目かな?――眉尻を下げて薄く笑む顔を見てしまったら、それ以上何も言えなかった。
乾杯、と軽く盃を交わして一口酒を飲むと「うん、美味しい」光忠は満足そうに首肯する。大倶利伽羅も盃に口を付けて「美味いな」呟いた。香りも良く口当たりの柔らかいこの酒なら幾らでも飲めそうだと光忠が笑うと「それは辞めておけ」と大倶利伽羅が釘を刺す。
「どうしてだい?」
「あんたは酔うと――面倒だ」
「え、今の間はなに?」
「別に、なにも」
訝しむ光忠を他所に大倶利伽羅はにべもない。ええ僕酔って皆に迷惑掛けたことあったかなあ――首を捻る光忠を横目に大倶利伽羅は呑み込んだ言葉を胸中で吐いた。――光忠は酔うと可愛くなるから駄目だ。酒精 で血色を濃くした顔でいつも以上に柔らかい笑顔――ふにゃりと笑ってみせるのが随分と可愛いのだ。普段から「格好良さ」に拘る彼が見せる可愛い姿が齎す破壊力たるや凄まじい。――尤も、覿面に効いているは大倶利伽羅だけなのだが。他の刀からしてみれば「ただの酔っ払い」である。
「伽羅ちゃんもお酒は飲み過ぎたら駄目だよ」
「俺は特別好んで酒は飲まない」
「でも僕とは一緒に飲んでくれるんだから、伽羅ちゃんは優しいよね」
嬉しいと光忠は莞爾 して盃を呷る。つられるようにして大倶利伽羅も甘口の日本酒を口に含んだ。酒精に臓腑の底が熱くなってふるりと躰を慄 わせると温もりが残る丹前が大倶利伽羅の肩を包んだ。
「おい、これじゃあんたが寒いだろう」
俺とて自前の丹前を着込んでいるし、そもそも寒いわけではない――光忠に丹前を返そうとすると彼は僅かにあった距離を詰めてぴったりと身を寄せて来る。無造作に置いた手の先が軽く触れ合った。
「こうしてたらあったかいから」
そう告げる光忠の形の佳い耳が仄かに赤いのは酒のせいだろうか。大倶利伽羅はそうかと曖昧に頷いて肩に掛けられた光忠の丹前の前を掻き合わせた。と、ふわりと彼の匂いが鼻先を掠めた。
束の間、降りた沈黙に賑やかな声音が遠くで聞こえた。大方、粟田口の短刀達が布団を敷きながら騒いでいるのだろう。皆元気だなあ――光忠は微苦笑を洩らしながら声がする方へ視線を巡らす。平和な夜だと大倶利伽羅も思う。遡行軍との戦や遠征が嘘のように感じられる程に。畑を耕し作物を育て、馬の世話をし、人と同じように料理を作り食して血肉とし、疲れれば眠り、夢を見る。そんな何気ない日々の営みがこれからもずっと続くように錯覚してしまう。自分達は戦を本分とする刀であるのに。闘うための道具に過ぎないことを忘れそうになってしまう。それが大倶利伽羅にはどこか恐ろしいように思うのだ。
「伽羅ちゃんはさ、いつから僕のこと好きでいてくれたの?」
光忠は月を見上げたまま問い掛ける。
「そんなこと知ってどうする」
「どうもしないよ。ただ知りたいだけ。ねぇ、いつから?」
ねだるように純度の高い金の眸が振り返る。――いつから。いつからだっただろう。光忠は一目惚れだと先程言っていたが。大倶利伽羅は手に握った酒盃に視線を落とす。盃の底に沈殿した金粉が月影を受けて微かに煌めく。
春の夜に――大倶利伽羅は記憶の糸を手繰り寄せて徐に口を開く。そう、あれは確か。
「……まだ政宗公の元にいる時だ。幾度目かの春の夜に、今のようにあんたと並んで月を見ていた」
緑が芽吹く匂いを孕んだ柔らかな闇夜に十六夜月が掛かっていた。春霞に薄らと滲んだ月華が蒼く光忠の横顔を照らしていた。それが――大倶利伽羅の琴線に触れたのだ。とても深く。心に焼き付くようにして。
「まるで光忠は春宵のようだと」
烏玉 の髪と月色の眸が綺麗だと思った。いつまでも傍にいて眺めていたいと思ったのだ。春夜の月を愛でるように。
成程ねぇ――光忠はどこか含羞むように眦を和らげると空 になった大倶利伽羅の盃を取り上げて酒を注ぎ、金粉が舞うなみなみと注がれた酒の表面に月を映す。水面 で金色 が揺蕩い、とろりと光る。
「君にあの月をあげよう」
永久 に共にあることの誓いとして――光忠は淡く微笑んで大倶利伽羅に寒月を捕らえた酒盃を恭しく差し出す。恰も己が持てる全ての愛を贈るようにして。大倶利伽羅は僅かに目を見開いて恋人の顔と酒盃とを見比べる。――これは、まるで。
「……謹んで頂戴する」
大倶利伽羅は生真面目な顔色で黒手袋から酒盃を受け取ると美しい月を一息に呑んだ。
皓月は夜の底を照らしながら静かにゆっくりと西へ傾いてゆく。
(了)
やあ良い月夜だ――燭台切光忠は唄うように告げて漆黒の夜空に掛かる満月を瞳に映す。真円を描く輪郭は蒼く燃え、冴やかな光を放っていた。手を伸ばせば届きそうな滴る月を大倶利伽羅も光忠の隣で眺めて、あの月は光忠の失われた右眼なのかもしれぬと唐突に思った。
彼等は庭に面した濡れ縁に腰掛けて先程歌仙から貰った酒を片手に季節外れの月見酒と洒落込んでいた。カタログの能書きにあった通り酒の中には金粉が入っており、盃に注ぐ時にきらきらと輝きながら舞う様は見目にも華やかで確かに祝いの席に相応しい。光忠が一緒に酒を飲もうと誘った際、大倶利伽羅は「せっかく歌仙から貰ったのだからあんた一人でゆっくり飲め」と断ったのだが「僕が一緒に伽羅ちゃんと飲みたいんだよ」駄目かな?――眉尻を下げて薄く笑む顔を見てしまったら、それ以上何も言えなかった。
乾杯、と軽く盃を交わして一口酒を飲むと「うん、美味しい」光忠は満足そうに首肯する。大倶利伽羅も盃に口を付けて「美味いな」呟いた。香りも良く口当たりの柔らかいこの酒なら幾らでも飲めそうだと光忠が笑うと「それは辞めておけ」と大倶利伽羅が釘を刺す。
「どうしてだい?」
「あんたは酔うと――面倒だ」
「え、今の間はなに?」
「別に、なにも」
訝しむ光忠を他所に大倶利伽羅はにべもない。ええ僕酔って皆に迷惑掛けたことあったかなあ――首を捻る光忠を横目に大倶利伽羅は呑み込んだ言葉を胸中で吐いた。――光忠は酔うと可愛くなるから駄目だ。
「伽羅ちゃんもお酒は飲み過ぎたら駄目だよ」
「俺は特別好んで酒は飲まない」
「でも僕とは一緒に飲んでくれるんだから、伽羅ちゃんは優しいよね」
嬉しいと光忠は
「おい、これじゃあんたが寒いだろう」
俺とて自前の丹前を着込んでいるし、そもそも寒いわけではない――光忠に丹前を返そうとすると彼は僅かにあった距離を詰めてぴったりと身を寄せて来る。無造作に置いた手の先が軽く触れ合った。
「こうしてたらあったかいから」
そう告げる光忠の形の佳い耳が仄かに赤いのは酒のせいだろうか。大倶利伽羅はそうかと曖昧に頷いて肩に掛けられた光忠の丹前の前を掻き合わせた。と、ふわりと彼の匂いが鼻先を掠めた。
束の間、降りた沈黙に賑やかな声音が遠くで聞こえた。大方、粟田口の短刀達が布団を敷きながら騒いでいるのだろう。皆元気だなあ――光忠は微苦笑を洩らしながら声がする方へ視線を巡らす。平和な夜だと大倶利伽羅も思う。遡行軍との戦や遠征が嘘のように感じられる程に。畑を耕し作物を育て、馬の世話をし、人と同じように料理を作り食して血肉とし、疲れれば眠り、夢を見る。そんな何気ない日々の営みがこれからもずっと続くように錯覚してしまう。自分達は戦を本分とする刀であるのに。闘うための道具に過ぎないことを忘れそうになってしまう。それが大倶利伽羅にはどこか恐ろしいように思うのだ。
「伽羅ちゃんはさ、いつから僕のこと好きでいてくれたの?」
光忠は月を見上げたまま問い掛ける。
「そんなこと知ってどうする」
「どうもしないよ。ただ知りたいだけ。ねぇ、いつから?」
ねだるように純度の高い金の眸が振り返る。――いつから。いつからだっただろう。光忠は一目惚れだと先程言っていたが。大倶利伽羅は手に握った酒盃に視線を落とす。盃の底に沈殿した金粉が月影を受けて微かに煌めく。
春の夜に――大倶利伽羅は記憶の糸を手繰り寄せて徐に口を開く。そう、あれは確か。
「……まだ政宗公の元にいる時だ。幾度目かの春の夜に、今のようにあんたと並んで月を見ていた」
緑が芽吹く匂いを孕んだ柔らかな闇夜に十六夜月が掛かっていた。春霞に薄らと滲んだ月華が蒼く光忠の横顔を照らしていた。それが――大倶利伽羅の琴線に触れたのだ。とても深く。心に焼き付くようにして。
「まるで光忠は春宵のようだと」
成程ねぇ――光忠はどこか含羞むように眦を和らげると
「君にあの月をあげよう」
「……謹んで頂戴する」
大倶利伽羅は生真面目な顔色で黒手袋から酒盃を受け取ると美しい月を一息に呑んだ。
皓月は夜の底を照らしながら静かにゆっくりと西へ傾いてゆく。
(了)
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