原作軸
追憶の炎
久し振りに海面浮上したポーラータングの甲板の上でローは愛刀を抱えて佇んでいた。穏やかな海風が心地よい。春島が近いのか、心なしか吹き付ける潮風も柔らかく、温かった。ローは手摺に重心を傾けながら西空の果てにその姿を消そうとしている欠けた月を静かに眺めた。夜明け前の空はまだ紫紺色に覆われており、金銀に星が煌めている。太陽が顔を出すまではまだ時間を要した。航路を取っている数名を除いてクルー達もまだ夢の中だ。ローがこのような時間に起きていることは珍しくはなかった。昨晩から寝ていないのだ。別に何があった訳ではない。ただ、本を読み耽っているうちにいつの間にか現時刻になってしまっただけだ。徹夜は慣れている。一晩くらい寝なくても特に問題はなかった。そんなことを言えばペンギン辺りが眉を吊り上げて無理にでも我が愛すべきキャプテンをベッドに押し込むだろうが。ふとそんな想像をしてローは独り笑った。
目醒めたばかりの海鳥の群れが視界を横切っていく。寂しげな啼き声が潮騒にのって響いた。彼等はどこまでゆくのだろう。真直ぐに、迷わずに、風を味方にどこまでも飛んでいく。仲間と共に。
ローは海鳥の囀りに耳を傾けながら、ズボンのポケットから煙草を取り出すと一本口の端に咥え、ライターで火を着けた。吸い慣れない煙草は酷く苦く、煙に咽て咳き込んだ。眉間に皺を寄せて、あの人はこんなにきつい煙草を吸っていたのかと、今更のように思う。彼は四六時中煙草を吹かしていたから、今彼の肺を診たらきっと真っ黒になっているに違いない。
煙草は百害あって一利なし。進んで吸うものではないが、それでも懐かしい匂いが恋しくて、たまに喫む分にはそう悪くない――まだ夜を湛えた海に灰を散らす。
「――煙草の吸い方、教えて欲しかったよ、コラさん」
手の中で古びたライターを弄びながら、ひっそりと呟く。
彼がローに教えたのは、愛、ただそれだけだ。煙草の吸い方を教えるより、よっぽど難しい。一番、人に教えがたいものを、与えようとしてもなかなかどうして上手くはいかない大きすぎるものを、いとも容易く遺して、彼は逝ってしまった。
そして自分はあの冷たい雪の中に独り置き去りにしてしまった。あの時、どんなに彼は寒くて寂しかっただろうか。それを思うと胸を掻き毟りたいような後悔に襲われる。彼が命を落とすことを避けられなかったとしても、あの場にたった独りにするべきではなかったと思う。引き摺ってでも彼を連れて行くべきだったのだ。きちんと自分の手で眠らせてやりたかった。雪の降らない、温かい場所に。美しい花が咲き乱れる常春の場所に。――でも。
彼は今、大切に想っていた人の傍で眠っている。養い親のセンゴクのすぐ近くにいる。どうして彼の傍にいるのがセンゴクで、自分ではないのかと、腹立だしく思わないことはないが、ようやく養父の元に戻ることができたのだから、我儘を言ってはいけない。そのうち、いつか自分がこの世を去る暁には、あの人の隣に眠らせて貰うことにしよう。それくらい、赦されて良いはずだ。きっと彼も喜んでくれる。自分にはもう帰る故郷はないのだし。海軍の敷地内にある墓地、というのが癪に障るが、あの人に免じてそこは目を瞑ることにする。彼の隣で穏やかな永遠の眠りを。天国には行けやしないだろうけれど。それでも構わない。
「コラさん、アンタのこと、この間センゴクから聞いたよ。本当はコラさんの口から聞きたかったけどな。まァ、あの旅の中じゃそんな暇も余裕もなかったから、仕方ねェけど。でもセンゴクから話を聞けて良かった。アンタは昔から……、優しい人だったんだな。本当に」
ローは手中にあるライターに独白する。何の変哲もない銀色のそれは彼の形見として先日、センゴクから譲り受けたものだ。D.R.と隅に刻印されたイニシャルを指先でなぞる。このライターは見覚えがあった。病院巡りの旅の最中、彼が使っているのを何度も目にしていたし、火を熾すためにロー自身も使ったことがあるからだ。
センゴクからの連絡は唐突だった。
『トラファルガーだな。数日前、お前に宛てて船の切符を送った。明日にも届くはずだ。切符に指定されている船に乗れ。島に到着したら迎えを寄越す。但し、その船に乗れないようなら破棄してくれて結構だ』
一体何の真似だと電伝虫越しに凄めば、カレンダーを見ろと言われた。おれに命令するなと前置きしてから、船長室の壁に掛けられたカレンダーに目を向けた。
今日は七月十四日。明日は、あの人の。
「食事にでも招いてくれるのかよ、センゴク」
皮肉を込めて言うと、まあそんなところだと疲れたような声が応じた。
「おれが素直に応じるとでも?」
『来るか来ないかはお前に任せる。無理強いはしない。こちらに来てくれるというのなら、お前にプレゼントをやろう』
「プレゼント? どういう風の吹き回しだ?」
『別に他意はない。ただ、私がそうしたいから、そうするだけだ。お前と茶を飲むこともな。明日はあの子の――』
――誕生日だから。
理由はそれだけで充分だった。
翌日、センゴクが言うように船のチケットを同封した手紙が届いた。一体どこでどうポーラータングが航海している場所を突き止めたのか、訝しく思う点はあったが、深く追求しないことにした。向こうは何て言ったって海軍様である。一海賊の追跡など、訳ないのだろう。もしかして積極的にロー達を捕まえに来ないのは、センゴクの計らいがあるのかもしれないとぼんやりと思った。それもきっと彼が関係している。
「本当に、アンタには敵わねェよ、コラさん」
彼の恩人は今頃雲の上でくしゃみでもしているかもしれない。
ローは近くの島に船をつけて上陸し、指定された船に乗った。クルー達にはこの島で一週間、待つように指示した。その際の、クルー達の不安げな様子と言ったら。
「キャプテン、ちゃんと約束通り戻って来るよね?」
ハートの海賊団の航海士は円らな瞳を潤ませてそう言った。
「またおれらを置いて、独りで無茶するつもりじゃないでしょうね?」
「そんなことするなら、おれも着いて行きますよ」
なあ、ペンギン、ベポ――シャチが言うと彼等は強く頷いた。
「だから、そんなんじゃねェよ。さっきも言ったが、ただセンゴクの爺と茶ァ飲むだけだ」
「本当に?」
「嘘じゃないっすよね?」
「お前等もしつこいな。嘘じゃねェって。信用ねーな」
そんなやり取りとクルー達をしながら、似たような押し問答を昔ロシナンテとしたな、と意識の片隅に思い浮かべる。彼と病院巡りの旅をした当初、彼が信用ならなくて疑ってばかりいたので。その度に、ロシナンテは「ちっとはコラさんを信用しろよな」困ったように顔を顰めていた。
「とにかく。約束の日時までには戻る。その間に船の整備をしておけ。小電伝虫を携帯していくから、何かあれば連絡しろ。船の留守を頼む」
「アイアイキャプテン!」
「気を付けていってらっしゃい!」
「お土産よろしくね!」
賑やかに送り出されたローは、土産はおかきだなと思いながら、指定された船に乗り込んだ。
半日ほど船に揺られて、再び陸に降りると果たしてセンゴクの言う通り、迎えの者が来ていた。見る者が見れば海兵とわかる屈強な風体の男が二人。が、周囲を慮ってか、服装は一般人と変わらない。ローは促されるままに用意された馬車に乗った。相手もローも、一切口を利かなかった。馬車に揺られることに時間ばかりして、漸く目的地に着いた。そこはワノ国の建物を模した広い邸宅だった。
「よく来たな、トラファルガー。遠路はるばるようこそ、我が家へ」
玄関で出迎えたのはすっかり頭と顎髭が白くなったセンゴクその人だった。センゴクは黒っぽい着流し姿で、普段目にしている海兵の制服とはまるで違った印象がった。躰こそ鍛えられているが、一見するところどこにでもいそうな好々爺然とした佇まいで、知将と畏れられた面影はない。ロシナンテも和服を着たらきっと見違えるようだろう。それに、海兵服も。海兵は厭うているが、一度くらいはロシナンテの海兵服姿をこの目で見たかったなと口惜しく思った。
「ぼんやりしてどうした? 疲れたか?」
「いや、別に」
あがりなさいと促されて、靴を脱ぐ。ここもワノ国と同じ作法なのだろう。と、屋敷の奥から女性が現れてそれとなく愛刀を取り上げられてしまった。単純に邪魔になるだろうからという気遣いであったが、ローはセンゴクが己を警戒しての処置だと思い込んだ。
「海楼石は良いのか?」
「必要なかろう」
「随分と余裕だな。おれの能力を使えば、てめェなんざ――」
「トラファルガー。先に言っておくが。私はお前とやり合うために招いた訳じゃない。今日はな。私はただのおいぼれ、お前もただの青年。祖父と孫だ」
「あァ?」
誰が孫だって?――ローは片眉を吊り上げる。が、凄まれてもセンゴクは動じない。丸眼鏡の奥で目を瞬かせてから、少し首を傾げる。お前、何言ってるんだ。
「だって孫だろう。ロシナンテはわたしの息子だし、お前はロシナンテの息子も同然だろう。だから孫だ」
「孫じゃねェよ! あの人はおれの親でもねェ。だってあの人のことおれは、」
そんなふうに見てない――言おうとして、咄嗟に口を噤んだ。これは誰にも言ってはいけない。たとえロシナンテ本人にも。否、彼だからこそ言えない。だって、彼のことを愛しているから。ロシナンテがくれた愛とは少しばかり違った形で。所謂、恋を含むそれ。親だとか孫だとかでは困るのだ。
「何だ、トラファルガー?」
「……何でもねェよ。――それより。電伝虫でアンタが言っていたプレゼントやらとは何だ?」
「ああ、その話か。それは後でゆっくり――と思ったが、その様子じゃ、落ち着いて話もできんな。先に案内しよう。こっちだ」
来なさいと言われてセンゴクの後に続く。細長い板張りの廊下を歩き、幾度か角を折れて、眺めの良い庭園の前を通る。随分広い屋敷だと思う。人払いをしているのか、屋敷内は酷く静かだった。海からもそれなりに離れているのか、潮騒も聞こえず、磯の香りもしない。海から離れているセンゴクの姿が奇妙に感じられて、目の前にいる男は一体誰なのだろうと訝しく思った。
センゴクはある部屋の前で立ち止まった。閉め切られた障子戸を開ける。冷えた空気が動いて、薄暗い室内に光線が投げ込まれた。
「入りなさい」
「……ここは……」
ローは敷居を跨いで、一歩室内に足を踏み込む。屋敷に不似合いな洋室。恐らく後から作り変えられたのだろうその部屋の壁に掛けられた白い制服が目に眩しい。誰の、と問わなくてもすぐに解かった。
「こんなところにおれを入れて良いのかよ」
「お前だから呼んだのだ。ガープの孫なら端から願い下げだがな」
騒々しい麦わら帽子の男を思い浮かべてローは独り納得する。
「――悪いが、少しの間独りにしてくれねェか」
「それは一向に構わんが。――この部屋の中で欲しい物があったら持っていきなさい」
ローは金色の瞳を見開いてセンゴクを見た。
「良いのか?」
「ああ。それがお前へのプレゼントだ」
「……何で、」
「それは、お前がわたしの孫だからな。孫には愛されたいんだ」
「だから孫じゃねェよ!」
がなり立てるとセンゴクは愉快そうにからからと笑った。
「気が済むまで部屋にいると良い。私は先に居間行っている。居間はこの廊下の先だ。迷うことはないと思うが」
「ああ、恩に着る」
センゴクはまた後でと言い残して静かに立ち去った。ローは後ろ手で障子を閉めると帽子を脱いだ。その場に頽れそうになるのを、大きく息吐いて堪え、帽子の鍔を握り込む。何度か深呼吸をした後、足音を忍ばせて部屋の中央に進む。薄暗い室内に視線を巡らす。部屋の隅に置かれた机、本棚、壁に掛けられた世界地図。ボトルシップ、染み一つない真っ白な制服、綺麗に整えられたベッド。ローは壁に掛けられた、もう二度と袖を通されることない白きそれに歩み寄って手を触れた。そうしたら、もう駄目だった。
「……コラさん」
呟いた声音は濡れていた。皺になってしまうと思いながら、白い制服を抱き締めて顔を埋める。
いつかあったかもしれない眩い未来。彼が生きた正義の証。自分がこうして触れることは終ぞないと思われたのに。
「コラさん、コラさん、コラさ……、アンタ何で……、」
――自分はもう助かる見込みはないと知りながら、おれを助けたの。
――どうして独りにしたの。
――一緒に生きたかったのに。
「……世界中を旅しようって……言った癖に……、」
泣いても訊ねても駄々をこねても、答えは返ってこない。彼はもういない。どこにも。
「――アンタ、嘘つきだ」
解かっている。本当は全部。後になって理解した、全てを。
憎めるはずがない。恨めるはずがない。どんなに嘘つきでも、酷い男だと思っても。だってこんなにも彼のことが好きで、愛しているから。彼は文字通り命を賭けて、全身全霊で自分を愛し、守ってくれた。そこに一片の嘘もない。最後に愛してると言ったことも、隣町で落ち合おうと言ったことも、世界中を旅しようと言ったことも、全部。彼が果たしたかった約束。誓い。愛の言葉。だから。あの時伝えられなかった言葉を。今、ここで。
「……コラさん、おれも愛してるよ」
落涙が音もなく白い制服を濡らしていく。
「悪い、待たせた」
三十分後、ローは表情を変えないまま居間に現れた。が、泣いていたのは隠しようもなかった。目深に被った帽子の下の両目が赤かったので。だがセンゴクは何も言わなかった。何気ない顔をして読み耽っていた本を閉じ、ローに座布団の上に座るように促すと使用人に茶を淹れるように命じた。
「海軍おかき、食うか?」
美味いぞと差し出された菓子皿に盛られたおかきをローは一つ摘まんで食した。醤油味のそれは確かに美味かった。出汁の風味も良く効いているが、塩味も強い。こんなものを毎日食ってたら高血圧になるじゃねェのか。
程なくして運ばれて来た緑茶に口を付けながら家主を瞥見する。センゴクは上機嫌なふうで、美味そうにバリバリとおかきを齧っていた。
「――それで、欲しい物はあったか?」
「ああ。これを貰っていく」
ズボンのポケットから取り出してセンゴクに見せた。古びた銀色のライター。持ち主のイニシャルが彫られていることから、恐らく誰かからの――もしかしたら目の前に座る養父からの贈り物だろうと推測された。それは駄目だと却下される覚悟はしていたが、予想に反してセンゴクは「それだけで良いのか?」と訊ねてきた。
「他に欲しい物があれば……」
「いや、おれはこれで充分だ」
本当は彼愛用の銃も手元に欲しい気持ちもあったが、海賊の自分がおいそれと手に触れて良い代物ではないと思い直して止したのだ。あの銃は己の正義を貫き通した彼しか扱ってはいけない――そんなふうに思ったので。
ロシナンテにとっても、ローにとっても、ドフラミンゴを撃ち抜けなかったあの銃は神聖な、それこそ聖具と言って良いほどのものなのだ。あの銃に触れる時は、銃口を頭に、あるいは心臓に突きつけられた時だけだ。あの人の手によって。ロシナンテになら撃たれても良いと思った。命を差し出せと命じられたなら、喜んでそうしただろう。想像をするだけで躰に震えがくるほどの甘美な死。――莫迦言ってんじゃねェって怒るかな、コラさんは。
「それに、このライターにはそれなりにおれの思い入れもあるんでね」
親指の腹でライターの蓋を開ける。子供の手にはずっしり重たい手応えがあったライターは、今となっては少し頼りない質量に感じられた。
「思い入れ?」
ローは小さく頷くとふっと眦を緩め、遠くに揺曳する記憶を見詰める。懐かしく、愛おしい記憶。優しく、とても温かい、それ。
「時々コラさんの煙草に火を着けたり、焚火をするのに使ったりな。あの人はドジだったから、火を使わせると危ねェんだよ。自分を燃やすから。見ちゃおれねェ」
煙草に火を着けるだけなのにうっかり肩を燃やすのは日常茶飯事で、いつだったか、落葉を集めて焼き芋をした時も危うく火だるまになるところだったのだ。それを見てからというもの、火を扱うのは主にローの役目になった。それでも煙草に火を着けるのは五回に一度あるかないかの割合だったが。流石に子供にはそんなことはさせられないと思っていたらしい。どこまでも真っ当な人だった――いや、違う。出会って最初に子供の頭を掴んで鉄屑山にぶん投げる奴が真っ当なはずがない。幾ら不当な扱いを受けたからといって、怒りに任せて医者を殴り倒し、病院を爆破するような人間がいるだろうか。
「あの人は強引でめちゃくちゃで、とんでもねェ規格外のドジだったけど。――でも、真っ直ぐで誰よりも優しい人だった」
辛いことも多かったけれど、彼との病院巡りの旅をした半年間はかけがえのない、幸せな時間だった。今でも時折思い出しては、心の奥底にある宝箱の奥底に仕舞い込んで。かつて彼がローにそうしたように。静かに、そっと、壊れ物を扱うように。大切に、鍵をかけて。
「なァ、センゴク。ガキの頃のコラさんはどんなふうだったんだ?」
机の上に飾られた写真立てには幼い頃のロシナンテと若いセンゴクが並んで写っている写真が入っていた。それを見て、あの人にもこんな時代があったのかと不思議な感慨を覚えた。
問われたセンゴクは一口茶を啜ると、ほうと息吐いて、のんびりとした口調で告げる。
「幼い頃のロシナンテは、泣き虫で怖がりな、憶病な子だったよ。声も小さくて、物静かな子だった」
それは恐らく、彼の幼少期起きた凶事――天竜人だと迫害されたところが大きいだろうとセンゴクはふんでいた。年端も行かない子が大勢の人間に謂れのない憎悪と剥き出しの殺意を向けられたのだ。その影響は決して無視できない。
もし、あの時。
彼の兄も一緒に保護できていたら――きっともっと違った未来があったはずだと思わずにはいられない。詮無いことだとは解っていても。もしもを考えてしまう。
「躰が大きくなっていくにつれて、憶病さや泣き虫は引っ込んで、いつの間にか物怖じしない立派な子に成長したよ。お前が言ったように真っ直ぐで、正義感が強い、心の優しい子に。いや、優しいのは初めからか。だが、ロシナンテが海兵になると言い出した時は驚いたよ。嬉しい反面、あの子には危険の少ない生き方をして欲しかったのが本音だ」
「そりゃ、無理な相談だな、センゴク」
しんみりとしている老爺にローはにやりと嗤う。
「他でもないアンタの背中を見て育ったんだ。餅屋は餅屋。蛙の子は蛙だ。アンタが強くて立派な海兵だったからコラさんも憧れたんだろ。それで、その通りになった」
強くて優しい、正義感の溢れる海兵に。
だから今、ローはここにいる。
彼の愛と正義に生かされたから。
「……わたしはあの子の親として立派にやれただろうか」
センゴクは手元の湯飲みを覗き込む。残り僅かな緑茶の表面に歪んだ虚像が浮かんでいる。知将と畏れられ、尊敬される男に不似合いな表情。今にも泣き出しそうな、弱々しい顔。アンタがそんな顔すんなよ。
「訊く相手を間違ってると思うが。――アンタは立派な親だった。おれが今生きているのがその証拠だ」
センゴクは打たれたように俯けた顔を上げてローを見た。金色の鋭い眼。真っ直ぐに己を見据える強い意志を宿した瞳に愛し子のそれが重なる。――ああ、やはり彼等は。
似ている。
「本当に、そう思うか?」
「孫の言うことをちったァ信用しろよ、クソ爺」
何でもないことのように告げるローの顔を見てセンゴクは僅かに目を見開いた後、破顔一笑した。
ローは短くなった煙草を吸う。紫煙が海風に浚われていく。
「……そういえば、アンタがナギナギの実を食った経緯を聞いたよ。立派な海兵になりたくて食っちまったって、センゴクが言ってた」
コラさんは本当に根っからの海兵なんだな――ふとローは笑う。
ロシナンテがナギナギの実を食べた経緯はこうだ。
――ナギナギの実は、元々誰にも食べさせるつもりはなくてな。海軍が悪魔の実の研究用に見つけて確保していたのだ。まさかロシナンテが食べるとは思わなくて……わたしも大丈夫だと油断していたのがいけなかった。ロシナンテはある時、わたしの執務室に入って研究所へ回そうと置いてあった悪魔の実を食べてしまったのだ。海に嫌われることや、どんな能力があるかも知らずに。後で理由を聞いたら、わたしの役に立てるような立派な海兵になるためだとな。悪魔の実など食わんでも、あの子は素晴らしい海兵になれたというのに。だが――、
「おれ、ガキの頃、ナギナギの能力を莫迦にしたことあったけど。あれは取り消すよ。ごめん、コラさん」
――あの能力は、心根の優しいロシナンテにぴったりの能力だと思ったよ。物理的に誰も傷付けない。優しい、魔法のような能力だ。
そうセンゴクは言って、穏やかに微笑んでいた。
ローは煙草を海の中へ投げ捨てた。あっと言う間に波に紛れて見えなくなる。それからライターの火を灯す。小さな赤い炎に彼の綺麗な瞳が重なる。手に包めるだけの小さな火は暖かく、優しい。まるでロシナンテのようだ。
さっとローの顔を旭が照らす。
夜明けだ。
新しい、朝。
生まれたばかりの、今日。
眩いばかりの黄金の光にローは目を眇める。
「コラさん、アンタを連れていくよ。おれの夢の果てまで」
――だから一緒に行こう。どこまでも、二人で。世界中を旅しよう。
追憶の炎は消えることなくゆらめき、航路の行き先を示して、燃え続けている。
(了)
久し振りに海面浮上したポーラータングの甲板の上でローは愛刀を抱えて佇んでいた。穏やかな海風が心地よい。春島が近いのか、心なしか吹き付ける潮風も柔らかく、温かった。ローは手摺に重心を傾けながら西空の果てにその姿を消そうとしている欠けた月を静かに眺めた。夜明け前の空はまだ紫紺色に覆われており、金銀に星が煌めている。太陽が顔を出すまではまだ時間を要した。航路を取っている数名を除いてクルー達もまだ夢の中だ。ローがこのような時間に起きていることは珍しくはなかった。昨晩から寝ていないのだ。別に何があった訳ではない。ただ、本を読み耽っているうちにいつの間にか現時刻になってしまっただけだ。徹夜は慣れている。一晩くらい寝なくても特に問題はなかった。そんなことを言えばペンギン辺りが眉を吊り上げて無理にでも我が愛すべきキャプテンをベッドに押し込むだろうが。ふとそんな想像をしてローは独り笑った。
目醒めたばかりの海鳥の群れが視界を横切っていく。寂しげな啼き声が潮騒にのって響いた。彼等はどこまでゆくのだろう。真直ぐに、迷わずに、風を味方にどこまでも飛んでいく。仲間と共に。
ローは海鳥の囀りに耳を傾けながら、ズボンのポケットから煙草を取り出すと一本口の端に咥え、ライターで火を着けた。吸い慣れない煙草は酷く苦く、煙に咽て咳き込んだ。眉間に皺を寄せて、あの人はこんなにきつい煙草を吸っていたのかと、今更のように思う。彼は四六時中煙草を吹かしていたから、今彼の肺を診たらきっと真っ黒になっているに違いない。
煙草は百害あって一利なし。進んで吸うものではないが、それでも懐かしい匂いが恋しくて、たまに喫む分にはそう悪くない――まだ夜を湛えた海に灰を散らす。
「――煙草の吸い方、教えて欲しかったよ、コラさん」
手の中で古びたライターを弄びながら、ひっそりと呟く。
彼がローに教えたのは、愛、ただそれだけだ。煙草の吸い方を教えるより、よっぽど難しい。一番、人に教えがたいものを、与えようとしてもなかなかどうして上手くはいかない大きすぎるものを、いとも容易く遺して、彼は逝ってしまった。
そして自分はあの冷たい雪の中に独り置き去りにしてしまった。あの時、どんなに彼は寒くて寂しかっただろうか。それを思うと胸を掻き毟りたいような後悔に襲われる。彼が命を落とすことを避けられなかったとしても、あの場にたった独りにするべきではなかったと思う。引き摺ってでも彼を連れて行くべきだったのだ。きちんと自分の手で眠らせてやりたかった。雪の降らない、温かい場所に。美しい花が咲き乱れる常春の場所に。――でも。
彼は今、大切に想っていた人の傍で眠っている。養い親のセンゴクのすぐ近くにいる。どうして彼の傍にいるのがセンゴクで、自分ではないのかと、腹立だしく思わないことはないが、ようやく養父の元に戻ることができたのだから、我儘を言ってはいけない。そのうち、いつか自分がこの世を去る暁には、あの人の隣に眠らせて貰うことにしよう。それくらい、赦されて良いはずだ。きっと彼も喜んでくれる。自分にはもう帰る故郷はないのだし。海軍の敷地内にある墓地、というのが癪に障るが、あの人に免じてそこは目を瞑ることにする。彼の隣で穏やかな永遠の眠りを。天国には行けやしないだろうけれど。それでも構わない。
「コラさん、アンタのこと、この間センゴクから聞いたよ。本当はコラさんの口から聞きたかったけどな。まァ、あの旅の中じゃそんな暇も余裕もなかったから、仕方ねェけど。でもセンゴクから話を聞けて良かった。アンタは昔から……、優しい人だったんだな。本当に」
ローは手中にあるライターに独白する。何の変哲もない銀色のそれは彼の形見として先日、センゴクから譲り受けたものだ。D.R.と隅に刻印されたイニシャルを指先でなぞる。このライターは見覚えがあった。病院巡りの旅の最中、彼が使っているのを何度も目にしていたし、火を熾すためにロー自身も使ったことがあるからだ。
センゴクからの連絡は唐突だった。
『トラファルガーだな。数日前、お前に宛てて船の切符を送った。明日にも届くはずだ。切符に指定されている船に乗れ。島に到着したら迎えを寄越す。但し、その船に乗れないようなら破棄してくれて結構だ』
一体何の真似だと電伝虫越しに凄めば、カレンダーを見ろと言われた。おれに命令するなと前置きしてから、船長室の壁に掛けられたカレンダーに目を向けた。
今日は七月十四日。明日は、あの人の。
「食事にでも招いてくれるのかよ、センゴク」
皮肉を込めて言うと、まあそんなところだと疲れたような声が応じた。
「おれが素直に応じるとでも?」
『来るか来ないかはお前に任せる。無理強いはしない。こちらに来てくれるというのなら、お前にプレゼントをやろう』
「プレゼント? どういう風の吹き回しだ?」
『別に他意はない。ただ、私がそうしたいから、そうするだけだ。お前と茶を飲むこともな。明日はあの子の――』
――誕生日だから。
理由はそれだけで充分だった。
翌日、センゴクが言うように船のチケットを同封した手紙が届いた。一体どこでどうポーラータングが航海している場所を突き止めたのか、訝しく思う点はあったが、深く追求しないことにした。向こうは何て言ったって海軍様である。一海賊の追跡など、訳ないのだろう。もしかして積極的にロー達を捕まえに来ないのは、センゴクの計らいがあるのかもしれないとぼんやりと思った。それもきっと彼が関係している。
「本当に、アンタには敵わねェよ、コラさん」
彼の恩人は今頃雲の上でくしゃみでもしているかもしれない。
ローは近くの島に船をつけて上陸し、指定された船に乗った。クルー達にはこの島で一週間、待つように指示した。その際の、クルー達の不安げな様子と言ったら。
「キャプテン、ちゃんと約束通り戻って来るよね?」
ハートの海賊団の航海士は円らな瞳を潤ませてそう言った。
「またおれらを置いて、独りで無茶するつもりじゃないでしょうね?」
「そんなことするなら、おれも着いて行きますよ」
なあ、ペンギン、ベポ――シャチが言うと彼等は強く頷いた。
「だから、そんなんじゃねェよ。さっきも言ったが、ただセンゴクの爺と茶ァ飲むだけだ」
「本当に?」
「嘘じゃないっすよね?」
「お前等もしつこいな。嘘じゃねェって。信用ねーな」
そんなやり取りとクルー達をしながら、似たような押し問答を昔ロシナンテとしたな、と意識の片隅に思い浮かべる。彼と病院巡りの旅をした当初、彼が信用ならなくて疑ってばかりいたので。その度に、ロシナンテは「ちっとはコラさんを信用しろよな」困ったように顔を顰めていた。
「とにかく。約束の日時までには戻る。その間に船の整備をしておけ。小電伝虫を携帯していくから、何かあれば連絡しろ。船の留守を頼む」
「アイアイキャプテン!」
「気を付けていってらっしゃい!」
「お土産よろしくね!」
賑やかに送り出されたローは、土産はおかきだなと思いながら、指定された船に乗り込んだ。
半日ほど船に揺られて、再び陸に降りると果たしてセンゴクの言う通り、迎えの者が来ていた。見る者が見れば海兵とわかる屈強な風体の男が二人。が、周囲を慮ってか、服装は一般人と変わらない。ローは促されるままに用意された馬車に乗った。相手もローも、一切口を利かなかった。馬車に揺られることに時間ばかりして、漸く目的地に着いた。そこはワノ国の建物を模した広い邸宅だった。
「よく来たな、トラファルガー。遠路はるばるようこそ、我が家へ」
玄関で出迎えたのはすっかり頭と顎髭が白くなったセンゴクその人だった。センゴクは黒っぽい着流し姿で、普段目にしている海兵の制服とはまるで違った印象がった。躰こそ鍛えられているが、一見するところどこにでもいそうな好々爺然とした佇まいで、知将と畏れられた面影はない。ロシナンテも和服を着たらきっと見違えるようだろう。それに、海兵服も。海兵は厭うているが、一度くらいはロシナンテの海兵服姿をこの目で見たかったなと口惜しく思った。
「ぼんやりしてどうした? 疲れたか?」
「いや、別に」
あがりなさいと促されて、靴を脱ぐ。ここもワノ国と同じ作法なのだろう。と、屋敷の奥から女性が現れてそれとなく愛刀を取り上げられてしまった。単純に邪魔になるだろうからという気遣いであったが、ローはセンゴクが己を警戒しての処置だと思い込んだ。
「海楼石は良いのか?」
「必要なかろう」
「随分と余裕だな。おれの能力を使えば、てめェなんざ――」
「トラファルガー。先に言っておくが。私はお前とやり合うために招いた訳じゃない。今日はな。私はただのおいぼれ、お前もただの青年。祖父と孫だ」
「あァ?」
誰が孫だって?――ローは片眉を吊り上げる。が、凄まれてもセンゴクは動じない。丸眼鏡の奥で目を瞬かせてから、少し首を傾げる。お前、何言ってるんだ。
「だって孫だろう。ロシナンテはわたしの息子だし、お前はロシナンテの息子も同然だろう。だから孫だ」
「孫じゃねェよ! あの人はおれの親でもねェ。だってあの人のことおれは、」
そんなふうに見てない――言おうとして、咄嗟に口を噤んだ。これは誰にも言ってはいけない。たとえロシナンテ本人にも。否、彼だからこそ言えない。だって、彼のことを愛しているから。ロシナンテがくれた愛とは少しばかり違った形で。所謂、恋を含むそれ。親だとか孫だとかでは困るのだ。
「何だ、トラファルガー?」
「……何でもねェよ。――それより。電伝虫でアンタが言っていたプレゼントやらとは何だ?」
「ああ、その話か。それは後でゆっくり――と思ったが、その様子じゃ、落ち着いて話もできんな。先に案内しよう。こっちだ」
来なさいと言われてセンゴクの後に続く。細長い板張りの廊下を歩き、幾度か角を折れて、眺めの良い庭園の前を通る。随分広い屋敷だと思う。人払いをしているのか、屋敷内は酷く静かだった。海からもそれなりに離れているのか、潮騒も聞こえず、磯の香りもしない。海から離れているセンゴクの姿が奇妙に感じられて、目の前にいる男は一体誰なのだろうと訝しく思った。
センゴクはある部屋の前で立ち止まった。閉め切られた障子戸を開ける。冷えた空気が動いて、薄暗い室内に光線が投げ込まれた。
「入りなさい」
「……ここは……」
ローは敷居を跨いで、一歩室内に足を踏み込む。屋敷に不似合いな洋室。恐らく後から作り変えられたのだろうその部屋の壁に掛けられた白い制服が目に眩しい。誰の、と問わなくてもすぐに解かった。
「こんなところにおれを入れて良いのかよ」
「お前だから呼んだのだ。ガープの孫なら端から願い下げだがな」
騒々しい麦わら帽子の男を思い浮かべてローは独り納得する。
「――悪いが、少しの間独りにしてくれねェか」
「それは一向に構わんが。――この部屋の中で欲しい物があったら持っていきなさい」
ローは金色の瞳を見開いてセンゴクを見た。
「良いのか?」
「ああ。それがお前へのプレゼントだ」
「……何で、」
「それは、お前がわたしの孫だからな。孫には愛されたいんだ」
「だから孫じゃねェよ!」
がなり立てるとセンゴクは愉快そうにからからと笑った。
「気が済むまで部屋にいると良い。私は先に居間行っている。居間はこの廊下の先だ。迷うことはないと思うが」
「ああ、恩に着る」
センゴクはまた後でと言い残して静かに立ち去った。ローは後ろ手で障子を閉めると帽子を脱いだ。その場に頽れそうになるのを、大きく息吐いて堪え、帽子の鍔を握り込む。何度か深呼吸をした後、足音を忍ばせて部屋の中央に進む。薄暗い室内に視線を巡らす。部屋の隅に置かれた机、本棚、壁に掛けられた世界地図。ボトルシップ、染み一つない真っ白な制服、綺麗に整えられたベッド。ローは壁に掛けられた、もう二度と袖を通されることない白きそれに歩み寄って手を触れた。そうしたら、もう駄目だった。
「……コラさん」
呟いた声音は濡れていた。皺になってしまうと思いながら、白い制服を抱き締めて顔を埋める。
いつかあったかもしれない眩い未来。彼が生きた正義の証。自分がこうして触れることは終ぞないと思われたのに。
「コラさん、コラさん、コラさ……、アンタ何で……、」
――自分はもう助かる見込みはないと知りながら、おれを助けたの。
――どうして独りにしたの。
――一緒に生きたかったのに。
「……世界中を旅しようって……言った癖に……、」
泣いても訊ねても駄々をこねても、答えは返ってこない。彼はもういない。どこにも。
「――アンタ、嘘つきだ」
解かっている。本当は全部。後になって理解した、全てを。
憎めるはずがない。恨めるはずがない。どんなに嘘つきでも、酷い男だと思っても。だってこんなにも彼のことが好きで、愛しているから。彼は文字通り命を賭けて、全身全霊で自分を愛し、守ってくれた。そこに一片の嘘もない。最後に愛してると言ったことも、隣町で落ち合おうと言ったことも、世界中を旅しようと言ったことも、全部。彼が果たしたかった約束。誓い。愛の言葉。だから。あの時伝えられなかった言葉を。今、ここで。
「……コラさん、おれも愛してるよ」
落涙が音もなく白い制服を濡らしていく。
「悪い、待たせた」
三十分後、ローは表情を変えないまま居間に現れた。が、泣いていたのは隠しようもなかった。目深に被った帽子の下の両目が赤かったので。だがセンゴクは何も言わなかった。何気ない顔をして読み耽っていた本を閉じ、ローに座布団の上に座るように促すと使用人に茶を淹れるように命じた。
「海軍おかき、食うか?」
美味いぞと差し出された菓子皿に盛られたおかきをローは一つ摘まんで食した。醤油味のそれは確かに美味かった。出汁の風味も良く効いているが、塩味も強い。こんなものを毎日食ってたら高血圧になるじゃねェのか。
程なくして運ばれて来た緑茶に口を付けながら家主を瞥見する。センゴクは上機嫌なふうで、美味そうにバリバリとおかきを齧っていた。
「――それで、欲しい物はあったか?」
「ああ。これを貰っていく」
ズボンのポケットから取り出してセンゴクに見せた。古びた銀色のライター。持ち主のイニシャルが彫られていることから、恐らく誰かからの――もしかしたら目の前に座る養父からの贈り物だろうと推測された。それは駄目だと却下される覚悟はしていたが、予想に反してセンゴクは「それだけで良いのか?」と訊ねてきた。
「他に欲しい物があれば……」
「いや、おれはこれで充分だ」
本当は彼愛用の銃も手元に欲しい気持ちもあったが、海賊の自分がおいそれと手に触れて良い代物ではないと思い直して止したのだ。あの銃は己の正義を貫き通した彼しか扱ってはいけない――そんなふうに思ったので。
ロシナンテにとっても、ローにとっても、ドフラミンゴを撃ち抜けなかったあの銃は神聖な、それこそ聖具と言って良いほどのものなのだ。あの銃に触れる時は、銃口を頭に、あるいは心臓に突きつけられた時だけだ。あの人の手によって。ロシナンテになら撃たれても良いと思った。命を差し出せと命じられたなら、喜んでそうしただろう。想像をするだけで躰に震えがくるほどの甘美な死。――莫迦言ってんじゃねェって怒るかな、コラさんは。
「それに、このライターにはそれなりにおれの思い入れもあるんでね」
親指の腹でライターの蓋を開ける。子供の手にはずっしり重たい手応えがあったライターは、今となっては少し頼りない質量に感じられた。
「思い入れ?」
ローは小さく頷くとふっと眦を緩め、遠くに揺曳する記憶を見詰める。懐かしく、愛おしい記憶。優しく、とても温かい、それ。
「時々コラさんの煙草に火を着けたり、焚火をするのに使ったりな。あの人はドジだったから、火を使わせると危ねェんだよ。自分を燃やすから。見ちゃおれねェ」
煙草に火を着けるだけなのにうっかり肩を燃やすのは日常茶飯事で、いつだったか、落葉を集めて焼き芋をした時も危うく火だるまになるところだったのだ。それを見てからというもの、火を扱うのは主にローの役目になった。それでも煙草に火を着けるのは五回に一度あるかないかの割合だったが。流石に子供にはそんなことはさせられないと思っていたらしい。どこまでも真っ当な人だった――いや、違う。出会って最初に子供の頭を掴んで鉄屑山にぶん投げる奴が真っ当なはずがない。幾ら不当な扱いを受けたからといって、怒りに任せて医者を殴り倒し、病院を爆破するような人間がいるだろうか。
「あの人は強引でめちゃくちゃで、とんでもねェ規格外のドジだったけど。――でも、真っ直ぐで誰よりも優しい人だった」
辛いことも多かったけれど、彼との病院巡りの旅をした半年間はかけがえのない、幸せな時間だった。今でも時折思い出しては、心の奥底にある宝箱の奥底に仕舞い込んで。かつて彼がローにそうしたように。静かに、そっと、壊れ物を扱うように。大切に、鍵をかけて。
「なァ、センゴク。ガキの頃のコラさんはどんなふうだったんだ?」
机の上に飾られた写真立てには幼い頃のロシナンテと若いセンゴクが並んで写っている写真が入っていた。それを見て、あの人にもこんな時代があったのかと不思議な感慨を覚えた。
問われたセンゴクは一口茶を啜ると、ほうと息吐いて、のんびりとした口調で告げる。
「幼い頃のロシナンテは、泣き虫で怖がりな、憶病な子だったよ。声も小さくて、物静かな子だった」
それは恐らく、彼の幼少期起きた凶事――天竜人だと迫害されたところが大きいだろうとセンゴクはふんでいた。年端も行かない子が大勢の人間に謂れのない憎悪と剥き出しの殺意を向けられたのだ。その影響は決して無視できない。
もし、あの時。
彼の兄も一緒に保護できていたら――きっともっと違った未来があったはずだと思わずにはいられない。詮無いことだとは解っていても。もしもを考えてしまう。
「躰が大きくなっていくにつれて、憶病さや泣き虫は引っ込んで、いつの間にか物怖じしない立派な子に成長したよ。お前が言ったように真っ直ぐで、正義感が強い、心の優しい子に。いや、優しいのは初めからか。だが、ロシナンテが海兵になると言い出した時は驚いたよ。嬉しい反面、あの子には危険の少ない生き方をして欲しかったのが本音だ」
「そりゃ、無理な相談だな、センゴク」
しんみりとしている老爺にローはにやりと嗤う。
「他でもないアンタの背中を見て育ったんだ。餅屋は餅屋。蛙の子は蛙だ。アンタが強くて立派な海兵だったからコラさんも憧れたんだろ。それで、その通りになった」
強くて優しい、正義感の溢れる海兵に。
だから今、ローはここにいる。
彼の愛と正義に生かされたから。
「……わたしはあの子の親として立派にやれただろうか」
センゴクは手元の湯飲みを覗き込む。残り僅かな緑茶の表面に歪んだ虚像が浮かんでいる。知将と畏れられ、尊敬される男に不似合いな表情。今にも泣き出しそうな、弱々しい顔。アンタがそんな顔すんなよ。
「訊く相手を間違ってると思うが。――アンタは立派な親だった。おれが今生きているのがその証拠だ」
センゴクは打たれたように俯けた顔を上げてローを見た。金色の鋭い眼。真っ直ぐに己を見据える強い意志を宿した瞳に愛し子のそれが重なる。――ああ、やはり彼等は。
似ている。
「本当に、そう思うか?」
「孫の言うことをちったァ信用しろよ、クソ爺」
何でもないことのように告げるローの顔を見てセンゴクは僅かに目を見開いた後、破顔一笑した。
ローは短くなった煙草を吸う。紫煙が海風に浚われていく。
「……そういえば、アンタがナギナギの実を食った経緯を聞いたよ。立派な海兵になりたくて食っちまったって、センゴクが言ってた」
コラさんは本当に根っからの海兵なんだな――ふとローは笑う。
ロシナンテがナギナギの実を食べた経緯はこうだ。
――ナギナギの実は、元々誰にも食べさせるつもりはなくてな。海軍が悪魔の実の研究用に見つけて確保していたのだ。まさかロシナンテが食べるとは思わなくて……わたしも大丈夫だと油断していたのがいけなかった。ロシナンテはある時、わたしの執務室に入って研究所へ回そうと置いてあった悪魔の実を食べてしまったのだ。海に嫌われることや、どんな能力があるかも知らずに。後で理由を聞いたら、わたしの役に立てるような立派な海兵になるためだとな。悪魔の実など食わんでも、あの子は素晴らしい海兵になれたというのに。だが――、
「おれ、ガキの頃、ナギナギの能力を莫迦にしたことあったけど。あれは取り消すよ。ごめん、コラさん」
――あの能力は、心根の優しいロシナンテにぴったりの能力だと思ったよ。物理的に誰も傷付けない。優しい、魔法のような能力だ。
そうセンゴクは言って、穏やかに微笑んでいた。
ローは煙草を海の中へ投げ捨てた。あっと言う間に波に紛れて見えなくなる。それからライターの火を灯す。小さな赤い炎に彼の綺麗な瞳が重なる。手に包めるだけの小さな火は暖かく、優しい。まるでロシナンテのようだ。
さっとローの顔を旭が照らす。
夜明けだ。
新しい、朝。
生まれたばかりの、今日。
眩いばかりの黄金の光にローは目を眇める。
「コラさん、アンタを連れていくよ。おれの夢の果てまで」
――だから一緒に行こう。どこまでも、二人で。世界中を旅しよう。
追憶の炎は消えることなくゆらめき、航路の行き先を示して、燃え続けている。
(了)
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