とこしえ


 好きだよ伽羅ちゃん――燭台切光忠はショートグローブに包まれた大倶利伽羅の手を取り、酷く真剣な眼差しを向ける。太刀を振るう時とはまた違ったその表情は初めて見るものだった。何処か思い詰めたような彼の様子に、咄嗟に大倶利伽羅は掴まれた手を振りほどけなかった。
「……あんたが何を言っているのか判らないな」
 努めて大倶利伽羅は冷淡に告げる。と、目の前のおとこは僅かに張り詰めていた雰囲気を和らげて「それなら言い方を変えよう。僕は君に恋してる。だから伽羅ちゃんには僕のことを同じように想って欲しいし、恋仲になって欲しい」掴んだ手に額ずいた。
「その話は承服しかねる」
 馴れ合うつもりはないと半ば口癖になっている台詞を吐くと光忠は些か困惑して眉根を寄せる。 
「ねぇ、伽羅ちゃん。何も今直ぐ返事が欲しいわけじゃないんだ。いきなりこんなことを言われて戸惑うのも無理ないだろうし、驚かせて申し訳ないとも思う。でも僕は自分の気持ちに嘘は吐けない。勝手なのは重々承知の上で再度お願いするけれど、考えてみてくれないかな」
 光忠は丁寧な口調で言いながら愛おしむようにそっとグローブの上から大倶利伽羅の手を撫でた。刹那、大倶利伽羅の心の臓がどくりと慄える。
「考えるまでもない。あんたの気持ちに応えることはない」
 この話は終わりだ――大倶利伽羅は光忠の手を振りほどき、彼が引き止めるのも構わず足早にその場を立ち去った。伽羅ちゃん待って――そんな声を背中に聞いたが、大倶利伽羅はまるで聞こえないふりをした。光忠は後を追っては来なかった。

 ◆◆◆

 大倶利伽羅が光忠の告白を受けてから半月が過ぎた。光忠の態度はこれまでと全くと言って良いほど変わらなかった。朝起きればおはようを言い、大倶利伽羅が遠征や出陣から戻ればお疲れ様と労う。内番の仕事も嫌がらずにきちんとこなし、厨番に至っては毎回楽しそうにその腕を振るう。「薩摩芋がたくさん獲れたからスイートポテトパイと大学芋を作ってみたよ。皆の口に合うと良いんだけど」お八つ作りにも余念がない。主命が下れば出陣し、自らの名を体現するが如く鋭利な太刀で敵を薙ぎ払っては誉を多く得、八面六臂の大活躍である。顕現して一年、燭台切光忠という刀剣男士は本丸において無くてはならない大きな存在となっていた。
 
「みっちゃんは何でも卒なくこなせて凄いよなあ。この間も誉取ってたし。なあ伽羅」
 太鼓鐘貞宗が無邪気に笑いながら隣で植えた大根を掘り返している大倶利伽羅に同意を求めると「単にやるべきことをやってるだけだろう」素っ気ない返事が返ってくる。
 今日は貞宗と大倶利伽羅が畑当番である。頭上には雲ひとつない晴天が広がっているが、冬だけあってそれなりに冷える。早いとこ作業を終えて室内に戻ろう昼餉は確か鍋焼きうどんだったよな――貞宗は土鍋の中でぐつぐつと煮えているうどんを思い浮かべつつ、土中から大振りな大根を引き抜いた。立派に育った大根の白さが目に眩しい。作物が良く育つのも光忠が肥料に拘っているからだろう。その肥料に関しては賛否あるようだが。
「相変わらず伽羅は素直じゃないなあ」
「思ったことを言ったまでだ」
「だからそういうところがさ〜。素直にみっちゃんのこと褒めたら良いのに」
 不満そうに口角を下げる貞宗に対して「無駄口を叩いてないで手を動かせ」大倶利伽羅はにべもない。貞宗は作業はちゃんとやってるよと小さく抗議してから声のトーンを落として隣を見ないまま告げる。
「最近、みっちゃんと喧嘩でもした?」
 思わぬ彼の言葉に大倶利伽羅はと胸を衝かれたように瞠目した。訪れた沈黙を貞宗は肯定と捉えて更に言葉を重ねる。
「俺嫌だよ。みっちゃんと伽羅が喧嘩してるの。そりゃ伽羅は他のやつと一緒にいるのが好きじゃないのは判ってるけどさ。でも俺達――鶴さんも含めて――変に距離を置いたり、よそよそしく振舞ったり、諍うのは寂しいよ」
 せっかくまた皆会えたのに――普段の明朗快活な気質はどこへやら、貞宗は悄気しょげ返って肩を落とす。彼の態度に幾許かの罪悪感を憶えた大倶利伽羅は「光忠とは喧嘩してない」感情をのせずに短く釈明した。
「あいつが何か貞に言ったのか」
「そうじゃなくてさ、たまにみっちゃんが何か言いたそうに伽羅のこと見てるから。それに伽羅だって何となくみっちゃんのこと避けてる感じだし。だから喧嘩でもしたのかなって気になって」
「それは初耳だな。別に俺は光忠を避けてなどいない」
 貞宗は「そうかなあ」と訝しんで首を捻るが、実際大倶利伽羅としては彼との接触を回避している意識は毛頭なかった。向こうが話し掛けてくればそれなりに応じるし、必要があればこちらからも声を掛ける。それで特段不便は感じていなかった。が、今思い返してみれば光忠とのやり取りは全て必要最低限だけで、以前のように他愛もない会話を――主に光忠の方から一方的に話し掛けてくる――していなかった。
「――避けているのは光忠の方だろう」
 呟いた声音は自分でも驚くほどに冷たく尖っていた。大倶利伽羅の独り言を聞き漏らさなかった貞宗は大きな瞳を瞬かせて「やっぱり喧嘩してるじゃん」呆れたように溜息を吐く。
「早く仲直りしなよ」
「仲直りも何も初めから喧嘩などしてない。そう言ってるだろう。大体、あいつが自分勝手なだけだ」
 苛立ったように吐き捨てる大倶利伽羅を珍しいものを見るように貞宗は眺め遣って「みっちゃんが自分勝手ってどういうこと?」彼に限ってそんなことはないだろうと言うと一匹竜王はふんと鼻を鳴らした。
「あいつは何も言わずにいなくなったくせに、この本丸に来てからまるで何事も無かったように振る舞う。人の気も知らないでどのツラをさげて俺のことが好きなどと――」
 そこまで言ってしまってから失言だと気が付いた。「今のは聞かなかったことにしろ」と大倶利伽羅は嫌そう顔を顰めるが貞宗はまるっと無視して「へぇ、伽羅はみっちゃんからアイノコクハクを受けたんだ」にやけてみせる。ラブラブだな!――胸の辺りで両手でハートを作って悪戯っぽく笑った。――おい、誰だ貞につまらないことを教えたやつは。
「違う、そんなんじゃない」
「えー、何も違わないと思うけど。だって伽羅がみっちゃんに対して怒ってるのは好きだからだろう?」
「怒ってなんか――」
「いいや、怒ってるね。すんごい怒ってるね。伽羅が言う、何も言わずにいなくなったっていうのはあれだろ、みっちゃんが水戸藩に貰われていった時のことだろ」
 どういった経緯なのか大倶利伽羅や貞宗は詳しく知らなかったが、燭台切光忠という刀は伊達政宗から水戸の初代藩主の手に渡っている。後世に語られているところでは徳川頼房が強引に刀を持ち帰ったとも、或いは第三者を介して手を回し、まんまと手に入れたとも。この件に関して当の本人から真相を聞いていないので事実がどうであったかは不明だ。が、問題はそこではない。貞宗が指摘したように大倶利伽羅が抱いている蟠りは光忠が黙っていなくなったことだ。
 当時は人の身ではなかったとはいえ、付喪神として既に姿形を得ていた。人間ひとには見えぬ姿で存在していたのだ。今のように本体から離れて自由に動き回ることは敵わなかったが、言葉を交わすことはできた。実際、仙台藩にあった頃、光忠と大倶利伽羅は少なくない言葉を交わして過ごした。月の満ち欠け、移ろう季節、ゆっくりと変わりゆく時代を共に眺めて。――それなのに。ある日突然、光忠は姿を消した。彼が水戸藩主の元へ移されたことは家臣達が話題にしているのを耳にして知った。光忠がいなくなって数日後のことである。
「今でこそこうして人と同じような躰があるけど、でも物である俺達は持ち主を選べない。それは仕方ないことだ」
「それくらい俺だって判ってる」
「でも伽羅はそれで傷付いたんだろ。みっちゃんが黙っていなくなったのが赦せないくらいに」
 俺もみっちゃんがいなくなった時は寂しかったけどさ――貞宗は淡々とした口調で言いながら畑の土を掘り返す。
「なあ伽羅。みっちゃんは優しいからさ、きっとお別れを面と向かって言えなかったんじゃないかな」
「そんなことは、」
 ないと言おうとして大倶利伽羅は口を噤む。貞宗の言う通りだと思う。光忠はとても優しいから大倶利伽羅を悲しませまいとしたのだろう。あるいは急な譲渡の話を彼自身きちんと理解していなかったのかもしれないし、単純に大倶利伽羅に暇乞いをする時間が無かったのかもしれない。何れにせよ、光忠には大倶利伽羅を傷付け、悲しませる意図は全くなかったに違い。
「――で。みっちゃんにはなんて?」
 貞宗は少年らしい好奇心を滲ませて大倶利伽羅を見る。いつもなら煩いと一蹴するところだが、期待に輝く瞳を目の当たりにしては適当にあしらうこともできない。
「……気持ちに応えることはない、と」
「えぇ〜!? そりゃないぜ伽羅〜」
「光忠とのことは俺の問題だ。俺がどうするかは俺の勝手だろう」
 騒ぐ貞宗とは打って変わって大倶利伽羅は冷淡な態度を崩さない。ううん伽羅は頑固だなあ――貞宗は幼さが残る顔で渋面を作る。
「だけどさ、伽羅だってみっちゃんのこと好きなんだろ? だったら素直に好きって言いなよ。そしたらみっちゃんだって泣いて喜ぶよ、絶対。これにて一件落着、めでたしめでたしだ」
「別にめでたくもないだろうが」
「判ってねーな、伽羅は」
 チッチッチッと舌を鳴らしながら顔の前で立てた人差し指を振ってみせる。
「俺は伽羅のこともみっちゃんのことも大好きだから二振りが仲良くしてると嬉しいし、幸せなんだよ。伽羅だって俺とみっちゃんが不仲でいるより、仲良しの方が良いだろう? そういうことだよ。――それに。全ての敵をたおしたらこの躰も消えるだろうし、戦ってる最中に刀が折れて死ぬかもしれない。形あるものはいつか壊れる。だから一緒にいられるうちに自分の気持ちをちゃんと伝えなきゃ」
 俺が言わなくても伽羅なら判るだろ?――貞宗は明るく大倶利伽羅に笑いかける。眩しいまでの笑顔に頑なだった大倶利伽羅の心がほどけていく。一瞬、彼の笑顔に光忠の柔和な笑顔が重なって見えた。伽羅ちゃん――自分だけに向けられる優しい微笑が今は遠く、恋しかった。
「……恩に着る」
 大倶利伽羅が呟くと貞宗は「良いってことよ!」元気良く返事をしてから「夕餉はおでんだってさ。大根たくさん穫らなくちゃな!」やる気を新たにスコップを握り直した。

 ◆◆◆

 夕餉の後、湯殿が無人の時を見計らって湯浴みを済ませると大倶利伽羅は光忠の姿を探して本丸を彷徨うろついていた。てっきりまだ厨にいるかと覗いてみれば彼ではなく歌仙がいた。歌仙はいつもの襷掛けの姿で、洗って水が切れた食器類を棚に仕舞っているところだった。どうしたものかと逡巡していると大倶利伽羅の姿を認めた歌仙が「燭台切ならさっき自室に戻ったよ」平坦な口調で言う。この刀はどうにも苦手だ――内心で苦く思いながらも短く礼を告げると、歌仙はおやと目を見開いて大倶利伽羅を見た。
「真逆大倶利伽羅から礼を言われる日がくるとはね」
「……おかしいか」
「いや、そうじゃない。気を悪くしたらすまない。刀も変われば変わると思ってね。やはり燭台切の影響なのかな」
 歌仙は厨の入口に立っている大倶利伽羅を値踏みするようにしげしげと眺め遣る。
「そんなふうに見えるか」
「僕からはね。悪いものならともかく、良いものに影響を受けるのは大歓迎さ。――燭台切に用があるんだろ? これを持って行き給え」
 歌仙は棚を漁ると二合瓶の日本酒を取り出した。深い青色の瓶には『月船』と書かれたラベルが貼られていた。
「少し前にこの酒の話で盛り上がってね。燭台切も飲んでみたいと言っていたから万事屋で取り寄せて貰ったんだよ。次郎太刀や日本号に見付かったら勝手に開けられてしまうだろうし、皆がいる前では渡しづらくてね。だから君に」
 そうかと頷いて大倶利伽羅は差し出された酒瓶を受け取る。
「あんたは光忠と仲が良いんだな」
「特別仲が良いというわけでもないけど、そうだね、彼とは頻繁に厨番が一緒になるし、あの気質だから誰とでも直ぐ打ち解けるだろう。彼は分け隔てなく親切だ。それに美的感性も悪くない。付き合い易い刀だよ」
 刀剣男士としての腕も不足ない――歌仙は光忠をそう評すと急に噴き出すように笑った。大倶利伽羅が眉根を寄せて頬を攣らせると「これは失礼。あんまりにも君の態度が素直なものだから。燭台切は大倶利伽羅の同郷だろう。大事にし給え」何か含みを持た言い方をして早く燭台切のところへ行けと顎をしゃくり、食器の片付けに戻った。大倶利伽羅は少しの間立ち働く歌仙の背を眺めてから踵を返した。

 歌仙に言われた通り自室を目指す。光忠とは居室が同じなのだ。初めは貞宗も一緒に寝起きしていたが手狭だからと今は別の部屋を使っていた。とは言っても貞宗はしょっちゅう光忠達の部屋に顔を出しては他愛もない話に興じたり、暇な時は花札や将棋を持ってきて遊んでいく。大抵は光忠が相手しているが、厨に籠ることも多いのでその場合は大倶利伽羅が付き合った。馴れ合うつもりはないと常々言いながら、その実、貞宗には甘いのだ。
 締め切られた障子戸を開けると「わぁっ」光忠は素っ頓狂な声を上げて大きく躰を跳ねさせた。と、振り返って「なんだ、伽羅ちゃんか」ほっと息を吐く。文机に帳面を広げているところを見ると料理のレシピを書き付けていたらしい。料理することに並々ならぬ意欲を抱いている光忠がまめにレシピを帳面につけては時折満足そうに見返しているのを、大倶利伽羅は知っていた。
「悪い、驚かせた」
「それは別に良いんだけど。あれ、伽羅ちゃん、それ――」
 光忠は大倶利伽羅が手にしていた青色の酒瓶を見て金色の瞳を瞬かせる。
「歌仙があんたにと寄越した」
「そうだったんだ。歌仙くん、憶えててくれたんだ。嬉しいなあ」
 差し出された酒を受け取りながら光忠は破顔する。その笑顔が小さな棘となって大倶利伽羅の胸を刺し、微細な痛みを齎した。その痛みには憶えがあった。光忠が自分以外の誰かに笑い掛ける時、何かと世話を焼いて親切に振る舞う時、出陣先で負傷して帰ってきた時、寂しそうな表情かおをしている時――大倶利伽羅の最も柔らかくて脆い部分を苛むのだ。それが何であるのか、理由は明らかだった。
 大倶利伽羅は意を決したように硬く拳を握ると光忠の向かいに腰を下ろした。
「少し、話がしたい」
 神妙な面持ちで切り出すと光忠は何事かを悟ったように大倶利伽羅に向き直り、居住まいを正すと生真面目に唇を引き結んで頷いた。大倶利伽羅は少しの沈黙を挟んだ後、真っ直ぐに光忠を見据えて口を開く。
「――この間の件だが。確認するが、気持ちは変わっていないのか」
「うん。僕の気持ちに応えるつもりはないって伽羅ちゃんは言ったけど、どうしても思い切れなくてね。勿論、君が迷惑しているのは判ってる。今直ぐには気持ちの整理が付かないけど、でもちゃんと始末を付けるよ。不快な思いをさせてしまってごめんね」
 光忠は何でもないようににこりと微笑んだ。――こんな時まで卒がない。完璧に笑って見せて、余裕のある態度で案ずるなと言葉を吐く。傷付いた顔すら見せずに。そんな光忠の態度が大倶利伽羅の癇に障った。ぷつんと何かが切れた瞬間だった。おいあんた――大倶利伽羅は出し抜けに光忠の胸倉を乱暴に掴むと詰め寄って噛み付くように吠えた。
「勝手に話を終わらせるなッ! 何のために俺が話を蒸し返したと思っている! 俺はずっと……っ、」
 眉根を寄せて戦慄く唇を噛む大倶利伽羅を、光忠はぎょっとしたように目を丸くして見遣った。憤る金の双眸は涙に潤み、溢れた雫が頬を濡らしていた。大倶利伽羅は自分が泣いていることに気が付くと「クソッ」小さく舌打ちをしながら掴んでいた光忠の胸元を解放し、力なく項垂れた。そうしてから「俺は昔からあんたのこと好きだったのに、それなのにあんたは何も言わずに俺の前からいなくなった」恨み言ともつかない台詞を呟く。
「それって――」
「こんなのはただの八つ当たりだと判ってる。俺達は物だ。持ち主を選べない。光忠が仙台藩から水戸藩に移ったのはあんたの意志じゃないことも判ってる。あんたを責めたところで意味がないこともな。だが俺は光忠が居なくなって、」
 とても寂しかったのだ。そして喪って初めて知った。光忠に対して特別な情を抱いていたことを。人の身を得てその感情に名前があることも知った。すなわち、恋。喪うくらいなら最初から要らないと思った。誰も必要とせず、独りで戦い、独りで死ぬ。それで良かったのに。――光忠が顕現するまでは。
「伽羅ちゃん、顔見せて」
 光忠は泣き顔を隠すように俯いている大倶利伽羅の肩にそっと手を触れる。が、拒絶するようにかぶりが揺れた。ねぇ僕の話も聞いてくれるかな――光忠は下から大倶利伽羅の顔を覗き込むと無造作に置かれた彼の左手を上から包み込むように握った。
「伽羅ちゃんはずっと昔から僕のことを好きでいてくれてたんだね。凄く嬉しいよ。それから寂しい思いをさせてしまってごめん。あのね、伽羅ちゃん。僕も君のことを好きになったのは政宗公のところにいる時からだよ。一目惚れだった」
 燭台切光忠が豊臣秀吉から伊達政宗へと下賜された二十五年後、大倶利伽羅は徳川将軍家より政宗公の元へやって来た。不動明王の化身とされる倶利伽羅龍が彫り込まれた美しい刀は凛とした佇まいで、一点の曇りもなく鋭利に輝いていた。付喪神としての姿形も刀同様、何者も寄せ付けない孤高の美しさを纏っていた。それは人の身を得た今でも変わらない。褐色の滑らかな肌とあらゆる罪障を焼き尽くす焔の色に染まった伸びた後ろ髪、眼光炯々としたつよい眸は一等、美しく――。
「僕が水戸藩の人手に渡る時、何度君に気持ちを打ち明けようとしたか判らない。でも結局何も言えなかった。あの時の僕は意気地が無かったんだ。格好悪いことにね」
 言えば別れが辛くなる。またいつ会えるとも限らない。想いを告げることも約束を交わすことも、所詮刀である自分には詮無いことだと言い聞かせて諦めたのだ。
 光忠は噛んで含めるように尚も言葉を重ねる。
「僕は伽羅ちゃんに想いを告げる前にきちんと謝らなければいけなかった。本当にごめん。今更遅いって伽羅ちゃんは怒るかもしれないけれど、赦してくれると嬉しい。――大倶利伽羅、ずっと愛してる」
 真摯に告げられる光忠の言葉を大倶利伽羅は信じられない思いで聞いていた。六百年近くもの間、光忠が自分のことを想っていたのだと、同じように彼も別れを惜しんでいたのだと知った今、大倶利伽羅の中で逆巻いていた激情は嘘のように凪いでいた。
「……光忠が、」
 大倶利伽羅は俯いたまま呟く。
「うん」
「もう勝手に居なくならないなら、赦してやっても良い」
 もう二度と傍を離れてくれるな――彼の台詞にそんな意味を暗に読み取って光忠は淡く微笑する。
「伽羅ちゃん、指切りしよう」
「指切り?」
 大倶利伽羅は伏せていた顔を上げて不思議そうに光忠を見遣った。涙はもう乾いていた。
「そう。こうしてお互いの小指を絡めて――」
 光忠は黒手袋を外すと大倶利伽羅の右手を手に取り、彼の小指に自身のそれを絡ませると唄を歌う。
 ――指切りげんまん、
 うそついたら針千本飲ます、
 指切った。
「これで約束したことになるのか」
 大倶利伽羅は腑に落ちない様子で己の手を翳して矯めつ眇めつ見遣る。
「そうだよ。何でもこの指切りは江戸時代の遊女が好意を寄せる男性に対して変わらぬ愛情の証しとして自らの小指の先を切断して渡したことが由来だそうだよ。実際に指を切った遊女はあんまりいなかったみたいだけどね。そんな風習から転じて、約束を守る印にお互いの小指を絡ませるようになったんだって」
 指を切り落とすって結構怖いよねそれだけ本気だってことなんだろうけど――光忠も自身の手を見ながら独白する。
「良く知ってるな、そんなこと」
 感心とも呆れとも付かない口調で言えば「前に鶴さんから聞いたんだよ」そんな答えが返ってくる。亀の甲より年の功、要らぬ知識の出処は大抵鶴丸である。
 光忠――大倶利伽羅はかいなを伸べて光忠の頭を抱き寄せると長年焦がれていた無防備な唇に口付けた。
「……一番最初は僕からしたかったんだけど」
 格好がつかないなあと困ったように眉尻を下げて苦笑する光忠に「俺は格好悪いあんたも好きだが」大真面目に答えると恋仲となった相手は白いかんばせを真っ赤に染めて「伽羅ちゃん、それは反則」と狼狽えた。大倶利伽羅は珍しく動揺している彼を薄く笑いながら眺め遣ると、ふと真顔になってほら仕切り直しだ――光忠の首に腕を絡めた。息が触れ合う距離に光忠は瞬きを一つすると、大倶利伽羅の頤を捉えて薄く開かれた唇にキスをした。重ねていた唇がほどけると大倶利伽羅は広い背を抱き締める。初めて感じる彼の確かな躰の形、体温、匂いにどうしようもなく胸が慄えた。ずっと欲しかったものが今、ここにある。
「光忠、好きだ。愛してる」

 ◆◆◆

「歌仙」
 背後から声を掛けられて振り向くと厨の入口に大倶利伽羅が立っていた。歌仙は昼餉の片付け――食器を洗う手を止めて「なんだい?」要件を問うと大倶利伽羅はこちらに歩み寄って来、この間の酒美味かった礼を言う――そんなことを言った。歌仙は一体何のことだと訝ったが、燭台切に頼まれて買ってきた酒のことだと思い至った。あの後燭台切と分けて飲んで、きちんと礼を伝えるようにと彼に言われたのだろう。当の燭台切は今朝早くから遠征に出ていて留守だった。律儀な彼のことだ、戻ってきたら酒の礼にと得意な料理を拵えて持ってくるに違いない。
「ああ、あれ。口に合ったなら何よりだ」
「――それで。折り入ってあんたに頼みがある」
「僕にかい?」
 どういう風の吹き回しかと歌仙は驚いたふうに瞠目して大倶利伽羅を見ると彼はやや居心地が悪そうにしながら「何か簡単に作れる料理か菓子を教えて欲しい」そう切り出した。思ってもみなかった申し出に歌仙は狐につままれたような顔色でぽかんとしていたが「迷惑ならいい」大倶利伽羅の言葉に現実に引き戻された。
「いや、別に迷惑ではないよ。でもどうせなら僕より燭台切に教わった方が良くないか?」
「それだと意味がない。あいつを驚かせたいんでね」
「ほう。君も鶴丸殿みたいなことを言うんだね」
「鶴丸は関係ない」
 にべもなく答えると「それは失礼」歌仙は笑って濡れた手を拭き拭き思案する。
「そうだなあ。今日はお八つにホットケーキなるものを作るんだが、材料を混ぜて焼くだけだから初心者の君でも作れると思う。どうだい?」
「ああ、それで構わない。宜しく頼む」
「これくらいお安い御用さ。作る数が多いから君が一緒に作ってくれるとこちらも助かるよ」
 大倶利伽羅は曖昧に頷くと馬番の途中だから後でまた来る――言い残して立ち去ろうとすると歌仙が呼び止めた。
「何だ?」
「良かったな、大倶利伽羅」
 歌仙はしんから祝福するように告げた。
「……なにが、」
「さてね。――言い忘れてた。お八つ作りは午後二時半から始めるから遅れないでくれよ」
「承知した」
 大倶利伽羅が足早に立ち去るのを見送ってから歌仙は中断していた食器洗いの作業に戻った。スポンジで茶碗を洗いながら半月ほど前の燭台切とのやり取りを思い出す。
夕餉を終えた後、誰が持ち出したのか、主が所有していた日本酒のカタログを炬燵に入りながらなんとはなしに眺めていた時のことだ。歌仙はページを捲りながら細かな字で記された能書きに目を留めた。
 ――見てご覧よ、この『月船』っていうお酒には金粉が入っているそうだよ。この瓶の色のように青色の切子グラスに注げば金粉が映えてさぞ美しかろうね。 このお酒は祝いの席――主に夫婦めおとの契りを結ぶ婚礼の際に好んで飲まれているそうだ。
 ――へえ、それはまた粋なお酒だね。僕も一回飲んでみたいな。
 ――なんだい、燭台切。添い遂げたい相手でもいるのかい?
 ――そうだねぇ、一緒に飲みたい相手はいるかなあ。
 歌仙は冷やかすつもりで軽口を叩いたのだが、思いの外真面目な燭台切の返答に一瞬言葉を失ってしまった。僅かに見せた彼の思い詰めたような顔色を見て歌仙は一肌脱ぐ気になったのだ。それはいつも厨番を一緒にやっていることの連帯感やよしみ、あるいは単純に燭台切が普段から何かと親切にしてくれることの礼でもあった。翌日、カタログを手に万事屋へ走ったのは言うまでもない。
 彼が懸想している相手は誰であるか、その時は判らなかったが、昨日大倶利伽羅が見せた表情や酒の礼を言いに来たことで全てが知れた。
「なかなか大倶利伽羅も可愛いところがあるじゃないか」
 好いた相手に自ら手料理を振る舞うなど、これまでの彼であったなら想像もし得ない。
「燭台切が無事に戻ってきたらお赤飯でも炊こうかな」
 仲睦まじいことは良いことだと歌仙は独りごちりながら水仕事に精を出した。

(了)
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