400字小説

俤(一次創作)

 窓を開けると柔らかな風が頬を撫でて甘い香りが鼻先を掠めた。金木犀だ。もうそんな時期なのかと思わず卓上カレンダーを見てしまう。十月も半ば過ぎ。日中の気温が高いせいで失念してしまうが暦の上ではすっかり秋なのだ。
 窓からは金木犀は見えず、どこで咲いてるかも判らないのだが、あの小さな橙色の花がこれほどまで強い芳香を放ち、姿もなく人を惹き付けるのが少し不思議な気がした。そして夜も眠らず咲き続けていることも。
 金木犀の豊かな香りに凭れるように私は窓辺で頬杖をついて薄く目を伏せる。
 眼裏まなうらに映るのは懐かしい人の姿だ。いつも穏やかなその人は金木犀が好きだと言っていた。あの樹の傍にあるベンチで本を読むのが毎年の楽しみなのだと笑っていた。きっと今頃どこかの金木犀の下でお気に入りの本を広げていることだろう。多分、もう会うこともないだろうけれど。あの人が元気で穏やかな日々を送っていれば良いと、切に願う。
「良い匂いだなあ」
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