愛した傷さえ人の形
湯浴みを終えた大倶利伽羅は森閑とした本丸の中を宛てがわれた居室を目指して歩んでいた。真夜中とだけあってどこも明かりが落とされ、仄暗い。普段の、昼間の賑々しい喧騒も今は遠い。濡れ縁を伝いながら見るともなしに
ゆったりとした足取りで自身の寝起きしている部屋の前まで来ると閉め切れられた障子戸がぼんやりと明るく、同室の燭台切光忠がまだ床に就かずにいることを知らせていた。
――明日も早いだろうに。
律儀な彼のことだ、自分の帰りを待っていたのだろう。大倶利伽羅は溜息を吐くと障子戸を開けた。
「伽羅ちゃん、おかえり」
お疲れ様とにこやかに笑む光忠はすっかり寝支度を済ませていて普段人前で殆ど外すことのない眼帯も今は延べた布団の傍ら――枕元に置かれていた。大倶利伽羅は曖昧に頷きながら「あんた寝なくて良いのか」光忠が敷いてくれたのであろ自身の布団を捲る。と、布袋に包まれた丸い物体が覗いた。何だこれはと光忠に問うより先に「湯たんぽだよ」卒なく答えが返ってくる。
「湯たんぽ?」
「そう。中にお湯を入れてこうやって寝る時に布団の中に入れておく物だよ。暖かいでしょ。すっかり冷え込む時期になったからね。寒いとなかなか寝付けないだろう? 昼間、買い出しのついでにね。鶴さんもこりゃあ良いっていたく気に入ってたよ」
光忠の言を受けて大倶利伽羅は図らずも嬉しそうに笑っている鶴丸を脳裏に思い浮かべてしまう。何がそんなに楽しいのか彼は常に朗らかな表情を崩さない。刀を手に握っている時でさえ楽しげに口許に不敵な笑みを湛え、血に汚れるのを厭わず真白き衣を翻し敵を討つ。刀剣男士としての腕は見事だが、普段は童のように騒がしいので大倶利伽羅としてはあまり近付きたくない
――目の前にいる
「伽羅ちゃん?」
どうしたの――じっと大倶利伽羅が凝視していたのを不審に思ったのか、光忠は不思議そうな顔色で眸を瞬かせる。何でもないと視線を逸らしたその刹那、白い手に腕を掴まれた。おい離せと光忠を振り払おうとして僅かに怒りとも悲しみともつかない色が滲んだ眸とかち合った。
「何だ」
「血が出てる」
言われてからしまったと思った。光忠の視線を辿ったその先――寝間着代わりの浴衣の袖に薄らと滲んだ鮮血。風呂に入った際、丁寧に血を洗い流して止血したつもりだったが、湯で躰が温まったせいで却って血の巡りが良くなり、出血してしまったらしい。
「伽羅ちゃん、駄目だよ。いつも言ってるだろう、怪我してるならちゃんと手入れしないと」
「これくらい怪我のうちに入らない。それに手入れ部屋は全て塞がっていた」
大倶利伽羅の言葉に嘘はなかった。四部屋ある手入れ部屋は帰還して直ぐ様塞がってしまったのだ。使用したのは粟田口の短刀と脇差、二振りずつ。幸いなことに皆軽傷であったから全部屋塞がってしまっても然程待たずに大倶利伽羅も手入れできたのだが、この程度の負傷は放っておいても支障はないと判断したのだ。
「別に、死にやしない」
「またそんなことを言って。君はもっと自分自身を大事にすることを憶えないといけないよ。――今から手入れ部屋まで引き摺って行かれるのと僕に手当されるのと、どっちが良い?」
「棄権という選択肢は無いのか」
「無いね!」
晴れやかな笑顔で間髪入れずに断言する光忠に気圧されて「……後者で頼む」大倶利伽羅は観念するしかなかった。こういう場合、素直に従った方が得策であることを過去の経験から学んでいた。本気で光忠を怒らせると後が怖いのだ。
光忠は「ちょっと待っててね」一言言いおいてから部屋を出ていくと程なくして手に箱を持って戻って来た。それは内番――主に畑仕事や厨番で怪我した時に使われる応急処置用の薬箱である。以前、薬研に用意して貰ったのだと誰かが言っていたのを大倶利伽羅は聞いた憶えがあった。
「傷、見せて」
乞われるまま浴衣の袖をたくし上げて向かいに座る光忠に左腕を差し出す。褐色の肌に這う龍の躰を切り付けるようにして赤い筋が走っていた。光忠は傷口をつぶさに見ながら「そんなに深い傷じゃなさそうだね」この分なら縫う必要はなさそうだと安堵したように呟く。
「だから言っただろう。大した怪我じゃないと。あんたはいつも大袈裟だ」
「大袈裟なんかじゃないよ。伽羅ちゃんが無頓着過ぎるんだよ。どんなに小さな怪我だって痛いだろう。痛みは躰の異常を知らせるシグナルだ。耐えられるからって無視したり、我慢するのは良くないよ」
光忠は言いながら慣れた手付きで薬箱の中から必要なものを取り出し、消毒液を含ませた脱脂綿をピンセットで摘むと「ちょっと沁みるよ」血が滲んだ傷口を軽く拭うように押し当てた。ピリっとした痛みに反射的に顔を顰めてしまう。
「……人の躰とは随分面倒なものだな」
「面倒?」
ふと零れた大倶利伽羅の独り言に光忠は弾かれたように俯けていた顔を上げた。大倶利伽羅は目を細めて人の形をした燭台切光忠を見詰める。青銅までも切ったという鋭利な刀の。
「だってそうだろう。ただの刀であったなら痛みを感じることも傷付いて血が流れることもない。睡眠や食事も必要ない。良く斬れて折れないでいればそれで良いだけの刀の方がずっと在り方としてはシンプルだ。そもそも俺達は刀だ。幾ら人の躰を得ようと人の真似事をしようと人にはなれないし、遡行軍との闘いが終われば
泡沫の夢のように今ある肉体は消失し、拠点であるこの本丸も跡形もなく消え失せる。初めからそうであったように物言わぬただの刀になる――いつか判らぬが、その時は必ずやって来る。全ての終わりの時が。
「伽羅ちゃんも同田貫君みたいなことを言うんだね」
俺達は武器なんだから強いので良い――いつか聞いた同田貫の言葉を諳んじて光忠は淡く笑みながら傷口にガーゼを宛てがい、その上から丁寧な仕草で包帯を巻き付ける。
「伽羅ちゃんや同田貫君が言うことは尤もだし、判るけれどね、僕はこの人の身が結構気に入ってるんだ。不謹慎だって怒られちゃいそうだけど。顕現したのはあくまで敵と戦うため、あるべき歴史を守るため。そのために僕達刀は肉の器を得た。戦で刀を振るうのが本分だけど、僕は
琥珀色の眸を眇めて光忠は大倶利伽羅の顔を両の手で包み込む。
「伽羅ちゃんは人と同じ形をしているのは厭わしい?」
「……俺はあんたみたいに畑や馬の世話が楽しいとは思えないが、だがあんたの傍に居られるのは悪くない」
光忠――大倶利伽羅は名を呼ぶとそれが合図だったように顔を寄せて無防備に薄く開かれた唇に自身のそれを重ねた。
「……伽羅ちゃんからしてくるの、珍しいね」
「嫌か?」
「真逆。大歓迎だよ。ね、もう一回、」
甘くねだられて、再度息が触れ合う距離にまで詰め寄ると黒い睫毛が薄く伏せられた。微かに
「僕がして欲しかったのはそこじゃなかったんだけど」
「場所は指定してなかったからな」
不服そうに口角を下げる光忠に大倶利伽羅は薄く笑って軽口を叩く。それからふと真顔になって開くことがない右眼にそっと指先を這わせる。慰撫するような彼の優しい手付きに光忠は思わず笑みを零した。
「気になるかい?」
「気になるというか……片眼が見えなくて不便じゃないのか」
本丸での日常生活ならいざ知らず、戦闘時において視野が欠けているのは大きなリスクだ。死角が多ければ多い程、白刃を振るうのは不利になる。すると隻眼の男はのんびりとした口調で言った。
「顕現した時からこうだからね。慣れてるし、特に不便は感じてないよ。僕の姿形は元主である政宗公の写し身とまでは言えないまでも、影響を受けたものだ。彼もこんなふうに世界が見えていたのかと思うとなかなか興味深いよ」
「見目を気にするあんたのことだからこの傷を厭わしく思っているのかと思ったが――違うのか」
「この傷跡も政宗公の証のようなものだからね。嫌だとは思ってないけど、でも皆が見てあんまり気持ちの良いものじゃないだろうね」
顕現したての頃、洗面所で顔を洗っていた時に五虎退に右眼の傷跡を見られて随分驚かれたことがあったのだ。彼は純粋に心配をしていただけなのだが、光忠は「この傷跡はあまり良い印象を与えないらしい」とその時学習してから以降、人前で不用意に眼帯を外すことをしなくなった。そんなことを掻い摘んで説明すると、
「光忠の眼帯の下をこうして見られるのも、手に触れることができるのも、俺だけの特権だな」
大倶利伽羅は口許に薄笑みを刷いて慈しむように光忠の塞がれた右眼を親指の腹でなぞった。自分だけに赦された、見るに能う彼を形作る傷跡。政宗公が幼少の頃、病により失明した右眼。潰えた琥珀色の眸。永遠に闇だけを映すその眼。
「ひとつ良いことを教えてやる」
「なに?」
「あんたが俺を押し倒して眼帯を外す仕草は見ててそそるし、興奮する」
睦言を囁く湿度で大倶利伽羅が告げると光忠の白い耳が見る見るうちに真っ赤に染まり、首まで血色が濃くなった。面白いまでに羞恥に茹だった光忠をどこか楽しげに見遣りながら「変なところで
「いや、だって、いきなりそんなこと言われたら僕だってびっくりするし、狼狽えるよ!」
「光忠、声が大きい」
指摘されて慌てて口許を手で覆うが、無意味だったと悟ると光忠は大きく溜息を吐いた。こんなことをしている場合ではなかったと気を取り直す。冬の夜は長いが起床時間はいつもと変わらないのだ。
「もう寝よう。明日も早いし、伽羅ちゃんだって疲れてるだろ。ああ、そうだ。寝間着、血がついて汚れてるから着替えてね。明日洗濯するから出しておいて」
僕はもう寝るよおやすみ――まるで逃げるような早口で告げると光忠はさっと自身の布団に潜り込んだ。目を閉じて布団の中でじっとしていると程なくして明かりが落とされる気配がした。良かったこれで何事もなく眠れる――ほっと胸を撫で下ろしたのも束の間。忍び寄ってきた体温に目を開けると大倶利伽羅の端正な顔が視界一杯に広がっていた。
「ちょ、ちょっと、伽羅ちゃんっ。寝るなら自分の布団で、」
「湯たんぽも結構だが、俺はこっちの方が良い」
光忠の言葉を無視して大倶利伽羅は彼の首元に顔をうずめ、ぴったりと身を寄せた。良く知った匂いと馴染んだ体温に急激に目蓋が重くなる。眠気にぼやけた意識の片隅で大倶利伽羅は唐突に思い至った。月も星もない真っ暗な夜闇が妙に心地よく感じられるのは直ぐ傍にいる愛しい人が纏う色と同じだからだと。何ものにも染まらない、血の色にさえ染まらぬ端正な漆黒。それは意識が消失する眠りの色でもある。人の身を得て知った眠ることの快楽。食べて寝て、戦で思うままに刀を振るい、時には愛しい人と睦み合う――刀に比べて酷く脆弱な人の躰も、そう悪くはない。寧ろ喜ばしいとさえ今は思う。これは誰にも明かすつもりはないけれど。
「光忠。おやすみ」
大倶利伽羅は短く告げて眼を閉じる。直ぐ様意識が遠のいていく。
「おやすみ伽羅ちゃん。良い夢を」
光忠は大倶利伽羅の旋毛に唇を触れ、あやすように背をぽんと撫でると間もなく眠りの淵を、深く滑り落ちていく。
(了)
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