無垢肌に散りて

 (捌)

 ――とうとうこの日がやって来てしまった。
 宛がわれた妓楼の一室に薄化粧を施した太宰が重たげな豪奢な衣装に身を包んで端座していた。背後に置かれた衝立の向こうには緋縮緬の布団が敷かれ夜伽を待っていた。太宰は神妙な面持ちで初めての客を迎えようとしていた。
 開けられた窓からは漆黒の夜空に掛かる満月が見えた。梅雨も明け、暦は文月の半ばを過ぎていた。
 あれから――西寺の前で国木田とお栄を見掛けた後、もう一度自殺を図った。今度は首吊りである。しかしまた失敗してしまったのだ。木の枝が重みに耐え切れず、折れてしまったのである。再び試みるも、間抜けたことに今度は縄が切れてしまい、仕方無しに着物の帯で首を吊ろうと用意しているところで中島に見つかってしまったのだ。方々を探し回ったのであろう、彼は太宰を無事見つけると酷く怒った。平素の温順な性質からは凡そ想像もつかぬ程の剣幕で。太宰は中島に引き摺られるようにして森の邸宅に戻った。
 そして考えた。死ぬことも出来ぬのなら覚悟を決めるより他ないと。男娼として生きよう――愛しい人が与えてくれた牡丹の刺青を抱いて。自分には最早、それしかないから。躰は明け渡しても心だけは決して開かず、永久にとざして夜の徒花となろう。この容色が色褪せ、朽ちるまで。
 決断をした太宰は森に種田の妓楼に移る旨を伝えた。その時、森は酷く驚いていた。太宰の体調を気遣いながら、本当に大丈夫なのかと念を入て問うた。太宰は無感情に只頷いた。それから森の邸宅を出、善き日を選び、晴れて今日、水揚げとなったのである。
 腹を括ったとは云え、やはり気分は落ち着かなかった。自分を買う男は一体どのような男か――国木田に少しでも似ていれば良いと思って、咄嗟に打ち消した。似ていれば、きっと辛くなる。彼ではないことに失望してしまうから。
 不意に襖が開く気配がして落としていた目線を上げた。
 太宰はこれ以上ない程大きく目を見開き、驚倒して思わず叫んだ。
「……ッ! 国木田君……ッ!」
「久し振りだな、太宰」
 国木田は淡く微笑して太宰の前に座した。
「国木田君、どうして……」
 全く予期してなかった客に太宰の頭は混乱した。何故彼が此処にいるのか理解不能であった。慾望に彩られた座敷に端座する彼は千代紙の上に切って貼った白き紙片の如く浮いて馴染まない。此処は彼が来るべきところではない。何より慾に媚びへつらうような装いをしている浅ましい自分を見られたくなった。早鐘のように打つ鼓動を抑えようと着物の合わせ目をきゅっと握る。まともに国木田の顔が見られず、白い額を俯けた。しかし彼の視線は遠慮がない。肌に突き刺さるような強い眼差しに堪らず「見ないで」太宰は国木田に背を向けて項垂れた。するとすまん、と小さく謝罪する声。しかし国木田の気配は愈々濃く迫り来るようであった。僅かの沈黙の後、国木田が口を開く。
「お前に話があって来た」
「話……?」
 そう云われても見当もつかない。お栄との婚礼の日取りでも知らせに来たのだろうか。わざわざこんなところにまで来て――ふたりが婚礼衣装に身を包み金屏風を背に並んでいる姿をありありと想像して胸を掻き毟りたい程に苦しくなる。もう何も聞きたくない見たくない――逃げ出したい衝動に駆られて立ち上がろうとした時。国木田の口から語られた言葉に動けなくなった。
「――お前が自殺を図ったと聞いた」
「……どうして、それを……」
 恐る恐るこうべを巡らすと酷く真剣な眸と出会う。真摯な眼差しが太宰を絡め取った。
「師匠から――否、もう師匠ではないのだが――聞いた。聞いた時は生きた心地がしなかった。お前にこうして会うまでも心配だったし、ずっと不安だった」
 だが生きてくれていて善かった――深い安堵の微笑み浮かべた。その優しげな表情に太宰の中で何かが――張り詰めていた糸がぷつりと切れた。柳眉を逆立て憤然と国木田と向き直ると、
「……何で……どうして……そんなこと云うの……私は死にたかったのに……ッ! 今だって、本当は、死にたいのに……ッ」
 殆ど叫ぶように云い放って目の縁から涙を溢れさせた。薄くはたいた白粉の上を冷たい雫が伝う。云いながら結局自分は何一つ覚悟など出来ていなかったのだと思い知った。国木田を前にして堰を切ったように怒りとも悲しみともつかない激情が奔流となって迸り、太宰の裡に荒々しく逆巻いて、やがて涙となって散っていく。横溢する感情に血走った眼を向けて血を吐くように、声をふるわせて国木田を詰った。
「国木田君は、何も解ってない……、何も、知らない癖に……ッ」
 泣きながら激昂している太宰の剣幕の激しさに気圧されながらも国木田は痛ましいものを見る目付きで彼を見詰めた。生きてゆくことに絶望して悲鳴を上げる彼の癒し難い痛みは国木田の心臓を貫いた。胸が張り裂けんばかりに痛んだ。
 泣き叫ぶ姿をこれ以上見ていられなくて距離を詰めると細い肩を抱いた。太宰は自分の置かれている状況が瞬時には理解出来なかった。が、直ぐに抗った。国木田の腕から逃れようと胸を押し返す。
「離してッ」
「厭だ。離さない」
 腕に力を込めてもがく太宰を押さえ付けて強い語調で云う。
「お前が自殺を図った理由は知っている」
「――え?」
 嘘――虚を衝かれた太宰は濡れた瞳を見開いて力なく呟いた。国木田が洩らした言葉に煮え滾っていた憤りが急速に冷めて凪いでいく。躰からすぅと力が抜け落ちて抱かれる胸に身を預けるかたちになる。彼が落ち着いたのを見て国木田も腕の力を緩め、宥めるように背を撫ぜた。幼子をあやすような手付きで。
「嘘ではない。本当だ。俺はお前に謝らなければいけない。俺にもっと勇気があれば、お前は自殺を図らずに済んだ。それなのに、俺は……すまなかった」
 云い聞かせるように告げるその声音は悔恨に重く、苦しげであった。
「……国木田君……」
 恐々と広い背中に腕を回して太宰ははっとした。
「国木田君、髪の毛が……」
「ああ、切った」
 何でもないことのようにあさっり答える。
「何で、どうして……あんなに綺麗な髪だったのに……」
 彼の長い後ろ髪を見る度に触れてみたいと焦がれていた。どんな手触りで、どんな匂いがするのかと。光を受けてきらきらと輝く髪が、風に揺れる髪が眩しかった。後ろ髪を喪った背中はとても寂しい気がした。国木田は太宰の顔を覗き込みながら、直ぐまた伸びるさ――薄く笑む。それから事のあらましを語り出す。
 お栄との縁談を辞退し、反故にしたこと。
 師匠から破門を云い渡されたこと――これは自ら申し出た結果でもあること。
 髪を切り落としたその理由。
 太宰はどれも信じられない思いで聞いていた。西寺の前でふたりを見掛けたあの時、まさに彼等は破局に向かっていたのだ。丁度自分もその時、近くにいてふたりを見たのだと云うと国木田も酷く驚いて、妙な誤解を与えてしまったとばつが悪そうに謝罪した。
「俺は本当は世俗を捨て仏門に入るつもりでいた。そうすることで己を罰しようとしていた。だが、師匠に――父に、本当にその選択が正しいのか良く考えろと云われた。それからお前が自殺を図ったことを知らされた。それで気が付いた。俺は只、お前から逃げているだけだと。何を喪っても、お前に拒絶されようとも、俺がもっと早く自分の気持ちをお前に伝えていれば……お前は此処まで傷付かずに済んだ。結果論かもしれないが……」
 お栄のことも、そうだ。
 あの時、縁談を彼女に申し込まなければ深く傷付けることもなかったのだ。今にして思えば縁談を申し込んだのは太宰に対する当て付けである。逆恨みも良いところだ。
「俺は、酷い男だな。人を傷付けてばかりだ」
 国木田は自嘲する。翳のある嗤い方に太宰は胸が切なく締め付けられた。傷付いているのは何も自分やお栄だけではない。国木田もまた酷く傷付いているのだ。人を傷付けてしまったことに自己嫌悪して。それだから己を責めて仏門に入ろうとしたのだろう。
 国木田君――太宰はそっと寂しくなった背に腕を回し、優しく撫でる。傷を慰撫するように。痛みを癒すようにして。
「違うよ。国木田君は違う。酷い人間なんかじゃない。とても優しい人だよ。だから、そんなこと云わないで」
「太宰……」
 鼻の奥がつんと痛くなって国木田は目許を力ませて潤む眸を眇めた。細い背に縋ると太宰の腕の力が強くなり、ぽつりと言葉が落ちる。
「……ごめんなさい」
「どうしてお前が謝る?」
「さっき酷いことを云ってしまったから……だから、ごめんなさい」
 きまりが悪いのか国木田の肩に顔を伏せたままで。そうか――微かに笑みを洩らして柔らかな蓬髪に手櫛を入れながら「俺もすまなかった。――ありがとう」静かに囁いた。
 ふたりは少しの間、無言で抱き合った。太宰も国木田も目蓋を伏せてお互いの存在を享受し合っていた。開けられた窓から差し込む冴やかな蒼い月光に落ちる影は重なり溶け合う。燭台の灯が微風に揺れて蝋燭が燃える音が微かに鳴った。
 穏やかな沈黙は国木田の声で破られた。
 太宰――細い肩を押し返して涙の痕が残る彼の顔を神妙な面持ちで見詰めた。お前にまだ伝えなければならいことがあると居住まいを正す。唇を生真面目に引き結んで真っ直ぐに太宰を見た。向ける眸は一心不乱の激しさを秘めたあの眸であった。太宰はその眸に射抜かれて息を呑んだ。目が、逸らせない。
「随分前置きが長くなってしまったが――太宰。俺は、お前が好きだ。お前を愛している。だから、俺と一緒に来て欲しい」
「国木田君……でも、私……」
「お前のことは身請けする。――そのように森殿から打診があった」
「森さんから……?」
 思わぬ台詞に太宰は目を丸くする。森から一言も身請けの話は聞かされていなかった。無論、種田からも。これは一体どう云うことなのか。国木田に説明を求めると数日前に森から文が届いたと云う。其処には彼の身請けに応じるのも吝かではない、金子の相談にも応じる由、ついては右に記す日時に拙宅まで来られたし――その指定の日時が今日であったのだ。
 太宰に会うより先に森と種田に面会し、用意した身請けの金子を渡した。国木田が用意出来たのは福沢に突き返そうとして果たせなかった十五両とこれまでの僅かな貯えであった。有り金を差し出して、どうかこれで手を打ってくれと両者に頭を下げたのである。
「森殿からの文を受け取る前に一度、森殿の宅を訪ねたのだがお前には会わせて貰えなかった。幾ら食い下がっても駄目だった」
 悪いようにはしない、必ず連絡をするから少しの間待って欲しい――森の言葉に従うより他なかった。
「実際にあの時お前と会っていたら、無理矢理お前を連れ出して逃げていただろうな」
 そんなことを云って国木田はふっと笑む。
「森殿と種田殿からは許可を頂いた。あとはお前次第だ。お前の気持ちを聞かせて欲しい」
 他ならぬお前の口から、お前自身の言葉で――。
「私……、私は……」
 どうしようもなく胸が高鳴る。苦しいまでに胸がいっぱいになって言葉が上手く出て来ない。言葉より先に涙が溢れて熱く頬を流れていく。太宰は滂沱する涙を拭いながら、
「……好き……ッ、好きだよ、国木田君、……一緒に、いたい……ッ」
 切れ切れに告げて腕を伸ばし、国木田を求めた。痩躯を抱きとめながら「そんなに泣くな。せっかく綺麗にした顔が台無しだ」国木田は薄く笑って、まあお前は化粧なんぞしなくても充分美しいが――そっと頬に触れて親指の腹で濡れた目尻を拭う。
「太宰。もう一度、背中の牡丹を見せてくれないか」
「うん。見て。私を、見て」
 太宰は国木田に背を向ける。前結びに垂れている艶やかな文様が描かれた俎板帯に手を掛けようとすると国木田の手が伸びてきて、俺に解かせてくれ――衣擦れの音と共に厚い帯が解かれた。筋張った長い指を持つ手は幾重にも重なった煌びやかな衣装の合わせ目へと忍び寄って前を寛げる。着物自身の重さによって太宰の肩から衣が滑り落ちた。包帯を巻いていない素肌が露になる。
 晒された細くしなやかな背中は形容し難い程、美麗で艶やかであった。月影に肌は愈々白く醒めて血の如く赫き牡丹の花が佳く映えた。完全には開ききらない薄紅色の牡丹の夥しく重なり合う花弁からは馥郁たる香気が漂うよう。宙を舞う一匹の揚羽蝶は太宰が僅かに身動ぎすると翅を慄わせて今にも其処から飛び立つようであった。国木田は凄艶さを極めた常春に咲いた不滅花に陶然と魅入って、美しい――殆ど独り言のように零すと手を触れた。指先で牡丹の花をなぞり、ずっとこうしたかったと甘く低めた声音で睦言を囁き、項に、背中に、唇を落とした。
「……ああ……ッ」
 太宰は感じ入ったように歎息して背筋を戦慄かせた。国木田は狂おしい程の愛しさに胸を慄わせながら幾度も穢れを知らぬ無垢肌に口付けた。今やこの絢爛な春は国木田だけのものであった。爛々と咲き誇る濃艶な花を摘み取ったのは丹精込めて描き上げた彼自身であった。
「――ねえ、国木田君の背中も、見せて」
「ああ、俺のも、見てくれ」
 今度は国木田が太宰に背を向ける。帯を緩めて袖から腕を抜いて着物を諸肌脱いだ。衣の下から現われた彼の裸の背に太宰ははっと息を呑んで目を瞠った。
「……凄い……」
 しなやかな筋肉に覆われた逞しい真っ直ぐな背中に彫り込まれていたのは壮麗にして威厳に充ちた千手観音であった。四十本の腕を広げ、二本の腕は胸の前で合掌し、静かな半眼で睥睨へいげいする神々しい姿。千の手と掌にある千の眼によって悩み苦しむ衆生を見つけては手を差し伸べ、大いなる慈悲で生きとし生けるもの全てを救う――千手千眼観自在菩薩。
 太宰は以前見た夢を思い出した。暗闇の中で誰かに抱き締められたあの夢を。突如、眼を潰す程の清らかな光が後光のように充ち渡った夢を。あれはきっと国木田だったのだ。眩い閃光は彼の背に刻まれた仏の救いの手――国木田が差し伸べた手であったのだろう。神も仏も信じてはいなかったが、今だけは信じたい気持ちだった。
 太宰は国木田の背に頬を摺り寄せる。
「私もずっと、こうしたかった」
 愛しい人の温もりに顔をうずめれば胸の裡が温かく緩やかに充たされてゆく。ずっと望んでいたもの触れて張り裂けて血を流し続けていた傷口が塞がっていくようだった。
 太宰――国木田は身を半転させて彼と向き合う。
「この町を離れて故郷に戻ろうと思う。村はなくなったままだろうが、其処で静かに暮らしたい。お前とふたりきりで――」
「うん。良いよ。私も国木田君の故郷を見てみたい。ずっとふたりきりで暮らそう」
 微笑む太宰に国木田も笑み返す。そうしてから細い頤を捉えて、
「太宰。――愛してる」
 そっと囁いて紅を引いた唇に口付けた。淡く、甘く、愛しさを込めて。
「――私も、愛してるよ。国木田君」
 麗しい月が咲くように太宰は笑った。

◇◇◇

「貴方はこれで良かったので?」
「それは此方の台詞だ。貴君こそ、これで良かったのか」
「まあ仕方ないですよ。幾ら私でも流石に人に死なれちゃ目覚めが悪い。種田殿も口惜しがってましたがねえ、死なれるよりはましです」
 森は福沢の邸宅を訪れていた。
 話題にしているのは国木田と太宰のことである。
 森が届けに来た国木田からの文には国木田はこれまで世話になった礼と、多大な迷惑を掛けてしまったことへの謝罪、それから別れの挨拶が書かれていた。町を離れて太宰と共に故郷へ帰ることも記されていた。国木田は今生の別れになるだろうと思って律儀にも福沢に文を認めたのだろう。直接挨拶に訪れなかったのは、合わせる顔がない、敷居を跨ぐ資格はもう自分にはないのだと考えたに違いない。文を森に託したのも同じ理由であろう。
 国木田には恩を仇で返したこと、お栄と自分を裏切ったことを赦せぬと云ったが、福沢の本心ではなかった。只、あの場で面責しなければ、もっと彼は苦しむだろうと思ったのだ。福沢なりの情けだった。もっと云えば親としての情愛だった。上手く伝わっているか解らないけれど。
「息子がいなくなって寂しいですか」
 森がのんびりした口調で問うと福沢は溜め息混じりに頷いた。膝の上で丸くなって眠っている猫をやんわりと撫でる。
「だが、それも詮ないこと。人の気持ちは如何にしても縛れぬ。ふたりが幸せなら、それで善い。……彼等には可哀想なことをしてしまった」
 福沢は森から太宰が自殺未遂をしたことを知らされて酷く驚いた。死を選ぶ程に思い詰めていたとは露程にも想像していなかったのだ。だが直ぐに国木田に事の次第を知らせることは出来なかった。お栄の気持ちも考えてやらねばならぬと思ったのだ。その判断は結果的に間違っていたと今では深く悔いていた。
 福沢がもっと早く国木田に全てを明らかにしていれば太宰は二度も自殺を図らなくて済んだのだ。自殺が失敗に終わったから善かったものの、もしかしたら太宰の命は喪われていたかもしれない――そんな未来を想像して福沢は怖気が立った。そして国木田も――あの酷く思い詰めた様子から太宰を追って死を選んでいたかもしれないのだ。それだけふたりの間にあった恋は強く、愛は濃かったのだ。
 福沢が国木田に破門を云い渡す数日前に再び森から文が届いた。どうにか太宰と国木田を一緒にしてやることは出来ないか、と。
「あの文にも驚いたがな。森殿らしくもない」
 森は面白くなさそうな顔をしてやや白けた調子で云う。
「酷い云い草ですね、福沢殿。私だって人の子ですよ。さっきも云いましたけれど、死なれちゃあ私だって困りますよ。商売にも差し障りが出ますしね。――それに。少しだけ貴方の真似をしてみたくなったのです」
「俺の?」
「ええ、父親のような」
「ほう、貴君がか。明日は槍が降るか」
 意外な言葉に福沢はやや目を見開く。
「またそんなことを云う。まあ、私は太宰君に嫌われているようでしたし、貴方みたいに上手くはいきませんでしたね。残念ながら」
 眉尻を下げる森であったが、云う程残念がっているふうでもない。否、そのように装っているのか。
「――それだからか。ふたりを一緒にしてやりたいと云い出したのは」
 それが“父親”として出来る唯一のことだとして。しかし森は只薄笑みを浮かべるだけで何も云わなかった。
「――あのふたり、上手くいきますかねえ」
「大丈夫だろう。国木田がついているからな」
「貴方はよっぽど国木田殿がお気に入りなんですねえ」
 いい加減子離れした方が良いですよ――揶揄やゆするつもりで云えば、福沢は余計なお世話とばかりにふんと鼻を鳴らして「彼奴は、俺の大事な息子だからな」ふっと目許を緩めた。師弟の縁は切れても、彼を大事に思う気持ちは変わらなかった。
「そう云えばお栄さんは?」
「ああ、お栄は芝居を見に出掛けている。この間までは随分と落ち込んでいたが、今は以前と変わりない。只、気丈に振舞っているだけかもしれぬが」
「そうですか。まあ、彼女にもまたいい人が現われますよ」
「そうだな」
 軒下に吊るした風鈴が涼やかに鳴る。この間、お栄が買ってきたものだ。
 福沢は風に吹かれて揺れる風鈴を見ながら末永くふたりが幸せであるようにと胸の裡で願った。

◇◇◇

「国木田君~、待って~」
 旅装に身を包んだ太宰はジリジリと容赦なく肌に照りつける過酷な日光の下、手に持った杖でよろめく躰を支えながら半ば脚を引き摺るようにして歩いていた。先を行く国木田は情けない彼の声に振り向いて立ち止まる。
「太宰、早くしろ。また野宿になるぞ」
「ええ~、そんなの厭だ~。今日は布団で寝たい~」
「だったら早くせんか。ほら、行くぞ」
「あ、ねえ待って。其処の木陰でちょっと休ませて」
 尚も先に進もうとする国木田を呼び止めて直ぐ傍にある木立を指す。国木田は仕方ないとばかりに来た路を引き返して太宰に歩み寄ると彼の手を引いて天に向かって青々と葉を茂らせている大樹の下へ入った。木陰は濃密な緑の香気を漂わせて、ひんやりとしていた。猛烈な夏の陽射しから逃れた太宰は大きく息を吐くと地面に座り込んで木の幹に背を凭れる。
「はあ、疲れた……」
「大丈夫か? お前は本当に体力がないな」
 云いながら国木田も隣に腰を下ろす。
「国木田君が体力あり過ぎるの」
 ぷうと頬膨らませる。
 ふたりは国木田の故郷を目指して旅の途中であった。町を離れて三日目。まだ先は長く、越える山も二つ程。それを聞いた時、太宰は「私、途中で死んじゃう。国木田君、おんぶしていって」などと宣った。国木田が即却下したのは云うまでもない。
 陽炎が立つ程の暑気の中で国木田は汗をかきながらも一向に脚力の衰えを見せなかった。異様な体力である。一方、太宰は半時も歩いたらその場に座り込んでしまうくらいだ。足腰が国木田程丈夫でないのもあるが、何と云ってもこの暑さが体力を奪った。今年の夏は殊更暑く、大旱魃だいかんばつになるのではないかと危惧する声も聞こえているくらいである。
「いい加減、包帯を取ったらどうだ? 少しは涼しくなるぞ」
 暑い暑いと文句を垂れる割に頑なに包帯を外そうとしない。国木田には不可解であった。
「だって巻いてないと落ち着かないんだもの。それに……」
「それに? 何だ?」
「ううん、やっぱり何でもない」
 慌てて打ち消す太宰を不審に思って「何だ、気になるだろうが」追及すると彼は国木田から視線を外し頬を染めて「その……首のところに……、痕が、まだ残ってるから……」小声で呟いた。
「は? 痕?――あッ!」
 云わんとしていることを理解して国木田は湯気が立ち上りそうな程に真っ赤になった。数日前の出来事がありありと脳裏に浮かんできてうろたえてしまう。
「あ、否、その、すまん」
「……うん」
 お互いの顔を見られずにそれぞれ俯いて口を閉ざした。
 一陣の風が吹き通って梢を揺らし、ふたりの元に涼を運んで来る。
「ああ、良い風だ」
 国木田は目を伏せて懐かしむような口調で云った。故郷を思い出しているのだろうか――太宰は端整な彼の横顔を静かに眺めて、無造作に投げ出された右手にそっと触れた。と、握り返される。
「――お前の手は相変わらず冷たいな」
「でも国木田君の手が温かいからね」
 ずっとこの手が優しく温めてくれることを、決してこの手を離しはしないことを、知っている。
「そうか。――そうだな」
 国木田と太宰は顔を見交わして幸福そうに微笑み合った。

 無垢肌に艶やかに咲いた想いは永久に散ることなく。
 愛しさをその肌に重ね合って。
 共に手を携えて生きていく。
 何時までも、ずっと。
 ふたりで。

(了)
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