無垢肌に散りて

 (漆)

 ――どうして死ねなかったんだろう。
 今にも雨が降り出しそうな重苦しい曇天の下、太宰はふらふらと覚束無い足取りで路を歩いていた。路ゆく人々は皆一様に暗い表情で雨に降られては敵わないと足早に通り過ぎて行く。だが太宰は空模様など意に介していなかった。湿度の高い強い南風に吹かれながら只、死に場所を探して彷徨っていた。
 そう、太宰はあの時、死ねなかったのだ。
 飲んだ砒素の量が足りなかったのか、発見が早かったせいなのか、自殺は失敗に終わったのだった。
 部屋で倒れている彼を一番最初に発見したのは中島であった。戻ってなかった膳を取りに行った際のことであった。太宰が自殺を図ったと知って邸宅は蜂の巣を突いたような大騒ぎになった。中島は畳の上に落ちていた白い包み紙を見て何かを飲んだのだと察して慌てて吐かせた。とにかく太宰の蘇生に中島は無我夢中、必死だった。彼が死んでしまうのではないかと云う恐怖に半べそになりながら彼の名を呼び続けた。そうしているうちに医者が駆けつけて適切な処置を施した。勿論、この辺りの事情は本人に記憶はない。後から聞いた話である。
 太宰が意識を取り戻して目醒めたのは服毒自殺を図ってから三日後のことであった。目が醒めた時、傍らにいた中島は泣いていた。どうして泣いているのと訊ねたら「だって太宰さんが生きているから」と云った。其処で酷く虚ろな気持ちになった。生きている――呆けたような、白けたような気分だった。死ぬことすら出来ない自分が莫迦者のように思えた。
 事の次第を知らされた森は太宰を労わりながら「種田殿とも話をするから太宰君は少しの間、静養していなさい」そう云って彼は数日家を空けていた。種田と森との間で一体どのような話し合いがなされているのか。取引自体がなくなる訳ではないだろう。だがそれもどうでも良いことだ。自分にはもう生きる意志はないのだから。太宰の頭の中を占めているのはどのように死ぬかだけだ。確実に死に至れる方法の死を。
 起き上がれるようになるまで十日程掛かった。太宰の身を案じてか、ほぼ一日中中島が付きっ切りであった。また自殺を図られては堪らないと思ったのだろう。しかし監視とも取れる中島の目が煩わしかった。太宰は躰の自由が利くまで自室でぼんやりと無為に過ごしていたが、今日が頃合だと厠に行く振りをしてまんまと邸宅を抜け出して来たのであった。きっと今頃、中島は血眼になって自分を探し回っているだろう――そう思うと少しだけ胸がチクリと痛んだ。だが死ねばそれも関係なくなる。そう、死ねば全て関係がなくなるのだ。森も、種田も、廓に売られたことも、男娼になることも、国木田のことさえ。
 自殺を図ってからと云うもの不思議と国木田のことは一度も思い出さなかった。恰も憑き物が落ちたように、あの狂おしいまでの恋情はひっそりと凪いでいた。今も歩きながら国木田の残像を辿ろうとしても上手くいかなかった。まるで彼の存在そのものが夢か幻であったかのように捕え難く、漠然としていた。声を思い出してみても果たしてそれが本当に彼のものなのか判断がつかなかった。こうして肉体は生きてはいるが自分のある部分は死んでしまったのだろうと思った。
 重く垂れ込める厚い暗雲が突風に煽られるかのようにして吹き流され、不気味な様相を呈して渦を巻く。愈々南風は強く、その生温さは気色が悪い程で血の温度を思わせた。蓬髪を浚う旋風に水の匂いを感じて降雨の気配が強まった。遠くで雷鳴が轟くのが聞こえて稲妻にこの身を刺し貫かれたなら――ふとそんなことを考えた。
 何時の間にか太宰は屋敷町の近くまで来ていた。落としてた目線を上げて周囲を見渡すと寺の三門が見えた。西寺である。
 ――この辺では西寺の紫陽花が見所だ。
 不意に国木田の言葉が胸に蘇った。不確かであった筈の彼の声が鮮明に響いて深部の琴線に触れた。
 吸い寄せられるように西寺の三門へ向かって歩みを進めると石段の前に人影を認めた。立ち止まって目を凝らして見ると長身の男と若い娘らしい女の後姿。太宰は凝視していた瞳を大きく見開いて愕然とした。一瞬、息が止まった。心臓が、躰が、凍り付いた。見間違える筈もない。あのふたりは――。
「……国木田君……」
 まさしく、ふたつの人影は国木田とお栄であった。彼等は太宰に横顔を見せていたが太宰の存在には気が付いていない様子だった。石段の前で何をしているのか知るべくもなかったが、太宰にはふたりが仲睦まじく映った。それこそ夫婦めおとのように。並んで立っている様子を見て美男美女、似合いのふたりだと思った。
「……私、莫迦みたい……」
 呟いたら右目から雫がぽろりと落ちた。
 ――まだこんなにも彼のことが好きだなんて。
 抜け落ちていた感情が狂恋となって激しく打ち寄せた。もの狂わしい熱情は太宰の心に爪を立て鋭い痛みを齎し、やがて傷口から血を溢れさせた。柘榴の実の如く無惨に胸が張り裂けて深く抉れた虚ろからとくとくと夥しく赤黒い血を吐き出し、激痛に苛む胸は国木田を求めて已まなかった。
 涙で滲む視界の中で、ふたりは寄り添うようにして石段を登って行く。
 ――死のう。
 太宰は近付く雷鳴を聞きながら膝から崩れ落ちそうになる躰をどうにか支えていた。

◇◇◇

 お栄は国木田の後に続いて西寺の石段を登っていた。以前のように手を引かれることを期待していたのだが望みは裏切られた。自分の方から手を伸ばすのは躊躇われた。娘らしい羞恥心からである。それに何だか国木田の様子が少しおかしいように思われて気後れしたのもあった。目の前の広い背中に揺れる長い金糸を見詰めながら無言のまま愛しい人の後を追った。
 国木田と逢引するのは今日で二度目である。しかも今回は全くの出し抜けであった。突然、文が届いて読んでみれば『正午に西寺で待つ』とだけあった。お栄は予期していなかった彼からの誘いに胸を躍らせた。国木田と顔を合わせるのは約半月振りであった。どう云う訳か四日に一度の訪問が途絶えていたのだ。一度何かの用事で訪ねて来たらしいのだが、その時丁度お栄は外出して不在であった。下男から話を聞かされた時は酷く残念に思った。寸時でも良いから国木田に会いたかったので。恋する者にとって相手に会えない時間は途方もなく長いものだ。前回の逢引の後、次の逢瀬の約束はしていなかったので、今度は何時国木田とふたりきりで過ごせるだろうと心患いながら半ば楽しみにしていた。そんな矢先に届いた彼からの文はお栄を有頂天にさせ、天真爛漫に喜ぶ様子に福沢も何も云わず国木田と会うことを許諾したのだった。
 待ち望んでいた彼との逢引にお栄の心は弾んでいたが、西寺の前で落ち合った国木田は妙に落ち着きを払った態度で何か冷え冷えとした気配を纏っていた。あまり嬉しそうな様子ではなかった。神妙な面持ちを崩さないまま型通りの挨拶をして話がしたいからとお栄を伴って石段を登り始めたのであった。
 話とは何であるか、お栄は胸を騒がせたが、しかしそれよりも天候の崩れが気になった。家を出る前から不穏な空模様であったが、今では遠くで雷鳴が轟いている。何れ酷い雨が降る――恐ろしいような気持ちを抱いて生温かく重たい強風に着物の袖を翻しながら沈黙を守っている国木田の背中を瞳に映していた。
 石段を登りきり三門を潜って境内に入る。無人の境内は深く静まっていた。ぐるりと境内を取り囲む潅木は黒々と茂り、それに混じって咲いていた淡い青紫の紫陽花は色彩を喪い、斑に茶色く変色して立ち枯れていた。死に蝕まれた花は無惨な姿を風に晒して瀟条しょうじょうと揺れていた。樹木の梢が強風にざわめいて飛び立った鴉が啼くのを切っ掛けにお栄が沈黙を破った。
「国木田様、お話って何ですの?」
 振り返った彼の表情は険しく硬い。眼鏡の奥のにある色素の薄い双眸は翳って昏かった。向けられる真剣な眼差しは鋭利な刃となってお栄に差し迫る。初めて見る深刻な程に生真面目な、何処か思い詰めたような顔はまるで知らない人物のようで。一瞬、お栄は怯んだ。湿度の高い南風に国木田の後ろ髪が浚われて吹き流れる。
 お栄さん――静かに国木田は切り出す。
「縁談のお話なのですが――真に申し訳ないのですが、辞退させて頂きたく……お願い申し上げます」
 そう云って深く頭を垂れた。まるで想像もしていなかった国木田の申し出にお栄は我耳を疑った。
 ――今は彼は何と云ったのだろう? わたくしとの縁談を……?
「……国木田様、何を仰って……」
「もう一度申し上げます。大変申し訳ないですが、貴女との縁談を辞退させてください」
 顔を上げぬまま、強い口調で告げる言葉にお栄は激しい衝撃を受けた。降り掛かった大きな衝動に二の句が継げなかった。黒目勝ちな瞳を零れ落ちんばかりに見開いて呆然と立ち尽くした。心中では何故何故何故と警鐘が鳴るように響いた。
 何故一体どうして――直面した破談の危機にお栄は慄いた。胸を打つ鼓動が速くなり、乱れて血の気が引いた。気が遠くなるようだった。このまま意識を手放せたらどんなに良かったことか――閉じられぬ耳に残酷な宣告が下る。
「俺は、貴女を愛していない」
 国木田は真っ直ぐに彼女を見詰める。決して眸を逸らさずに。強い眼差しで。心臓を貫くまでの激しい視線で。無慈悲な両の眼で彼女を射抜いた。
「……そんな……」
 お栄は殆ど喘ぐように呟いた。目の前が真っ暗になる。奇妙に現実感が歪む。否、歪んでいると感じるのは泣いているからだろうか――彼女の大きな瞳からみるみるうちに涙が滲み溢れ、豊かな頬を濡らした。
 国木田は尚も言葉を重ねる。彼女を傷付けると解っていても、全てを正直に明かすのが精一杯の誠意だとして。恨まれても良い、憎まれても良い。今此処で彼女に刺し殺されても構わない――固く覚悟を決めていた。
「本当です。俺は貴女を何とも思っていない。俺は――別の人間を愛しています」
「だから、それだから、わたくしとの縁談を反故になさいますの? だって国木田様はあんなに……」
 涙に言葉を詰まらせ、悲憤に戦慄く色を喪った唇をきつく噛む。お栄は涙で潤んだ眼に怒りを滲ませて対峙する国木田を睨み付けた。国木田は彼女の視線を受けて僅かに表情の緊張を解く。
「確かに以前は貴女を恋慕っていました。貴女を愛そうとした時もありました。ですが、俺には出来ませんでした。貴女を偽りの気持ちで愛することも、自分を騙すことも――何より俺は相手を忘れることが出来なかったのです」
「……それで国木田様は、その方とご結婚なさるのね」
 わたくしを捨てて――皮肉な笑みを片頬に浮かべて鼻で嗤った。恰もぞろりと女の情念が蛇となって這い出るような醜い嗤い方であった。お栄はせせら嗤って云う。
「小父様が聞いたら何て云うかしらね」
 脅迫するかのような台詞は彼女にとって一縷の希望であった。福沢が国木田を諫めてくれさえすれば破談を免れる――師匠の云うことは弟子にとって絶対である。国木田を引き戻すことが出来るとお栄は打算したのだ。が、その望みは容易く打ち砕かれた。
「既に師匠にはお話をしました。考え直してくれと云われましたが、俺の意志は変わりません。それから。貴女は思い違いをしておられるようですが、俺は誰とも添い遂げるつもりはありません」
「……何故……だって、それではおかしいではありませんか」
 虚を衝かれたように濡れた瞳を瞬かせると、ふっと国木田は淡く笑んだ。酷く悲しい笑顔であった。気色ばんでいたお栄の心が何か冷たいものに触れたかのようにすぅと冷めていく。彼が愛している人物は誰か、何故その相手と添い遂げようとしないのか、悲傷に染まった微笑みの理由も、何一つお栄には解らなかった。真相を求めながら、しかし訊ねられなかった。国木田の微笑が一切を拒んでいたから。彼の情は今や完全に喪われたのだと痛烈に悟った。
 国木田は真顔になって言葉を継ぐ。
「お栄さん。俺は貴女や師匠を裏切りました。到底、赦されることではありません。お怒りも尤もでしょう。貴女を傷付けてしまった。俺を憎んでも、恨んでも構いません。一生、赦さなくても良い。もとより初めから赦されるつもりもありません。只、貴女や師匠にすまなく思っているのは本当です」
 水気を孕んだ南風が一層強く両者の間を吹き抜ける。雷鳴は少しずつ近付いて重々しい轟音を響かせ、厚い暗雲は強風に流されて濃い雨の匂いを連れてくる。天穹は時折稲妻に光った。雷雨はもう直ぐ其処まで来ていた。ふたりの破局を反映しているかのような荒天だった。雨は滝の如く激しく降るだろう。きたる夥しい雨に千切れ壊れた縁が流れてゆけば良い彼を慕う気持ちごと――お栄は稲光する天に祈った。
「――国木田様。最後に一つだけ聞かせてくださいまし。心変わりをなさったのは、わたくしが嫌いになったからですか?」
 静かに訊ねる彼女はもう泣いてはいなかった。心はまだ悲鳴を上げていたけれど。しかしこれ以上、彼に縋ることは彼女の矜持が赦さなかった。せめて最後は毅然とした態度で別れようと思った。
「いいえ。貴女を嫌いになったからではありません。只、俺は愛することを知ってしまったのです」
「……貴方は、酷い方ね」
 お栄は小さく笑う。清楚で可憐な白い花のように。国木田と初めて出会った頃の、娘らしい笑い方であった。
「ええ、俺は人の風上にも置けない酷い男なのです」
 頭上で一際大きく雷鳴が轟いて、それが合図だったように暗い空から雨粒が落ち始めた。天を走る青い閃光は梅雨の終わりを告げていた。

◇◇◇

 福沢の居室で国木田は端座して家主が現われるのを待っていた。
 お栄と会った翌日のことである。師匠である福沢を差し置いて彼女に縁談の取り消しを申し出るのは非常識なやり方であると解っていたが、しかしそうでもしなければ己の意志が福沢に伝わらないと思ったのだ。きっとお栄から話を聞いて激怒しただろう。だが国木田は何を云われても、激しく叱責されようとも、構わなかった。国木田の心は磨かれた鏡面の如く静謐さを湛えて些かの揺らぎもなかった。
 襖が開く音がして落としていた目線を上げると福沢が難しい表情を浮かべて現われた。卓を挟んで国木田の前に座る。国木田は無言で頭を垂れて膝の上で堅く拳を握った。
「話とは何か」
 訊ねる福沢の声音は重い。国木田は正面を向いて口を開く。
「縁談のお話です。きっと既にお栄さんから一通りお聞きでしょう。師匠は俺に考え直して欲しいと仰いましたが、俺の意志は変わりません」
 そう云って徐に懐から紙片を取り出すと卓の上に広げ、続いて忍ばせていた小刀を手にして鞘から刀身を抜くと白刃を長い後ろ髪を束ねている根元に宛がって髪を切り落とした。癖のない金糸を紙の上に載せて、これが俺の意志です――厳かに告げた。福沢は突飛な彼の行動に息を呑んだ。咄嗟に言葉が出てこなかった。喫驚きっきょうして只、瞠目するばかりであった。一方、国木田は淡々とした態度を崩さずに、
「これでもまだお解かり頂けぬのでしたら次は指を切り落としましょう」
 卓に置いた左手の五指に躊躇いなく刃を翳す。力を込めて指に刃を押し当てると、止せ――福沢の手が制した。
 無表情の国木田を痛ましい顔色で福沢は見た。彼の眸に宿っていた生命そのものような鋭い光は喪失していた。思い詰めるあまり、燃え尽きてしまったかのように。精悍に引き締まった頬も色をなくして端整な容貌は光彩を欠いていた。切り落とされた髪ごと国木田の命も削ぎ落とされたようだった。
「小刀を仕舞え」
 云われた通りに国木田は刀身を鞘に収め、小刀を懐へ戻す。左手の指の幾つかに薄く血が滲んでいた。
「以前も申し上げましたが、俺はもう此処に居れません。お栄さんを傷付け、師匠をも裏切りました。不逞の輩です。どうぞ破門に処してください。恩を仇で返す形となり、真に申し訳なく思いますが、今日まで俺を育ててくださった恩は一生忘れません」
 畳の上に手をつき、額を擦り付けて国木田は懇願するように告げた。それは悲痛な叫びとなって福沢の胸に打ち寄せ、突き刺さった。もうこれ以上は見てはいられなかった。
 国木田――静かな語調で呼び掛ける。顔を上げた彼は眉間に深く痛苦の皺を刻んで福沢を見据えた。目許を力ませて泣くのを堪えているかのような表情に福沢もまた覚悟を決めた。居住まいを正し、厳然として告げる。
「お前を破門に処する。恩を仇で返したその報い、お栄と俺を裏切ったことは赦せぬ。師弟の契りも今日限り。お前が何処で何をしようと俺は一切関知せぬ。好きにせよ。只、最後にこれだけはお前に云わねばならぬ。世俗を捨て、仏門に入ることが本当に正しいことなのか良く考えろ」
「しかし、俺は……」
 額を俯けて唇を噛む。
「――お前に伝えるべきか迷っていたが、こうなったら憚ることもない。太宰殿のことで話がある」
 福沢の口から太宰の名が出て国木田は弾かれたように顔を上げた。落ち着いて聞くようにと福沢は前置きしてから云った。
「太宰殿が――自殺を図った」
 青天の霹靂となって福沢の言葉が国木田を刺し貫いた。
「え?」
 ――太宰が? 自殺?
 福沢は何かを云っていたが、最早国木田の耳には届いていなかった。五感が遠くなってすぅと躰が喪われていくようだった。太宰が自殺を図った――只その言葉だけが頭の中で繰り返し鳴り響いていた。
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