無垢肌に散りて
(陸)
季節はゆっくりと移ろい、梅雨を迎えた。
水無月も半ばを過ぎた或る日。その日は雨季らしく、今朝から天候が愚図ついていた。霧雨が降ったかと思えば雨雲の切れ目から僅かに陽が射して、そしてまた俄に雨が降り出す――不安定な空模様に往来をゆく商人達も些か困ったふうで或る者は傘を使い、また或る者は軒下で雨宿りをして凌いでいた。雨脚は強まったり、弱まったりを繰り返しながら地面を濡らして、あちらこちらに水溜りを作った。
途中で雨に降られたのは太宰も同じであった。次第に泥濘 む路面を傘を差しながら彼は森に連れられて屋敷町にある福沢の邸宅を目指していた。目的は他でもない、先日完成した刺青を国木田の師匠である福沢に見せるためである。国木田が仕事を引き受けた際、彼が提示した彫賃について刺青の出来栄えの如何を師匠に判断して貰い、それに応じて金額を上乗せする――そう云う取り決めであったから、森は予め文を送り、約束を取り交わしてふたりは彼を訪ねたのだった。
森の後に続く太宰の足取りは重たかった。必要なことだと頭では理解していたが、裸形の背を人目に晒すことに抵抗があった。もう誰にも見られたくはなかった。国木田以外には。肌を晒す度に、刺青を見せる度に、自分自身が磨り減って心が虚ろになってゆく気がしていた。国木田によって彫り込まれ、色彩を流し込まれた皮膚、その下にあった癒し難い虚が針先を伝って注がれる甘露に充たされていた筈であるのに、少しずつ渇いて罅割れていくようだった。国木田にもう一度会いたい――頭の中で彼の残像を幾度も追い求めながら想うのだった。
悪天候のためか、屋敷町は何時にも増してひっそりと静まり返っていた。雨天に黒く聳える切妻破風門を潜って濡れた飛び石に導かれて玄関の軒下で傘を閉じる。水滴がついた肩を軽く払ってから森が戸を訪うと直ぐ様、引き戸が小気味良い音を立てながら開いて若い女性が現われた。お栄である。
「森様と太宰様ですね。お待ち申し上げておりました」
彼女は丁重にふたりを迎え入れて傘を預かると、主人が待つ座敷に案内した。森は予てよりお栄と顔見知りの様子で、廊下を進みながら他愛のない言葉を交わす。
「やあ、お栄さん。この頃はまた一段と美しくなられて」
「厭ですわ、森様。そんなふうに揶揄 っては」
ころころと鈴の音を転がすように朗らかに笑う彼女に森は僅かに目を見開く。
「おや、私は本当のことを申し上げただけですよ。何方かいい人でも出来ましたか?」
するとお栄はぽっと豊かな白い頬を赤らめる。厚みのある柔らかそうな耳にも朱が灯って恥らう姿は清楚な白い花の如く可憐であった。貴女は大変素直な方ですね――森は含み笑いで流石福沢殿が大事に可愛がっているだけのことはあると、同意を求めるかのように後ろにいる太宰を一瞥する。だが太宰はうわの空でぼんやりと前方のふたつの背中を見るばかりだった。
「貴女を射止めたのは一体何処の誰でしょうね。否、あの福沢殿のお眼鏡に敵った、と云うべきでしょうかねえ」
森はそんなことを呟きながら、赤面して嬉しそうにしているお栄を楽しげに眺め遣った。お栄はこれからやって来るであろう幸福に意中の人の名をつい口にしそうになったが、どうにか呑み込んで主人が起居している座敷の襖の前で膝をついて客の来訪を告げた。中からくぐもった返答があって、お栄は静かに襖を開けて客人ふたりを座敷の中へ入るように促した。
「足元が悪い中、ご足労掛けて申し訳なかったな」
卓を挟んで並んで座る彼等に福沢は詫びた。
「天候は仕方がないですよ。まあ、厭な季節に変わりはないですが。こうも雨続きではねえ」
やや大儀そうに云う彼に相槌を打ちながら、
「――して、其方が貴君が保護したという太宰殿か?」
福沢は沈鬱な面持ちの太宰を見遣る。森が「ほらご挨拶なさい」と子供に云い聞かせるようにして彼の肩に手を添えれば、ぎこちなく太宰は頭 を垂れて改めて名を名乗った。ふたりは初対面であった。福沢も森との関係や己の生業やその立場などを簡潔に説いた。其処で再びお栄が現われた。盆に載せた茶と菓子とをそれぞれ卓に置いて客人に振舞うと丁寧にお辞儀をして退室した。彼女を見送ってから早速本題に入る。
「太宰君。福沢殿に背中をお見せしなさい」
森の言葉は何の感情も含まれてはいなかったが太宰には酷く無慈悲に響いた。森や種田の前で何度も刺青を晒して見せていたが、一向に慣れることはなかった。只、厭わしさと強い嫌悪感が募るばかりで。こうして自分は慰み者になるのだと絶望にも似た感情を抱くのだった。
太宰が押し黙っていると森が早くしろと急き立てる。向かいに座る福沢は無言であったが、その眼光の鋭さに太宰は気圧されてのろのろと着物の合わせ目を開いて前を寛げた。森は彼の脱衣を花を観賞するが如く眺めていたが、福沢は何か遠慮をする様子で卓に置かれた湯呑み茶碗を満たす緑色 に視線を落としていた。肌を隙間無く覆っていた包帯も取り去って畳の上に落とせば、背中一面に麗々しく彫り込まれた刺青が現われた。太宰は福沢に背を向けて俯き加減で座布団に坐して、無遠慮に向けられる眼差しに唇を噛んで耐えていた。
一方、福沢は愛弟子が丹精込めて仕上げた仕事ぶりに目を瞠った。
重たげに花開いた牡丹の艶やかさ、血汐の如き真っ赤なその花弁、爛々と咲き誇った花は指先で触れれば、はらりと散りそうで。花を縁取る葉、夥しく厚く層を成した薄紅色の牡丹はまだ完全には開き切らずに、処女性の、匂い立つような官能を宿して、顔を寄せればふっと馥郁 たる香気を感じるよう。宙を舞い飛ぶ鱗翅の細やかな模様には福沢も思わず唸ってしまった程だ。
国木田を育て上げたのは無論、師である福沢であるが、よもや彼の技量がこれ程まで秀でているとは予想していなかった。師としては嬉しい誤算である。丁寧で完璧な仕事は国木田らしいとも云えたが、それ以上に鬼気迫るような、彼の心魂全てを傾けた末の出来栄えなのだと白磁の背に描かれた美麗な図 を見て福沢は思うのだった。この絢爛な常春を何時までも眺めていたいと云う誘惑に駆られながらも、太宰が居心地悪そうにしているのを察して「もう良い。服を着給え」労わるように云って身なりを整えるために隣の座敷を使えと顎をしゃくって促した。太宰は手早く着物の前を掻き合わせて包帯を抱えると軽く会釈して後方にある閉じた襖の向こうへと消えた。
「師匠である貴殿の目から見て、どうです?」
「思っていた以上の仕上がりだ。正直、驚いた」
「ほう。福沢殿が手放しで人を褒めるのは珍しいですねえ。やはり愛弟子は違いますか」
「愛弟子だからと云って贔屓目に見ている訳では決してない。筋が善いのもあるが、しかしこれも彼奴の修練の賜物だ。元来、国木田は何事に対しても真面目なのだ。努力を惜しまない。勉強熱心だ。森殿も一度彼と顔を合わせているだろう。あの両の眼の烈々たる輝き――俺は彼のその眼の中に純粋さと激しさを見出した。彼奴は頭も聡い。仕込めば必ずものになるだろうと思った。だから俺は身寄りのない彼を寺から引き取って手元に置いたのだ。実際、国木田の才は開花した。俺の目に狂いはなかった。何れは長の座を彼に託すつもりだ。一本気なところがあるが、それも彼奴の美点だ」
「何ですか、その息子自慢は。随分と彼に入れ込んでるんですねえ、貴方らしくもない」
森がつまらなさそうに鼻白んで云うと、福沢は事実を述べたまでだと素っ気無い。だが付き合いの長い森は知っている。一切表情を崩さない彼が内心、酷く喜んでいることを。自他共に厳しい男が見せた人の親らしい顔に森は意外に思いつつも興味深く感じるのだった。
「――太宰殿は大丈夫なのか」
不意に訊ねられて意味が解らず「何がです?」目を瞬かせる。
「太宰殿は何処か躰の具合が悪いのではないか? 顔色が悪いように見受けられたが」
彼の色を喪った白い顔は室内の弱々しい光線のせいかと思われたが、塞ぎ込んだような昏い表情に何らかの病が隠れているように見えたのだ。すると森は合点して、
「ああ、そのことですか。少し神経が参っているのですよ」
所謂恋煩いと云う奴でして――酷薄な薄ら笑いを浮かべる。
「恋煩い?」
片眉を吊り上げて鸚鵡返しに聞き返す福沢には取り合わず、それよりも、と森は話題を転換させる。
「お栄さん、暫く見ないうちにお綺麗になられて。何方かいい人があるのかと訊いたら笑って何も云いませんでしたけれど実際のところ、どうなんです?」
「貴君がそれを知ってどうする?」
「別にどうもしませんよ。単純な興味です。福沢殿のお眼鏡に敵う殿方は一体どんな人物なのかと思いましてね」
好奇の色を滲ませた目を向ければ福沢は懐手をして居住まいを正して口を開く。
「まだ本決まりではないが、国木田にお栄を娶らせようと考えている。本人達も満更ではないようだからな。お栄も国木田も互いに想い合っているようであるし、国木田ならお栄を任せても大丈夫だろうと判断した。貴君からの依頼を終えたら正式に国木田との縁談をお栄に明かす約束をしているのだ」
「ふむ。成る程、国木田殿ですか。それはそれは……お目出度いことです。実に結構」
ご祝儀をはずみましょう――にこやかに告げて供された茶に口を付けた。
「それで。金子の相談ですが。国木田殿は彫賃は二両で良いと云いましたが、福沢殿も驚く程の仕事ぶり、種田殿も私も彼の仕事に非常に満足しております。ですから、十三両――上乗せしてお支払いしましょう。合わせて十五両です」
福沢は提示された破格の金額に目を剥いた。十五両と云えば一家四人が何もせずとも一年以上暮らしてゆけるだけの金である。一介の彫り師である国木田にとっては法外な金額だ。福沢は幾らなんでも十五両は釣り合わないと主張したが、森は「国木田殿とお栄さんの祝言の前祝も兼ねて」と云って譲らない。
「金子もこの通り用意してありますし――」
彼は脇に置いた包みを卓の上に載せて紫色の袱紗を開いた。黄金の小判がきっちり十五枚揃って積まれていた。
「国木田殿は此処には?」
「明日には来るが――」
森さん――突如、彼等の会話に太宰の声が割って入った。ふたりが声の主に視線を転じると身なりをきちんと整えた太宰が襖の前に立っていた。彼は静かに歩み寄って森の隣に坐すと、
「彫賃の受け渡しを私にさせてください」
何かを覚悟したかのような、毅然とした語調であった。
「何故――」
「……彼にはお世話になりましたから。最後にお礼が云いたいのです」
太宰は薄く微笑んだ。森は思案顔で福沢を見た。福沢もまた森と太宰とを見返して「相分かった」と首肯した。
「福沢殿がそう仰るなら仕方が無いですね。この金子は太宰君に任せることにしましょう」
広げた袱紗を包み直して森は太宰の前に押しやった。太宰は両者に礼を述べて重たい黄金が包まれた紫色を虚ろな眼差しで見詰めていた。
◇◇◇
「まあ、とても綺麗ね」
お栄は涼やかな色合いの紫陽花を見て華やいだ声を上げる。国木田も彼女の隣に立って鞠のようにこんもりと寄り集まって萼を開いている花を眺めた。
正午前まで降っていた雨の名残を纏った紫陽花は曇天の下、微光に鈍く輝いて水と土の匂いに混じって微かな甘さを含んだ香気を仄かに漂わせていた。青や紫の萼は咲いた場所によって濃淡があり、繊細な異国の絵画を思わせた。恰も乾き切らない雫が紫陽花の色彩を溶かし、滲ませているよう。清涼感のある雨季の花は今が盛りで見る者の目を楽しませていた。
国木田とお栄はふたりきりで紫陽花の名所とされている西寺を訪れていた。西寺は福沢の宅がある屋敷町から比較的近いところにある寺である。境内へと続く急勾配の石段の両脇を埋めるようにして多数の紫陽花が植えられており、華やかな彩を添えていた。国木田とお栄は人気のない石段をゆっくりと登りながら紫陽花を愛でた。緩い北風があるせいか今日は比較的涼しい。
「此処の紫陽花は皆、青い色ばかりですけれど他所のところで見た紫陽花は赤いのばかりで。やっぱりこの花は青色が一番綺麗ですわね」
「そうですね。ところで、この花に毒があるのを御存知ですか」
「恐ろしいことを仰るのね、国木田様は。――この花で死にますか?」
「ええ。食べたら死にますよ」
「綺麗な花を食べて死ぬなんて、何だか素敵ね」
お栄は少女らしい微笑を浮かべて雨に濡れた艶やかな葉を指先で触れた。頼りなげに揺れる紫陽花から雨粒が零れ落ちて石段の上に出来た小さな水溜りに波紋を描いた。国木田は彼女の仕草をぼんやりと瞳に映して、ふたりきりで逢引していることが不意に奇妙に思われてくるのだった。お栄が自分の傍にいることが変に現実感を欠いた。もうひとりの自分が芝居を見るようにして自分達を眺めているような――自ら申し出た縁談であるのに他人事のように感じていた。そう、こうして国木田とお栄が逢引をしているのは縁談を取纏めるためのひとつの布石なのだった。
先日、国木田は福沢の元を訪れて彼女との縁談を進めて欲しい旨を伝えた。福沢は彼の仕事ぶりを善くやったと褒め、労った後、快諾した。其処で久し振りに顔を合わせたお栄もやや恥じらいながらも、ふっくらとした唇から白い歯を零していた。通常であるなら外での、ふたりきりでの逢瀬は赦されないことであったが、珍しく福沢が許可したのだ。国木田を信頼しての判断である。また、彼等は既に婚姻を結んだのと同然と云う意識も働いていた。とは云え、お栄も家の用事を任されている忙しい身だ。そう長い時間、国木田と共にいることは出来ない。そう云う事情も手伝ってふたりは手近な場所を選んで逢引――散策しているのだった。
雨水で滑りやすくなっている石段を国木田はお栄の手を引きながら慎重な足取りで登って行く。手を取られる彼女ははにかんだ様子、俯き加減で時折、長身の彼を見上げては微かに頬を染める。黒目勝ちな、白目が澄んだ彼女の眸にはありありと国木田を恋慕う色が滲んでいた。しかし、彼を求める陶然とした眼差しは国木田には届いてはいなかった。国木田は現実を離れて、記憶の中へと埋没していた。思い出していたのは他でもない太宰のことであった。
太宰と最後に会ったのが四日程前のこと。彫賃を届けに彼はやって来たのである。真逆彼が再び姿を見せるとは露程にも思っていなかったので国木田は心底驚いた。同時に激しく胸が高鳴った。死んだように凪いでいた心が息を吹き返すようだった。緩みそうになる頬を引き締め、昂ぶる感情を抑えることに苦心しながら、以前のように太宰を部屋に通し、茶を振舞った。
「生憎、お茶請けはないが」
「ああ、構わないよ。私もそんなに長居は出来ないからね」
お茶頂くね――にこりと微笑んで湯呑みに口を付ける。向かいに座る太宰を見詰めながら国木田は何かを云わなければと言葉を探していたが適当なものを見つけられず、徒に座布団の端を弄したり、茶を口に含んでみたりと無意味な動作を繰り返した。太宰もまた湯呑み茶碗を置いてからふと真顔になって物云わなかった。その顔色は降雨に薄暗い室内のせいか蒼い陰影を宿して美しい貌 を陰鬱に見せていた。両者の間に流れる沈黙を深めるように卯の花腐しの雨がさらさらと柔らかに囁き交わす。何処にいるのか、不意に蛙 の声が静かな雨音を破った。もう梅雨時季だねえ――太宰が徐に呟く。国木田も相槌を打って、
「紫陽花の季節だな。この辺では西寺の紫陽花が見所だ」
「へえ、そうなの。私も見てみたいな」
「それなら――」
云いかけて慌てて言葉を呑み込んだ。一緒に見に行くか、と誘える筈もなく。太宰は「え? 何?」訝しげに彼を見遣ったが、国木田は何でもないと打ち消して誤魔化すように茶を呑んだ。
「まあ良いや。――国木田君。はい、これ」
気を取り直すように太宰は脇に置いていた包みを国木田の前に差し出した。紫色の袱紗 に包まれたそれは森から預かった金子であった。
「中を確認してみてよ。間違いがあったらいけないから」
云われるままに国木田は結び目を解いて中を検めた。
「……これは……」
現われた黄金色の小判に愕然と目を見開いた。積まれているのは十五両。思いもしなかった大金に国木田は咄嗟にこんなには貰えないと太宰の方へ金子を押しやった。と、太宰は眉を僅かに曇らせる。
「私に返されても困るよ、国木田君。それにこのお金は君のお師匠さんも了承した上で支払うものだ。昨日、私も森さんとお師匠さんのところに行って刺青の仕上がりを見て貰ったのだけれど、凄く褒めていたよ。驚いたって云ってた。国木田君、凄いね」
私もこんなに立派な図 を彫って貰えて鼻が高いよ――薄く微笑んで「これなら沢山お客さんがつくね。ふふ、国木田君様様だねえ」おどけた調子で言葉を継ぐ。国木田は彼の台詞に胸が軋む思いだった。彼は愈々 、男娼として背に彫った美麗な牡丹を晒し、その美貌で人を魅了し、躰を数多の人間に委ねるのだ。初めから解っていたことだが、こうして改めて直接太宰の口から聞くと酷く生々しく、重たい響きを伴って国木田の心を塞いだ。
刺青が仕上がった時、彫り師としてその出来栄えに己が持てる技量全てを注ぎ込んだと云う大きな達成感と深い充足感があった。このような完璧な仕事が出来るのは後にも先にもきっと今回限りだろうと漠然と感じていた。
国木田は太宰への恋心を自覚してからと云うもの、毎日毎晩幾度も煩悶した。彼に心惹かれながら愛してはいけないと己を戒めた。お栄のことを考えようと努めた。お栄と所帯を持ったら何処に住まいを構えるか、幾人子供を儲けるか、男の子は何人、女の子は何人、仕事は今よりもっと数をこなさなければならないだろう……そんな空想を逞しくして太宰を忘れようとした。だが将来を描いているうちに何時の間にかお栄の姿が太宰に擦り替わっているのだった。
思い切れない自分を嫌悪しながら、告げられない想いを忘れるために、或いは告白の代償行為として思慕を針先に宿らせて墨と共に皮膚に流し込んだ。一針一針、肌に突き刺しては彼の躰に己の感情を置き去りにした。そうしながら朧気に太宰が何時か自分の気持ちに気が付くのではないか――微かな期待と恐れとを抱いた。が、ついにその時が訪れることはなかった。刺青が彫り終わった瞬間、何もかもが終わったと思った。これで自分と彼を繋いでいた糸がふっつり切れたのだと。
仕事が済んでから今日までの数日間、国木田は虚脱したようになって空々とした日々を過ごしていた。気力も感情も燃え尽きて悉く灰燼になってしまったかのように。寂莫とした、砂を噛むような思いは、一方で国木田に安寧を齎した。このまま太宰を忘れられると。
だが実際はまるで違った。彼を前にして沈静していた筈の情念が頭を擡げ、狂おしいまでに恋情が募って国木田を苛んだ。今にも叫び出したいような激情が胸に渦巻いていた。
眉間に皺を寄せて手元に視線を落としている国木田に太宰は明るい声音で告げる。
「それにね、このお金には彫賃だけじゃなくて、ご祝儀も入っているんだよ」
「ご祝儀? 何だそれは?」
弾かれたように国木田は顔を上げる。
「厭だなあ、惚けないでよ。お師匠さんから聞いたよ。国木田君、お師匠さんのところにいる娘さんとの縁談があるのでしょう? お栄さんだっけ。私もちょっと見たけれど可愛らしい人だね。国木田君に惚れてるって云う話じゃないか。君だって彼女のことが好きなんでしょう? 良かったね、相思相愛で。婚姻もほぼ決まったようなものだってお師匠さんも云っていたし。だから婚礼の前祝としてのご祝儀さ。国木田君、おめでとう」
莞爾 する太宰は十五両の小判を国木田の方に押しやって、国木田君も隅に置けないねえ、などと朗笑した。しかし国木田は頭から冷や水を浴びせられたような心持であった。本当に血の気が引いていくようだった。忘れなければならない相手とは云え、恋している彼から婚礼の寿ぎは聞きたくはなかった。太宰が自分の想いを全く知らないのは重々承知しているが、惨い仕打ちだと思った。狂恋に滾っていた心が急速に冷めて罅割れていく感覚に国木田の表情は険しくなって、差し出された金子を忌まわしいものを見るような目付きで眺めた。
難しい顔をしたまま、なかなか金を受け取ろうとしない国木田を不審に思ったのか「どうしたの?」太宰が不思議そうな眼差しを向ける。視線を受けて僅かに目蓋を伏せた後、国木田は真っ直ぐに太宰を見た。
「……解った。この金は有難く頂戴しよう」
「うん。祝言を挙げる時は私も呼んでくれ給えよ。末席で良いからさ」
「ああ、そうだな。その時は是非祝ってくれ」
果たされることはないであろう約束を交わしながら今自分がどのような表情をしているか解らなかった。上手く笑えているだろうか。只、口調だけは平静を保っていた。
「ふふ、楽しみだね。――さて、私はもうお暇 するよ」
太宰が腰を浮かしかけた時。太宰、と国木田は静かに呼び止めた。
「うん? 何?」
鳶色の眸と刹那、出会う。微かに彼の瞳が揺れているのは気のせいだろうか。国木田はそっと視線を外す。
「――否、何でもない」
変なの、と小さく笑う太宰を国木田は玄関まで見送った。
「国木田君、お世話になったね。どうもありがとう」
「俺の方こそ良い仕事が出来た。礼を云う」
これは偽らざる本心だった。太宰は「それは良かった」美しく笑った。
「それじゃあ、またね」
「気を付けてな」
太宰は朱塗りの傘を開いて零雨の中、歩み去って行った。小さくなる影を見えなくなるまで国木田はじっと見詰めていた……。
「……様、国木田様。どうなさいましたの?」
お栄の声に国木田は現実に引き戻された。はっとして視軸を紫陽花から転じてお栄を見ると不安そうな面持ちで、お疲れですの?と気遣わしげな目を向けてくる。国木田は薄く笑んで「ああ、すみません。少し考えごとをしておりました」取り繕った。
「お仕事のことを?」
「そんなところです。――境内でお参りしましょう」
境内へと続く石段はあと半分程。ふたりは足を滑らせないように気を付けながら石段を登って行く。国木田はお栄の厚みのある、女らしい柔らかい手を掴みながら自分は彼女と一生を添い遂げることを決意したのだと、反芻していた太宰の記憶を深い忘却の底へ沈める。国木田は金子を受け取った時に腹を括ったのだ。縁談の話を正式に申し込もうと。きっぱりと太宰への想いを断ち切ろうと。お栄は一途に自分を想ってくれているのだ。彼女の想いに応えよう、仲睦まじい夫婦 になろうと国木田は内心で誓ったのだった。
石段を登りきると境内に出る。無人の境内には本堂の他、寺務所があり、境内を囲むようにして灌木が茂り、その中に混じるようにして紫陽花の寒色系の色彩が咲いていた。どれもこれも艶美な様相を呈していたが、植えられた紫陽花の数だけ流行り病で亡くなった死者を悼み、弔っているのだと思うと国木田には水害で喪った家族や故郷が淡い花の姿に重なって見えるのだった。
ふたり並んで本堂にある賽銭箱に小銭を投げ入れて、鰐口を鳴らす。お栄は手を合わせて何事かを熱心に祈願していたが、国木田の心には何も浮かんで来なかった。只、手を合わせて祈る振りをした。そうしているうちに時刻を知らせる鐘の音が聞こえてきて「そろそろ戻りませんと」お栄は些か沈んだ口調で呟く。まだ国木田と一緒にいたいのだ。
「お宅までお送りしましょう」
「ありがとうございます」
ふたりは先程登って来た石段の方には戻らず、三門がある表の方へと進む。此方から屋敷町へ帰るにはやや遠回りであったが、お栄の気持ちを汲んで迂回することにしたのだ。
三門を潜り抜け、表の石段を下ってゆく。此方の石段は割合、緩やかな斜頚であったが、お栄が恐々とした足取りで下るので国木田は再び彼女の手を取って石段を下りた。お栄は安堵の笑みを浮かべて大きな彼の手に身を委ねる。
「国木田様は何をお願いなさいましたの?」
「俺は……無病息災を祈願しました。お栄さんは何を願ったのですか?」
「わたくしは――秘密です」
そう云って擽ったそうに笑う。
「何故、教えてくれないのです?」
「何故って……だってあんまり恥ずかしいんですもの」
仄かに丸い頬を染めて恋する者の眸で国木田を見詰める。と、国木田の手を握るお栄の右手にく、と力が入った。だが国木田は握り返すことはしなかった。あからさまな態度を憚ったのでない。何の感慨も湧かなかったからだ。以前は優しげな、温かそうな彼女の手に触れてみたいと夢想していたが、こうして実際に触れてみても心は寸毫も動かなかった。それではいけないと思うのだが、ついに彼女の手を握り返せなかった。
お栄を愛そうとする自分と、彼女に対して無反応で冷淡な自分と、引き裂かれている己を傍観している自分と。今や国木田の内面は散り散りに乱れ、罅割れていた。
雨で泥濘 んだ路を歩きながらお栄は日常の些細な出来事を話して聞かせる。楽しそうに微笑みながら。国木田はやや大袈裟な身振りで彼女の言葉に相槌を打っては努めて耳を傾けた。そうすることで彼女を愛しているのだと自分自身に云い聞かせ、ばらけそうになる心をどうにか繋ぎ止めるのだった。
不意に涼やかな音色――風鈴の音が聞こえてきた。音を辿って視線を向けると路の端に屋台が出ていた。国木田には見覚えがあった。それは先月の初め、太宰と買い物をした硝子細工を売る屋台であった。国木田は咄嗟に逃げ出したいような思いに駆られた。屋台に近付くことに頭の隅で警鐘が鳴っていた。しかし国木田の心境など何も知らぬ彼女は無邪気に興味を示す。
「少し覗いても良いかしら」
「ええ、どうぞ」
断れずにお栄の後に続いて屋台を覗くと商人が「らっしゃい」と迎える。と、国木田の顔を覚えていたのか主人は「毎度御贔屓にどうも」愛想良く笑って以前と同じように屋台の傍らに置いてある木箱に腰を下ろしてのんびりと煙草を呑んだ。商売する気構えが欠けていると以前は思ったがどうもそうではなく、客がゆっくり商品を吟味出来るようにと気を遣っているらしかった。
お栄は台の上に広げられた様々な意匠を凝らした硝子細工――小鳥や犬、猫、金魚、蛙、花などを眺めて「どれも綺麗で可愛らしいわね」稚気に満ちた声を上げて黒目勝ちな瞳を喜悦に細めた。
屋台の上部は以前と様変わりして、角材を組んで造られた格子が渡してあり、其処に幾つもの風鈴を吊り下げていた。風鈴には金魚や朝顔の絵付けが施され、愈々夏の訪れを感じさせた。風が吹くと一斉に風鈴が鳴るので耳朶に心地好いどころかかなり喧しい。国木田は頭が痛くなるような音色に顔を顰めてお栄の後ろに下がった。
「これ、とても素敵ね」
そう云って彼女が手に取って見せたのは青く着色された蝶。かつて国木田が太宰に買ってやった他愛もない代物。命が通わない筈の蝶が不意に国木田の脳裏で羽ばたいて太宰の残像を連れてきた。
――国木田君とお揃いだね。
あの時、彼は心底嬉しそうに笑っていた。本当に大事そうに懐に仕舞い込んでいた。
彼と出会って僅か二月ばかり。美しく微笑む顔、菓子を美味しそうに頬張る表情、子供っぽいような笑い方、刺青の痛みに耐えている様子、舞踊を舞うしなやかな仕草、泣き顔も穏やかな寝顔も。夢で見たその姿さえ。
どれだけ忘れようとしても、別の人間を愛そうと覚悟を決めても、国木田の胸裡を埋め尽くしているのは結局、太宰只ひとりなのだ。
抑え込んでいた筈の狂おしいまでの熱情が俄に溢れ出し、奔流となって心を覆っていた偽りの情を押し流した。次第に焦点が合わなくなって視野がぼやけていく。目の前にいる筈のお栄の姿が霞んで見えなくなる。現実から乖離してゆく。
――国木田君。
現実と記憶の間に立ち現われたのは優美に微笑している太宰の姿だった。
◇◇◇
太宰は布団の上に身を起こして物憂い様子でぼんやりとしていた。手元には金平糖が入った赤い千代紙の包み。以前、国木田に強請って買って貰ったものである。太宰は細かな模様を描かれた包みに眸を向けながらもその瞳には何も映してはいなかった。凍て付いた表情のまま、屋根を打つ雨の音を聞くともなしに聞いていた。
太宰さん失礼します――襖の向こう側で中島の声がして静かに戸が開けられた。昼餉をお持ちしましたと彼は一礼して室内に入る。
「敦君、ありがとう。でも食事は欲しくないんだ」
弱々しい笑みを湛えて云うと中島は眉根を寄せて「最近太宰さんはそればかりじゃないですか。今朝も全然召し上がってなかったですし……少しでも食べないと躰に悪いです」粥と香物、茶が載った膳を太宰の傍らに置く。
中島が云うように、太宰の食欲は以前にも増して衰えていた。今も顔色が紙のように白く、唇も色を喪って肺病を患う者の如く見受けられた。だが太宰の身の回りの世話をする中島には彼の何処に病魔が潜んでいるのか皆目見当もつかなかった。熱病でもないし、腹痛を訴えるでもなければ、咳き込む様子でもない。日がな一日、自室に籠もってぼんやりと虚ろな眼差しで何処かを見詰めては寝たり起きたりの生活であった。
彼がこうして再び体調を崩し始めたのは刺青が彫り終えてからである。一時は体調が良くなったかに見えたが違ったらしい。
――一体何処が悪いのだろう。
中島が不思議に思うのは森が医者を呼ばないことである。明らかに躰に変調を来たしているのだから医者に診せるべきだと思うのだが森はそれをしない。また当の本人も医者の診察を望んではいないふうだから、益々不可解である。太宰の尋常ではない具合は他の使用人達も気が付いていたが、誰もそのことについて触れようとしなかった。我関せずと一線を引いていた。また森からも何も聞かされていないこともあり、中島は太宰の病状を気に掛かりながらも、当人に面と向かって訊ねるのは気後れしてしまい、結局これまで誰にも仔細を訊けずにいるのだった。
「太宰さん、一口でも良いので食べてください。森さんも心配しています」
森の名前を出した途端、太宰の片眉がぴくりと吊り上った。森さんだって?――太宰は冷笑する。
「あの人が心配しているのは私なんかじゃあない。お金だよ、お金。今、私がこんな状態だからねえ。本当は森さんはさっさと私を種田さんに引渡したいのさ。私が此処に長居すればする程、色々と費用が嵩むし、種田さんにしたって、私が此処で愚図愚図していたら何時まで経ってもお客さんを取れないし、これまで私に使ってきたお金を思えばふたり共大損だよ」
私は厄介なお荷物なのさ――自嘲する太宰の表情は中島にはとても痛ましく見えた。笑わない鳶色の瞳は悲傷に翳って暗く、僅かに潤んでいた。鈍い光線のせいか一瞬、彼が泣き出すかのように見えて、中島は必死にかけるべき言葉を探したが、結局何も云えないまま、沈黙するしかなかった。と、太宰は彼の心中を察して「敦君、ごめんね」薄く笑んだ。それから手にしていた赤い千代紙の包みを中島に差し出す。虚を衝かれて目を見開く彼に、
「金平糖だよ。一つ、どうだい?」
「じゃあ、頂きます」
色とりどりの小さな粒の中から黄色の金平糖を摘んで口に含む。
「甘くて美味しいですね」
普段、滅多に甘味を口にする機会がない中島にとっては金平糖も贅沢な食べ物であった。
「それは良かった。これね、国木田君に強請って買って貰ったのだよ」
「国木田さんに……?」
云いながら長身の男の姿を思い浮かべる。彫り師と云うよりは寺子屋のお師匠様と云った方がしっくりくる風貌の男。彼が見舞いに訪れた時は心底驚いたが、思い返してみればあの後、太宰は俄に元気を取り戻した様子だった。そして今も太宰の表情は心なしか明るい。
「これもね、彼に買って貰ったんだ」
太宰は懐から硝子細工の青い蝶を取り出すと掌の上に載せて中島に見せる。微光に弱い光を弾くそれは青色を透かして彼の白い掌の上に青く影を落とす。私のお守りなんだと、そっと拳を握って嬉しそうに微笑んだ。久し振りに見る彼の笑顔に中島は朧気に悟った。皆が彼の様子を見て見ぬ振りを決め込んでいる理由も。
「太宰さん、もしかして国木田さんのことを……?」
「うん。私ね、彼のことが好きなんだ」
初めて人を好きになったんだ――肯定する顔は酷く寂しげであった。
「敦君は嗤うかもしれないけれど――私、彼のことが好きで好きで堪らなくて……どうしても国木田君を忘れられなくて……ううん、本当は忘れたくないんだ。彼とはどう足掻いても結ばれやしないのにね」
太宰は数日前――福沢の宅を訪ねた日のことを思い出す。
襖越しに聞いた国木田の縁談の話、婚約者となるお栄の姿に打ちのめされた。帰路に就きながら「太宰君。君も聞いていたでしょう。悪いことは云わない。彼のことはきっぱりと諦めて忘れなさい」そう森は無情にも云い放ったのだ。彼は何時からか、太宰が国木田に恋心を抱いていることを見抜いてた。
「何故、と云う表情だね。解るよ。近くで見ていたのだからね。君が私や種田殿に背中を見せたくないと思っていたことも、男娼として生きることを厭わしく思っているのも。結ばれないと解っていながら想い続けるのは勝手ではあるけれど、辛い思いをするのは君だ。彼を忘れぬまま客の相手を出来るかね? 私には随分と酷に思えるがね」
森の云い分は尤もであった。永久に手に入らないものを望むのは不毛であり、無意味だ。彼の残像を追いかけて、面影を探して彷徨って、何処にも彼は存在しないのだと思い知ることの絶望。
金子を届けに国木田のところへ行ったあの日も、もう最後だからと覚悟を決めてのことであったが、結局太宰の気持ちは変わらなかった。寧ろ、国木田への思慕を強固にするだけであった。彼に金子を渡す時、縁談話を祝いながら心では泣いていた。実際、泣かないように堪えていたのだ。必死に笑顔で取り繕って。祝いの席に呼んでくれと自分から云っておきながら国木田とお栄が金屏風の前に並んでいる姿を想像して胸が苦しくなった。幸福そうにしているふたりを見たくないと拒絶した。それどころか、もっと酷いことも考えた。縁談が壊れてしまえば良いのに、と。仮令ふたりが破局しても自分の想いが国木田と通じ合う訳ではないないのに。だけれども彼が誰かのものになることが耐えられなかった。その両の眼に自分以外の誰かを捉えて欲しくはなかった。一方で想い人の幸せを願ってあげられない自分自身を嫌悪した。最低だと思った。森が指摘したように、春をひさぎながら特定の誰かを愛するなど、只辛いだけだ。でも、それでも国木田を愛する気持ちは断ち切れなかった。背中に彫り込んだ刺青を捨て去ることが出来ないように。
「私、莫迦だね。彼は私のこと、何とも思ってはいないのにね」
今にも脆く崩れてしまいそうな薄笑みを浮かべる。無理に笑っている姿が痛々しく、中島の胸を刺す。
それでも以前は――国木田に想われているのではないかと微かに期待を寄せていたこともあったのだ。彼が優しくするから。だが国木田が見せた優しさや情けは太宰にとっては特別でも彼にしてみれば極他愛のないものだったのだ。その温度差に後から気が付いて太宰は打ちひしがれた。
「ごめん、変な話をしちゃったね」
眉根を寄せて沈痛な面持ちの中島を労わるように云うと「いえ、僕の方こそすみません」慌てて首を横に振る。
「……その、国木田さんに云わなくても良いんですか? そんなに国木田さんを想っているのなら……」
「そうだねえ、思い切って告白してふられちゃった方が却ってすっきりするかもね」
「ふられるなんて、そんな」
「気を遣わなくて良いよ。どう考えても望みはないもの」
「はあ……」
「敦君、話を聞いてくれてありがとう。何だか一方的に話す形になっちゃったけど。少し気分が良くなったよ。ちょっとお腹も減ったかも」
太宰はにっこり笑いかける。彼の明るい微笑を見て中島は愁眉を開いた。食欲が出てきたことも良い兆候だと安堵して「じゃあ、お膳は後で取りにきますね。僕も持ち場に戻らないと」座を立つ。太宰は「ああ、お膳は後で私が自分で片付けるよ。引き止めて悪かったね。お疲れ様」ひらひらと手を振って退室する中島を見送った。
独りになった太宰は手元の包みから一粒、金平糖を摘んで口の中に放り込んだ。甘い粒を味わいながら、布団から出て部屋の隅にある文机の前に座った。紙を広げ、硯箱を開けて筆と墨を用意する。これから認めようとするのは誰に宛てるでもない文である。もっと云えば、遺書。そう遠くないうちにこうすることは以前から決めていたのだ。中島に国木田のことを話して覚悟が決まった。想いを告げることで気持ちに整理がつくかもしれないが、それ以上に国木田に面と向かって拒絶されることを恐れた。気持ちを受け入れられないと予め解っていても、尚。だから彼には何も云わずに想いを連れて死ぬことを選んだ。何時までも此処にいる訳にもいかない。かと云って種田の妓楼に移って客を取るのも厭だった。
「さて、何て書こう」
呟いて思考する。が、いざとなると適当な文句が浮かんでこない。書き遺す言葉は初めからないのかもしれない。代わりに心を占めるのは国木田の幻像。何度も思い出し、残像を追った愛しい人の優しげな表情に視界が滲み始める。
「……国木田君」
雫が頬を伝って机上に広げた紙の上にぱたりと落ちる。一滴の落涙に続いて大粒の涙がぱたぱたと零れ落ち、滂沱する涙は止めどなく頬を冷たく濡らした。声を殺して泣きながら「最後にもう一度だけ会いたかったなあ」独り言を洩らして、ついに見ることの叶わなかった国木田の背にある刺青を思った。
一頻り泣いた後、太宰は謝罪の言葉を一言、紙に書きつけて筆を置くと文机の抽斗の奥から小さな白い包みを取り出す。包みには白い粉末――鼠捕りに使われる砒素が入っていた。この時のためにくすねたものだ。左手に硝子の蝶をぎゅっと握り締める。どうか彼岸まで連れていってくれますようにと願いながら。太宰は包みを開いて金平糖の甘さが残る口の中へ砒素を流し入れ、膳にあった茶で一息に飲み下した。
◇◇◇
珍しくこの日は朝から晴れていた。梅雨の中休みの空は濃い碧色で目が醒めるような色合いであった。照りつける陽射しも夏季の様相を孕んでじりじりと往来の景色を白く焼いていた。
国木田は正午 を過ぎてから屋敷町へと足を伸ばした。お栄と逢瀬をした日から三日後のことである。眩しい陽光に聳える切妻破風門を潜り、飛び石を渡って玄関の引き戸を訪う。やや間があって戸が開くと出迎えたのはお栄ではなく、福沢の宅に一番長く棲み込んでいる下男であった。五十路を超えるか超えないかくらいの彼は国木田を認めるなり、意外そうな表情をしてどうも、と頭を下げる。本来ならば国木田が師匠宅を訪れるのは明日。平素から日時に厳密である筈の彼が突然やって来たのを見て下男は驚いたのである。
「お栄さんは今日は……?」
「ああ、お栄様なら今日はお出掛けになっていらっしゃいます。芝居を見に行くとかで。お帰りは夕方頃でしょう」
下男の言葉に国木田は胸を撫で下ろして改めて福沢の在宅を訊ねると「先生はいらっしゃいます」と云うので早速部屋に通して貰うことにした。下男がの家主の部屋の前で「先生、国木田様がお見えになりました」と告げると中からくぐもった返答があって、失礼しますと襖を開けると三毛猫がするりと飛び出してきた。猫はそのまま炊事場の方へとことこと歩いていく。
「ありゃ。先生、猫に構い過ぎなんですよ」
下男は苦笑を洩らしてその場を立ち去った。福沢に促されて国木田が部屋に入ると「急に来るなど、お前にしては珍しいな」云いながら卓の上に広げていた書物を閉じる。
「はい。お忙しいところ突然お訪ねしてしまって申し訳ありません」
「否、云う程忙しい訳ではない。書物の整理ついでに書見していただけだ。お前がこうして来るところを見ると、何か急ぎの用事だろう。一体、どうした?」
問われて国木田は膝の上で堅く拳を握って一文字に口元を引き結ぶ。それから意を決したように正面に坐す師を真っ直ぐに見詰める。強い眼差しで。
「実は、お栄さんのことでお話があり、お伺いしました」
「ほう。お栄のことでか。何かあったのか?」
「師匠、真に申し訳御座いません。今回のお栄さんとの縁談、白紙に戻して頂きたく――お願いに上がりました」
どうか彼女との縁談を辞退させてください――誠心誠意を込めて国木田は両の手をついて深々と頭 を垂れた。福沢は驚きの目を以って愛弟子を見た。
「――理由を話してくれぬか」
静かな口調で言葉の先を求めると国木田は頭を上げぬまま、
「甚だ申し上げ難いことですが――俺は彼女以外の人間に懸想してしまいました。どうにかして相手を忘れようとしましたが、果たせませんでした。お栄さんと逢瀬をしながら彼女を愛そうともしました。師匠が俺のために進めてくださった縁談、またお栄さんも俺を慕ってくれている、無下には出来ぬと己の心を偽って彼女を娶ることを何度も考えましたが、しかしそれでは彼女を幸せには出来ないだろうと……何より、俺自身が耐えられません。彼女を偽りで愛そうとする裏切り、こうして縁談を反故にして欲しいと嘆願することも師匠へと彼女の裏切り、俺はもう此処には――居れません」
淀みなく一息で縷々と真情を吐露した。これらはお栄と逢引した後、熟考して出した国木田の結論であった。心に決めたことは一日でも早く福沢に伝えるのが良いと判断して、訪問日の明日を待たずに訪れたのだ。
顔を上げよ――命ぜられるままに国木田は面を上げる。その表情は苦渋に染まり、眉間の皺は深く、痛みを堪えるかのようで。炯々とした双眸は今や悲しみの色にその光を翳らせていた。
「お前は此処にいられないと云うが。一体どうするつもりなのだ」
「……俺は……世俗から離れて、仏門に入ります」
子供の頃、福沢と出会うまで過ごしていた寺に戻り、そこで仏に仕えて余生を過ごすつもりでいた。仏の道に入ることは決して安寧を求めてではない。己への罰としてであった。福沢に恩を仇で返してしまったこと、お栄の気持ちを裏切ったこと、太宰を愛してしまったこと――そして今も太宰を忘れられずにいることへの罰。
「俺は自分自身が赦せません。どうか俺を破門にしてください。此処を去り、寺に帰ります」
国木田は抱えてきた小さな包みを卓の上に載せて開く。現われたのは金、十五両。
「此方は全てお返し致します。俺には受け取る資格がありません」
差し出された金子を前に福沢は此処まで彼に固い決意をさせた相手のことが気になった。其処でふと森の言葉が思い出された。
所謂恋煩いですよ――。
「……お前の想い人と云うのは、太宰殿のことか?」
一瞬、国木田は言葉に詰まった。が、それは無言の肯定だった。福沢は「そうか」小さく呟いて、居住まいを正すと国木田――口調を改めて告げる。
「お前は随分と今回の件で悩んだのだろう。俺に正直に打ち明けてくれたことは嬉しく思うが、しかしそれはならぬ。お前は破門にしてくれと云うが俺はお前の腕を高く買っている。太宰殿の刺青、真に見事であった。何れは俺の後を継いで一門を率いる頭となろう。俺はそう考えている。手塩に掛けて育てたお前をこのような形で失いたくはない。国木田。どうか考え直してくれぬか。お栄もお前を慕っている。毎日、お前を想って幸せそうにしている。俺はお栄の幸福を成就させてやりたい。それに。仮令お栄との縁談がなくとも、彼と添い遂げることは不可能だ。森殿が赦しはせぬ。俺も同じ思いだ。彼は春をひさぐ者。お前とは住む世界が違う。彼への感情は一時的な気の迷いだろう。頭を冷やせ」
福沢の声音は静かであったが表情は険しかった。彼を愛することを決して赦しはせぬと物語っているようであった。
国木田は深く項垂れたまま、暫く動けなかった。
季節はゆっくりと移ろい、梅雨を迎えた。
水無月も半ばを過ぎた或る日。その日は雨季らしく、今朝から天候が愚図ついていた。霧雨が降ったかと思えば雨雲の切れ目から僅かに陽が射して、そしてまた俄に雨が降り出す――不安定な空模様に往来をゆく商人達も些か困ったふうで或る者は傘を使い、また或る者は軒下で雨宿りをして凌いでいた。雨脚は強まったり、弱まったりを繰り返しながら地面を濡らして、あちらこちらに水溜りを作った。
途中で雨に降られたのは太宰も同じであった。次第に
森の後に続く太宰の足取りは重たかった。必要なことだと頭では理解していたが、裸形の背を人目に晒すことに抵抗があった。もう誰にも見られたくはなかった。国木田以外には。肌を晒す度に、刺青を見せる度に、自分自身が磨り減って心が虚ろになってゆく気がしていた。国木田によって彫り込まれ、色彩を流し込まれた皮膚、その下にあった癒し難い虚が針先を伝って注がれる甘露に充たされていた筈であるのに、少しずつ渇いて罅割れていくようだった。国木田にもう一度会いたい――頭の中で彼の残像を幾度も追い求めながら想うのだった。
悪天候のためか、屋敷町は何時にも増してひっそりと静まり返っていた。雨天に黒く聳える切妻破風門を潜って濡れた飛び石に導かれて玄関の軒下で傘を閉じる。水滴がついた肩を軽く払ってから森が戸を訪うと直ぐ様、引き戸が小気味良い音を立てながら開いて若い女性が現われた。お栄である。
「森様と太宰様ですね。お待ち申し上げておりました」
彼女は丁重にふたりを迎え入れて傘を預かると、主人が待つ座敷に案内した。森は予てよりお栄と顔見知りの様子で、廊下を進みながら他愛のない言葉を交わす。
「やあ、お栄さん。この頃はまた一段と美しくなられて」
「厭ですわ、森様。そんなふうに
ころころと鈴の音を転がすように朗らかに笑う彼女に森は僅かに目を見開く。
「おや、私は本当のことを申し上げただけですよ。何方かいい人でも出来ましたか?」
するとお栄はぽっと豊かな白い頬を赤らめる。厚みのある柔らかそうな耳にも朱が灯って恥らう姿は清楚な白い花の如く可憐であった。貴女は大変素直な方ですね――森は含み笑いで流石福沢殿が大事に可愛がっているだけのことはあると、同意を求めるかのように後ろにいる太宰を一瞥する。だが太宰はうわの空でぼんやりと前方のふたつの背中を見るばかりだった。
「貴女を射止めたのは一体何処の誰でしょうね。否、あの福沢殿のお眼鏡に敵った、と云うべきでしょうかねえ」
森はそんなことを呟きながら、赤面して嬉しそうにしているお栄を楽しげに眺め遣った。お栄はこれからやって来るであろう幸福に意中の人の名をつい口にしそうになったが、どうにか呑み込んで主人が起居している座敷の襖の前で膝をついて客の来訪を告げた。中からくぐもった返答があって、お栄は静かに襖を開けて客人ふたりを座敷の中へ入るように促した。
「足元が悪い中、ご足労掛けて申し訳なかったな」
卓を挟んで並んで座る彼等に福沢は詫びた。
「天候は仕方がないですよ。まあ、厭な季節に変わりはないですが。こうも雨続きではねえ」
やや大儀そうに云う彼に相槌を打ちながら、
「――して、其方が貴君が保護したという太宰殿か?」
福沢は沈鬱な面持ちの太宰を見遣る。森が「ほらご挨拶なさい」と子供に云い聞かせるようにして彼の肩に手を添えれば、ぎこちなく太宰は
「太宰君。福沢殿に背中をお見せしなさい」
森の言葉は何の感情も含まれてはいなかったが太宰には酷く無慈悲に響いた。森や種田の前で何度も刺青を晒して見せていたが、一向に慣れることはなかった。只、厭わしさと強い嫌悪感が募るばかりで。こうして自分は慰み者になるのだと絶望にも似た感情を抱くのだった。
太宰が押し黙っていると森が早くしろと急き立てる。向かいに座る福沢は無言であったが、その眼光の鋭さに太宰は気圧されてのろのろと着物の合わせ目を開いて前を寛げた。森は彼の脱衣を花を観賞するが如く眺めていたが、福沢は何か遠慮をする様子で卓に置かれた湯呑み茶碗を満たす
一方、福沢は愛弟子が丹精込めて仕上げた仕事ぶりに目を瞠った。
重たげに花開いた牡丹の艶やかさ、血汐の如き真っ赤なその花弁、爛々と咲き誇った花は指先で触れれば、はらりと散りそうで。花を縁取る葉、夥しく厚く層を成した薄紅色の牡丹はまだ完全には開き切らずに、処女性の、匂い立つような官能を宿して、顔を寄せればふっと
国木田を育て上げたのは無論、師である福沢であるが、よもや彼の技量がこれ程まで秀でているとは予想していなかった。師としては嬉しい誤算である。丁寧で完璧な仕事は国木田らしいとも云えたが、それ以上に鬼気迫るような、彼の心魂全てを傾けた末の出来栄えなのだと白磁の背に描かれた美麗な
「師匠である貴殿の目から見て、どうです?」
「思っていた以上の仕上がりだ。正直、驚いた」
「ほう。福沢殿が手放しで人を褒めるのは珍しいですねえ。やはり愛弟子は違いますか」
「愛弟子だからと云って贔屓目に見ている訳では決してない。筋が善いのもあるが、しかしこれも彼奴の修練の賜物だ。元来、国木田は何事に対しても真面目なのだ。努力を惜しまない。勉強熱心だ。森殿も一度彼と顔を合わせているだろう。あの両の眼の烈々たる輝き――俺は彼のその眼の中に純粋さと激しさを見出した。彼奴は頭も聡い。仕込めば必ずものになるだろうと思った。だから俺は身寄りのない彼を寺から引き取って手元に置いたのだ。実際、国木田の才は開花した。俺の目に狂いはなかった。何れは長の座を彼に託すつもりだ。一本気なところがあるが、それも彼奴の美点だ」
「何ですか、その息子自慢は。随分と彼に入れ込んでるんですねえ、貴方らしくもない」
森がつまらなさそうに鼻白んで云うと、福沢は事実を述べたまでだと素っ気無い。だが付き合いの長い森は知っている。一切表情を崩さない彼が内心、酷く喜んでいることを。自他共に厳しい男が見せた人の親らしい顔に森は意外に思いつつも興味深く感じるのだった。
「――太宰殿は大丈夫なのか」
不意に訊ねられて意味が解らず「何がです?」目を瞬かせる。
「太宰殿は何処か躰の具合が悪いのではないか? 顔色が悪いように見受けられたが」
彼の色を喪った白い顔は室内の弱々しい光線のせいかと思われたが、塞ぎ込んだような昏い表情に何らかの病が隠れているように見えたのだ。すると森は合点して、
「ああ、そのことですか。少し神経が参っているのですよ」
所謂恋煩いと云う奴でして――酷薄な薄ら笑いを浮かべる。
「恋煩い?」
片眉を吊り上げて鸚鵡返しに聞き返す福沢には取り合わず、それよりも、と森は話題を転換させる。
「お栄さん、暫く見ないうちにお綺麗になられて。何方かいい人があるのかと訊いたら笑って何も云いませんでしたけれど実際のところ、どうなんです?」
「貴君がそれを知ってどうする?」
「別にどうもしませんよ。単純な興味です。福沢殿のお眼鏡に敵う殿方は一体どんな人物なのかと思いましてね」
好奇の色を滲ませた目を向ければ福沢は懐手をして居住まいを正して口を開く。
「まだ本決まりではないが、国木田にお栄を娶らせようと考えている。本人達も満更ではないようだからな。お栄も国木田も互いに想い合っているようであるし、国木田ならお栄を任せても大丈夫だろうと判断した。貴君からの依頼を終えたら正式に国木田との縁談をお栄に明かす約束をしているのだ」
「ふむ。成る程、国木田殿ですか。それはそれは……お目出度いことです。実に結構」
ご祝儀をはずみましょう――にこやかに告げて供された茶に口を付けた。
「それで。金子の相談ですが。国木田殿は彫賃は二両で良いと云いましたが、福沢殿も驚く程の仕事ぶり、種田殿も私も彼の仕事に非常に満足しております。ですから、十三両――上乗せしてお支払いしましょう。合わせて十五両です」
福沢は提示された破格の金額に目を剥いた。十五両と云えば一家四人が何もせずとも一年以上暮らしてゆけるだけの金である。一介の彫り師である国木田にとっては法外な金額だ。福沢は幾らなんでも十五両は釣り合わないと主張したが、森は「国木田殿とお栄さんの祝言の前祝も兼ねて」と云って譲らない。
「金子もこの通り用意してありますし――」
彼は脇に置いた包みを卓の上に載せて紫色の袱紗を開いた。黄金の小判がきっちり十五枚揃って積まれていた。
「国木田殿は此処には?」
「明日には来るが――」
森さん――突如、彼等の会話に太宰の声が割って入った。ふたりが声の主に視線を転じると身なりをきちんと整えた太宰が襖の前に立っていた。彼は静かに歩み寄って森の隣に坐すと、
「彫賃の受け渡しを私にさせてください」
何かを覚悟したかのような、毅然とした語調であった。
「何故――」
「……彼にはお世話になりましたから。最後にお礼が云いたいのです」
太宰は薄く微笑んだ。森は思案顔で福沢を見た。福沢もまた森と太宰とを見返して「相分かった」と首肯した。
「福沢殿がそう仰るなら仕方が無いですね。この金子は太宰君に任せることにしましょう」
広げた袱紗を包み直して森は太宰の前に押しやった。太宰は両者に礼を述べて重たい黄金が包まれた紫色を虚ろな眼差しで見詰めていた。
◇◇◇
「まあ、とても綺麗ね」
お栄は涼やかな色合いの紫陽花を見て華やいだ声を上げる。国木田も彼女の隣に立って鞠のようにこんもりと寄り集まって萼を開いている花を眺めた。
正午前まで降っていた雨の名残を纏った紫陽花は曇天の下、微光に鈍く輝いて水と土の匂いに混じって微かな甘さを含んだ香気を仄かに漂わせていた。青や紫の萼は咲いた場所によって濃淡があり、繊細な異国の絵画を思わせた。恰も乾き切らない雫が紫陽花の色彩を溶かし、滲ませているよう。清涼感のある雨季の花は今が盛りで見る者の目を楽しませていた。
国木田とお栄はふたりきりで紫陽花の名所とされている西寺を訪れていた。西寺は福沢の宅がある屋敷町から比較的近いところにある寺である。境内へと続く急勾配の石段の両脇を埋めるようにして多数の紫陽花が植えられており、華やかな彩を添えていた。国木田とお栄は人気のない石段をゆっくりと登りながら紫陽花を愛でた。緩い北風があるせいか今日は比較的涼しい。
「此処の紫陽花は皆、青い色ばかりですけれど他所のところで見た紫陽花は赤いのばかりで。やっぱりこの花は青色が一番綺麗ですわね」
「そうですね。ところで、この花に毒があるのを御存知ですか」
「恐ろしいことを仰るのね、国木田様は。――この花で死にますか?」
「ええ。食べたら死にますよ」
「綺麗な花を食べて死ぬなんて、何だか素敵ね」
お栄は少女らしい微笑を浮かべて雨に濡れた艶やかな葉を指先で触れた。頼りなげに揺れる紫陽花から雨粒が零れ落ちて石段の上に出来た小さな水溜りに波紋を描いた。国木田は彼女の仕草をぼんやりと瞳に映して、ふたりきりで逢引していることが不意に奇妙に思われてくるのだった。お栄が自分の傍にいることが変に現実感を欠いた。もうひとりの自分が芝居を見るようにして自分達を眺めているような――自ら申し出た縁談であるのに他人事のように感じていた。そう、こうして国木田とお栄が逢引をしているのは縁談を取纏めるためのひとつの布石なのだった。
先日、国木田は福沢の元を訪れて彼女との縁談を進めて欲しい旨を伝えた。福沢は彼の仕事ぶりを善くやったと褒め、労った後、快諾した。其処で久し振りに顔を合わせたお栄もやや恥じらいながらも、ふっくらとした唇から白い歯を零していた。通常であるなら外での、ふたりきりでの逢瀬は赦されないことであったが、珍しく福沢が許可したのだ。国木田を信頼しての判断である。また、彼等は既に婚姻を結んだのと同然と云う意識も働いていた。とは云え、お栄も家の用事を任されている忙しい身だ。そう長い時間、国木田と共にいることは出来ない。そう云う事情も手伝ってふたりは手近な場所を選んで逢引――散策しているのだった。
雨水で滑りやすくなっている石段を国木田はお栄の手を引きながら慎重な足取りで登って行く。手を取られる彼女ははにかんだ様子、俯き加減で時折、長身の彼を見上げては微かに頬を染める。黒目勝ちな、白目が澄んだ彼女の眸にはありありと国木田を恋慕う色が滲んでいた。しかし、彼を求める陶然とした眼差しは国木田には届いてはいなかった。国木田は現実を離れて、記憶の中へと埋没していた。思い出していたのは他でもない太宰のことであった。
太宰と最後に会ったのが四日程前のこと。彫賃を届けに彼はやって来たのである。真逆彼が再び姿を見せるとは露程にも思っていなかったので国木田は心底驚いた。同時に激しく胸が高鳴った。死んだように凪いでいた心が息を吹き返すようだった。緩みそうになる頬を引き締め、昂ぶる感情を抑えることに苦心しながら、以前のように太宰を部屋に通し、茶を振舞った。
「生憎、お茶請けはないが」
「ああ、構わないよ。私もそんなに長居は出来ないからね」
お茶頂くね――にこりと微笑んで湯呑みに口を付ける。向かいに座る太宰を見詰めながら国木田は何かを云わなければと言葉を探していたが適当なものを見つけられず、徒に座布団の端を弄したり、茶を口に含んでみたりと無意味な動作を繰り返した。太宰もまた湯呑み茶碗を置いてからふと真顔になって物云わなかった。その顔色は降雨に薄暗い室内のせいか蒼い陰影を宿して美しい
「紫陽花の季節だな。この辺では西寺の紫陽花が見所だ」
「へえ、そうなの。私も見てみたいな」
「それなら――」
云いかけて慌てて言葉を呑み込んだ。一緒に見に行くか、と誘える筈もなく。太宰は「え? 何?」訝しげに彼を見遣ったが、国木田は何でもないと打ち消して誤魔化すように茶を呑んだ。
「まあ良いや。――国木田君。はい、これ」
気を取り直すように太宰は脇に置いていた包みを国木田の前に差し出した。紫色の
「中を確認してみてよ。間違いがあったらいけないから」
云われるままに国木田は結び目を解いて中を検めた。
「……これは……」
現われた黄金色の小判に愕然と目を見開いた。積まれているのは十五両。思いもしなかった大金に国木田は咄嗟にこんなには貰えないと太宰の方へ金子を押しやった。と、太宰は眉を僅かに曇らせる。
「私に返されても困るよ、国木田君。それにこのお金は君のお師匠さんも了承した上で支払うものだ。昨日、私も森さんとお師匠さんのところに行って刺青の仕上がりを見て貰ったのだけれど、凄く褒めていたよ。驚いたって云ってた。国木田君、凄いね」
私もこんなに立派な
刺青が仕上がった時、彫り師としてその出来栄えに己が持てる技量全てを注ぎ込んだと云う大きな達成感と深い充足感があった。このような完璧な仕事が出来るのは後にも先にもきっと今回限りだろうと漠然と感じていた。
国木田は太宰への恋心を自覚してからと云うもの、毎日毎晩幾度も煩悶した。彼に心惹かれながら愛してはいけないと己を戒めた。お栄のことを考えようと努めた。お栄と所帯を持ったら何処に住まいを構えるか、幾人子供を儲けるか、男の子は何人、女の子は何人、仕事は今よりもっと数をこなさなければならないだろう……そんな空想を逞しくして太宰を忘れようとした。だが将来を描いているうちに何時の間にかお栄の姿が太宰に擦り替わっているのだった。
思い切れない自分を嫌悪しながら、告げられない想いを忘れるために、或いは告白の代償行為として思慕を針先に宿らせて墨と共に皮膚に流し込んだ。一針一針、肌に突き刺しては彼の躰に己の感情を置き去りにした。そうしながら朧気に太宰が何時か自分の気持ちに気が付くのではないか――微かな期待と恐れとを抱いた。が、ついにその時が訪れることはなかった。刺青が彫り終わった瞬間、何もかもが終わったと思った。これで自分と彼を繋いでいた糸がふっつり切れたのだと。
仕事が済んでから今日までの数日間、国木田は虚脱したようになって空々とした日々を過ごしていた。気力も感情も燃え尽きて悉く灰燼になってしまったかのように。寂莫とした、砂を噛むような思いは、一方で国木田に安寧を齎した。このまま太宰を忘れられると。
だが実際はまるで違った。彼を前にして沈静していた筈の情念が頭を擡げ、狂おしいまでに恋情が募って国木田を苛んだ。今にも叫び出したいような激情が胸に渦巻いていた。
眉間に皺を寄せて手元に視線を落としている国木田に太宰は明るい声音で告げる。
「それにね、このお金には彫賃だけじゃなくて、ご祝儀も入っているんだよ」
「ご祝儀? 何だそれは?」
弾かれたように国木田は顔を上げる。
「厭だなあ、惚けないでよ。お師匠さんから聞いたよ。国木田君、お師匠さんのところにいる娘さんとの縁談があるのでしょう? お栄さんだっけ。私もちょっと見たけれど可愛らしい人だね。国木田君に惚れてるって云う話じゃないか。君だって彼女のことが好きなんでしょう? 良かったね、相思相愛で。婚姻もほぼ決まったようなものだってお師匠さんも云っていたし。だから婚礼の前祝としてのご祝儀さ。国木田君、おめでとう」
難しい顔をしたまま、なかなか金を受け取ろうとしない国木田を不審に思ったのか「どうしたの?」太宰が不思議そうな眼差しを向ける。視線を受けて僅かに目蓋を伏せた後、国木田は真っ直ぐに太宰を見た。
「……解った。この金は有難く頂戴しよう」
「うん。祝言を挙げる時は私も呼んでくれ給えよ。末席で良いからさ」
「ああ、そうだな。その時は是非祝ってくれ」
果たされることはないであろう約束を交わしながら今自分がどのような表情をしているか解らなかった。上手く笑えているだろうか。只、口調だけは平静を保っていた。
「ふふ、楽しみだね。――さて、私はもうお
太宰が腰を浮かしかけた時。太宰、と国木田は静かに呼び止めた。
「うん? 何?」
鳶色の眸と刹那、出会う。微かに彼の瞳が揺れているのは気のせいだろうか。国木田はそっと視線を外す。
「――否、何でもない」
変なの、と小さく笑う太宰を国木田は玄関まで見送った。
「国木田君、お世話になったね。どうもありがとう」
「俺の方こそ良い仕事が出来た。礼を云う」
これは偽らざる本心だった。太宰は「それは良かった」美しく笑った。
「それじゃあ、またね」
「気を付けてな」
太宰は朱塗りの傘を開いて零雨の中、歩み去って行った。小さくなる影を見えなくなるまで国木田はじっと見詰めていた……。
「……様、国木田様。どうなさいましたの?」
お栄の声に国木田は現実に引き戻された。はっとして視軸を紫陽花から転じてお栄を見ると不安そうな面持ちで、お疲れですの?と気遣わしげな目を向けてくる。国木田は薄く笑んで「ああ、すみません。少し考えごとをしておりました」取り繕った。
「お仕事のことを?」
「そんなところです。――境内でお参りしましょう」
境内へと続く石段はあと半分程。ふたりは足を滑らせないように気を付けながら石段を登って行く。国木田はお栄の厚みのある、女らしい柔らかい手を掴みながら自分は彼女と一生を添い遂げることを決意したのだと、反芻していた太宰の記憶を深い忘却の底へ沈める。国木田は金子を受け取った時に腹を括ったのだ。縁談の話を正式に申し込もうと。きっぱりと太宰への想いを断ち切ろうと。お栄は一途に自分を想ってくれているのだ。彼女の想いに応えよう、仲睦まじい
石段を登りきると境内に出る。無人の境内には本堂の他、寺務所があり、境内を囲むようにして灌木が茂り、その中に混じるようにして紫陽花の寒色系の色彩が咲いていた。どれもこれも艶美な様相を呈していたが、植えられた紫陽花の数だけ流行り病で亡くなった死者を悼み、弔っているのだと思うと国木田には水害で喪った家族や故郷が淡い花の姿に重なって見えるのだった。
ふたり並んで本堂にある賽銭箱に小銭を投げ入れて、鰐口を鳴らす。お栄は手を合わせて何事かを熱心に祈願していたが、国木田の心には何も浮かんで来なかった。只、手を合わせて祈る振りをした。そうしているうちに時刻を知らせる鐘の音が聞こえてきて「そろそろ戻りませんと」お栄は些か沈んだ口調で呟く。まだ国木田と一緒にいたいのだ。
「お宅までお送りしましょう」
「ありがとうございます」
ふたりは先程登って来た石段の方には戻らず、三門がある表の方へと進む。此方から屋敷町へ帰るにはやや遠回りであったが、お栄の気持ちを汲んで迂回することにしたのだ。
三門を潜り抜け、表の石段を下ってゆく。此方の石段は割合、緩やかな斜頚であったが、お栄が恐々とした足取りで下るので国木田は再び彼女の手を取って石段を下りた。お栄は安堵の笑みを浮かべて大きな彼の手に身を委ねる。
「国木田様は何をお願いなさいましたの?」
「俺は……無病息災を祈願しました。お栄さんは何を願ったのですか?」
「わたくしは――秘密です」
そう云って擽ったそうに笑う。
「何故、教えてくれないのです?」
「何故って……だってあんまり恥ずかしいんですもの」
仄かに丸い頬を染めて恋する者の眸で国木田を見詰める。と、国木田の手を握るお栄の右手にく、と力が入った。だが国木田は握り返すことはしなかった。あからさまな態度を憚ったのでない。何の感慨も湧かなかったからだ。以前は優しげな、温かそうな彼女の手に触れてみたいと夢想していたが、こうして実際に触れてみても心は寸毫も動かなかった。それではいけないと思うのだが、ついに彼女の手を握り返せなかった。
お栄を愛そうとする自分と、彼女に対して無反応で冷淡な自分と、引き裂かれている己を傍観している自分と。今や国木田の内面は散り散りに乱れ、罅割れていた。
雨で
不意に涼やかな音色――風鈴の音が聞こえてきた。音を辿って視線を向けると路の端に屋台が出ていた。国木田には見覚えがあった。それは先月の初め、太宰と買い物をした硝子細工を売る屋台であった。国木田は咄嗟に逃げ出したいような思いに駆られた。屋台に近付くことに頭の隅で警鐘が鳴っていた。しかし国木田の心境など何も知らぬ彼女は無邪気に興味を示す。
「少し覗いても良いかしら」
「ええ、どうぞ」
断れずにお栄の後に続いて屋台を覗くと商人が「らっしゃい」と迎える。と、国木田の顔を覚えていたのか主人は「毎度御贔屓にどうも」愛想良く笑って以前と同じように屋台の傍らに置いてある木箱に腰を下ろしてのんびりと煙草を呑んだ。商売する気構えが欠けていると以前は思ったがどうもそうではなく、客がゆっくり商品を吟味出来るようにと気を遣っているらしかった。
お栄は台の上に広げられた様々な意匠を凝らした硝子細工――小鳥や犬、猫、金魚、蛙、花などを眺めて「どれも綺麗で可愛らしいわね」稚気に満ちた声を上げて黒目勝ちな瞳を喜悦に細めた。
屋台の上部は以前と様変わりして、角材を組んで造られた格子が渡してあり、其処に幾つもの風鈴を吊り下げていた。風鈴には金魚や朝顔の絵付けが施され、愈々夏の訪れを感じさせた。風が吹くと一斉に風鈴が鳴るので耳朶に心地好いどころかかなり喧しい。国木田は頭が痛くなるような音色に顔を顰めてお栄の後ろに下がった。
「これ、とても素敵ね」
そう云って彼女が手に取って見せたのは青く着色された蝶。かつて国木田が太宰に買ってやった他愛もない代物。命が通わない筈の蝶が不意に国木田の脳裏で羽ばたいて太宰の残像を連れてきた。
――国木田君とお揃いだね。
あの時、彼は心底嬉しそうに笑っていた。本当に大事そうに懐に仕舞い込んでいた。
彼と出会って僅か二月ばかり。美しく微笑む顔、菓子を美味しそうに頬張る表情、子供っぽいような笑い方、刺青の痛みに耐えている様子、舞踊を舞うしなやかな仕草、泣き顔も穏やかな寝顔も。夢で見たその姿さえ。
どれだけ忘れようとしても、別の人間を愛そうと覚悟を決めても、国木田の胸裡を埋め尽くしているのは結局、太宰只ひとりなのだ。
抑え込んでいた筈の狂おしいまでの熱情が俄に溢れ出し、奔流となって心を覆っていた偽りの情を押し流した。次第に焦点が合わなくなって視野がぼやけていく。目の前にいる筈のお栄の姿が霞んで見えなくなる。現実から乖離してゆく。
――国木田君。
現実と記憶の間に立ち現われたのは優美に微笑している太宰の姿だった。
◇◇◇
太宰は布団の上に身を起こして物憂い様子でぼんやりとしていた。手元には金平糖が入った赤い千代紙の包み。以前、国木田に強請って買って貰ったものである。太宰は細かな模様を描かれた包みに眸を向けながらもその瞳には何も映してはいなかった。凍て付いた表情のまま、屋根を打つ雨の音を聞くともなしに聞いていた。
太宰さん失礼します――襖の向こう側で中島の声がして静かに戸が開けられた。昼餉をお持ちしましたと彼は一礼して室内に入る。
「敦君、ありがとう。でも食事は欲しくないんだ」
弱々しい笑みを湛えて云うと中島は眉根を寄せて「最近太宰さんはそればかりじゃないですか。今朝も全然召し上がってなかったですし……少しでも食べないと躰に悪いです」粥と香物、茶が載った膳を太宰の傍らに置く。
中島が云うように、太宰の食欲は以前にも増して衰えていた。今も顔色が紙のように白く、唇も色を喪って肺病を患う者の如く見受けられた。だが太宰の身の回りの世話をする中島には彼の何処に病魔が潜んでいるのか皆目見当もつかなかった。熱病でもないし、腹痛を訴えるでもなければ、咳き込む様子でもない。日がな一日、自室に籠もってぼんやりと虚ろな眼差しで何処かを見詰めては寝たり起きたりの生活であった。
彼がこうして再び体調を崩し始めたのは刺青が彫り終えてからである。一時は体調が良くなったかに見えたが違ったらしい。
――一体何処が悪いのだろう。
中島が不思議に思うのは森が医者を呼ばないことである。明らかに躰に変調を来たしているのだから医者に診せるべきだと思うのだが森はそれをしない。また当の本人も医者の診察を望んではいないふうだから、益々不可解である。太宰の尋常ではない具合は他の使用人達も気が付いていたが、誰もそのことについて触れようとしなかった。我関せずと一線を引いていた。また森からも何も聞かされていないこともあり、中島は太宰の病状を気に掛かりながらも、当人に面と向かって訊ねるのは気後れしてしまい、結局これまで誰にも仔細を訊けずにいるのだった。
「太宰さん、一口でも良いので食べてください。森さんも心配しています」
森の名前を出した途端、太宰の片眉がぴくりと吊り上った。森さんだって?――太宰は冷笑する。
「あの人が心配しているのは私なんかじゃあない。お金だよ、お金。今、私がこんな状態だからねえ。本当は森さんはさっさと私を種田さんに引渡したいのさ。私が此処に長居すればする程、色々と費用が嵩むし、種田さんにしたって、私が此処で愚図愚図していたら何時まで経ってもお客さんを取れないし、これまで私に使ってきたお金を思えばふたり共大損だよ」
私は厄介なお荷物なのさ――自嘲する太宰の表情は中島にはとても痛ましく見えた。笑わない鳶色の瞳は悲傷に翳って暗く、僅かに潤んでいた。鈍い光線のせいか一瞬、彼が泣き出すかのように見えて、中島は必死にかけるべき言葉を探したが、結局何も云えないまま、沈黙するしかなかった。と、太宰は彼の心中を察して「敦君、ごめんね」薄く笑んだ。それから手にしていた赤い千代紙の包みを中島に差し出す。虚を衝かれて目を見開く彼に、
「金平糖だよ。一つ、どうだい?」
「じゃあ、頂きます」
色とりどりの小さな粒の中から黄色の金平糖を摘んで口に含む。
「甘くて美味しいですね」
普段、滅多に甘味を口にする機会がない中島にとっては金平糖も贅沢な食べ物であった。
「それは良かった。これね、国木田君に強請って買って貰ったのだよ」
「国木田さんに……?」
云いながら長身の男の姿を思い浮かべる。彫り師と云うよりは寺子屋のお師匠様と云った方がしっくりくる風貌の男。彼が見舞いに訪れた時は心底驚いたが、思い返してみればあの後、太宰は俄に元気を取り戻した様子だった。そして今も太宰の表情は心なしか明るい。
「これもね、彼に買って貰ったんだ」
太宰は懐から硝子細工の青い蝶を取り出すと掌の上に載せて中島に見せる。微光に弱い光を弾くそれは青色を透かして彼の白い掌の上に青く影を落とす。私のお守りなんだと、そっと拳を握って嬉しそうに微笑んだ。久し振りに見る彼の笑顔に中島は朧気に悟った。皆が彼の様子を見て見ぬ振りを決め込んでいる理由も。
「太宰さん、もしかして国木田さんのことを……?」
「うん。私ね、彼のことが好きなんだ」
初めて人を好きになったんだ――肯定する顔は酷く寂しげであった。
「敦君は嗤うかもしれないけれど――私、彼のことが好きで好きで堪らなくて……どうしても国木田君を忘れられなくて……ううん、本当は忘れたくないんだ。彼とはどう足掻いても結ばれやしないのにね」
太宰は数日前――福沢の宅を訪ねた日のことを思い出す。
襖越しに聞いた国木田の縁談の話、婚約者となるお栄の姿に打ちのめされた。帰路に就きながら「太宰君。君も聞いていたでしょう。悪いことは云わない。彼のことはきっぱりと諦めて忘れなさい」そう森は無情にも云い放ったのだ。彼は何時からか、太宰が国木田に恋心を抱いていることを見抜いてた。
「何故、と云う表情だね。解るよ。近くで見ていたのだからね。君が私や種田殿に背中を見せたくないと思っていたことも、男娼として生きることを厭わしく思っているのも。結ばれないと解っていながら想い続けるのは勝手ではあるけれど、辛い思いをするのは君だ。彼を忘れぬまま客の相手を出来るかね? 私には随分と酷に思えるがね」
森の云い分は尤もであった。永久に手に入らないものを望むのは不毛であり、無意味だ。彼の残像を追いかけて、面影を探して彷徨って、何処にも彼は存在しないのだと思い知ることの絶望。
金子を届けに国木田のところへ行ったあの日も、もう最後だからと覚悟を決めてのことであったが、結局太宰の気持ちは変わらなかった。寧ろ、国木田への思慕を強固にするだけであった。彼に金子を渡す時、縁談話を祝いながら心では泣いていた。実際、泣かないように堪えていたのだ。必死に笑顔で取り繕って。祝いの席に呼んでくれと自分から云っておきながら国木田とお栄が金屏風の前に並んでいる姿を想像して胸が苦しくなった。幸福そうにしているふたりを見たくないと拒絶した。それどころか、もっと酷いことも考えた。縁談が壊れてしまえば良いのに、と。仮令ふたりが破局しても自分の想いが国木田と通じ合う訳ではないないのに。だけれども彼が誰かのものになることが耐えられなかった。その両の眼に自分以外の誰かを捉えて欲しくはなかった。一方で想い人の幸せを願ってあげられない自分自身を嫌悪した。最低だと思った。森が指摘したように、春をひさぎながら特定の誰かを愛するなど、只辛いだけだ。でも、それでも国木田を愛する気持ちは断ち切れなかった。背中に彫り込んだ刺青を捨て去ることが出来ないように。
「私、莫迦だね。彼は私のこと、何とも思ってはいないのにね」
今にも脆く崩れてしまいそうな薄笑みを浮かべる。無理に笑っている姿が痛々しく、中島の胸を刺す。
それでも以前は――国木田に想われているのではないかと微かに期待を寄せていたこともあったのだ。彼が優しくするから。だが国木田が見せた優しさや情けは太宰にとっては特別でも彼にしてみれば極他愛のないものだったのだ。その温度差に後から気が付いて太宰は打ちひしがれた。
「ごめん、変な話をしちゃったね」
眉根を寄せて沈痛な面持ちの中島を労わるように云うと「いえ、僕の方こそすみません」慌てて首を横に振る。
「……その、国木田さんに云わなくても良いんですか? そんなに国木田さんを想っているのなら……」
「そうだねえ、思い切って告白してふられちゃった方が却ってすっきりするかもね」
「ふられるなんて、そんな」
「気を遣わなくて良いよ。どう考えても望みはないもの」
「はあ……」
「敦君、話を聞いてくれてありがとう。何だか一方的に話す形になっちゃったけど。少し気分が良くなったよ。ちょっとお腹も減ったかも」
太宰はにっこり笑いかける。彼の明るい微笑を見て中島は愁眉を開いた。食欲が出てきたことも良い兆候だと安堵して「じゃあ、お膳は後で取りにきますね。僕も持ち場に戻らないと」座を立つ。太宰は「ああ、お膳は後で私が自分で片付けるよ。引き止めて悪かったね。お疲れ様」ひらひらと手を振って退室する中島を見送った。
独りになった太宰は手元の包みから一粒、金平糖を摘んで口の中に放り込んだ。甘い粒を味わいながら、布団から出て部屋の隅にある文机の前に座った。紙を広げ、硯箱を開けて筆と墨を用意する。これから認めようとするのは誰に宛てるでもない文である。もっと云えば、遺書。そう遠くないうちにこうすることは以前から決めていたのだ。中島に国木田のことを話して覚悟が決まった。想いを告げることで気持ちに整理がつくかもしれないが、それ以上に国木田に面と向かって拒絶されることを恐れた。気持ちを受け入れられないと予め解っていても、尚。だから彼には何も云わずに想いを連れて死ぬことを選んだ。何時までも此処にいる訳にもいかない。かと云って種田の妓楼に移って客を取るのも厭だった。
「さて、何て書こう」
呟いて思考する。が、いざとなると適当な文句が浮かんでこない。書き遺す言葉は初めからないのかもしれない。代わりに心を占めるのは国木田の幻像。何度も思い出し、残像を追った愛しい人の優しげな表情に視界が滲み始める。
「……国木田君」
雫が頬を伝って机上に広げた紙の上にぱたりと落ちる。一滴の落涙に続いて大粒の涙がぱたぱたと零れ落ち、滂沱する涙は止めどなく頬を冷たく濡らした。声を殺して泣きながら「最後にもう一度だけ会いたかったなあ」独り言を洩らして、ついに見ることの叶わなかった国木田の背にある刺青を思った。
一頻り泣いた後、太宰は謝罪の言葉を一言、紙に書きつけて筆を置くと文机の抽斗の奥から小さな白い包みを取り出す。包みには白い粉末――鼠捕りに使われる砒素が入っていた。この時のためにくすねたものだ。左手に硝子の蝶をぎゅっと握り締める。どうか彼岸まで連れていってくれますようにと願いながら。太宰は包みを開いて金平糖の甘さが残る口の中へ砒素を流し入れ、膳にあった茶で一息に飲み下した。
◇◇◇
珍しくこの日は朝から晴れていた。梅雨の中休みの空は濃い碧色で目が醒めるような色合いであった。照りつける陽射しも夏季の様相を孕んでじりじりと往来の景色を白く焼いていた。
国木田は
「お栄さんは今日は……?」
「ああ、お栄様なら今日はお出掛けになっていらっしゃいます。芝居を見に行くとかで。お帰りは夕方頃でしょう」
下男の言葉に国木田は胸を撫で下ろして改めて福沢の在宅を訊ねると「先生はいらっしゃいます」と云うので早速部屋に通して貰うことにした。下男がの家主の部屋の前で「先生、国木田様がお見えになりました」と告げると中からくぐもった返答があって、失礼しますと襖を開けると三毛猫がするりと飛び出してきた。猫はそのまま炊事場の方へとことこと歩いていく。
「ありゃ。先生、猫に構い過ぎなんですよ」
下男は苦笑を洩らしてその場を立ち去った。福沢に促されて国木田が部屋に入ると「急に来るなど、お前にしては珍しいな」云いながら卓の上に広げていた書物を閉じる。
「はい。お忙しいところ突然お訪ねしてしまって申し訳ありません」
「否、云う程忙しい訳ではない。書物の整理ついでに書見していただけだ。お前がこうして来るところを見ると、何か急ぎの用事だろう。一体、どうした?」
問われて国木田は膝の上で堅く拳を握って一文字に口元を引き結ぶ。それから意を決したように正面に坐す師を真っ直ぐに見詰める。強い眼差しで。
「実は、お栄さんのことでお話があり、お伺いしました」
「ほう。お栄のことでか。何かあったのか?」
「師匠、真に申し訳御座いません。今回のお栄さんとの縁談、白紙に戻して頂きたく――お願いに上がりました」
どうか彼女との縁談を辞退させてください――誠心誠意を込めて国木田は両の手をついて深々と
「――理由を話してくれぬか」
静かな口調で言葉の先を求めると国木田は頭を上げぬまま、
「甚だ申し上げ難いことですが――俺は彼女以外の人間に懸想してしまいました。どうにかして相手を忘れようとしましたが、果たせませんでした。お栄さんと逢瀬をしながら彼女を愛そうともしました。師匠が俺のために進めてくださった縁談、またお栄さんも俺を慕ってくれている、無下には出来ぬと己の心を偽って彼女を娶ることを何度も考えましたが、しかしそれでは彼女を幸せには出来ないだろうと……何より、俺自身が耐えられません。彼女を偽りで愛そうとする裏切り、こうして縁談を反故にして欲しいと嘆願することも師匠へと彼女の裏切り、俺はもう此処には――居れません」
淀みなく一息で縷々と真情を吐露した。これらはお栄と逢引した後、熟考して出した国木田の結論であった。心に決めたことは一日でも早く福沢に伝えるのが良いと判断して、訪問日の明日を待たずに訪れたのだ。
顔を上げよ――命ぜられるままに国木田は面を上げる。その表情は苦渋に染まり、眉間の皺は深く、痛みを堪えるかのようで。炯々とした双眸は今や悲しみの色にその光を翳らせていた。
「お前は此処にいられないと云うが。一体どうするつもりなのだ」
「……俺は……世俗から離れて、仏門に入ります」
子供の頃、福沢と出会うまで過ごしていた寺に戻り、そこで仏に仕えて余生を過ごすつもりでいた。仏の道に入ることは決して安寧を求めてではない。己への罰としてであった。福沢に恩を仇で返してしまったこと、お栄の気持ちを裏切ったこと、太宰を愛してしまったこと――そして今も太宰を忘れられずにいることへの罰。
「俺は自分自身が赦せません。どうか俺を破門にしてください。此処を去り、寺に帰ります」
国木田は抱えてきた小さな包みを卓の上に載せて開く。現われたのは金、十五両。
「此方は全てお返し致します。俺には受け取る資格がありません」
差し出された金子を前に福沢は此処まで彼に固い決意をさせた相手のことが気になった。其処でふと森の言葉が思い出された。
所謂恋煩いですよ――。
「……お前の想い人と云うのは、太宰殿のことか?」
一瞬、国木田は言葉に詰まった。が、それは無言の肯定だった。福沢は「そうか」小さく呟いて、居住まいを正すと国木田――口調を改めて告げる。
「お前は随分と今回の件で悩んだのだろう。俺に正直に打ち明けてくれたことは嬉しく思うが、しかしそれはならぬ。お前は破門にしてくれと云うが俺はお前の腕を高く買っている。太宰殿の刺青、真に見事であった。何れは俺の後を継いで一門を率いる頭となろう。俺はそう考えている。手塩に掛けて育てたお前をこのような形で失いたくはない。国木田。どうか考え直してくれぬか。お栄もお前を慕っている。毎日、お前を想って幸せそうにしている。俺はお栄の幸福を成就させてやりたい。それに。仮令お栄との縁談がなくとも、彼と添い遂げることは不可能だ。森殿が赦しはせぬ。俺も同じ思いだ。彼は春をひさぐ者。お前とは住む世界が違う。彼への感情は一時的な気の迷いだろう。頭を冷やせ」
福沢の声音は静かであったが表情は険しかった。彼を愛することを決して赦しはせぬと物語っているようであった。
国木田は深く項垂れたまま、暫く動けなかった。