無垢肌に散りて
(伍)
翌日。
何時もの時刻に姿を見せない太宰を国木田は案じながら落ち着かない気持ちで待っていた。昨日、随分調子が悪そうであったから、もしかしたら今日も体調が思わしくないのかもしれぬ――鬱然とした心持で国木田は衝立の向こう側へ廻って窓辺に寄り、曇天を仰ぎ見た。鉛色の空は重たく頭上に圧し掛かり、西から流れてくる黒雲が湿度の高い風と共に雨を呼び込もうとしていた。陰気な天候はこれからやって来る長雨の季節を想起させ、国木田の心を蒼く沈ませた。家族を、親しい人達を一度に亡くした悲嘆の日々が不意に思い出されたのだ。悲しみも痛みも疾うに過去に置いてきた筈であるのに今になって胸が痛むのは何故だろう――躰の内奥で脈動するかのような疼痛が彼を苛んだ。
やがて天から雫が落ちてきて雨となった。雨脚は次第に激しくなり、音を立てて屋根を打った。青く茂った木々の梢も容赦なく降り注ぐ雨に打たれ、大粒の水滴は広げた葉を揺らし、立ち上る水と土との埃っぽいような匂いが混じって緑の濃い香気が漂った。国木田は窓を閉め、広げていた刺青の道具が入った木箱の蓋を閉じた。きっと彼は来ないだろうと思って。仄暗い室内は空寂として白々しく、長く棲んでいる家であるのに変に広く感じられた。
国木田は二階へ上がって自室の文机の前で座して頬杖をついて、ぼんやりとした。愛用の手帳を広げてみたり、硝子の蝶を弄んでみたり、読本を手に取ってみたり。しかし何れも漫ろな気分で徒に時間を空費するばかりであった。何かをせねばならない、だが何をして良いのか解らない――かつて感じたこともない焦燥感がじりじりと国木田の心を侵食していった。と、下の方で物音がした。太宰がやって来たのかもしれないと期待を抱いて階下へ下り、慌てて玄関の引き戸を開けた。
「だざ――」
国木田は戸口に立っていた人物を目にした途端、はっとして言葉を呑み込んだ。相手も少し驚いた様子で目を瞬かせる。それから白髪の少年は気を取り直したかのように微かに笑みを浮かべてぺこりと頭を下げた。
「こんにちは。えっと、貴方が国木田さんですか?」
「ああ、そうだが。お前は……?」
「僕、中島敦です。森さんの使いで参りました」
文を届けに来ました――懐から折り畳まれた紙片を取り出して訝る国木田に手渡す。受け取ったそれを開いて中を検めると、体調が優れない故、数日暇を取らせて頂きたいとの旨が認められていた。
「……太宰はそんなに具合が悪いのか?」
「ええ、そうみたいです。僕も詳しくは解らないのですが、昨日の夕餉の前からずっと自室に籠もったままで……今朝も朝餉の時間になっても部屋から出てきませんでした。部屋の中にも入れて貰えませんし……僕も太宰さんが心配で……」
中島は消沈して俯く。国木田も同じ思いであった。具体的な容態が何も示されていないこともあって心配と不安とが募った。見舞いに行くことも一瞬、閃いたが突然押しかけては流石に先方が迷惑だろう。国木田は考えを打ち消して文を折り畳み、懐へ仕舞う。しおれている中島に「雨の中、ご苦労だったな」労ってから少し待つように云って、一旦家の中に引っ込むと薄い箱の包みを手にして玄関先に戻る。
「菓子を持って帰れ。最中だ。彼奴は食欲がなくて食わんかもしれんが、一緒に食うと良い」
包みを半ば押し付けるようにして中島に手渡す。最初、彼は恐縮しきって当惑していたが太宰への見舞いとお前への駄賃だと云えば「それでは有難く頂きます」最中が入った箱を大事そうに抱える。
「それでは僕はこれで……」
失礼しますと礼儀正しくお辞儀をして傘を開く。
「気を付けてな。太宰にも森殿にも宜しく伝えてくれ」
中島は頷くと踵を返して雨で白く烟る中を傘をさして足早に去って行った。
◇◇◇
辺りは酷く暗かった。天も地も、右も左も解らぬ程の闇、闇、また闇……。国木田は方向感覚が狂う漆黒の中に佇んでいた。何の音もせず、そよとの風もない。耳が痛む程の静寂――全てが死に絶えた世界であった。
国木田は自己を確かめるかのようにして両の手をきつく握っては開く動作を繰り返した。躰は動く。肉体は闇に呑まれずに、在る。胸の奥の鼓動、駆け巡る血、繰り返す呼吸――生きている。己の生を確認して一歩、歩みを進める。と、爪先が濡れるような感覚。屈んで足元に手を触れれば、ぬるりとした感触に手が汚れるのが解った。泥ではない、もっとべたついた何か。目を凝らして指先を見ると赤黒く染まっていた。血だった。何事かの気配を察して前方に視軸を転じれば、ぼんやりと白い影が蹲 っていた。その白い影へと導くように国木田の足元には黒く光る水――血の筋が流れていた。半ば引き寄せられるようにして国木田は血を辿って淡く発光している白いそれに歩み寄った。近付いて蹲るものの正体を知って驚愕のあまり目を大きく見開いた。
白い影は太宰であった。裸形の彼の背はずたずたに切り裂かれていた。恰も彫り込んだ牡丹の花を消そうとするかのように。傷口からは多量の血が溢れ、皮膚を伝って地面へと流れていた。流れる血は闇を映して黒い。
「太宰!」
国木田は蹲る彼の傍らに膝をついて顔を覗き込む。傷が大層痛むのだろう、太宰は涙を流して細い肩を慄 わせていた。濡れる頬は血の気を喪って蒼白く、戦慄く唇も色が抜けて落ちていた。太宰は絶望に瞳を見開いてか細く声を慄わせる。
「……国木田君、……背中が……」
助けを求めて縋りつく彼を受け止めて、目尻に溜まった雫を親指で拭う。
「大丈夫だ。俺がまた綺麗にしてやる。まずは止血を……」
早く手当てをしなければ彼の中から全ての血が流れ出てしまう――恐れと焦りに突き動かされて羽織を脱ぎ、適当な大きさに裂くと傷口に宛がう。見る見るうちに布は血汐に染まって国木田の手を赤く汚す。何枚か布を重ねた上から晒 のように裂いた布を巻き付けると太宰が小さく呻いた。
「すまん。痛かったか」
「……国木田君、私……」
「――え?」
突如、太宰の輪郭が右肩からふっと崩れ出した。それは範囲を広げて彼を侵食し、小さな白い花弁となって漆黒に散る。太宰の躰は瞬く間に花弁に変じて消失した。追いかける国木田の手は虚しく空を掴むばかりで。
「太宰!」
白い花弁は旋風に浚われて舞い上がり、雪のように音もなく国木田の頭上に夥しく降り注いだ。
「っ……太宰……ッ!」
殆ど叫ぶような自分の声で国木田は目を醒ました。厭な汗をかいて激しく動悸がしていた。見慣れた天井を視界に映して目蓋の裏に翻る夢の残滓を追い払う。黒と赤と白の夢を。悪夢に乱れた胸を落ち着けようと大きく息を吐いて半身を起こした。
――まただ。また、太宰の夢。
太宰が訪れなくなって七日ばかり経っていたが、その間、毎晩のように彼の夢を見ていた。今のように夢見が悪いものがあれば、平凡な内容の夢――茶菓子を食しながら寛いでいる夢、牡丹園に再び訪れている夢、刺青を彫っている夢などを見ていた。それだけならまだ良かった。思い出すことすら憚られる夢を国木田は見ていたのだ。太宰が望むままに彼を組み敷いて抱く夢を。
その夢に現れる太宰は壮絶な程に美しく、妖艶だった。目を瞠る程に。呼吸を忘れ、見蕩れるくらいに。彼は月影に蒼く冴える牡丹の葉叢に佇立して自ら着物の帯を解いて前を開き、素肌を覆い隠す包帯を外し、惜しげもなく無防備な裸体を国木田の目に晒した。細腕を伸ばして国木田の頤を捕えると切なげに双眸を細めて唇を求めた。夢の中の国木田は躊躇いもなく、薄く開いた桜唇に自らのそれを重ね合わせ、艶を含んだ吐息の下へと彼と共に沈み、咲き乱れる大輪の白い牡丹の中へと倒れて睦み合った。痩躯を縦 に貪り、慾望を満たした。この淫夢に国木田は何度か悩まされた。どうしてこんな不埒な夢を見るのか訳が解らず、自分に説明出来なかった。単なる夢とは云え、後ろめたさや罪悪感が募った。だがしかし。認めたくはなかったが、心の何処かではこの美しい淫らな夢に妖しいまでの甘美さを覚えて、恍惚としている自分もいるのだった。
――何故、彼の夢ばかり見るのだろう。彼のことが気になるからだろうか。
相変わらず森や太宰本人からは何の音沙汰もなかった。彼の躰の具合が心配だった。快方へ向かっているのか、それとも悪化しているのかすら解らない状態で、国木田は持て余す時間の中、太宰のことばかり考えているのだった。
国木田は布団から抜け出し、窓を開け放った。
夜の名残を孕んだ澄明な外気が頬を緩やかに撫でて、焦慮に毛羽立つ心を洗い清めるかのようだった。深く息を吸い込めば滴る新緑の香気が爽やかに肺を満たし、ほぅと吐き出せば頭も冴えてゆく。軒下から覗く天穹はまだ紺青を留めて、星が一粒、銀色に瞬いていた。今しがた見ていた夢のせいか、煌く銀色の粒が彼の流した涙と重なって見えて居ても立っても居られない気持ちになった。
――正午 を過ぎても彼が来なかったら見舞いにゆこう。
旭光に底光りする東の空を見詰めながら、国木田は夜明けを知らせる鐘の音を聞いていた。
◇◇◇
「……この辺りか?」
国木田は以前、森から貰った文に記された屋号を頼りに太宰を見舞うべく白茶けた往来を歩いていた。そう、結局、彼は今日も現われなかったのだ。待つことに倦み飽いた彼は何かの発作の如く家を飛び出した。突然の訪問は礼を失すると思わなくもなかったが、門前払いされたらそれはそれ。太宰の様子を知るための見舞いであったが、それ以上に己の心を落ち着けるための往訪であった。
森の住まいは文によると『菊屋』のごく近所らしいのだが、それらしい屋号は一向に見当たらない。こんなことなら先日訪ねて来た中島に詳しく森の邸宅の在り処を訊いておくんだったと今更のように後悔した。然程入り組んだ界隈ではないので直ぐに目印の『菊屋』が見つかると思っていたのだが、とんだ誤算であった。
上天気に晴れた初夏の陽気の中、歩き回ったせいで酷く喉が渇いていた。国木田は手巾で額の汗を拭き拭き、歩調を緩めて漂白された陽射しの中を歩む。何処か茶屋にでも入って脚を休めながら『菊屋』の所在を訊ねたく思ったが、此処一帯は仕舞うた屋ばかりで茶店や甘味処の類は皆無である。路をゆく人もない。そよとも風のない静寂が乾いた路の上を愚鈍に漂っているばかり。到底国木田の都合に応えてくれそうになかった。見舞いの品に持参した瓜の重みが手に堪えた。
路の端に落ちる板塀の僅かな影を踏み辿りながら視線を辺りに配り『菊屋』を探す。四辻に差し掛かった時、行くべき方向に惑って国木田は四方を見渡した。と、運良く前方から此方へ歩いて来る人影を見つけた。すみません――藁にも縋る思いで走り寄って声を掛けると意外なことに相手は森であった。森も彼と出くわすとは予想だにしていなかったようで「おや」と目を丸くする。
「こんなところで君に会うとは奇遇だねえ。何か困りごとかい?」
「はい。丁度、森様の御宅へ伺おうと思っていたところでして。太宰、……様のお見舞いに上がろうと……道が解らなくて困っていたのです」
「ああ、それはどうもご親切にありがとう。太宰君が世話をかけてすまないね。明日にでも一度此方から国木田殿のところへ文を届けようと思っていたのだがね。手間が省けた。――私の家はこの道を真っ直ぐに行って突き当りを右に折れたら直ぐだよ。『菊屋』の隣だ。屋号が出ているから解る筈だよ」
「そうですか。助かりました。――それで……このような場所でお訊ねするのも失礼と存知ますが、その、太宰様の御様子は……?」
すると森は難しい顔をして眉根を寄せる。途端に国木田は不安になった。余程病状が悪いのだろうか。自宅で介抱した時のことを思い出す。あの時より悪くなっていなければ良いが――何かに祈るような気持ちでいると、ふと森の表情が和らいで微苦笑を洩らす。
「そんなに怖い顔をしないでくれ給えよ、国木田殿。彼は寝たり起きたりの生活だが、流行病ではないし、重篤な状態でもないから安心し給え」
尤も別の意味では重症だけれどね――謎のような言葉を呟いて薄く笑いながら国木田を見る。
「別の意味? それはどう云う意味でしょうか? 彼の病はどう云う種類のもので……?」
問うても森は答えずに只薄笑みを浮かべるだけで「太宰君も君が見舞いに来たらさぞ喜ぶだろう。さて、私はこれで失礼するよ。約束があるのでね」軽く会釈をして国木田の横を通り過ぎて行く。遠ざかる彼の背を暫し見送ってから森の宅を目指して国木田も歩き出す。彼が口にした台詞の意味を考えながら。だが幾ら思考してみても真意は解らなかった。
程なくして目的の場所に着いた。天に厳しく聳える切妻破風門を潜り、玄関の引き戸を訪った。日陰に入った躰はほっと緩む。溜まった熱を吐き出すように国木田は深く息を吐いた。手巾で額と首筋の汗を拭っていると、お待たせしました――出迎えたのは白い頭の少年――中島であった。突然の訪問に彼は心底驚いたふうで目を瞬かせた。
「国木田さん、こんにちは」
「ああ、急に来てすまん。太宰の見舞いに来たのだが……彼に会えるだろうか」
「少し待っていてください。太宰さんに知らせてきます」
云い残して彼は一度屋敷の奥へと姿を消す。突然の来客に驚いているのか、使用人の何人かが奥の部屋――炊事場から玄関の方へと首を伸ばして覗くのを国木田は視界の端に捉えた。が、それも一瞬だった。中島が戻って来ると野次馬達は臆病な亀のように首を引っ込めた。しかし好奇心のさざめきは消えずに蟠っていた。
「お会いになるそうです。どうぞ」
促されて国木田は式台に上がった。
「敦と云ったな。水菓子を持ってきた。後で太宰と食え」
手に提げていた包み――瓜を手渡した。
「はあ、これはどうも……何時もすみません。ありがとうございます」
中島は恐縮して瓜を受け取ると大事そうに抱える。
「此処へ来る途中、森殿に行き会った。太宰の様子を訊ねたのだが、重篤ではないが別の意味で重症だと彼は云っていたのだが、どう云うことだか俺にはさっぱり解らん。どのような病なのかも彼は云わなかった。お前、知っているか?」
彼の案内で廊下を進みながら問うと「森さんがそんなことを? さあ……? 僕にも解りません。相変わらず食欲がないみたいで殆ど食事に手を付けていませんけれど……」中島も不思議そうに首を傾げる。
「実は僕も太宰さんの病気が何の病気なのか知らないんです。早く元気になって欲しいなって思ってます」
「ふむ。そうか」
此方が太宰さんの部屋です――廊下の突き当たりにある襖の前で中島が膝をつくと「太宰さん、国木田さんです」前置きして襖を開けた。
「太宰……」
部屋の主は白い寝間着姿で布団の上に半身を起こしていた。
「やあ、国木田君。良く来てくれたね」
柔和に微笑する顔は光線のせいなのか蒼白く、窶 れているように見えた。
「太宰さん、国木田さんから水菓子を頂きました」
「そう。国木田君、ありがとう。ご馳走様」
「ああ、後でふたりで食え。――それから。すまないが、水を一杯貰えないか」
立ち去る中島に所望して国木田は部屋に入った。
締め切られた部屋の中は意外にもひんやりとして涼しかった。未だに暑さが抜け切らない国木田は室内の冷気に身を寛げて太宰の傍らに腰を下ろした。ふ、と微かに花のような甘い香気を感じた。
「国木田君、わざわざお見舞いに来てくれたの?」
「ああ、あれから何の音沙汰もないからな。心配になって、つい」
「ごめんね、心配かけちゃって。仕事の方にも迷惑かけちゃったね」
眉尻を下げて謝罪する表情は何かを堪えるかのような辛そうなもので。白い寝間着、白い包帯、白い布団……白を纏う彼は存在そのものが希薄に感じられた。病のために命が薄らいですぅと躰が透けてやがて消えてゆく――頼りない細首に儚い思いを抱いた。
「否、気にするな。ずっと食欲がないらしいが、何処が悪いんだ? 胃か?」
「うん、ちょっとね」
曖昧に頷く太宰にそれ以上病状を訊ねることは出来なかった。答えを憚るような病なのだろうか。森が口にした言葉を思い返しても何一つ解らない。謎は深まるばかりである。太宰は病身らしく血の気の失せた顔色で唇も色をなくしてかさついている。中島が云っていたように碌に食事を摂っていないのだろう、元より痩せていた躰が更に細くなっているように見受けられた。しかし少し話をしてみれば以前とそうあまり変わらない様子でもある。酷く衰弱しているふうではない。その点には安堵しつつも、彼を蝕んでいる病は何か――医学の知識がまるでない国木田には見当もつかなかった。
よいしょ――俄に太宰は立ち上がる。と、二三歩歩いたところで大きくよろめいた。倒れそうになる彼の躰を慌てて国木田は受け止め支えた。腕の中で花の香りが強く馨る。甘いそれは太宰の体臭なのだと知った途端、鼓動が跳ね上がった。一瞬、あの淫夢の残影が脳裏に閃く。
「危ないな。いきなりどうした?」
「ちょっと窓を開けようと思って……」
「何だ、それくらい。云えば開けてやるものを。ほら、布団に戻れ」
胸の動悸を悟られまいと撓垂れ掛かる彼の肉の薄い肩を押しやる。布団の上に座らせながら僅かに太宰の手に触れた。繊細な手は肌の色を体温ごと何処かに落としてしまったように真っ白で冷たかった。命の喪失を思わせる冷え冷えとした温もりが不意に国木田の胸に急迫して深部の琴線に触れた。
「――お前の手は随分冷たいな」
白い手をそっと包み込むように握る。冷たく病める彼の手に自身の熱を、命を分け与えんとするように。
「……国木田君?」
呼び掛けられてはっと我に返った国木田は「あ、否、お前、碌に飯を食ってないから血の巡りが悪いのだろう」ぱっと手を離して窓を開けるために立ち上がる。窓は此処かと解りきったことを口にしながら背中に感じる視線の居心地の悪さを振り払う。
障子戸を開けると日向の匂いと共に青臭い匂いが流れ込んで来る。眼前には鮮やかに咲いた花の一群れ。杜若か菖蒲か――乾いた土に咲いているところを見ると菖蒲らしい。陽射しの中に佇立する初夏の花は濃い青紫色を湛えて見目にも涼やかだ。菖蒲の花の色に初めて太宰が自分の家にやって来た時のことを思い出した。あの時着ていた着物の色が丁度こんな色合いだったのだ。彼に佳く似合う色だと思った。
国木田は窓辺に寄ったまま太宰を振り返った。柔らかい風が吹き込んで彼の長い後ろ髪を揺らす。室内に籠もっていた冷気が洗われてゆくようだ。
「外は良いお天気だね」
太宰は何か眩しいものを見るかのように微笑した。久し振りに見る明るい笑顔だった。彼の表情に心底がさざめく。或る時から生じた予感、不明瞭な感情……淡く兆した小さな萌芽は今や国木田の内奥で密やかに花開こうとしていた。
「……そうだな」
相槌を打って窓の外を振り仰ぐ。眸に空の青さが沁みた。
失礼します――襖の外で中島の声がして戸が開く。
「お待たせしました」
中島は部屋に入ると手にした盆を畳の上に置く。水が注がれた湯呑み茶碗の他に青色の器が二つ。器の中はとろりとした水がなみなみと注がれて白玉が幾つか浮かんでいる。
「あれ、冷水 だ」
太宰は盆を覗き込んで云う。
冷水はその字の如く冷水に砂糖を加え、白玉を浮かべた夏の食べ物である。冷水売りは「ひやっこい、ひやっこい」と声を上げながら桶を担いで町中を売り歩くのだ。彼等もまた夏の風物詩である。
「はい。丁度、近くにまで売りに来ていたので。太宰さんの方は少し甘くしてあります」
中島は云いながら器を指す。追加の金を払えば砂糖の量を増やして貰えるのだ。少しでも太宰に滋養をつけさせようとしてのことだろう。国木田さんは此方ですと水が注がれた湯呑み茶碗の隣にある器を指した。
「ああ、すまんな。ありがとう」
「敦君、ありがとう」
にこりと太宰が笑んだのを受けて中島もほっとしたのか少年らしい微笑を返して僕はこれで失礼しますと引き下がった。襖が閉まるのを見届けてから「国木田君、一緒に食べようよ」窓辺にいる国木田を手招きする。再び太宰の傍ら腰を落ち着けた国木田は「冷水を食べても大丈夫なのか」咄嗟に彼の手の冷たさを思い出して云う。躰を冷やすのは病身には毒だろう。しかし太宰は単に腹の具合を訊ねられたのだと思ったらしく「別に大丈夫だよ。何だかお腹空いちゃったし。さ、食べよう」器と匙を手にしていただきますと冷水を口にした。砂糖水をこくりと嚥下して満足そうに喜色を咲かせて美味しいと呟いた。国木田も彼に倣うように青色の器を手に取って砂糖水を啜った。良く冷えた甘い水は渇いた躰に深く浸透していく。五臓六腑に染み渡る甘露は慈雨となって国木田の渇きを癒した。
「国木田君、最近どうしてたの?」
「特にすることがなかったから随分暇を持て余して難儀していたところだ」
「そうなの? それは悪いことをしたねえ」
「否、別にお前を責めている訳ではない。只、急にお前が来なくなったから……、どうして良いものか解らなくなって……」
白玉を口へ運ぼうとしていた太宰の手が不意に止まり、蒼白かった頬に仄かに赤みが差す。
「……太宰? どうした?」
些か不審に思って問えば、
「え? ううん、何でもないよ」
頭を緩く振って匙に掬った白玉を頬張る。もぐもぐと咀嚼しながら白玉も甘かったら良いのになあなどと洩らす。稚気のある語調に国木田は思わず苦笑した。すると太宰も何処か気恥ずかしげに小さく笑った。
顔を見交わす両者の間に穏やかな、充ち足りた沈黙が降りた。優しい無言の時を包むかのように窓から薫風が舞い込み、ふたりの躰を慰撫してその行き先を途絶える。宛てもなく吹く風は最後、何処へ流れてゆくのか――目に見えない風の行方をふと国木田は不思議に思った。
風は何処へ行くんだろうね――まるで国木田の考えを読み取ったように太宰は呟いた。少しだけ笑う彼の表情には索漠とした翳が潜んでいた。かつて見たこともない寂しそうな顔に国木田はと胸を衝かれた。そんなふうに笑ってくれるなと言葉が口を突いて出そうになった。国木田が黙っていると太宰は白く秀でた額を俯けて殆ど独り言のように言葉を紡ぐ。
「この頃、子供の時のことを良く思い出すんだ。――物心がついた時にはもう両親もなくて、住む家もなくて……親が何かで死んだのか、元々捨て子だったのか、その辺の事情は解らないけれど――路端で物乞いの真似事をしたり、その辺に生えてる雑草なんかも口にしてどうにか口に糊をして生きて……凡そ人間の生活なんて云える代物じゃない。只、生きるために生きる、動物のような生き方だ。ううん、動物より始末が悪いかもしれない」
酷い餓えのために盗みを働いたこともあったと告白する。それも一度や二度ではないと云う。危うく見つかりそうになったことも数知れず。盗みが露見してしまえば子供と雖も只では済まなかったであろう。盗みは重罪である。場合によっては死罪も免れない。今思えば大人しくお縄について死罪になった方がどんなに楽だったかもしれないと太宰は自嘲する。
「子供だった私を憐れに思って親切に家に置いてくれた人もいたけれど、結局長くは居られなくてまた宿無し根無し草、放浪の生活さ」
行く宛てもなく、激しい飢餓を抱えたまま、食うや食わず、冬は寒さに慄えて、夏は暑さに喘いで。渇きを癒すためなら泥水を啜ることも厭わない――地べたを這いずり回る日々。
国木田は話を聞きながら以前彼が川に身投げをしたことがあると告げたのを思い出した。あの時は命を粗末に扱うことに憤りを覚え、その一方で彼が死に魅入られた理由を理解していたが、実際に彼の口から語られる痛ましい生き様を前にして、初めて己の傲慢さに気が付いた。勝手な憤りも容易い理解も何て浅はかなことであったか。国木田は己を恥じた。唇をきつく噛み締めて。
太宰は淡々と独白を続ける。
「何時だったか、廃寺を塒 にしていた時があってね。其処にはまだ仏像が安置されたままで……安置と云うより、置き忘れたって感じかな。今でも良く憶えてる。暗がりの中で薄汚れた金泥の肌が鈍く光って静かに睥睨 しながら鎮座している……。或る時、仏像に向かってこう云ったんだ。只そうやって座っているだけで貴方は誰も救いやしないじゃないかって。幾ら拝んだってどれ程縋ったって貴方は何一つ応えてくれないじゃないかって」
神も仏もありはしない――痛切な、絶望の叫びだった。手を伸ばしても救いの手はなく。方々を彷徨い流離 いながら明日はきっと明日はきっとと必死に己を騙して遣り過ごして。心まで磨り減らした果てに生きることに倦み疲れ、ふっと訪れた通り魔の死。背中を押されるように川に、身を投げて。
「……きっと罰が当たったんだね、私」
太宰は苦しげに眉根を寄せてぽつりと呟いた。
「……太宰……」
何か云わなければと国木田は言葉を探す。だが容易に相応しい言葉は見つからない。自分よりも、想像していたよりずっと過酷な生を歩んで来た彼にどんな慰めの言葉を掛けてやれるのか。それに太宰が突然自身の過去を明かした真意が解らなかった。国木田が戸惑っていると、
「ごめん、変な話をしちゃった」
今のは忘れてと顔を上げてへらりと笑うその顔は今にも泣き出しそうで。揺れる鳶色の瞳の切なさに国木田の心の臓が慄えて胸が軋んだ。堪えきれない情動が国木田を突き動かした。
「ずっと、辛かったな」
国木田は太宰を抱き締めた。考えるよりも先に躰が動いていた。痛ましい痩躯を抱きながら得心した。内奥で微睡んでいた感情がひっそりと花開いた瞬間だった。自分は彼を――太宰を好きなのだと。だがそれは赦されない感情であった。
不意に抱き締められた太宰は腕の中で潤み始めた眸を大きく見開きながら、
「国木田君……、私……」
戦慄く唇はそれ以上、言葉を紡ぐことはなかった。只、嗚咽だけが洩れた。太宰は国木田の肩に額を押し付けて縋った。滂沱 する熱い涙は頬を濡らし、国木田の着物に雫が散る。涕涙 に慄える細い背を国木田は何も云わずに慰撫した。優しく、情愛を込めて。そうしながら愛しさを募らせた。抱いてはいけない愛情だと知りながら今だけはどうか赦してくれと誰に向ける訳でなく懇願しながら。
彼が泣き止むまで国木田は無言で慰め続けた。
◇◇◇
太宰は暗闇の中に立っていた。何処からか湿った空気が漂って来て黴臭いような匂いが鼻先を打つ。肌を撫ぜる水っぽい気配にもう直雨が降り出すのだろうと漠然と思った。辺りは瀟然 として無音無風であった。只、黒々とした泥のような闇があるばかりである。周囲に視線を走らせると鈍い金色を捉えた。目を凝らして見ると打ち捨てられた仏像だと知れた。此処は塒にしている廃寺の本堂なのだと解して俄に恐怖心が足元から上って来た。
太宰は竦む脚で駆け出した。闇から逃げるように。静かに睥睨する仏像の眼から逃れるように。あの眼がとても恐ろしかったのだ。
息を弾ませ、闇雲に走った。何処までも息が続くまで、闇を蹴る脚が動くまで。しかし走れども走れども闇は尽きない。仏像の眼差しは執拗に追ってくる。本堂がこれ程広いのはおかしい。一体自分は何処を走っているのか。走って走って心臓が破れそうになってもうこれ以上走れない――膝をついて身を投げ出したのはあれだけ逃れたいと思っていた仏像の前であった。金泥を纏ったそれは無慈悲な絶望の壁となって太宰に圧し掛かった。
貴方は酷い――睨み付ける鳶色の双眸から涙が零れる。透明に潤った眼は怨嗟に血走っていた。物云わぬ仏像を詰っても詮ないことだと解っていても怒りと呪いの言葉を吐かずにはいられなかった。
――だがこの世を呪っても自分を恨んでも何一つ変わりはしない。
そうとなれば明日を、自分を終わらせるしかなかった。
涙を拭ってふらつく脚で立ち上がる。と、ふわりと何か温かいもの躰が包まれた。
「――え?」
くっと抱き締められる力を感じた。しかし相手が誰だか解らない。だがこの柔らかい温もりを知っていると思った。そう、自分は知っている。この優しい体温を。きっとこれは――。
突如、清らかな眩い光が後光のように射して太宰の両の眼を射抜いた。あまりの眩しさに目を上手く開けていることが出来ない。眉根を寄せて目を眇めた瞬間、視界の隅で金色 が揺れた。
はっとして目を開けると暗い天井が飛び込んで来た。
「……夢、か……」
太宰は布団から起き上がってすっかり暗くなってしまっている室内をぼんやり見回した。正確な時刻は解らぬが自分が寝入ってからかなりの時間が経っているのは解った。布団から這い出て襖を開け、屋敷内の様子を窺う。廊下は暗く、しんと静まっている。部屋の明かりが一寸も廊下に洩れ出ていないところを見ると使用人達も家主も既に床に就いて躰を休めているらしかった。太宰は襖を閉めて今度は窓を開ける。障子戸を引き開けると冷えた夜気が頬を撫でて頭の中に残る眠りの残滓を浚う。眠ることを知らない菖蒲の青紫色は夜陰に黝 く打ち沈んで闇に紛れていた。只、花の芳香だけがその存在を主張していた。
太宰は窓枠に上半身を凭れて昼間の出来事を思い返していた。
国木田が見舞いに来たこと、彼に過去を打ち明けたこと、抱き締められて泣いてしまったこと――どれも予期していなかった。暫く国木田の元へ通うのを休んでいたのは体調不良もあったが彼に会うのが怖かったのだ。募る思慕を、どうしようもなく高じる愛しさを悟られるのを恐れた。これ以上、好きになってはいけないと彼を遠ざけようとしたのだ。国木田が見舞いに来たと中島から知らされて心底驚いた。彼にはもう暫く会わぬ方が善いと解っていながら、結局部屋に上げてしまった。彼に会いたいと云う気持ちが抑えきれなかったのだ。数日振りに国木田を見てやはり自分は彼のことが好きなのだと思い知った。
何処からともなく吹き付ける夜風が蓬髪をさわさわと撫で乱す。
「――風は何処へゆくんだろうねえ。私はもう何処にも行けやしないのに」
結局、行き場がないのは今も昔も変わらないのだ。
――ずっと、辛かったな。
不意に国木田の声が胸に木霊する。
あの時、己の過去を明かしたのは已むに已まれずと云った切迫した気持ちからではなかった。救いを求めていた訳でもない。只、罪を重ねながら無様に生きて来た半生を語れば彼が自分を軽蔑するだろうと思ったのだ。生真面目で堅物な彼ならきっとこのような生き方は赦しはしないだろうと。要は彼に嫌われたかったのだ。そうすれば諦められると思って。彼を愛することを。彼を想うことを。全てを断ち切れる――。
だが、国木田が示した態度は太宰の予想を裏切った。あんなふうに優しく抱き締められるとは露程にも想像していなかった。彼は何も云わずに泣き止むまでずっと背を擦ってくれていた。幼子をあやすように。結局あの後、泣き疲れて布団に入って寝てしまったのだが、随分情けない姿をまた見せてしまったと後悔に似た気持ちが太宰の胸を塞いだ。しかしそれでも彼に抱き締められたことを思い出すと羞恥も後悔の念も霧散して太宰を甘く酔わせるのだった。
国木田の腕の優しさと温かさの残像を辿って思う。もしかしたら僅かでも彼に想われているのではないかと。不用意な期待はしない方が善いと自分に云い聞かせながら微かな望みを振り切れないでいた。
――仮令、彼と想いが通じ合っていてもこの恋は堕胎しなければならぬ運命 であるのに。
太宰は夜風に吹かれながら目を閉じる。
明日は彼のところへ行こうと決心するのだった。
◇◇◇
翌日。
朝餉を済ませた後、国木田は数日触っていなかった刺青の道具の手入れをしていた。使用後は毎回きちんと洗い清めているので汚れてはなかったが手持ち無沙汰なこともあり針を磨く気になったのである。
障子戸を透かして差し込む日光を受けて束ねた針は鋭利な光を弾く。この針が何度、あの美しい肌を刺したか。どれだけの赤き血を流したか。激痛を堪えて呻吟する痩躯は恰も絶命せんとする捕えられた美麗な蝶のようで。生かすも殺すも己に掛かっている――真白き素肌を責め苛む様を思い浮かべて国木田は身震いした。と、玄関の方で物音がした。ごめんくださーいと間延びした声が聞こえてきて出迎えてみれば太宰が朗らかに立っていた。
「国木田君、こんにちは」
「お前、どうして……」
思わぬ来訪に国木田は目を丸くした。昨日の今日である。てっきりまだ躰の具合が悪かろうと思っていたのだが。体調は大丈夫なのかと問うと彼は頷いて「うん。昨日、国木田君がお見舞いに来てくれたからね。すっかり良くなったよ。どうもありがとう」莞爾 する表情は明るく、血色を取り戻して、巣食っていた病の翳は微塵も見られなかった。昨日見せた泣き顔さえ嘘のようで。身に纏った紫紺色の着物が白く美しい貌 に佳く映えていた。束の間、菖蒲の花を幻視する。
「上がっても?」
「え? ああ、入れ」
見蕩れていた視線を剥がして太宰を部屋に通す。
「お前が来るとは思っていなかったから菓子は何もないが……」
「ああ、それなら私が持ってきたよ」
はいこれ、と小脇に抱えていた包みを差し出す。中身は葛餅だと云う。国木田は礼を云いながら受け取ると茶の支度をするために炊事場へと立つ。部屋に残された太宰は座布団に座りながら数日振りに目にする国木田の居室兼仕事場を眺め回した。室内は寸分の乱れもなかった。物が少ないのもあるが、あるべきものがあるべき場所に収まり、漂う空気すら端整で沈静していた。家主の性質を反映した清浄な雰囲気に太宰はほっと心身共に寛げた。
程なくして国木田が盆を手に戻って来た。黄粉と黒蜜をかけた葛餅を盛った小皿と茶とを太宰の前に並べる。美味しそうだねえと無邪気に破顔する彼を見て国木田の胸が騒いだ。この胸のときめきはお栄には感じたことのない強い情動であった。
お栄には可憐で清楚な美しさと性根の明るさ、気立ての善さとに心の安らぎを見出していた。優しげな、温かそうな手に触れてみたいと望んでいた。だが、只それだけだ。凡そ恋とは呼べぬ淡い憧れのようなもの。否、太宰に恋するまでは確かに彼女を好きだと思っていた。しかし太宰を好きになって初めて恋情と云うものを知ったのだ。彼に抱く感情はお栄に向けていたそれとは比べものにならぬ程、痛切で激しかった。
もっと見詰めていたいと想う。ずっと傍にいたいと想う。命を何処かに落としてしまったかのように冷たい手を温めてやりたいと想う。泣いていれば涙を拭ってやりたいと想う。辛そうにしていれば抱き締めて慰めてやりたいと想う。笑顔を見せて欲しいと想う。そして彼の全てを自分のものにしたいと云う抑えがたい慾望。何 れもお栄には殆ど感じなかった情であった。太宰を前に既にお栄の存在は国木田の中で希薄だった。それでもこれ以上、彼に思慕を傾けてはいけないと自制を掛けた。彼は男娼となる身。自分と交わる世界にいない。彼は誰のものにはならないのだ。自分もまた師匠に願い出た縁談がある身だ。太宰のことは何としてでも忘れなければならぬ――芽吹いた初恋は無惨にも引き千切られる運命 にあった。
「国木田君……? どうしたの?」
黙り込んだままぼんやりしている国木田を不審に思ったのか、太宰は首を傾げて覗き込む。
「あ、否、葛餅が美味そうだと思ってな」
取り繕って薄く笑み返せば「ふふ、これは伊織屋のだよ。今朝買ってきたんだ」得意げに太宰は笑う。さ、召し上がれと促されて国木田は小皿と竹串を手に黄粉と黒蜜が塗 された葛餅を食した。葛餅特有の食感と舌触りを味わいながら「美味いな」呟くと太宰も葛餅を頬張る。美味しいねと微笑まれて一段と国木田の胸底は妖しく波立った。急激に逆上 せそうになる熱を散らすように慌てて目線を逸らす。沈黙に己の鼓動が響きやしないかと焦って「体調は本当に大丈夫なのか?」そんなことを話題にする。
「もう大丈夫だってば。国木田君は心配性だなあ。ちょっと疲れが出ただけだよ。芸事のお稽古だの礼儀作法だの慣れないことばかりしていたからね。でももう大丈夫。ご覧の通りさ」
にこやかな語調は嘘を云っているふうではなかった。
「私の方こそ、ごめんね。暫く休んじゃったし、それに昨日もあんな……」
恥じているのか告げる語末が尻窄みになる。
「気にするな。只、あまり無理はするなよ」
「うん。どうもありがとう」
小皿と湯呑み茶碗が空になったところで刺青の作業に移った。太宰は衝立の向こう側に廻って着物を諸肌脱ぎ、国木田は手を清めに立って仕切られた仕事場に戻ってくる。
「太宰? どうした?」
巻き付けた包帯を解かずに敷き布の上にぼんやりと座っている彼を訝しげに見遣って、
「やはり今日は――」
「大丈夫。ちょっと考えごとをしてただけだよ」
包帯も取らなくちゃね、と小さな結び目に手を掛けて敷き布の上に落としてゆく。少しずつ露になる白い素肌を国木田は陶然とした心持で見入った。開けた窓から差し込む陽光に照らされる皮膚は相も変わらず上質な滑らかさで、触れたくなる衝動を伴って国木田に迫った。真っ白な肌の上に描かれた牡丹と蝶、皮膚の下にある骨と筋の隆起が陰影を作って艶かしい姿態を呈する。彼が腕を動かす度に彫り込んだ蝶の翅が慄えて今にも肌から飛び立って抜け出るよう。開いた牡丹の花弁も微かに揺れて牡丹園で見た血の如き赫い花が思い出された。
すっかり上半身裸になると太宰は敷き布の上に俯伏せになった。しどけない、無防備な姿に国木田は戸惑いを感じざるを得なかった。刺青を入れるために裸形を晒しているのだと解っていても邪念が隙を突いて入り込もうとする。心の奥底で昏い慾が頭を擡げようとするのだ。不埒な思いを抱く自分に嫌悪感を覚えながら、邪な感情を払い除けようと叱咤して墨を入れるための道具を手にした。始めるぞ――つぷりと銀の針を白皙に突き刺した。
太宰は針が容赦なく肌を苛むのを息を詰めて堪えた。齎される痛みは変わらず激しいものであったが、しかし愛しい人から与えられているのだと思えばそれも甘露となって太宰の餓えて渇いた胸奥を潤し充たした。滲み出る血を拭う優しい手付きや時折掠めるように触れる指先に躰が甘く痺れたようになって、どんなに彼を全身で求めているのかを思い知って、ずっと終わらなければ良いのに――切なく胸中で呟くのだった。
ふたりの間に交わされる言葉は殆どなかった。国木田は邪心を寄せ付けまいと、遅れた分も取り戻すつもりで黙々と仕事に没頭していた。太宰も痛みを、もっと云えば国木田の全てを隈なく甘受することに必死であった。そうしながら彼等はそれぞれ奇妙な思いに捉われていた。美しい肌に墨を入れて穢すことは恰も純潔を奪うようであり、鋭利な針を受け入れることは躰を犯されるようだと。肉体を交えぬままに、そうとは意識しないままに、ふたりは透明な咬合を果たしているのだった。
作業の終わり――正午 の鐘が鳴る頃、その苦痛により太宰の秀でた額には玉の汗が浮かび、国木田もまた白い額に薄く汗を滲ませていた。ふたりは躰の緊張を解いて大きく息を吐いた。国木田は太宰の着替えを手伝ってやりながら「大丈夫か?」顔を覗き込む。
「うん。平気。ありがとう。――刺青、あとどれくらいで終わりそう?」
「そうだな……来月の中頃辺りには」
皐月もそろそろ終わりに差し掛かっていた。牡丹の季節も終わる。
「そっか」
「あと少しの辛抱だな。頑張れ」
励ましの言葉を掛けながらこうして彼と顔を合わすのはあと半月しかないのかと一抹の寂しさを覚えた。
――あと半月で彼を忘れられるだろうか? 否、忘れなければならぬ。
国木田は玄関の戸口まで太宰を見送りながら、
「明日の菓子は何が良い?」
「え? 何でも良いの?」
太宰は目を輝かせてから、うーん、と宙を睨む。
「そうだなあ。羊羹が良いなあ」
「観月堂のか?」
「うん。それから、金平糖」
「金平糖?」
「駄目?」
小首を傾げながら上目遣いで云う太宰の仕草に国木田は当惑し、眉間に皺を刻んで視線を彷徨わせた。そんな彼の態度を見て「あー、やっぱり金平糖はいいや」太宰はへらりと笑う。国木田が渋っていると思ったのである。
「否、解った。金平糖と羊羹だな。用意しよう」
「やった。宜しくね」
喜色を咲かせる太宰につられて国木田も淡く微笑んだ。
そうしているうちに迎えの駕籠がやって来た。太宰は駕籠に乗り込みながら手を振る。
「それじゃあ、また明日ね」
「ああ。気を付けてな」
太宰を乗せた駕籠は足早に往来を去って行く。
ふと国木田は己の手を広げて見た。指先に乾いた血が僅かにこびりついていた。錆色に変色したそれを見詰めて、あの極上の素肌を想った。どんなに触れても決して自分のものにならない。自分以外の誰かのために用意された美しい刺青――その背中、躰。彼を望みながら諦めること、自分のものにならないと云う辛さに胸が灼け焦げるようだった。
――太宰への想いが全て灼けて灰になってしまえば忘れられるだろうか。お栄を愛せるようになるだろうか。否、忘れるしかないのだ。お栄が待っているから。
国木田は久し振りにお栄の顔をはっきりと思い出した。
自分勝手にも、彼女の優しい微笑みに何もかもを忘却して縋りたく思うのだった。
翌日。
何時もの時刻に姿を見せない太宰を国木田は案じながら落ち着かない気持ちで待っていた。昨日、随分調子が悪そうであったから、もしかしたら今日も体調が思わしくないのかもしれぬ――鬱然とした心持で国木田は衝立の向こう側へ廻って窓辺に寄り、曇天を仰ぎ見た。鉛色の空は重たく頭上に圧し掛かり、西から流れてくる黒雲が湿度の高い風と共に雨を呼び込もうとしていた。陰気な天候はこれからやって来る長雨の季節を想起させ、国木田の心を蒼く沈ませた。家族を、親しい人達を一度に亡くした悲嘆の日々が不意に思い出されたのだ。悲しみも痛みも疾うに過去に置いてきた筈であるのに今になって胸が痛むのは何故だろう――躰の内奥で脈動するかのような疼痛が彼を苛んだ。
やがて天から雫が落ちてきて雨となった。雨脚は次第に激しくなり、音を立てて屋根を打った。青く茂った木々の梢も容赦なく降り注ぐ雨に打たれ、大粒の水滴は広げた葉を揺らし、立ち上る水と土との埃っぽいような匂いが混じって緑の濃い香気が漂った。国木田は窓を閉め、広げていた刺青の道具が入った木箱の蓋を閉じた。きっと彼は来ないだろうと思って。仄暗い室内は空寂として白々しく、長く棲んでいる家であるのに変に広く感じられた。
国木田は二階へ上がって自室の文机の前で座して頬杖をついて、ぼんやりとした。愛用の手帳を広げてみたり、硝子の蝶を弄んでみたり、読本を手に取ってみたり。しかし何れも漫ろな気分で徒に時間を空費するばかりであった。何かをせねばならない、だが何をして良いのか解らない――かつて感じたこともない焦燥感がじりじりと国木田の心を侵食していった。と、下の方で物音がした。太宰がやって来たのかもしれないと期待を抱いて階下へ下り、慌てて玄関の引き戸を開けた。
「だざ――」
国木田は戸口に立っていた人物を目にした途端、はっとして言葉を呑み込んだ。相手も少し驚いた様子で目を瞬かせる。それから白髪の少年は気を取り直したかのように微かに笑みを浮かべてぺこりと頭を下げた。
「こんにちは。えっと、貴方が国木田さんですか?」
「ああ、そうだが。お前は……?」
「僕、中島敦です。森さんの使いで参りました」
文を届けに来ました――懐から折り畳まれた紙片を取り出して訝る国木田に手渡す。受け取ったそれを開いて中を検めると、体調が優れない故、数日暇を取らせて頂きたいとの旨が認められていた。
「……太宰はそんなに具合が悪いのか?」
「ええ、そうみたいです。僕も詳しくは解らないのですが、昨日の夕餉の前からずっと自室に籠もったままで……今朝も朝餉の時間になっても部屋から出てきませんでした。部屋の中にも入れて貰えませんし……僕も太宰さんが心配で……」
中島は消沈して俯く。国木田も同じ思いであった。具体的な容態が何も示されていないこともあって心配と不安とが募った。見舞いに行くことも一瞬、閃いたが突然押しかけては流石に先方が迷惑だろう。国木田は考えを打ち消して文を折り畳み、懐へ仕舞う。しおれている中島に「雨の中、ご苦労だったな」労ってから少し待つように云って、一旦家の中に引っ込むと薄い箱の包みを手にして玄関先に戻る。
「菓子を持って帰れ。最中だ。彼奴は食欲がなくて食わんかもしれんが、一緒に食うと良い」
包みを半ば押し付けるようにして中島に手渡す。最初、彼は恐縮しきって当惑していたが太宰への見舞いとお前への駄賃だと云えば「それでは有難く頂きます」最中が入った箱を大事そうに抱える。
「それでは僕はこれで……」
失礼しますと礼儀正しくお辞儀をして傘を開く。
「気を付けてな。太宰にも森殿にも宜しく伝えてくれ」
中島は頷くと踵を返して雨で白く烟る中を傘をさして足早に去って行った。
◇◇◇
辺りは酷く暗かった。天も地も、右も左も解らぬ程の闇、闇、また闇……。国木田は方向感覚が狂う漆黒の中に佇んでいた。何の音もせず、そよとの風もない。耳が痛む程の静寂――全てが死に絶えた世界であった。
国木田は自己を確かめるかのようにして両の手をきつく握っては開く動作を繰り返した。躰は動く。肉体は闇に呑まれずに、在る。胸の奥の鼓動、駆け巡る血、繰り返す呼吸――生きている。己の生を確認して一歩、歩みを進める。と、爪先が濡れるような感覚。屈んで足元に手を触れれば、ぬるりとした感触に手が汚れるのが解った。泥ではない、もっとべたついた何か。目を凝らして指先を見ると赤黒く染まっていた。血だった。何事かの気配を察して前方に視軸を転じれば、ぼんやりと白い影が
白い影は太宰であった。裸形の彼の背はずたずたに切り裂かれていた。恰も彫り込んだ牡丹の花を消そうとするかのように。傷口からは多量の血が溢れ、皮膚を伝って地面へと流れていた。流れる血は闇を映して黒い。
「太宰!」
国木田は蹲る彼の傍らに膝をついて顔を覗き込む。傷が大層痛むのだろう、太宰は涙を流して細い肩を
「……国木田君、……背中が……」
助けを求めて縋りつく彼を受け止めて、目尻に溜まった雫を親指で拭う。
「大丈夫だ。俺がまた綺麗にしてやる。まずは止血を……」
早く手当てをしなければ彼の中から全ての血が流れ出てしまう――恐れと焦りに突き動かされて羽織を脱ぎ、適当な大きさに裂くと傷口に宛がう。見る見るうちに布は血汐に染まって国木田の手を赤く汚す。何枚か布を重ねた上から
「すまん。痛かったか」
「……国木田君、私……」
「――え?」
突如、太宰の輪郭が右肩からふっと崩れ出した。それは範囲を広げて彼を侵食し、小さな白い花弁となって漆黒に散る。太宰の躰は瞬く間に花弁に変じて消失した。追いかける国木田の手は虚しく空を掴むばかりで。
「太宰!」
白い花弁は旋風に浚われて舞い上がり、雪のように音もなく国木田の頭上に夥しく降り注いだ。
「っ……太宰……ッ!」
殆ど叫ぶような自分の声で国木田は目を醒ました。厭な汗をかいて激しく動悸がしていた。見慣れた天井を視界に映して目蓋の裏に翻る夢の残滓を追い払う。黒と赤と白の夢を。悪夢に乱れた胸を落ち着けようと大きく息を吐いて半身を起こした。
――まただ。また、太宰の夢。
太宰が訪れなくなって七日ばかり経っていたが、その間、毎晩のように彼の夢を見ていた。今のように夢見が悪いものがあれば、平凡な内容の夢――茶菓子を食しながら寛いでいる夢、牡丹園に再び訪れている夢、刺青を彫っている夢などを見ていた。それだけならまだ良かった。思い出すことすら憚られる夢を国木田は見ていたのだ。太宰が望むままに彼を組み敷いて抱く夢を。
その夢に現れる太宰は壮絶な程に美しく、妖艶だった。目を瞠る程に。呼吸を忘れ、見蕩れるくらいに。彼は月影に蒼く冴える牡丹の葉叢に佇立して自ら着物の帯を解いて前を開き、素肌を覆い隠す包帯を外し、惜しげもなく無防備な裸体を国木田の目に晒した。細腕を伸ばして国木田の頤を捕えると切なげに双眸を細めて唇を求めた。夢の中の国木田は躊躇いもなく、薄く開いた桜唇に自らのそれを重ね合わせ、艶を含んだ吐息の下へと彼と共に沈み、咲き乱れる大輪の白い牡丹の中へと倒れて睦み合った。痩躯を
――何故、彼の夢ばかり見るのだろう。彼のことが気になるからだろうか。
相変わらず森や太宰本人からは何の音沙汰もなかった。彼の躰の具合が心配だった。快方へ向かっているのか、それとも悪化しているのかすら解らない状態で、国木田は持て余す時間の中、太宰のことばかり考えているのだった。
国木田は布団から抜け出し、窓を開け放った。
夜の名残を孕んだ澄明な外気が頬を緩やかに撫でて、焦慮に毛羽立つ心を洗い清めるかのようだった。深く息を吸い込めば滴る新緑の香気が爽やかに肺を満たし、ほぅと吐き出せば頭も冴えてゆく。軒下から覗く天穹はまだ紺青を留めて、星が一粒、銀色に瞬いていた。今しがた見ていた夢のせいか、煌く銀色の粒が彼の流した涙と重なって見えて居ても立っても居られない気持ちになった。
――
旭光に底光りする東の空を見詰めながら、国木田は夜明けを知らせる鐘の音を聞いていた。
◇◇◇
「……この辺りか?」
国木田は以前、森から貰った文に記された屋号を頼りに太宰を見舞うべく白茶けた往来を歩いていた。そう、結局、彼は今日も現われなかったのだ。待つことに倦み飽いた彼は何かの発作の如く家を飛び出した。突然の訪問は礼を失すると思わなくもなかったが、門前払いされたらそれはそれ。太宰の様子を知るための見舞いであったが、それ以上に己の心を落ち着けるための往訪であった。
森の住まいは文によると『菊屋』のごく近所らしいのだが、それらしい屋号は一向に見当たらない。こんなことなら先日訪ねて来た中島に詳しく森の邸宅の在り処を訊いておくんだったと今更のように後悔した。然程入り組んだ界隈ではないので直ぐに目印の『菊屋』が見つかると思っていたのだが、とんだ誤算であった。
上天気に晴れた初夏の陽気の中、歩き回ったせいで酷く喉が渇いていた。国木田は手巾で額の汗を拭き拭き、歩調を緩めて漂白された陽射しの中を歩む。何処か茶屋にでも入って脚を休めながら『菊屋』の所在を訊ねたく思ったが、此処一帯は仕舞うた屋ばかりで茶店や甘味処の類は皆無である。路をゆく人もない。そよとも風のない静寂が乾いた路の上を愚鈍に漂っているばかり。到底国木田の都合に応えてくれそうになかった。見舞いの品に持参した瓜の重みが手に堪えた。
路の端に落ちる板塀の僅かな影を踏み辿りながら視線を辺りに配り『菊屋』を探す。四辻に差し掛かった時、行くべき方向に惑って国木田は四方を見渡した。と、運良く前方から此方へ歩いて来る人影を見つけた。すみません――藁にも縋る思いで走り寄って声を掛けると意外なことに相手は森であった。森も彼と出くわすとは予想だにしていなかったようで「おや」と目を丸くする。
「こんなところで君に会うとは奇遇だねえ。何か困りごとかい?」
「はい。丁度、森様の御宅へ伺おうと思っていたところでして。太宰、……様のお見舞いに上がろうと……道が解らなくて困っていたのです」
「ああ、それはどうもご親切にありがとう。太宰君が世話をかけてすまないね。明日にでも一度此方から国木田殿のところへ文を届けようと思っていたのだがね。手間が省けた。――私の家はこの道を真っ直ぐに行って突き当りを右に折れたら直ぐだよ。『菊屋』の隣だ。屋号が出ているから解る筈だよ」
「そうですか。助かりました。――それで……このような場所でお訊ねするのも失礼と存知ますが、その、太宰様の御様子は……?」
すると森は難しい顔をして眉根を寄せる。途端に国木田は不安になった。余程病状が悪いのだろうか。自宅で介抱した時のことを思い出す。あの時より悪くなっていなければ良いが――何かに祈るような気持ちでいると、ふと森の表情が和らいで微苦笑を洩らす。
「そんなに怖い顔をしないでくれ給えよ、国木田殿。彼は寝たり起きたりの生活だが、流行病ではないし、重篤な状態でもないから安心し給え」
尤も別の意味では重症だけれどね――謎のような言葉を呟いて薄く笑いながら国木田を見る。
「別の意味? それはどう云う意味でしょうか? 彼の病はどう云う種類のもので……?」
問うても森は答えずに只薄笑みを浮かべるだけで「太宰君も君が見舞いに来たらさぞ喜ぶだろう。さて、私はこれで失礼するよ。約束があるのでね」軽く会釈をして国木田の横を通り過ぎて行く。遠ざかる彼の背を暫し見送ってから森の宅を目指して国木田も歩き出す。彼が口にした台詞の意味を考えながら。だが幾ら思考してみても真意は解らなかった。
程なくして目的の場所に着いた。天に厳しく聳える切妻破風門を潜り、玄関の引き戸を訪った。日陰に入った躰はほっと緩む。溜まった熱を吐き出すように国木田は深く息を吐いた。手巾で額と首筋の汗を拭っていると、お待たせしました――出迎えたのは白い頭の少年――中島であった。突然の訪問に彼は心底驚いたふうで目を瞬かせた。
「国木田さん、こんにちは」
「ああ、急に来てすまん。太宰の見舞いに来たのだが……彼に会えるだろうか」
「少し待っていてください。太宰さんに知らせてきます」
云い残して彼は一度屋敷の奥へと姿を消す。突然の来客に驚いているのか、使用人の何人かが奥の部屋――炊事場から玄関の方へと首を伸ばして覗くのを国木田は視界の端に捉えた。が、それも一瞬だった。中島が戻って来ると野次馬達は臆病な亀のように首を引っ込めた。しかし好奇心のさざめきは消えずに蟠っていた。
「お会いになるそうです。どうぞ」
促されて国木田は式台に上がった。
「敦と云ったな。水菓子を持ってきた。後で太宰と食え」
手に提げていた包み――瓜を手渡した。
「はあ、これはどうも……何時もすみません。ありがとうございます」
中島は恐縮して瓜を受け取ると大事そうに抱える。
「此処へ来る途中、森殿に行き会った。太宰の様子を訊ねたのだが、重篤ではないが別の意味で重症だと彼は云っていたのだが、どう云うことだか俺にはさっぱり解らん。どのような病なのかも彼は云わなかった。お前、知っているか?」
彼の案内で廊下を進みながら問うと「森さんがそんなことを? さあ……? 僕にも解りません。相変わらず食欲がないみたいで殆ど食事に手を付けていませんけれど……」中島も不思議そうに首を傾げる。
「実は僕も太宰さんの病気が何の病気なのか知らないんです。早く元気になって欲しいなって思ってます」
「ふむ。そうか」
此方が太宰さんの部屋です――廊下の突き当たりにある襖の前で中島が膝をつくと「太宰さん、国木田さんです」前置きして襖を開けた。
「太宰……」
部屋の主は白い寝間着姿で布団の上に半身を起こしていた。
「やあ、国木田君。良く来てくれたね」
柔和に微笑する顔は光線のせいなのか蒼白く、
「太宰さん、国木田さんから水菓子を頂きました」
「そう。国木田君、ありがとう。ご馳走様」
「ああ、後でふたりで食え。――それから。すまないが、水を一杯貰えないか」
立ち去る中島に所望して国木田は部屋に入った。
締め切られた部屋の中は意外にもひんやりとして涼しかった。未だに暑さが抜け切らない国木田は室内の冷気に身を寛げて太宰の傍らに腰を下ろした。ふ、と微かに花のような甘い香気を感じた。
「国木田君、わざわざお見舞いに来てくれたの?」
「ああ、あれから何の音沙汰もないからな。心配になって、つい」
「ごめんね、心配かけちゃって。仕事の方にも迷惑かけちゃったね」
眉尻を下げて謝罪する表情は何かを堪えるかのような辛そうなもので。白い寝間着、白い包帯、白い布団……白を纏う彼は存在そのものが希薄に感じられた。病のために命が薄らいですぅと躰が透けてやがて消えてゆく――頼りない細首に儚い思いを抱いた。
「否、気にするな。ずっと食欲がないらしいが、何処が悪いんだ? 胃か?」
「うん、ちょっとね」
曖昧に頷く太宰にそれ以上病状を訊ねることは出来なかった。答えを憚るような病なのだろうか。森が口にした言葉を思い返しても何一つ解らない。謎は深まるばかりである。太宰は病身らしく血の気の失せた顔色で唇も色をなくしてかさついている。中島が云っていたように碌に食事を摂っていないのだろう、元より痩せていた躰が更に細くなっているように見受けられた。しかし少し話をしてみれば以前とそうあまり変わらない様子でもある。酷く衰弱しているふうではない。その点には安堵しつつも、彼を蝕んでいる病は何か――医学の知識がまるでない国木田には見当もつかなかった。
よいしょ――俄に太宰は立ち上がる。と、二三歩歩いたところで大きくよろめいた。倒れそうになる彼の躰を慌てて国木田は受け止め支えた。腕の中で花の香りが強く馨る。甘いそれは太宰の体臭なのだと知った途端、鼓動が跳ね上がった。一瞬、あの淫夢の残影が脳裏に閃く。
「危ないな。いきなりどうした?」
「ちょっと窓を開けようと思って……」
「何だ、それくらい。云えば開けてやるものを。ほら、布団に戻れ」
胸の動悸を悟られまいと撓垂れ掛かる彼の肉の薄い肩を押しやる。布団の上に座らせながら僅かに太宰の手に触れた。繊細な手は肌の色を体温ごと何処かに落としてしまったように真っ白で冷たかった。命の喪失を思わせる冷え冷えとした温もりが不意に国木田の胸に急迫して深部の琴線に触れた。
「――お前の手は随分冷たいな」
白い手をそっと包み込むように握る。冷たく病める彼の手に自身の熱を、命を分け与えんとするように。
「……国木田君?」
呼び掛けられてはっと我に返った国木田は「あ、否、お前、碌に飯を食ってないから血の巡りが悪いのだろう」ぱっと手を離して窓を開けるために立ち上がる。窓は此処かと解りきったことを口にしながら背中に感じる視線の居心地の悪さを振り払う。
障子戸を開けると日向の匂いと共に青臭い匂いが流れ込んで来る。眼前には鮮やかに咲いた花の一群れ。杜若か菖蒲か――乾いた土に咲いているところを見ると菖蒲らしい。陽射しの中に佇立する初夏の花は濃い青紫色を湛えて見目にも涼やかだ。菖蒲の花の色に初めて太宰が自分の家にやって来た時のことを思い出した。あの時着ていた着物の色が丁度こんな色合いだったのだ。彼に佳く似合う色だと思った。
国木田は窓辺に寄ったまま太宰を振り返った。柔らかい風が吹き込んで彼の長い後ろ髪を揺らす。室内に籠もっていた冷気が洗われてゆくようだ。
「外は良いお天気だね」
太宰は何か眩しいものを見るかのように微笑した。久し振りに見る明るい笑顔だった。彼の表情に心底がさざめく。或る時から生じた予感、不明瞭な感情……淡く兆した小さな萌芽は今や国木田の内奥で密やかに花開こうとしていた。
「……そうだな」
相槌を打って窓の外を振り仰ぐ。眸に空の青さが沁みた。
失礼します――襖の外で中島の声がして戸が開く。
「お待たせしました」
中島は部屋に入ると手にした盆を畳の上に置く。水が注がれた湯呑み茶碗の他に青色の器が二つ。器の中はとろりとした水がなみなみと注がれて白玉が幾つか浮かんでいる。
「あれ、
太宰は盆を覗き込んで云う。
冷水はその字の如く冷水に砂糖を加え、白玉を浮かべた夏の食べ物である。冷水売りは「ひやっこい、ひやっこい」と声を上げながら桶を担いで町中を売り歩くのだ。彼等もまた夏の風物詩である。
「はい。丁度、近くにまで売りに来ていたので。太宰さんの方は少し甘くしてあります」
中島は云いながら器を指す。追加の金を払えば砂糖の量を増やして貰えるのだ。少しでも太宰に滋養をつけさせようとしてのことだろう。国木田さんは此方ですと水が注がれた湯呑み茶碗の隣にある器を指した。
「ああ、すまんな。ありがとう」
「敦君、ありがとう」
にこりと太宰が笑んだのを受けて中島もほっとしたのか少年らしい微笑を返して僕はこれで失礼しますと引き下がった。襖が閉まるのを見届けてから「国木田君、一緒に食べようよ」窓辺にいる国木田を手招きする。再び太宰の傍ら腰を落ち着けた国木田は「冷水を食べても大丈夫なのか」咄嗟に彼の手の冷たさを思い出して云う。躰を冷やすのは病身には毒だろう。しかし太宰は単に腹の具合を訊ねられたのだと思ったらしく「別に大丈夫だよ。何だかお腹空いちゃったし。さ、食べよう」器と匙を手にしていただきますと冷水を口にした。砂糖水をこくりと嚥下して満足そうに喜色を咲かせて美味しいと呟いた。国木田も彼に倣うように青色の器を手に取って砂糖水を啜った。良く冷えた甘い水は渇いた躰に深く浸透していく。五臓六腑に染み渡る甘露は慈雨となって国木田の渇きを癒した。
「国木田君、最近どうしてたの?」
「特にすることがなかったから随分暇を持て余して難儀していたところだ」
「そうなの? それは悪いことをしたねえ」
「否、別にお前を責めている訳ではない。只、急にお前が来なくなったから……、どうして良いものか解らなくなって……」
白玉を口へ運ぼうとしていた太宰の手が不意に止まり、蒼白かった頬に仄かに赤みが差す。
「……太宰? どうした?」
些か不審に思って問えば、
「え? ううん、何でもないよ」
頭を緩く振って匙に掬った白玉を頬張る。もぐもぐと咀嚼しながら白玉も甘かったら良いのになあなどと洩らす。稚気のある語調に国木田は思わず苦笑した。すると太宰も何処か気恥ずかしげに小さく笑った。
顔を見交わす両者の間に穏やかな、充ち足りた沈黙が降りた。優しい無言の時を包むかのように窓から薫風が舞い込み、ふたりの躰を慰撫してその行き先を途絶える。宛てもなく吹く風は最後、何処へ流れてゆくのか――目に見えない風の行方をふと国木田は不思議に思った。
風は何処へ行くんだろうね――まるで国木田の考えを読み取ったように太宰は呟いた。少しだけ笑う彼の表情には索漠とした翳が潜んでいた。かつて見たこともない寂しそうな顔に国木田はと胸を衝かれた。そんなふうに笑ってくれるなと言葉が口を突いて出そうになった。国木田が黙っていると太宰は白く秀でた額を俯けて殆ど独り言のように言葉を紡ぐ。
「この頃、子供の時のことを良く思い出すんだ。――物心がついた時にはもう両親もなくて、住む家もなくて……親が何かで死んだのか、元々捨て子だったのか、その辺の事情は解らないけれど――路端で物乞いの真似事をしたり、その辺に生えてる雑草なんかも口にしてどうにか口に糊をして生きて……凡そ人間の生活なんて云える代物じゃない。只、生きるために生きる、動物のような生き方だ。ううん、動物より始末が悪いかもしれない」
酷い餓えのために盗みを働いたこともあったと告白する。それも一度や二度ではないと云う。危うく見つかりそうになったことも数知れず。盗みが露見してしまえば子供と雖も只では済まなかったであろう。盗みは重罪である。場合によっては死罪も免れない。今思えば大人しくお縄について死罪になった方がどんなに楽だったかもしれないと太宰は自嘲する。
「子供だった私を憐れに思って親切に家に置いてくれた人もいたけれど、結局長くは居られなくてまた宿無し根無し草、放浪の生活さ」
行く宛てもなく、激しい飢餓を抱えたまま、食うや食わず、冬は寒さに慄えて、夏は暑さに喘いで。渇きを癒すためなら泥水を啜ることも厭わない――地べたを這いずり回る日々。
国木田は話を聞きながら以前彼が川に身投げをしたことがあると告げたのを思い出した。あの時は命を粗末に扱うことに憤りを覚え、その一方で彼が死に魅入られた理由を理解していたが、実際に彼の口から語られる痛ましい生き様を前にして、初めて己の傲慢さに気が付いた。勝手な憤りも容易い理解も何て浅はかなことであったか。国木田は己を恥じた。唇をきつく噛み締めて。
太宰は淡々と独白を続ける。
「何時だったか、廃寺を
神も仏もありはしない――痛切な、絶望の叫びだった。手を伸ばしても救いの手はなく。方々を彷徨い
「……きっと罰が当たったんだね、私」
太宰は苦しげに眉根を寄せてぽつりと呟いた。
「……太宰……」
何か云わなければと国木田は言葉を探す。だが容易に相応しい言葉は見つからない。自分よりも、想像していたよりずっと過酷な生を歩んで来た彼にどんな慰めの言葉を掛けてやれるのか。それに太宰が突然自身の過去を明かした真意が解らなかった。国木田が戸惑っていると、
「ごめん、変な話をしちゃった」
今のは忘れてと顔を上げてへらりと笑うその顔は今にも泣き出しそうで。揺れる鳶色の瞳の切なさに国木田の心の臓が慄えて胸が軋んだ。堪えきれない情動が国木田を突き動かした。
「ずっと、辛かったな」
国木田は太宰を抱き締めた。考えるよりも先に躰が動いていた。痛ましい痩躯を抱きながら得心した。内奥で微睡んでいた感情がひっそりと花開いた瞬間だった。自分は彼を――太宰を好きなのだと。だがそれは赦されない感情であった。
不意に抱き締められた太宰は腕の中で潤み始めた眸を大きく見開きながら、
「国木田君……、私……」
戦慄く唇はそれ以上、言葉を紡ぐことはなかった。只、嗚咽だけが洩れた。太宰は国木田の肩に額を押し付けて縋った。
彼が泣き止むまで国木田は無言で慰め続けた。
◇◇◇
太宰は暗闇の中に立っていた。何処からか湿った空気が漂って来て黴臭いような匂いが鼻先を打つ。肌を撫ぜる水っぽい気配にもう直雨が降り出すのだろうと漠然と思った。辺りは
太宰は竦む脚で駆け出した。闇から逃げるように。静かに睥睨する仏像の眼から逃れるように。あの眼がとても恐ろしかったのだ。
息を弾ませ、闇雲に走った。何処までも息が続くまで、闇を蹴る脚が動くまで。しかし走れども走れども闇は尽きない。仏像の眼差しは執拗に追ってくる。本堂がこれ程広いのはおかしい。一体自分は何処を走っているのか。走って走って心臓が破れそうになってもうこれ以上走れない――膝をついて身を投げ出したのはあれだけ逃れたいと思っていた仏像の前であった。金泥を纏ったそれは無慈悲な絶望の壁となって太宰に圧し掛かった。
貴方は酷い――睨み付ける鳶色の双眸から涙が零れる。透明に潤った眼は怨嗟に血走っていた。物云わぬ仏像を詰っても詮ないことだと解っていても怒りと呪いの言葉を吐かずにはいられなかった。
――だがこの世を呪っても自分を恨んでも何一つ変わりはしない。
そうとなれば明日を、自分を終わらせるしかなかった。
涙を拭ってふらつく脚で立ち上がる。と、ふわりと何か温かいもの躰が包まれた。
「――え?」
くっと抱き締められる力を感じた。しかし相手が誰だか解らない。だがこの柔らかい温もりを知っていると思った。そう、自分は知っている。この優しい体温を。きっとこれは――。
突如、清らかな眩い光が後光のように射して太宰の両の眼を射抜いた。あまりの眩しさに目を上手く開けていることが出来ない。眉根を寄せて目を眇めた瞬間、視界の隅で
はっとして目を開けると暗い天井が飛び込んで来た。
「……夢、か……」
太宰は布団から起き上がってすっかり暗くなってしまっている室内をぼんやり見回した。正確な時刻は解らぬが自分が寝入ってからかなりの時間が経っているのは解った。布団から這い出て襖を開け、屋敷内の様子を窺う。廊下は暗く、しんと静まっている。部屋の明かりが一寸も廊下に洩れ出ていないところを見ると使用人達も家主も既に床に就いて躰を休めているらしかった。太宰は襖を閉めて今度は窓を開ける。障子戸を引き開けると冷えた夜気が頬を撫でて頭の中に残る眠りの残滓を浚う。眠ることを知らない菖蒲の青紫色は夜陰に
太宰は窓枠に上半身を凭れて昼間の出来事を思い返していた。
国木田が見舞いに来たこと、彼に過去を打ち明けたこと、抱き締められて泣いてしまったこと――どれも予期していなかった。暫く国木田の元へ通うのを休んでいたのは体調不良もあったが彼に会うのが怖かったのだ。募る思慕を、どうしようもなく高じる愛しさを悟られるのを恐れた。これ以上、好きになってはいけないと彼を遠ざけようとしたのだ。国木田が見舞いに来たと中島から知らされて心底驚いた。彼にはもう暫く会わぬ方が善いと解っていながら、結局部屋に上げてしまった。彼に会いたいと云う気持ちが抑えきれなかったのだ。数日振りに国木田を見てやはり自分は彼のことが好きなのだと思い知った。
何処からともなく吹き付ける夜風が蓬髪をさわさわと撫で乱す。
「――風は何処へゆくんだろうねえ。私はもう何処にも行けやしないのに」
結局、行き場がないのは今も昔も変わらないのだ。
――ずっと、辛かったな。
不意に国木田の声が胸に木霊する。
あの時、己の過去を明かしたのは已むに已まれずと云った切迫した気持ちからではなかった。救いを求めていた訳でもない。只、罪を重ねながら無様に生きて来た半生を語れば彼が自分を軽蔑するだろうと思ったのだ。生真面目で堅物な彼ならきっとこのような生き方は赦しはしないだろうと。要は彼に嫌われたかったのだ。そうすれば諦められると思って。彼を愛することを。彼を想うことを。全てを断ち切れる――。
だが、国木田が示した態度は太宰の予想を裏切った。あんなふうに優しく抱き締められるとは露程にも想像していなかった。彼は何も云わずに泣き止むまでずっと背を擦ってくれていた。幼子をあやすように。結局あの後、泣き疲れて布団に入って寝てしまったのだが、随分情けない姿をまた見せてしまったと後悔に似た気持ちが太宰の胸を塞いだ。しかしそれでも彼に抱き締められたことを思い出すと羞恥も後悔の念も霧散して太宰を甘く酔わせるのだった。
国木田の腕の優しさと温かさの残像を辿って思う。もしかしたら僅かでも彼に想われているのではないかと。不用意な期待はしない方が善いと自分に云い聞かせながら微かな望みを振り切れないでいた。
――仮令、彼と想いが通じ合っていてもこの恋は堕胎しなければならぬ
太宰は夜風に吹かれながら目を閉じる。
明日は彼のところへ行こうと決心するのだった。
◇◇◇
翌日。
朝餉を済ませた後、国木田は数日触っていなかった刺青の道具の手入れをしていた。使用後は毎回きちんと洗い清めているので汚れてはなかったが手持ち無沙汰なこともあり針を磨く気になったのである。
障子戸を透かして差し込む日光を受けて束ねた針は鋭利な光を弾く。この針が何度、あの美しい肌を刺したか。どれだけの赤き血を流したか。激痛を堪えて呻吟する痩躯は恰も絶命せんとする捕えられた美麗な蝶のようで。生かすも殺すも己に掛かっている――真白き素肌を責め苛む様を思い浮かべて国木田は身震いした。と、玄関の方で物音がした。ごめんくださーいと間延びした声が聞こえてきて出迎えてみれば太宰が朗らかに立っていた。
「国木田君、こんにちは」
「お前、どうして……」
思わぬ来訪に国木田は目を丸くした。昨日の今日である。てっきりまだ躰の具合が悪かろうと思っていたのだが。体調は大丈夫なのかと問うと彼は頷いて「うん。昨日、国木田君がお見舞いに来てくれたからね。すっかり良くなったよ。どうもありがとう」
「上がっても?」
「え? ああ、入れ」
見蕩れていた視線を剥がして太宰を部屋に通す。
「お前が来るとは思っていなかったから菓子は何もないが……」
「ああ、それなら私が持ってきたよ」
はいこれ、と小脇に抱えていた包みを差し出す。中身は葛餅だと云う。国木田は礼を云いながら受け取ると茶の支度をするために炊事場へと立つ。部屋に残された太宰は座布団に座りながら数日振りに目にする国木田の居室兼仕事場を眺め回した。室内は寸分の乱れもなかった。物が少ないのもあるが、あるべきものがあるべき場所に収まり、漂う空気すら端整で沈静していた。家主の性質を反映した清浄な雰囲気に太宰はほっと心身共に寛げた。
程なくして国木田が盆を手に戻って来た。黄粉と黒蜜をかけた葛餅を盛った小皿と茶とを太宰の前に並べる。美味しそうだねえと無邪気に破顔する彼を見て国木田の胸が騒いだ。この胸のときめきはお栄には感じたことのない強い情動であった。
お栄には可憐で清楚な美しさと性根の明るさ、気立ての善さとに心の安らぎを見出していた。優しげな、温かそうな手に触れてみたいと望んでいた。だが、只それだけだ。凡そ恋とは呼べぬ淡い憧れのようなもの。否、太宰に恋するまでは確かに彼女を好きだと思っていた。しかし太宰を好きになって初めて恋情と云うものを知ったのだ。彼に抱く感情はお栄に向けていたそれとは比べものにならぬ程、痛切で激しかった。
もっと見詰めていたいと想う。ずっと傍にいたいと想う。命を何処かに落としてしまったかのように冷たい手を温めてやりたいと想う。泣いていれば涙を拭ってやりたいと想う。辛そうにしていれば抱き締めて慰めてやりたいと想う。笑顔を見せて欲しいと想う。そして彼の全てを自分のものにしたいと云う抑えがたい慾望。
「国木田君……? どうしたの?」
黙り込んだままぼんやりしている国木田を不審に思ったのか、太宰は首を傾げて覗き込む。
「あ、否、葛餅が美味そうだと思ってな」
取り繕って薄く笑み返せば「ふふ、これは伊織屋のだよ。今朝買ってきたんだ」得意げに太宰は笑う。さ、召し上がれと促されて国木田は小皿と竹串を手に黄粉と黒蜜が
「もう大丈夫だってば。国木田君は心配性だなあ。ちょっと疲れが出ただけだよ。芸事のお稽古だの礼儀作法だの慣れないことばかりしていたからね。でももう大丈夫。ご覧の通りさ」
にこやかな語調は嘘を云っているふうではなかった。
「私の方こそ、ごめんね。暫く休んじゃったし、それに昨日もあんな……」
恥じているのか告げる語末が尻窄みになる。
「気にするな。只、あまり無理はするなよ」
「うん。どうもありがとう」
小皿と湯呑み茶碗が空になったところで刺青の作業に移った。太宰は衝立の向こう側に廻って着物を諸肌脱ぎ、国木田は手を清めに立って仕切られた仕事場に戻ってくる。
「太宰? どうした?」
巻き付けた包帯を解かずに敷き布の上にぼんやりと座っている彼を訝しげに見遣って、
「やはり今日は――」
「大丈夫。ちょっと考えごとをしてただけだよ」
包帯も取らなくちゃね、と小さな結び目に手を掛けて敷き布の上に落としてゆく。少しずつ露になる白い素肌を国木田は陶然とした心持で見入った。開けた窓から差し込む陽光に照らされる皮膚は相も変わらず上質な滑らかさで、触れたくなる衝動を伴って国木田に迫った。真っ白な肌の上に描かれた牡丹と蝶、皮膚の下にある骨と筋の隆起が陰影を作って艶かしい姿態を呈する。彼が腕を動かす度に彫り込んだ蝶の翅が慄えて今にも肌から飛び立って抜け出るよう。開いた牡丹の花弁も微かに揺れて牡丹園で見た血の如き赫い花が思い出された。
すっかり上半身裸になると太宰は敷き布の上に俯伏せになった。しどけない、無防備な姿に国木田は戸惑いを感じざるを得なかった。刺青を入れるために裸形を晒しているのだと解っていても邪念が隙を突いて入り込もうとする。心の奥底で昏い慾が頭を擡げようとするのだ。不埒な思いを抱く自分に嫌悪感を覚えながら、邪な感情を払い除けようと叱咤して墨を入れるための道具を手にした。始めるぞ――つぷりと銀の針を白皙に突き刺した。
太宰は針が容赦なく肌を苛むのを息を詰めて堪えた。齎される痛みは変わらず激しいものであったが、しかし愛しい人から与えられているのだと思えばそれも甘露となって太宰の餓えて渇いた胸奥を潤し充たした。滲み出る血を拭う優しい手付きや時折掠めるように触れる指先に躰が甘く痺れたようになって、どんなに彼を全身で求めているのかを思い知って、ずっと終わらなければ良いのに――切なく胸中で呟くのだった。
ふたりの間に交わされる言葉は殆どなかった。国木田は邪心を寄せ付けまいと、遅れた分も取り戻すつもりで黙々と仕事に没頭していた。太宰も痛みを、もっと云えば国木田の全てを隈なく甘受することに必死であった。そうしながら彼等はそれぞれ奇妙な思いに捉われていた。美しい肌に墨を入れて穢すことは恰も純潔を奪うようであり、鋭利な針を受け入れることは躰を犯されるようだと。肉体を交えぬままに、そうとは意識しないままに、ふたりは透明な咬合を果たしているのだった。
作業の終わり――
「うん。平気。ありがとう。――刺青、あとどれくらいで終わりそう?」
「そうだな……来月の中頃辺りには」
皐月もそろそろ終わりに差し掛かっていた。牡丹の季節も終わる。
「そっか」
「あと少しの辛抱だな。頑張れ」
励ましの言葉を掛けながらこうして彼と顔を合わすのはあと半月しかないのかと一抹の寂しさを覚えた。
――あと半月で彼を忘れられるだろうか? 否、忘れなければならぬ。
国木田は玄関の戸口まで太宰を見送りながら、
「明日の菓子は何が良い?」
「え? 何でも良いの?」
太宰は目を輝かせてから、うーん、と宙を睨む。
「そうだなあ。羊羹が良いなあ」
「観月堂のか?」
「うん。それから、金平糖」
「金平糖?」
「駄目?」
小首を傾げながら上目遣いで云う太宰の仕草に国木田は当惑し、眉間に皺を刻んで視線を彷徨わせた。そんな彼の態度を見て「あー、やっぱり金平糖はいいや」太宰はへらりと笑う。国木田が渋っていると思ったのである。
「否、解った。金平糖と羊羹だな。用意しよう」
「やった。宜しくね」
喜色を咲かせる太宰につられて国木田も淡く微笑んだ。
そうしているうちに迎えの駕籠がやって来た。太宰は駕籠に乗り込みながら手を振る。
「それじゃあ、また明日ね」
「ああ。気を付けてな」
太宰を乗せた駕籠は足早に往来を去って行く。
ふと国木田は己の手を広げて見た。指先に乾いた血が僅かにこびりついていた。錆色に変色したそれを見詰めて、あの極上の素肌を想った。どんなに触れても決して自分のものにならない。自分以外の誰かのために用意された美しい刺青――その背中、躰。彼を望みながら諦めること、自分のものにならないと云う辛さに胸が灼け焦げるようだった。
――太宰への想いが全て灼けて灰になってしまえば忘れられるだろうか。お栄を愛せるようになるだろうか。否、忘れるしかないのだ。お栄が待っているから。
国木田は久し振りにお栄の顔をはっきりと思い出した。
自分勝手にも、彼女の優しい微笑みに何もかもを忘却して縋りたく思うのだった。