無垢肌に散りて

 (肆)

 刺青の作業は輪郭を彫る筋彫りから陰影を付けるぼかしへと移った。
 太宰はあれからまた真面目に国木田のところに通って背中に針の痛みを受けていた。以前国木田が云ったようにぼかしは筋彫りよりも痛みが大きく、突き刺すような痛みと云うよりは、やすりで肌を強く擦られるような痛みで、熱を持つような、ひりついた痛みが肌を苛んだ。
 しかし奇妙なことに太宰は肌に齎される痛みの中に何か甘美なものを見出していた。血を拭う国木田の手付きにも同質のものを感受していた。それだけではない。彼が背中一面に向ける眼差しにさえ甘さが含まれているように感じられるのだ。それらは官能的な恍惚感を惹起して太宰の皮膚の上を辿った。刻み込まれる墨に、与えられる痛みに喘ぎながら、国木田の奥深い部分に触れているように錯覚した。彼の心魂全てが背に、躰に注ぎ込まれる行為は何処か肉の契りと似ていると太宰は思った。牡丹園で垣間見た彼の激情を孕んだような瞳に己の素肌が映っていることを思って躰の奥が痺れるように慄え、肌が粟立った。同時にこれまで感じたことのない法悦と深い充足感が太宰を満たした。その一方で国木田の両の眼に肌を晒すことが恐ろしいような気もしていた。太宰は己の裡に生まれた不可思議な感情が何であるのかを見極めたく思いながら着物を諸肌脱ぎ、肌を覆う包帯を解いて、無防備な素肌を見せて敷き布の上に身を横たえるのであった。恰も展翅された蝶のように。

◇◇◇

 皐月も半ばを過ぎた頃。
 今日も何時もと同じ時刻にやって来た太宰であったが、明らかに様子がおかしかった。
 顔色は蒼褪め、唇は色を喪い、土間に入るなり力なく壁に凭れかかって、そのまま壁伝いにずるずると膝から崩れ落ちた。出迎えた国木田は慌てて彼の前に屈みこんで顔を覗き込む。
「おい、一体どうしたんだッ?」
「……うん、ちょっと気分が悪くて……」
 ちょっとどころの話ではない。酷く気分が悪いのか、呼吸も浅く苦しげだ。
「このような状態では作業は出来ん。今すぐ駕籠を呼んでくるから、今日は帰れ」
 立ち上がって外へ出て行こうとする国木田を太宰の手が制止する。縋るように袂を掴む指先も白かった。
「……ごめん、少し此処で休ませて貰っても良いかな」
 座っているのも躰に堪えるのか血の気を喪った額には薄く汗が滲んでいた。これでは駕籠に乗って揺られるのも辛いだろう。
「それもそうだな」
 国木田は再び身を屈めると、ひょいと痩躯を横抱きに掬い上げた。
「わッ! ちょ、国木田君……!」
 突然抱き上げられて驚いた太宰は狼狽して足をばたつかせる。
「こら、暴れるな。落とすぞ」
「え、う、うん」
 落とされては敵わないとばかりに太宰はぎゅっと国木田の首に腕を回してしがみついた。国木田も腕に力を入れ直して慎重な歩みで短い廊下を進み、階段を上がっていく。ぎしぎしと足元が軋む音に「大丈夫? 私降りようか?」不安そうな表情。
「案ずるな。これくらいでは床は抜けん。建物が古いだけだ。と云うかお前、軽過ぎやせんか?」
 躰が細いのは見ての通りだが、背丈がそれなりにありながら腕に受ける重みはそれとは不釣合いだった。飯をきちんと食っているのかと訊けば、この頃はあまり食欲がないと云う。そう云えば振舞う菓子も、手を付けるものの、あまり美味しそうに食べているふうではなかったように国木田は記憶していた。彼の口に合わなかったのかとその時は思っていたが、本当は違ったのだ。
「それはいかんな」
 国木田は自室に足を踏み入れると一度、太宰を畳の上に降ろしてから部屋の隅に畳んで置いてあった布団を広げて、その上に痩身を転がした。横になった躰に夏物の薄い上掛けを被せてやってから、手巾で太宰の額の汗を軽く拭う。それからそっと手で触れてみる。
「ふむ。熱病ではないようだな」
 自身の体温と比べると寧ろ低いくらいであった。体調不良の原因は何であろう。ここ数日、日中は夏至を迎える頃の暑さであったから、もしかしたら暑気中りだろうか――彼の肌を隙間なく覆っている包帯を見て国木田は推測する。
「何か欲しいものはあるか?」
「……お水」
「解った。ちょっと待ってろ」
 国木田はそそくさと座を立って部屋を出て行く。太宰はぼんやりと見上げていた天井から視軸を左手に転じる。壁際に寄せられた文机と座布団、本匣、燭台があった。机上には硯箱、閉じられた帳面、その傍らに硝子細工――青い蝶が飾られていた。開けられた窓から差し込む日光に鱗翅が輝いて薄蒼い光を放っていた。それを見て太宰は自然と頬を緩ませた。あの日の出来事が目に見える形で国木田と共有していることが嬉しかったのだ。太宰は自身の胸に手を置いて拳を握る。何となくだが、お守りのように思って肌身離さず彼と揃いの蝶を懐に忍ばせているのだった。
 国木田が盆を手にして戻ってきた。太宰の傍らに膝をつくと、彼を抱き起こして水を注いだ湯呑み茶碗を口元へと運んで飲ませた。こくこくと二口、三口、水を飲んで太宰はもう良いと緩くかぶりを振る。国木田は静かに彼の半身を布団に倒して捲れた上掛けを整えた。水を口にして人心地ついたのか、太宰は深く息を吐いて「迷惑かけちゃってごめんね」へらりと笑う。無理に笑っているのが解って国木田の胸に微細な痛みが走った。
「……これくらいは何でもない。近頃あまり食欲がなかったと云ったが、ずっと調子が良くなかったのか?」
 すると太宰はおずおずと云ったふうに小さく頷いて「でも我慢出来るくらいだったから大丈夫」取り繕う。途端に国木田の眉間の皺が深くなった。
「阿呆。調子が悪いのを我慢するな」
「でも……」
「お前は作業が遅れることを気にしていたのだろうが、優先すべきはお前自身の体調だろうが」
 躰は資本だぞ――国木田は云いながら口の中に苦いものが広がっていくのを感じていた。体調不良の身でありながら長い時間、痛みに耐えるのはどれだけ躰に堪えるか。刺青の痛さを身を以って知っている国木田は太宰の辛さを思って後悔に似た情を抱かずにはいられなかった。叱られたと思っているのか、布団の中で悄然としている彼に、
「気付いてやれなくて、すまなかったな」
 国木田は優しく告げた。と、不意に太宰の片目からぽろりと雫が落ちた。
「え、あれ?」
「お、おいッ。いきなりどうしたッ? 何処か痛いのかッ?」
 突然、泣き出した彼にぎょっとして国木田は狼狽した。太宰も当惑した様子で瞳から溢れる涙を指先で拭う。
「……ううん、違うよ……違うの……、大丈夫……大丈、夫だから……」
 太宰はこれ以上、泣くのを堪えるかのように顔をくしゃりと歪めた。しかし意に反して涙が止まらないのか、しゃくり上げる。滂沱ぼうだする涙は頬を、こめかみを流れて枕を濡らす。国木田は涙の理由が解らず、かと云って問うことも出来ず、只、手をこまねいて窮するばかりだった。かけるべき言葉すら見つけられない自分を不甲斐なく思いながら、藍色に染め抜いた手巾を細い手に握らせた。太宰はそれを目蓋に押し当てて泣き顔を隠すように躰を半転させた。背を丸めて声を押し殺して泣く姿に国木田の胸が軋んだ。何か優しい慰めの言葉を云ってやりたかった。しかし口から出るのは無愛想な台詞で。
「ほら、泣き止め」
 躊躇いがちに手を伸ばして、涙に慄える肉の薄い背を国木田はそっと慰撫した。手が触れた瞬間、太宰は僅かに肩を揺らした。刺青の傷が擦れて痛かっただろうか――そう思っていると、
「……国木田君、ありがとう」
 潤んだ声が小さく応えた。国木田は僅かに目を見開いた後、ふっと目許を緩めた。
「眠れるなら、少し寝ておけ。正午の鐘が鳴ったら起こしてやる」
 きっと今の姿は見られたくないだろうと判断して腰を上げかけた時。
「……国木田君、下に行っちゃうの……?」
 僅かに振り返って告げる声音は酷く心許ない。
「何だ? どうした?」
「……あのね……少しの間で良いから、此処にいて欲しいなって……」
 羞恥心を覚えているのか太宰は上掛けを引き上げて顔を隠す。見えるのは蓬髪だけ。国木田は微苦笑して「まるで子供みたいだな」その場に座り直す。
「や、やっぱり良い」
「遠慮するな」
 此処にいてやるから――柔らかそうな髪をくしゃりと撫ぜる。
「……え……?」
 雫を目尻に溜めた鳶色の瞳を大きく開いて太宰はこうべを巡らせる。刹那、ふたりの視線が出会う。
「え? あ、す、すまん」
 国木田は慌てて手を引いて顔を俯けた。急激に熱が上ってきて燃えるように頬が熱くなり、耳まで火照った。顔から火が出る程恥ずかしいとはまさしくこのことだろう。自分は今可笑しいくらいに赤くなっている筈だ――きまりが悪くて面を上げることも、目線を上げることも出来ぬまま、国木田は口元をへの字に曲げて押し黙った。変に動悸する胸が五月蝿い。すると小さく笑う気配がして「国木田君は優しいね」耳へ届く声音は明るかった。
「べ、別に普通だ」
 動揺を悟られまいと樫貧けんどんに云い捨てる。それで誤魔化せたかどうか。太宰をちらりと盗み見れば目の縁を赤くしながらも睫毛を濡らしていた雫は乾いていた。抜け落ちていた唇の色も若干戻ってきているように見受けられた。国木田は内心、胸を撫で下ろすと座を立った。と、太宰が縋るような目で追ってくる。独り部屋に残されると思っているらしい。彼の幼気な、稚気のある態度に苦笑を禁じえなかった。とは云え、やはり体調が悪い時は心細くなるのだろう。国木田は書物を取りに行くだけだと前置きして文机の横にある本匣から一冊の読本を取り出すと再び太宰の傍らに腰を降ろした。
「それ、何の本?」
「これは曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』だ。知らんか? 今、巷で流行っている読本だ。なかなか面白いぞ。そう云えば、この物語の主人公達の躰には牡丹の形の痣があったな」
「ね、ちょっとだけで良いから読んでみてよ」
 牡丹と聞いて俄に興味を惹かれたらしい。
「だが、途中からだと話の筋が解らんだろう」
「それでも良いから」
 お願いと乞われて国木田は居住まいを正して書物を開いた。
「読むぞ。――却説その暁かたに、近隣の荘客、村の翁等聚来て、事の趣を問諦め、或は問注所へ告訴し、或は額藏等を、うち護りをる程に天は明けて、六月廿日も、はや巳の比及になりにけり――」
 室内に国木田の、低く張りのある耳障りの佳い声音が朗々と響く。時折、窓から吹き込む軽やかな清風が彼等の間を通り抜けていく。書物の頁を捲る音、国木田の声、囁く微風そよかぜ。それ以外は無音であった。部屋を満たす静寂は至極穏やかで緩やかな微睡みを誘うよう。
 ふと国木田が書物から顔を上げると、太宰は何時の間にか小さな寝息を立てて眠っていた。
「……本当に子供みたいだな」
 書物を閉じて国木田はひっそり笑った。無防備な彼の寝顔を見詰めて思いを巡らす。
 ――彼の髪に触れたのは殆ど無意識だった。否、意識の何処かでは何故か解らないが、そうすることが正しいような気がしたのだ。今も眠っている彼を前にして、傍にいてやりたいと思うのだ。太宰が望んだからではなく、国木田自身の望みとして。しかし何故そうしたいのか、何が自分をそうさせるのか、明確には解らなかった。突如生じた不明瞭な感情を奇異に思いながら、国木田は正午の鐘が鳴るまで眠る太宰の傍で本を読み耽った。

◇◇◇

 正午の鐘が鳴って国木田の宅を辞去した太宰は迎えの駕籠に乗って間借りしている森の住まいへと戻った。別れ際「躰を大事にな」と云って国木田は用意していた菓子を太宰に持たせた。包みの中の菓子は観月堂の羊羹であった。以前、太宰が観月堂の羊羹を所望したせいなのか、どうも国木田は彼の好物だと思い込んでいる節があった。太宰はすっかり世話になってしまったと、謝罪と礼とを交えて述べて「また明日」と手を振って国木田と別れた。僅かな時間であったが眠ったのが善かったのか帰る頃には躰の方は大分楽になっていた。しかし気分の方は些か複雑であった。駕籠に揺られながら国木田に情けないところを見せてしまったと独り恥じていた。
 ――あんなふうに泣くつもりはなかったのに。
 彼が見せたささやかな優しさに思わず気が緩んでしまったのだ。それだからつい、その優しさに甘えて縋ってしまった。傍にいて欲しいなどと子供じみた台詞まで口にして。
 邸宅に戻るのは気鬱だった。
 彼を取り巻く人々――太宰を拾った森にしろ、妓楼の主人である種田にしろ、使用人達すら本当の意味で太宰を人としては見ていなかった。森の手前、下女や下男達は露骨に太宰を虐げることはしなかったが、接する態度は至極冷ややかであった。太宰の男娼と云う身分が彼等には卑しく見えていたのだ。彼を蔑むことで日頃の鬱憤を晴らしている面も多分にあった。森は森で太宰には極普通な態度を見せていたが、笑わない眸は冷酷に光って逆らうことを赦さない強さを秘めていた。そんなふうであったから、太宰は森の宅では酷く肩身の狭い思いをしていた。殆ど孤立しているような状況だった。
 それでも初めのうちは使用人等の態度や仕打ちは然程気にならなかった。何処の馬の骨とも知れぬ自分を拾って家に置いてくれる森に対しても素直に感謝していた。廓に売られた時も、まあそんなものだろうと特に思うところもなかった。彼に拾われた以上、自分の処遇について容喙ようかいする権利はないのだと早々に解していた。
 種田に売られても、自分には行くところがあると云う安堵感があった。死に切れなかった自分が、もうこれ以上、生きるために方々を彷徨い歩かなくても良いという安らぎを見出していた。当もなく流離さすらう流浪の生活の方が余程厳しいものだったから。それこそ死を選ぶ程に。冬であれば寒さに慄えて、夏であれば暑さに喘いで。毎日のように食べ物に飢えて腹を空かして。一生、地べたを這いずり回って生きていくのかと考えて最早絶望しかなかった。無慈悲に廓へ売られても自分の境遇を特段不幸だと思っていないのはこう云った理由からであった。
 ――それなのに。
 何時の間にか太宰の心境は様変わりしていた。
 家の門の前で駕籠を降りて「ご苦労様」と駕籠かきに賃料を支払った。去っていく人夫を少しの間見送って、聳える切妻破風門を潜った。
「ただいま戻りました」
 玄関の引き戸を開けて入るとつい最近、丁稚として雇われた中島が出迎えた。
「おかえりなさい、太宰さん」
「ああ、敦君。ただいま」
 太宰は僅かに微笑んで抱えた包みを中島に手渡した。自分より四つ年下の中島を太宰は心安く思っていた。彼は新参者と云うことも手伝ってか、太宰に対する態度も他の者と違って丁寧で親切であった。仕事ぶりに関しては古参の下男に叱られていたり、仕事を急かされているのを偶に見かけることもあって、少し抜けたところがあるように感じていたが、それも愛嬌だと思えば可愛いもの。中島は居候の身である太宰を何処か兄のように慕っているふうで、太宰もまたそんな年下の使用人を弟の如く思って、彼の前では幾らか寛いだ気分になるのだった。
「これは、何ですか?」
 中島は包みを矯めつ眇めつ、珍しそうに眺める。
「観月堂の羊羹だよ。国木田君がくれたんだ」
「へえ、観月堂ですか。有名なお店ですよね」
「うん。後で一緒に食べよう」
「え? 良いんですか?」
 中島は朝焼け色の瞳を瞬かせて首を傾げる。
「独りで食べても味気ないからね」
「ありがとうございます」
 礼を口にする彼は嬉しそうに微笑して大事そうに包みを抱え込む。その様子を微笑ましく見ながら太宰が自室に行こうとすると中島が云い難そうに太宰さんと呼び止める。
「何だい?」
「……種田さんがお見えになってます」
「……そう」
 ――あの男か来ているのか。
 あまり会いたくない相手だ。
 太宰の気分が如実に沈んだのを目の当たりにした中島は焦ったように付け加える。
「あの、でも、まだ具合が優れないなら、そのように種田さんと森さんにお伝えして……」
「否、それには及ばないよ。ちゃんと種田さんに挨拶しなくちゃね」
 大丈夫だよと笑ってみせて「羊羹、他の人に見つからないようにね」おどけるように云い添えて中島を仕事に返した。太宰は覚悟を決めたように一度深呼吸をしてから、種田が待つ奥の座敷へと向かった。
「太宰です。戻りました」
 失礼します――静かに襖を開けると「やあ、ご苦労だったね」「やっと戻ったかい」森と種田の視線が同時に突き刺さる。座敷に入ることを躊躇っていると「太宰君、何を愚図愚図としているのだね。早く入り給え」家主は穏やかな口調で手招きする。だがその瞳は冷酷だった。彼は常時、鷹揚な態度を崩さない男であったが目だけは決して笑うことはなかった。すみませんと謝りながら太宰は敷居を跨いで教え込まれた作法通りに襖を閉め、森の横に膝をついた。
「そないにおっかない顔せんでもええやろ」
 別嬪が台無しや――種田は呵々と笑って太宰の顔を覗き込む。その言葉遣いから豪放磊落な気性を思わせる妓楼の主人である彼もまた、眼鏡に奥にある眼は冷徹であった。森同様、種田も腹に一物あるような男で底が知れない。彼等を前に背筋にうそ寒いものを感じずにはいられなかった。
「太宰君、種田殿に背中をお見せしなさい」
「え?」
 予期せぬ森の言葉に太宰の表情が凍り付く。そう頻繁には此処へはやって来ない種田の訪問の理由を知って慄然とした。一方、森はそんな太宰の様子を全く省みないふうでにこやかに告げる。
「種田殿が君の刺青がどのような具合なのか見てみたいと仰ってね」
「……まだ仕上がっては……」
 太宰が怯むと種田は「それは解っとる。只どれだけ進んでいるか知りたいだけや。それに彫り師の腕前もこの目で見たい」好奇の目を向ける。その後に続く森の台詞は非情だった。
「そう云う訳でね、太宰君。――脱ぎ給え」
「……はい」
 有無を云わせない森の双眸に見据えられて従うより他なかった。
 太宰は彼等に背を向けて着物を諸肌脱ぐ。しかしその手付きは鈍く、戸惑いが拭えない。すると「何時も私に見せているのだから今更恥ずかしがることもないでしょうに」背後で森が冷ややかに嗤う気配がして太宰は恥辱にきつく唇を噛んだ。手が止まっていることを種田に指摘されて、のろのろと肌を隙間なく覆っていた包帯を解く。彼の手は終始、慄えていた。畳の上に夥しく包帯が蟠って白皙の素肌が外気に触れた。
「どうです? 種田殿?」
「ほう。これはこれは……見事やな」
 種田は甚く感心した様子で顎鬚を撫でながら太宰の細くしなやかな背に見入った。刺青はまだぼかしの作業が半分以上残っていたが、肌理細やかな白磁の肌には美しい牡丹が咲いていた。幾重にも重なり合う花弁の、重たげな繊細さを持つ大輪の花、葉は花に寄り添うように広がって、宙には一匹の蝶が舞う。
 春、爛漫――其処には絢爛な常春があった。
 色が入ればより一層、豊麗なになるだろう。刺青が仕上がった暁には太宰自身の美しさも極まってその姿態は凄艶に花開くだろう。見る者を惑わせる妖艶な不滅花は蕾を大きく膨らませて、花弁を綻ばせるのを今か今かと待っていた。一番最初にこの艶治えんやな花を摘み取るのは誰か――まだ誰も知らない。
 種田と森は刺青について何事かを語らっていたが、太宰には彼等の言葉は全く耳に入らなかった。裸形の上半身を晒しながら只管に屈辱に耐えていた。ふたりの視線が皮膚の上を這い回るのが酷く不快だった。只、刺青を見られているだけであるのに怖気が起った。吐き気を催す程の厭わしさに打ち慄えていた。
 森も種田も決して太宰を好色な眼差しで見てはいない。芸術品や花を観賞するそれと何ら変わりはなかった。先程、森が云ったように刺青の進み具合の確認をしたいと云う彼の意に服して、宅へ戻ってから背中を見せるのが太宰の日課であった。特に疑問を持たず、抵抗を感じることもなく、云われるままに己の背中を森の目に晒していた。
 それがどうであろう。恰も陵辱されているような、この激しい嫌悪感は。
「――おや。太宰君。今日は殆ど進んでいないようだが」
 森に目敏く指摘されて一瞬、太宰は云い淀んだ。
「……今日はあまり体調が優れなくて……それでは作業は出来ないからと彼が……」
「ふむ。体調不良ねえ。それならどうして今朝云わなかったんだい? 大事な躰だ。無理はいけないよ」
 穏和に云いながら労わるようにして太宰の肩に諸肌脱いだ着物をかける。と、小さな音を立てて何かが畳の上に転がり落ちた。
「ん? 何や、これ?」
 種田が拾い上げようとするのを「駄目ッ」鋭く叫んで太宰は奪い取るように攫った。彼の剣幕に気圧されたのか種田は呆気に捉われた様子で瞠目する。
「……すみません」
 太宰は我に返って語気を弱めて軽く頭を下げた。乱れた着物の前を掻き合わせて、
「森さん、種田さん、やはりまだ気分が優れないので今日のところはこれでご容赦ください」
「そう。解った。ゆっくり休み給え」
「お疲れさん」
 再びお辞儀をし、畳の上に脱ぎ捨てられた包帯を手早く掻き集めて退室したのだった。

 太宰は自室に足を踏み入れるなり、後ろ手で閉めた襖の前で膝から崩れ落ちた。抱えた包帯がはらりと翻って畳に蜷局を巻く。硬く握った右手の拳を開いて収まっていた青い蝶を瞳に映した。先程、種田が拾い上げようとしたのは肌身離さず懐に忍ばせている小さな硝子細工であった。
 この蝶には誰も触れて欲しくなかった。誰かが不用意に触ることで硝子の蝶に宿った国木田との思い出が色褪せて喪われてしまうような気がしたのだ。彼と共有した全てを自分だけのものにしておきたかった。
 そうしてから唐突に悟った。男娼になることがどう云うことなのかを。多数の人間に躰を明け渡し、脚を開き、無慈悲に慾を注ぎ込まれる、その意味を。
「……ああ……ッ」
 自分自身の肩を抱いて太宰は項垂れた。忽ち両の眼から涙が溢れ、頬を濡らした。
「……国木田、君……」
 名を口にしながら彼のことを想った。頭をくしゃりと撫ぜる優しい手を、背を慰撫する温かな手を想った。彫り師としての真剣な眼差しを、激情を孕んだような鋭い光を宿す双眸を想った。時折見せる薄い微笑を、何かを恥らう表情を、形の佳い唇を引き結んだ真面目な表情を想った。抱き上げられた時に感じた体温と匂いを想った。耳朶に心地好い声音を想った。あらゆる彼の残像を追って自分は国木田が好きなのだと今更のように自覚した。そう、太宰は何時の間にか彼に恋心を抱いていたのだった。
 彼以外に素肌を見られたくはなかった。肌に触れられることも厭わしかった。しかし、それは赦されない思いであった。何故なら春をひさぐ者であるから。その事実が太宰を打ちのめした。そうしてもう一つの事実が彼を絶望の淵へと追い詰めた。刺青が完成すればもう国木田と会えなくなること――彼とは結局、それだけの関係なのだ。見るからに堅物そうな国木田が廓遊びを好むようには思えなかったし、彼に金で買われることも厭だった。男娼として客を取っている浅ましい姿も見られたくはなかった。
 ――此処から逃げ出せば。
 しかし、何処へ?
 自分には行き場所など何処にもないのだ。しんば逃げ出しても、必ず追っ手が来るだろう。森も種田も抜け目のない男だ。逃亡して捕えられて、その後は。きっと死ぬより辛い目に遭うことは想像に難くない。殺さずに生かして利用するだけ散々利用して血が一滴も出なくなるまで搾り取ろうとするだろう。自分がいる世界はそう云うところなのだ――認識を新たにして太宰は深く失望した。国木田とは住む世界が違うのだと、今この瞬間に思い知った。
 でも、それでも。
 国木田への想いは止められそうにもなかった。彼が好きだった。どうしようもなく。この場にいない彼の名を呼んでその手に、優しさに縋りたく思った。
 声を殺して太宰は泣いた。
 涕涙ているいは尽きることなく、頬を伝って細い顎先に雫を作って膝の上に散った。
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