無垢肌に散りて

 (参)

 皐月に入って七日ばかり経った或る日。
「ねえねえ、国木田君。今日はさ、作業を止してちょっと出掛けようじゃないか」
 国木田の家に来るなり、太宰は開口一番にそう告げた。だが、国木田はにべもない。
「突然、何を云い出すかと思えば。却下だ。俺は仕事をせねばならん」
「一日くらい善いじゃないか。そんなに進み具合は変わらないでしょう?」
「そんな訳あるか。只でさえ彫るのは時間が掛かるんだ。一刻も無駄に出来ん」
「……国木田君、最近何だか変わった?」
 じっと鳶色の瞳を向けられて国木田は一瞬たじろいだ。
 太宰の指摘は正しかった。福沢の宅でお栄との縁談の話があってから国木田の仕事ぶりは以前にも増して熱が入った。森の依頼を完璧にこなして彫り師としての腕も福沢に認めて貰いたい、そうでなければお栄を嫁に迎えるには申し訳が立たないと考えているのだった。仕事を見事にやり遂げた暁には正式にお栄に婚約を申し込む――このことが国木田を奮い立たせ、心を、作業の手を急かした。今や国木田の胸を占めているのは仕事とお栄のことばかりで、少し前までは作業に入る前に太宰と菓子を食いながら他愛のない話をするのもひとつの楽しみであったのに、その時間すら惜しく、とにかく早く仕事に取り掛かりたい一心であった。
 太宰はそのような事情は一切知るところではなかったが、国木田が何処か上の空であるのをここ数日で気付いていた。心あらずの彼を見ていて太宰は胸奥が毛羽立つような、何かすっきりしない気持ちを抱えていた。そんな自身の心にもやもやと沈殿する濁った澱を払拭したく思って国木田を外出に誘ったのだった。また彼も少し外の空気に当たった方が良いだろうと太宰は感じていた。国木田は仕事に熱中するあまり――何かを思い詰めているあまり、ふとした瞬間に酷く疲れて見えたから。
 太宰は明るい口調で云う。
「ほら、今時分は丁度、牡丹が見頃でしょう? 私の背に彫って貰っているのも牡丹の花だし、本物を見るのも良いと思うんだよね。お天気も良いし、外を歩くのも気持ちが好いよ」
 牡丹の花に心動かされたのか、渋面を作っていた国木田は眉間の皺を寛げて「確かに本物を見るのも悪くはないな」呟いて誘いに応じた。
「やった。じゃあ、早速行こうじゃないか」
 嬉々として太宰は潜ったばかりの玄関の引き戸を開けて往来へ出た。国木田はその後を追いながら釘を刺す。
「こう云うのは今回限りだぞ。仕事が何時まで経っても終わらないようでは、森殿にも迷惑がかかる」
「解ってるって」
 軽い返事に本当に解っているのかと国木田は苦く思ったが、それ以上追及はしなかった。
 太宰が云った通り外は心地の好い初夏の陽気だった。照る陽射しは柔らかな春のそれとは様変わりして町並みを白く漂白し、連なる長屋の屋根の輪郭を眩い日光が侵食して欠損させていた。乾いた路面も埃っぽく、時折吹く緑風に撫でられて砂塵を浚う。天穹には雲一片もなく、澄明な紺青が広がっていた。梅雨を迎える前にしか見られぬ清涼感のある空の表情を国木田は感慨を以って束の間、眺めた。
「――それで。牡丹の花は何処で見られるのだ?」
「此処から二町先にある牡丹園だよ。浄泉寺って云うお寺の隣にあるんだ」
 こっちだよと太宰は指差して歩き出す。国木田も肩を並べる。
「ふむ。寺があるのは知っていたが、牡丹園が隣にあるのは知らなかったな」
「牡丹園は浄泉寺の和尚さんの趣味が高じて出来たものらしいよ。私が聞いたところによると、初めはお寺の境内で育ててたみたいだけど、それじゃ物足りなくなったんだろうね。私財を費やして隣接する土地を買い取って、お勤めの合間を縫ってはひとりでこつこつと牡丹を育てたとか」
 牡丹園に近付くにつれ、往来をゆく人が多くなる。屋台を引く者、担ぎ棒を肩に重たげな桶を運ぶ者、使い走りの丁稚などと擦れ違う。この一帯には茶屋や居酒屋、蕎麦屋などの商家が並び、賑やかだ。
「ね、国木田君。後で彼処の茶屋に入ろうよ。善哉が美味しいんだって」
 太宰は歩きながら紫色の生地に『山吹』と白抜きされた暖簾が下がる茶屋を指差す。
「それは構わんが。お前、甘いものが好きなのか?」
 伊織屋の桜餅や観月堂の羊羹などを心底美味そうに食べる姿を思い出す。
「美味しいものは何だって好きだよ。国木田君のところに通うようになってから、何だかこの時間に甘いものを食べないとお腹が空くようになっちゃってね」
「すっかり食べ癖がついたな」
 国木田が薄く笑えば「すっかり餌付けされちゃったよ」可笑しそうに太宰も笑った。
 寺の鐘が鳴ったのと同じくしてふたりは牡丹園に着いた。
 牡丹園の入り口は簡素な作りの木戸で、戸は開かれていたが、一見しただけでは中がどのような場所なのか窺い知れなかった。また何処にも牡丹園であることの表示もないために、事情を知らぬ者は只の空き地としか思わぬだろう。実際に国木田も目の当たりにしてこの木戸の向こう側に花園があるとは到底思えなかった。此処を知る人間は住職から直接話を聞いたか、或いは牡丹園を訪れた人の口から聞かされたかのどちらかであろう。太宰にどうしてこの場を知ったのかと訊ねると森と種田が以前話題にしていたのを小耳に挟んだのだと云う。興味を惹かれて一度行ってみたいと思っていたのだと国木田に説明した。
 太宰が先に木戸を潜る。その後に国木田が続いて行くと、観覧料を徴収する木箱が質素な台の上に設けられており、その傍らに立て札があった。立て札には黒々とした墨で、必ずしも金を払う必要はない、払うにしてもお気持ち程度で結構である――そんなようなことが書かれていた。金銭は不要だと云われても素通り出来る程、国木田は図々しくはない。住職も別に金儲けがしたい訳ではないのだろう――多分。
 国木田は懐から財布を取り出すと小銭を一枚、木箱の中へ落とした。彼に倣うようにして太宰も財布から小銭を一枚出して観覧料を払った。他に誰も木箱に金を入れていないのか、箱の底で乾いた音がした。
 彼等は狭い経路を辿って敷地の奥へと進む。すると唐突に視野が拓け、広い場所へと出た。
「……これは、凄いな」
「凄い……」
 ふたりは殆ど同時に呟いて驚嘆した。歩みを止め、花園を一望する。
 無人の敷地内には大輪の花が咲き乱れていた。八重に重なり合う花弁を綻ばせた赤い牡丹もあれば、更に厚い層を重ねる十重咲きの淡い紫の花もあった。白い花も、まだ蕾のものもある。中でも一際目を惹くのが喩えようがない程に赫く色付き、繊細な花弁を密に重ね合わせた万重咲きの、大輪の牡丹であった。色といい、形といい、壮絶な美しさは国木田の心の臓を貫いた。花神の名に相応しいその真っ赤な牡丹を見て太宰の背に彫った花を思わずにはいられなかった。彼の白磁の素肌にこの赫色を塗り込めたいと切望した。凄艶な背中を想像して何時かのように血が滾るのを抑えられなかった。
 ――赫い牡丹をそのまま彼の肌に移せたらどんなに美しいことか。
 指先に太宰の皮膚の質感を錯覚した。白皙の肌から滲み流れる血汐を思った。
 彼の背には赫い血の花が咲いている――国木田は心奪われたように万重の牡丹を凝視していた。
「国木田君……?」
 険しい表情を浮かべて無言で立ち尽くす彼におずおずと云った風情で太宰は声をかける。と、国木田は我に返ったように詰めていた息を吐いて「あまりにも見事だから、ついな」取り繕って微かに笑んだ。緩んだ表情に太宰も胸を撫で下ろして彼の袖を引っ張る。
「もう少し近くに寄って見てみようよ」
「ああ、そうだな」
 促されて国木田は懐手で歩を進める。
 牡丹園は面積で見れば『園』と云う程、広くはなかった。ちょっとした庭程度の規模である。しかし其処は住職の手腕が発揮されているようで牡丹園は実際よりも広く感じられた。牡丹の見せ方も巧みで、色彩の均衡、配置の均整、何処から眺めても美しく見えるように植えられていた。これだけの花園をたったひとりで造り上げるのは相当な労力を費やしただろう。住職の牡丹に傾ける激しい情熱が目に見えるようだ。
「住職は仏門に入るよりも庭職人になった方が余程向いていただろうな」
「ふふ、案外そうかもね。――あ。蝶」
 太宰の目線を追うと、何処からか迷い込んで来た一匹の揚羽蝶がふわりふわりと飛んでいた。花の蜜を求めてやって来たのだろう。揚羽蝶は白い陽光の中を跳ねながら、すっと太宰の蓬髪に長細い脚を休ませた。すると彼は素っ頓狂な声を上げる。
「わあ! 国木田君、取って!」
「何だ、虫が怖いのか?」
 国木田が太宰の髪に軽く触れれば揚羽蝶は宙へと羽ばたいて行く。行き先を惑うようにして跳ねながら、やがて白い牡丹に留まって複雑な文様の翅を広げて沈静した。
「ほら、追い払ったぞ」
「ありがとう。――蝶は見る分には綺麗だけど、触ったりするのは苦手かな」
「俺は子供の頃は良く捕まえて遊んでたがな」
「国木田君は何だか餓鬼大将って云う感じがするよ」
 愉快そうに太宰が云えば国木田は口をへの字に曲げる。
「失敬な。俺は弱い者苛めなどしたことは一度もないぞ」
「そう云う悪い方の餓鬼大将じゃなくてさ、善い方の餓鬼大将だよ。弱きを助け強きを挫く、侠客みたいな奴」
「別にそんなふうではなかったがな。お前が子供だった頃は――苛められっ子か?」
 彼の躰の線の細さや儚げな顔立ちから、病弱で非力そうな印象があった。躰に巻いている包帯がより脆弱な印象を強めていた。幼少期はどのように過ごしていたのか知れぬが、どう考えても太宰が纏う雰囲気と腕白坊主のそれとは結びつかなかった。
「えー、そんなんじゃないよう。私だってそれなりに腕力あるよ? 見給え、この益荒男ますらおぶりを!」
 太宰は得意げに肘を曲げて二の腕の力瘤を誇示する。が、隆起する筋肉は甚だ乏しい。国木田は徐に手首を掴んで細腕をしげしげと眺め遣る。
「お前は益荒男より手弱女たおやめの方がしっくりくるな」
「え? そ、そう?」
 思わぬ言葉に目を瞬かせる。包帯越しに感じる国木田の体温が変に熱く感じられて太宰はそっと彼の手から逃れた。
「ん? どうした? 何だか顔が赤い気がするが。陽に当たり過ぎたか?」
 国木田が訝しげに太宰の顔を覗き込めば「あ、うん。ちょっと暑くてね」何処か上ずった声色。
「包帯を巻いているから暑いんじゃないのか?」
「ああ、でも大丈夫。慣れてるから」
 へらりと笑んで見せると「暑さで倒れるなよ。背負って帰るのは御免蒙る」至極素っ気無い。
「――それにしても。此処の牡丹は本当に見事だな」
 国木田は視軸を転じて一際赫い花を見詰め、吸い寄せられるようにして、夥しく重なり合った花弁にそっと指先で触れた。滑らかな質感はしっとりと水分を含んでいて皮膚に吸い付くようであった。その手触りに再び太宰の背を、穢れのない無垢肌を連想した。
 酷く真剣な表情で強い眼差しを牡丹に向けている国木田を太宰は横から盗み見るようにして眺めた。
 ――自分の背に刺青を彫っている時もあのような顔をしているのだろうか。一心不乱に、激しい視線で、背を、肌を見詰めているのだろうか。
 太宰は引き締まった彼の端正な横顔に視線を注ぎながら、自分の背中に触れる指先のことを思った。
 皮膚を突き刺す針の痛み。
 滲み出る血を拭う、その手。
 消えることない刺青――素肌に咲く枯れぬ花。
 全てが国木田の手によってなされているのだと今更のように意識して胸奥が妖しく痺れるのを感じた。まだ見ることが叶わぬ不滅花の美しさを国木田に重ね合わせて、美酒に溺れるような心地を密かに味わっていた。

 牡丹園を後にしたふたりは『山吹』の暖簾を潜った。
 太宰の勧めに従って国木田は名物である善哉を選び、太宰はみつまめを注文した。
「善哉が食いたかったんじゃないのか?」
「国木田君にちょっと分けて貰おうかなって思って。代わりに私のみつまめも分けてあげるからさ」
 良いでしょう?――にっこり微笑まれて国木田は後退るように身を引いた。どうもこの笑顔は苦手だ――有無を云わせない強さがあるばかりか、何か居座りが悪い心地がするのだ。そんな彼の胸中には全く頓着しないふうで「一度に色々食べられた方が得した気分になれるよねえ」至極暢気である。国木田は上機嫌な太宰を目の端に捉えてひっそりと溜め息を吐いた。
 程なくして膳が運ばれてきた。太宰は「美味しそうだね」瞳を輝かせてみつまめと国木田の膳とを見比べる。温かな湯気を立てる善哉を前に「ほう。これは美味そうだな」国木田は感心する。碗の中に沈んでいる餅の表面はこんがりと焼けて香ばしい匂いを立てて食を唆った。ふたりは手を合わせてからそれぞれ匙や箸を手に取る。
「はい、国木田君」
 匙でみつまめを掬って太宰は向かいに座る国木田の口元へ差し出す。
「え?」
 虚を衝かれて目を見開くと「口開けてよ」太宰は更に匙を押し付けてくる。匙から蜜が滴りそうになるのを見てほら早くと急かす。国木田は迫る匙と太宰とを交互に視線を走らせて突如、激しい羞恥に襲われた。瞬時にして耳が火照って背中を変な汗が伝う。
 ――彼はこの状況を何とも思わないのだろうか。
 こんなふうに食べさせ合うのはおかしいだろう、子供じゃあるまいし――何となく周囲の視線を感じるのは恐らく、気のせいではない。一方、彼は他の客から向けられる好奇の目には気が付いていないらしい。否、気にしていないだけなのか。
「え、否、俺は、いい」
 半ば動揺しながらやんわり彼の手を退ければ太宰は「要らないの?」怪訝そうに首を傾げる。
「あ、ああ。自分の分があるからな」
「そう。じゃあ善哉、ちょっとだけ頂戴」
 太宰は匙を置くと卓に身を乗り出す。口を開けて催促し兼ねない気配に断ることも出来ず、慌てて膳を彼の方に押しやって箸を握らせた。いただきまーすと彼は躊躇う素振りも見せず、碗を手にして善哉に口を付ける。小豆を啜り、餅を一口齧ってもぐもぐと咀嚼しながら「名物だけあって美味しいね」満足そうに口元を綻ばせた。顔に喜色を咲かせる彼を見て国木田は心底が仄かに温まるのを感じた。嬉しそうな彼の様子に刺青の作業に入る前の寛いだ一時を思い出して、ほっと心が穏やかに解けていくようだった。まるで硬く凍った雪が春の到来と共に清水となって溶け出すかのように。仕事に熱中するあまり、お栄のことを思い詰めるあまり、知らず知らずのうちに力んで無理を重ねていたのだと今になって漸く気が付いた。
 ――国木田君、最近何だか変わった?
 太宰は自分の変化の何事かを察知していた。牡丹を見にゆこうと誘ったのは彼なりの気遣いや優しさなのかもしれない――国木田はそう思って人知れず淡く笑んだ。

 勘定を払って『山吹』を出た後、自然と足は国木田の住まいがある方角へと向かう。路面に落ちる影は色濃く、大分陽が高くなっていることを知らせていた。そろそろ正午になるだろう。
 太宰は相変わらず森の宅へ戻ったら芸事の稽古をさせられているのだと愚痴めいた口調で告げて憂鬱そうに眉を曇らせた。
「サボっちゃおうかなあ」
「後で困るのはお前だぞ」
「国木田君は真面目だなあ」
「お前が不真面目なだけだ」
「そうかなあ。でも国木田君が私のお師匠さんじゃなくて良かった。物凄い厳しそうだもの。――あ。国木田君、あれ」
 不意に立ち止まって太宰が指差す方向に国木田も目を向ける。路の隅に屋台が出ていた。良く見ると台の上に並べられているのは小さな硝子細工であった。目に涼しい硝子の置物や風鈴を売る商人達が町中を闊歩するのは夏の風物詩である。暑い夏を少しでも凌ぎやすくするために人々は目や耳の涼を求めるのだ。もうこのような時季なのかと国木田は驚きの目を以って屋台を眺め遣った。
 太宰は国木田に構わずに屋台に歩み寄って整然と並んだ硝子細工をつぶさに見た。国木田も彼の後を追って背後からひょいと覗き込む。台の上に広げられた硝子細工達は小鳥や犬、猫、金魚、蛙、花などを可愛らしく模造したもので如何にも女子供が好みそうな代物であった。
 商人は寄って来た彼等に「らっしゃい」と声をかけるも、冷やかしだと思い込んでいるのか、屋台の傍らに置いた木箱に腰を下ろして煙草を呑んでいた。まるで商売をする気がない様子に国木田は閉口しつつも、品物の一つを手に取って矯めつ眇めつ陽射しに翳す。陽光を弾いて煌くそれは蝶を象ったもので青く着色され、広げた翅には単純な文様が刻まれていた。すっぽりと掌に収まってしまう小さな蝶はひんやりと冷たく、しかし確かな重さがあった。
 ふと国木田はこの硝子細工をお栄に贈ろうと思い立った。
「主人、これを一つくれ」
 商人の男は少し驚いたふうに国木田を見てから煙草を脇に置いて「毎度あり」手揉みして金額を口にする。提示された勘定を払って国木田は小さな蝶を無くさないようにと財布の中に入れた。
「国木田君が買うなら私も買おうかな」
 国木田の隣で熱心に硝子細工を見ていた太宰がそんなことを呟いて指先で摘んだのは青い蝶。
「蝶は苦手じゃなかったのか」
「本物はね。でも、この置物はとても綺麗だから」
 太宰は何処か陶然とした色を含んだ瞳で掌に載せた冷たい蝶を見詰める。「私も一つ」と男に告げて懐から出した財布を開くと「ありゃ」ぱちくりと目を瞬かせた。
「どうした?」
「あー、お金がちょっと足りないみたい」
 困ったように笑って、手にした硝子細工をまた今度にしますとばつが悪そうに台の上に戻した。と、その横から国木田の手が伸びてきて男に金を手渡す。長い指が青い蝶を摘み上げて「ほら、やる」太宰の掌に落とした。
「え? どうして?」
 予期していなかった彼の行動に太宰は目を丸くする。と、国木田は顔を背けて、
「別に深い意味はない。只……、今日はお前のお陰で良い気分転換になったからな。まあ、その礼だ」
 努めて冷淡に云うと驚いて立ち止まっている太宰を置いてすたすたと歩いて行く。
「……国木田君……」
 太宰は手中にある青い蝶を少しの間眺めて、ぎゅっと握り込んだ。
 ――冷たい筈のそれが仄かに温かく感じられるのはどうしてだろう。
 彼の体温が残っているのかな――そうだったら良いと何かに願って「国木田君、待ってよ」先をゆく背中を追いかける。日光を受けて輝く国木田の長い後ろ髪の色が太宰の目には酷く眩しかった。

 夜の帳が下りて初更の鐘が鳴る頃。
 国木田は二階の自室で愛用の手帳を広げていた。灯した蝋燭の灯りを頼りに、今日の出来事を帳面に綴っていく。予め書き込んでいた今日一日の予定とは随分異なった一日であったと筆を動かしながら、太宰と共に見た牡丹の見事さ、絢爛さ、魂を奪われた万重咲きの赫さを思い返した。『山吹』で食した善哉の美味なこと、美味しそうにみつまめを頬張っていた稚気のある太宰の笑顔。そして硝子の青い蝶。
 文机の上に置かれた硝子の蝶は灯火を受けて艶やかな光を放つ。国木田は筆を置いて指先で命の通わない鱗翅を弄んだ。
 ――国木田君とお揃いだね。
 太宰は言葉を弾ませ、心底嬉しそうに笑っていた。大切にすると礼を述べて本当に大事そうに懐に仕舞い込んでいた。
 そんな彼の姿を脳裏に描いて、何だかこの小さな飾り物を手放すのが惜しくなってしまった。手元に置いてずっと眺めていたいような気がした。初めはお栄にやろうと思っていたのに。今となっては彼女に贈るには思い入れが強過ぎた。自分には不似合いだと知りつつ、国木田はそっと机上の片隅に蝶を飾って手帳を閉じた。
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