無垢肌に散りて
(弐)
昨日同様、同じ時刻に太宰はやって来た。しかし今日は付き添いの人間はなく彼ひとりであった。また正午 には迎えが来ると云う。どうやら正午には戻らねばならない理由があるらしい。ともすれば作業に充てられる時間は自ずと限られてくる。尤も、あまり長く作業を続けるのは相手も彫り師も体力の消耗が著しいので難しいところではあるのだが。
国木田は太宰を部屋に通しながらまだ背中は痛むかと訊ねた。
「もう痛くはないよ。うっかり触っちゃったらちょっと痛いけどね。でもまた痛いのかあ。厭だなあ」
わざとらしい調子の語尾は国木田への当て付けのようで。国木田は片眉をぴくりと吊り上げて冷淡に云う。
「今からそんなに痛がっていては先が思いやられるな。ぼかしや塗りはもっと痛いぞ」
「うぇッ。そんなの厭だ。私、帰ろうかな」
酢を飲んだような顔をして下ろしかけた腰を上げる太宰の腕を国木田は掴んで勝手に帰られては困ると押し止める。
「伊織屋の桜餅を買ってきた。――食うか?」
伊織屋と聞いた途端にぱっと喜色を浮かべた太宰は「食べる食べる」とはしゃいで座布団に座った。茶を淹れてくると国木田は一旦、部屋を出て行く。太宰は家主が戻って来るまで衝立の向こう側を覗いて、開けられた窓の外を見た。今日も空は蒼く晴れ渡り、綿雲が長閑に浮かんでいた。何処かに鶯がいるのか澄んだ囀 りが聞こえ、暫し太宰の耳を楽しませた。
衝立の陰にある国木田の仕事道具は真新しいまでに磨かれ、墨を入れるための銀の針は窓から差し込む陽光に鋭利に光った。血を拭う布も清潔に洗われたものが用意されていた。また此処で痛みを耐えなければいけないのかと思うと気分が重くなった。しかし今更どうすることも出来ない。自分には拒否権はないのだ。それに今此処で自分が逃げ出せば国木田に迷惑がかかるだろう。それは太宰の本意ではない。彼は彼に与えられた仕事を忠実にこなしているだけなのだから。
何しているんだ? と頭上から声が降ってきて視軸を移せば国木田が湯呑み茶碗と桜餅が載った盆を手にして立っていた。
「今日も良い天気だなって思ってさ」
「そうだな」
相槌を打ちながら国木田は太宰の前に茶と菓子とを並べて向かいに腰を落ち着ける。太宰は礼を述べ、いただきますと手を合わせて供された桜餅を口にした。「うん、美味しい」と満足そうに菓子を頬張る。
「何だか悪いね、またご馳走になっちゃって」
「気にするな。彫り物を入れるのは体力が消耗するから、事前に何か腹に入れておいた方が良い」
じっと動かずに激痛に耐えるのは拷問を受けているようなもので、強い忍耐力を要求される。痛みを堪える気力、体力がなければ刺青は完成することなく半端彫りで終わってしまう。彫りの痛みに音を上げて途中で来なくなった客も珍しくない。刺青の過程で最も痛みを伴うのはぼかしと呼ばれる、図 に陰影、立体感をつける工程である。その次が色を入れていく塗り、一番痛みが少ないのが図の輪郭を彫る筋彫りだ。刺青はその図の絢爛さ、壮麗さ、豪華さばかりが粋なのではない。痛みに耐え抜くことそのものが一つの美意識――粋であり、往 なせなのだ。
「食い終わったなら、作業を始めるぞ」
「はーい」
太宰は口を付けていた湯呑み茶碗を置いて、昨日と同じく衝立の向こう側へ廻ると着物を諸肌脱いで包帯を解き、日光に温められた敷き布の上に俯せになった。国木田も手を清めに座を立ち、作業場へと足を踏み入れる。この瞬間、否応なしに気分が高揚して彫り師としての矜持が強く意識された。
春光に照らし出される太宰の素肌は白妙に眩しく、細い背筋が艶 に輝いて、ふと新雪に足跡を残すような気持ちに誘われて国木田は薄く浮き出た左の肩甲骨の辺りをそっと撫でた。と、掌の下で僅かに肩が跳ねる。太宰は頭を起こさず、目線だけで国木田を仰ぎ見た。
「何……?」
「否、今更だが、何だかお前の肌に墨を入れるのが惜しい気がしてな」
昨日は白雪の如く美しい肌に魅せられてこの背一面に己の手で華麗な図を彫り込むことに深い法悦を感じたが、今では真逆の思いを抱いていた。白磁の背に漆黒の線が走っているのを眺めて、清雅な白百合の花弁を惨たらしく毟り取ってしまったような罪の意識が不意に上ってきたのだ。これまで国木田も彫り師として幾人かの客に墨を入れてきたが、こんなふうに罪悪感を覚えたことはなかった。
――あまりにも彼の肌が美しいからか。
国木田は自分自身の心の動きを奇妙に思いながらも、刺青の道具を手にして「始めるぞ」前置きしてから鋭利な針を肌理細やかな、滑らかな手触りの皮膚へと突き刺した。
筋彫りを施されている太宰は痛みを少しでも遣り過ごそうと敷き布の端をきゅっと握り締め、唇を噛んで耐えていた。肌を貫く痛みに太宰は時折、呻吟して苦悶に眉根を寄せては躰を強張らせた。躰が痛覚に緊張すれば、より痛みを感じやすくなる。国木田は躰の力を抜けと云うのだが、なかなか思うようにいかないのか、白く秀でた彼の額には脂汗が光るばかりで苦痛の激しさを窺がわせた。前日のように痛い痛いと騒がない分、妙にいじらしく、却って痛みを強いている国木田の方が変な居心地の悪さを覚えずにはいられなかった。しかし引き受けた仕事を完遂せねばならぬと気を引き締めて、国木田は手を休めずに黙々と太宰の背中に牡丹の輪郭を彫り込んでいった。
一刻ばかり過ぎた頃、少し休憩しようと国木田は握った道具を手放した。
「大丈夫か?」
国木田は辛そうに浅い呼吸を繰り返している太宰の横顔を覗き込んで、額に浮いた汗を懐に入れていた手巾で拭ってやる。
「……うん、何とか。でも、やっぱり痛いね」
へらりと太宰は笑ってほう、と躰の緊張を解いて深く息を吐いた。くったりと脱力して敷き布に身を委ねて少しの間、目蓋を閉じた。窓から吹き込む柔らかな風が素肌を撫ぜる。心地の好い軽やかなそれは僅かに血が残る部分に沁みて、ひりつくような痛みを齎した。太宰は長い睫毛を慄わせて目を開くと、傍らで指先についた血を拭っている国木田を見遣る。
「どれくらい進んだ?」
「まだ全体の一割にも満たないな」
「えー、そうなの? 刺青は先が長いなあ」
太宰はうんざりした口調で告げて枕にこてんと額を載せる。
「仕方あるまい。俺とて師匠に毎日のように彫って頂いて完成まで三月ばかりかかった」
「え? 国木田君も背中に図が入ってるの?」
「俺が初めて人の躰に彫る時、祝いの意味を込めて師匠が彫ってくださった」
「へえ、そうなんだ。背中、見せてよ」
俄然興味を惹かれた様子で太宰はちょいちょいと国木田の袂を引っ張る。しかし国木田はまた今度だと取り合わず、それよりも、と話の矛先を彼に向ける。
「俺は師匠からお前について何も聞かされていないのだが、森と云う男は裕福な商人のように見受けられるが、お前の縁者か?」
すると太宰は「うふふ、気になる?」悪戯っぽい笑みを作る。
「師匠繋がりの客だが、素性が知れないのは気になるな。それに。躰に彫り物を入れるのは鳶や飛脚が通例だが、どうもお前はそれに見えぬし、彫り物も違っている」
建築業や町内の警備、火消しの役割を担う鳶や飛脚は職務柄、地肌を晒すことが多く、その羞恥から肌を隠す目的で肌に刺青を纏う。中でも火事場に駆けつけ火消しを行う鳶は雨を呼び込むと云われている龍神を自身のお守りとして躰に彫るのだ。そう云った粋の象徴とも云える勇壮な姿からは目の前にいる彼は程遠い。そうなると残る可能性は。
「やはり役者か?」
「役者に見える?」
「それくらいしか思いつかん」
「残念、外れ」
太宰は楽しげに笑う。
「じゃあ、一体何だ?」
「私を連れてきた森さんね、あの人は女衒 だよ」
予期せぬ彼の言葉に一瞬目を見開いた。
「……彼は人買いなのか」
驚きを隠せない国木田に、まああの人は他にも色々と手広く何かしているみたいだけどねえ――何処か他人事のようにして太宰は呟く。
そして太宰は思う。
森の優しげな表情を。何時でも鷹揚な態度を崩さない彼を。決してその瞳が笑っていない男を。森は何を考えているのか解らない、底が知れぬ恐ろしい男だと。
気まずそうにしている国木田を見て太宰は淡く微笑する。国木田は森の生業を聞いて大方、察したのだろう。
「国木田君が思っている通り、私は男娼さ。とは云ってもまだお客さんを取ったことはないんだけどね。この背中の牡丹の図が完成したら、きっと水揚げになるんじゃないかな」
水揚げと聞いて国木田は僅かに頬を赤らめた。その言葉が意味するのは初めて客を取り、肉の契りを結ぶことだ。また春をひさぐ者がその肌に彫るのは心中立と云って永遠の愛を誓う証として相手の名を彫り込むのが大半であるのだが、太宰の場合は些か特殊で、彼が云うには客の目を楽しませるために背中一面に彫り物を入れるらしかった。そしてそれは万が一、色里から逃げ出した時のための目印の役割も担っているのだと彼は国木田に説明した。
太宰が男娼だと知った途端、急に彼の痩躯が生々しく国木田に迫ってきて、目のやり場に窮した。嬌艶なその姿態、輝くばかりの肌、美しい貌 。国木田は落ち着かない視線を宥めるために、横たわる肉の薄い背に急いた手付きで血を拭うために使っていた布を広げて上から被せた。太宰が不思議そうに見るので「あ、否、窓を開けているから寒いと思ってな」慌てて云い訳を口にすれば「別に寒くないけど?」と返されてしまう。言葉に詰まって俯き加減でもごもごと不明瞭に何事かを呟けば太宰は「変なの」可笑しそうに笑い声を上げる。一頻り笑った後、ふと真顔になって自身の身の上を明かした。
「私、三月前に川に流れているところを森さんに拾われてね。行くところもない、お金もない、死に損なってしまったしで、彼に着いて行ったんだよね。寝床や食事も用意するからと云われて。その時はまだ森さんが廓に遊女や男娼を斡旋する女衒だとは知らなくてさ」
日がな一日、のんべんだらりと無為に過ごしていても森は何も云わなかった。太宰は気の向くまま町中をぶらついたり、与えられた部屋で惰眠を貪ったり、好き勝手に過ごしていた。一銭も無ければ困るだろうからと時折、森は太宰に小遣いを持たせた。その金で安酒を呑むこともあった。そうしているうちに桜が綻ぶ季節になり、卯月に入った。
「或る時、森さんに連れられて種田って云う人のところへ行ったんだ。そうしたら種田さんが私を見て『森殿の云い値で買いましょう』って。其処で初めて森さんの生業を知ったよね。自分が廓に売られたことも」
太宰の言によれば種田と云う男は遊女や男娼を置いて客と遊ばせる店――妓楼を複数持っている、その界隈では名が知れた遣り手の主人だと云う。
「お前は其処で何も意見しなかったのか?」
「森さんに拾われた時点で私には拒否権なんてないのさ。森さんや種田さんから逃げ出したところで私には行く宛てがある訳でもなし、以前のように只、生きるためにあちらこちら放浪する生活にも疲れちゃったし。また川に飛び込むしかないよねえ」
「……川に身投げしたと云うのは、それが理由か?」
国木田は神妙な面持ちで問う。安易に訊いてはいけないように思えたが、それでも問わずにはいられなかった。すると太宰は何でもないようにふんわりと笑んで肯定する。
「毎日毎日、生きるための糧を得るのに必死で、どうしてこんなことばかりして生きなければいけないのか、途中で解んなくなっちゃったんだよね。だから入水してみようかと」
まあこの通りぴんぴんしてるけどねえ――おどける太宰を国木田は怒りを含んだ目で見た。自ら命を絶つなど――赦し難く思った彼の胸に死に別れた両親や親しかった人達の面影が幾ばくかの哀惜を伴って去来した。
しかしその一方で太宰の気持ちも解るような気がするのだ。
人は飢えを凌ぐだけでは生きてゆけない。人は決して食べるために生きている訳ではないのだ。生きることの理由や目的はもっと複雑で深遠なものだ。太宰は糧だけが目的の繰り返される日々に心が倦んで、ふっと魔に魅入られるようにして川に身を投じたのだろう――国木田はそう思い直して憤りを収めた。が、それでも釈然としない表情を浮かべていたのか、太宰は少し困ったように眉尻を下げる。
「別に私は今の境遇に不満はないよ。寝るところもあるし、ご飯もちゃんと食べられるし、多少のお金なら自由に使えるし、まあ刺青は痛いけど、此処に来ればおやつ出して貰えるしね。廓に売られるのだって良くある話でさ。貧しい村では口減らしに親が女衒に子供を差し出すのは珍しいことじゃあないよ」
太宰が云うようにこの手の話は巷に溢れているし、国木田もそれくらいのことは理解している。また公然と廓があるのが何よりもの証左である。彼が自分を特段不幸だとは思っていないのも、その口振りからして本当であろう。しかし国木田は無用だと知りながらも同情を禁じえなかった。
「何だ、お前は俺のところに菓子を食いに来てるのか」
身勝手な憐情を隠すようにして呆れて云うと、
「おやつは楽しみだよ。明日のおやつは何?」
にこにこと無邪気な笑顔。
「……それは後で考えておく」
「ふふふ、楽しみにしておくよ」
国木田は再び針が括りつけられた竹棒を握る。
「――さて。もう少し作業を進めたいのだが、良いか?」
「明日のおやつに観月堂の羊羹を買ってきてくれたら良いよ」
「そのような交換条件は呑めんな」
冷淡に告げながら背中に被せた布を取り除ける。陽春の光に照る素肌を国木田は眩しそうに目を細めて見詰めた。
「ええッ。酷い、国木田君。痛いの頑張って耐えてるのにー」
「精々、半端彫りにならぬよう、頑張るんだな」
「ううッ、国木田君の鬼ッ」
「何とでも」
そうしてまた太宰の背に針を突き刺して牡丹の花弁を描いた。
――太宰が帰った後、国木田は彼が所望した観月堂の羊羹を買い求めに走るのだった。
太宰は不平を洩らしながらも毎日欠かさず国木田の元へやって来た。作業に入る前に太宰に振舞っていた茶菓子も何時の間にか国木田も相伴するようになっていた。時折、太宰が菓子を買ってくることもあって他愛のない世間話をしながらそれらを食した。
或る時、ふと気になったことを太宰に訊ねた。
「何時も正午 に帰るが、何かあるのか?」
「うん。今もまだ森さんのところに住まわせて貰ってるんだけどさ、戻ったら芸事のお稽古をしてるんだ」
太宰は少し疲れたように云う。
「色々なお客さんを相手にするからさ、それなりに教養と云うか、芸事も出来ないと駄目だって種田さんがね。これまでそんなものとは無縁で生きてきたから今更、身に付けようたって限界があるし、所詮付け焼刃だからそのうちボロが出ると思うんだけどねえ。私は面倒臭くて厭なんだけど、そうも云ってられないし。前に何回かサボったら怒られちゃったよ」
芸事の稽古は確かな筋の師範を招いて行われると云う。唄や踊りに始まり、手習い、算術なども学んでいるらしい。格式高い花魁は芸事に長け、高い教養を有することは何とはなしに国木田も耳にしていたが、彼もまたそのような地位に引き上げるべく種田は考えているのだろう。確かに太宰程の美貌の持ち主なら、引く手数多、瞬く間に色里の頂点に坐す高嶺の花となろう。
「それはまあ、大変だな」
躰を休める時間はあるだろうが、刺青の激痛に耐えた後での稽古は流石に身に堪えるだろう。事情を知って気の毒に思っていると俄に太宰は立ち上がり、
「ちょっと踊り、見てくれない?」
「俺が? 見るのは構わんが、俺は舞踊については門外漢だぞ」
「それでも良いからさ」
「ふむ。では、拝見しよう」
国木田は居住まいを正して痩身を見上げた。
太宰は一瞬、はにかんだような笑みを見せてから口元を引き締め、すっと白い手を翳した。右手に扇を持っている振りをしながら細腰をなよやかに屈めて、紫紺の着物の袂を優美に翻す。目に見えぬ扇を操る手、伸ばされた腕の動き、足の運びはしなやかに、舞うその姿は何処までも軽やかで、開いた花の上に集い、美しい文様の翅を羽ばたかせる蝶のようであった。
国木田は彼のたおやかな一挙一動を陶然とした心地で瞳に映していた。舞踊の細かな作法は彼の解するところではなかったが、只、その美しさに深く感じ入った。
「――どう?」
舞踊を披露し終えた太宰は期待と含羞とを綯い交ぜにした表情を浮かべながら座布団に腰を下ろした。
「え? ああ、まあ、良いんじゃないか」
現実に引き戻された国木田は胸に残る恍惚感を引き剥がすようにして冷めた茶を口にした。
「えー、もっと他に感想ないの?」
これじゃあ踊り損だよう――口吻を尖らせて不満を洩らす。
「だから、俺は舞踊に関しては門外漢だと初めに云っただろうが。助言も評価も出来ん」
「そうだけど。でももうちょっと何か云ってくれても良くない? 別に助言とか正当な評価とかは良いからさ。国木田君の感想を教えてくれ給えよ」
「感想と云われてもだな……」
国木田は座布団の端を指先で弄んで視線を落とす。何故だか面と向かって所感を述べることが憚れた。口を閉ざして黙っている彼を太宰は「ほら早く。一言で良いから」とせっつく。このままでは何時まで経っても刺青の作業に入れまいと悟った国木田は諦念の息を吐いて、
「……その……綺麗、だった」
小声で呟いた。
一欠けらの世辞も含まれていない言葉を受けて太宰は面映さに耳を染めながら莞爾 した。
◇◇◇
卯月の末日。
太宰を帰した正午過ぎ、国木田は屋敷町にある師匠――福沢の邸宅に向かっていた。
福沢と顔を合わせるのは半月振りであった。普段であるならば四日に一度は宅へ伺うのだが、今回引き受けた森の依頼が大きな仕事故に、そちらに集中出来るようにと福沢が適宜取り計らったのである。今日、福沢の元に参じたのは他でもない彼が国木田を呼び寄せたからであった。恐らく仕事の進捗具合の確認だろうと国木田は思っていた。
薄曇の下、足早に歩けば暖かい陽気に肌が汗ばんだ。戦 ぐ風は湿気を孕んで温く、初夏の訪れを感じさせた。微風に乗って青々とした新緑の香りが国木田の鼻先を掠め、その匂いは喪った村を想起させる。あれから故郷であった村がどのようになっているのか、国木田は知らない。また人が何処からか集って来て住まうているのか。それとも無人のまま、自然の力の縦 に緑が萌え、繁茂して鎖 されているのか。世話になった寺の住職も今頃どうしているのだろうと儚く思った。
額に滲んだ汗を手巾で拭き拭き、足取り軽く福沢宅を目指した。国木田は心の隅で密かに楽しみにしていることがあった。福沢宅に身を置く娘――お栄の存在である。
立派な構えの切妻破風門を潜り、玄関の引き戸を訪うと直ぐ様小気味良い音と共に戸が開いて、先刻から待ち構えていたらしいお栄がこんにちはと愛想良く会釈した。
お栄は艶やかな黒髪を娘らしく結い上げて、蝶を象った髪飾りを着けていた。彼女が身動きする度にその蝶は羽ばたくように煌いた。繊細な光を放つそれは彼女の清楚な美しさを引き立てていた。国木田は何か眩しいものを見るようにして色素の薄い双眸を眇めた。
「国木田様、お待ちしておりました。小父様もお部屋でお待ちですわ」
さあどうぞと促されて国木田は履物を脱いで式台に上がった。それから小脇に抱えていた包みをお栄に手渡す。
「お栄さん、菓子を持って参りました。宜しければ師匠と召し上がってください」
「まあ。国木田様。このようなお土産を頂いてしまって……」
黒目勝ちな瞳を見開いて恐縮しているお栄に気にすることはないと薄く笑んでみせれば「それでは有難く頂戴致します」と彼女は嬉しそうに包みを受け取った。お栄の可憐な微笑みに一瞬、国木田の鼓動が跳ねて胸底がさざめいた。僅かに頬が火照るのを感じながら、彼女の案内で鏡の如く磨かれた廊下を進む。
「師匠はお変わりないですか」
「ええ。お陰様で。この頃は時々庭にやって来る野良猫を構っているうちに、何時の間にかすっかり家に居付いてしまって。小父様は毎日楽しそうに膝の上に猫を載せて書見していますわ」
お栄は福沢が猫と戯れているのを思い出したのか、鈴を転がすような声音で朗らかに笑う。あどけなさを残す唇から白い歯が零れるのを国木田は見逃さなかった。再び胸が騒ぐのを覚えながらそれとは悟られぬようにそっと視軸を逸らす。
「ほう、猫ですか」
厳しい容貌の師匠と可愛らしい猫とを思い浮かべて国木田も危うく笑い出しそうになった。福沢は無類の猫好きなのである。
廊下を中程まで進むと左手にある締め切られた襖の前でお栄は立ち止まって膝をついた。国木田もその後ろに控える。
「小父様。国木田様がお見えになりました」
軽く戸を叩けば中からくぐもった返答があり、静かにお栄は襖を開けた。国木田は両手をついて失礼しますと丁寧に頭を下げ、面を上げれば卓の陰から覗く福沢の膝に三毛猫の姿。と、猫は突然の来訪者に驚いたのか膝の上から逃げるようにして卓の下へと身を隠した。
「……すみません」
「否、構わん。入れ」
彼等のやり取りが可笑しかったのかお栄はひとり俯いてくすくすと小さく笑っていた。
福沢に招かれて国木田は卓を挟んで彼の前に端坐した。お栄はそっと襖を閉めて包みを手に茶の用意に立った。それを見送ってから、床の間を背に学者然とした風情で座る福沢は早速、愛弟子へ近況を訊ねた。
「仕事の方ですが、筋彫りは六割方済みました。順調に進めば水無月の初めには仕上がる見通しです」
「そうか。思っていたよりお前は仕事が速いな」
福沢は感心した様子で生真面目に唇を引き結んでいる国木田を見遣る。精悍に整った容貌はすっかり成人のそれであり、時の流れを感じずにはいられなかった。
あの時から十年近く経つのか――福沢は目の前の若者の顔に幼き頃の面差しを重ね合わせる。稚気が削がれ、彫りの深い顔立ちへと変貌を遂げる中で、鋭い光を宿して澄んだ色を湛えている両の眼だけは変わらない。そして彼の裡ある物事に対する強い意志や激しさも、また。
初めて出会った頃――まだ十を幾つか過ぎた頃の国木田は既にその幼い瞳に烈々とした光の片鱗を宿していた。一目見て福沢は彼の性質やその聡明さを感知した。実際、国木田の彫り師としての修業は目覚しいものがあった。乾いた土が雨水を吸うようにして様々な知識を覚え、基礎となる絵の技術も短期間のうちに著しい変化を遂げた。福沢は早くに鬼籍に入った先代に代わって一門を率いる頭として幾人かの弟子を抱えていたが、その中で一番目をかけたのはやはり国木田であった。弟子の中で彼は一番若年であったから、無意識に父親代わりも務めようとしていたのかもしれない。とは云っても自身の子は持ったことがないのだが。
国木田は福沢が褒めても決して増長したり、慢心することはない。寧ろ、益々気を引き締めて精進すると云った有様である。その点も福沢は好ましく思っていた。何 れ福沢も頭の座を退く時が来る。その暁には一門を率いる者として国木田を据えるつもりでいた。
不意に襖が叩かれ外から「失礼します」と声がした。開いた襖の陰からお栄が姿を現した。彼女は卒のない動作で運んできた盆から湯呑み茶碗と饅頭が載った小皿とを彼等の前に置いて「お饅頭は国木田様から頂戴しました」にこやかに福沢に告げると、国木田の方のを見てにっこり微笑んでから退室した。何やら意味ありげな彼女の微笑に国木田は耳に朱を灯らせながら、膝の上できつく拳を握った。そんな彼を目の当たりにした福沢は僅かに目許を緩めて「お前もそういう年頃だな」独り首肯すると、
「えッ!? い、否、お、俺は、べ、べ別に、お、お、お、お栄さんとどうこうなりたいとかは……ッ!」
ぶんぶんと首を激しく横に振って否定する。その顔の赤いこと。これまで見たことのない国木田の甚だしい動転ぶりに福沢は苦笑を洩らした。
「そう隠さずとも良い。お前を此処に呼んだのは仕事の進み具合を訊くためでもあったのだが、本件はお栄のことなのだ」
「それはどう云う……?」
国木田は襟を正して福沢の顔を窺う。
「単刀直入に訊くが。国木田、お前はお栄のことをどう思っているのだ」
「それは……」
国木田は温かな湯気を立てる湯呑み茶碗に視線を落とす。緑色 の表面に映り込む虚像は困惑の色を帯びていた。
お栄は福沢の遠縁にあたる娘である。国木田が耳にしたところによると、不幸にもお栄は流行り病で両親を亡くしたらしく、近くに頼れる親族もいないために、繋がりの遠い福沢を頼ってきたらしい。彼女とは殆ど顔を合わせたことがなかったが快く迎え入れた。それが一年程前の話。
国木田は初め、お栄は福沢の身の回りを世話する下女だとばかり思っていた。事情を知るまで彼女が福沢のことを『小父様』と呼ぶのが不思議でならなかった。或る時、兄弟子等がお栄の身の上を噂し合っているのを聞いて彼女について漸く知り得たのである。
お栄とは福沢の宅で顔を合わせるだけの間柄であるが、今年の桜の盛りには彼女を交えて一門皆で花見をした。満開の桜の下で見るお栄はとても綺麗だったと国木田はその記憶を鮮明に脳裏に描く。
桜花を透かして降り注ぐ柔らかな陽光の中で彼女のふっくらとした白い頬は薄紅色に染まり、結った髪に花弁が散る様は儚くも美しい幻影のようで。日々、まめまめしく立ち働く手は荒れもせず、その指先は桜貝の如く艶やかであった。国木田はお栄の優しげな、温かそうな手に触れてみたいと思った。
お栄は白粉も紅もまだ知らぬ、可憐な蕾のような女だ。飾り気のない、慎ましやかな美しさ。共にいれば心安らぐような雰囲気のある女だった。彼女の少女めいた楚々とした容姿をはじめ、くりくりとした可愛らしい黒い瞳と善く笑う性根の明るさ、気立ての善さが国木田の気に入るところであった。
口を噤んだまま俯いて黙している国木田に福沢は厳かに切り出す。
「俺はお栄をお前に娶らせるつもりでいるのだが、どうだ?」
思いもよらぬ言葉に国木田は弾かれたように面を上げて師匠を見た。それから意を決して口を開く。
「そんな……俺には勿体無い女性です。師匠の大切な縁者でいらっしゃるお栄さんを頂くのは俺には過ぎたことです」
「しかしお前はお栄を好いているのだろう」
嘘や偽り、誤魔化しは赦さぬと云った語調で福沢は国木田を見据える。向けられる強い眼差しに国木田は真情を吐露する他なかった。僅かに睫毛を伏せて告げる。
「確かに俺はお栄さんを慕っております。しかしお栄さんは……俺のことなど、何とも思ってはいらっしゃらないでしょう。師匠の元に出入りする只の弟子としか……」
「この方面になると途端にお前の頭は鈍くなるな」
「え?」
「お栄もお前を慕っているとすれば、どうする?」
「……お栄さんが……?」
国木田は信じられない思いで福沢を見た。
「お前もお栄も、互いに想い合っているならば俺はお前達を一緒にしてやりたいと考えている。お栄ももう直十八になる。そろそろ縁付くことも考えなければならん。何時までも俺のところで下女のように働いていては可哀想だ。お栄を嫁にやるなら俺も信用出来る確かな相手でなければ彼女を預かる身として彼女の両親にも申し訳が立たない。その点を鑑みるにお前は血を分けた息子も同然。お栄もお前に好意を寄せているようだしな。これ程善い条件が揃った縁談もあるまい。殆ど婚約も成立したようなものだ」
「しかし師匠。とても有難いお話ですが、あまりにも急で……その、何と云いますか、心の準備が……」
「勿論、今すぐとは俺も云わん。お前も今は大事な仕事を抱えている。正式な話は一先ず、森殿の依頼が済んでからでも遅くはあるまい。それで、どうだ?」
「はい。結構でございます。お栄さんとの縁談、何卒宜しくお願い申し上げます」
国木田は深く頭 を垂れた。
卓の下で三毛猫が福沢に代わって返事をするかのように、にゃあと鳴いた。
昨日同様、同じ時刻に太宰はやって来た。しかし今日は付き添いの人間はなく彼ひとりであった。また
国木田は太宰を部屋に通しながらまだ背中は痛むかと訊ねた。
「もう痛くはないよ。うっかり触っちゃったらちょっと痛いけどね。でもまた痛いのかあ。厭だなあ」
わざとらしい調子の語尾は国木田への当て付けのようで。国木田は片眉をぴくりと吊り上げて冷淡に云う。
「今からそんなに痛がっていては先が思いやられるな。ぼかしや塗りはもっと痛いぞ」
「うぇッ。そんなの厭だ。私、帰ろうかな」
酢を飲んだような顔をして下ろしかけた腰を上げる太宰の腕を国木田は掴んで勝手に帰られては困ると押し止める。
「伊織屋の桜餅を買ってきた。――食うか?」
伊織屋と聞いた途端にぱっと喜色を浮かべた太宰は「食べる食べる」とはしゃいで座布団に座った。茶を淹れてくると国木田は一旦、部屋を出て行く。太宰は家主が戻って来るまで衝立の向こう側を覗いて、開けられた窓の外を見た。今日も空は蒼く晴れ渡り、綿雲が長閑に浮かんでいた。何処かに鶯がいるのか澄んだ
衝立の陰にある国木田の仕事道具は真新しいまでに磨かれ、墨を入れるための銀の針は窓から差し込む陽光に鋭利に光った。血を拭う布も清潔に洗われたものが用意されていた。また此処で痛みを耐えなければいけないのかと思うと気分が重くなった。しかし今更どうすることも出来ない。自分には拒否権はないのだ。それに今此処で自分が逃げ出せば国木田に迷惑がかかるだろう。それは太宰の本意ではない。彼は彼に与えられた仕事を忠実にこなしているだけなのだから。
何しているんだ? と頭上から声が降ってきて視軸を移せば国木田が湯呑み茶碗と桜餅が載った盆を手にして立っていた。
「今日も良い天気だなって思ってさ」
「そうだな」
相槌を打ちながら国木田は太宰の前に茶と菓子とを並べて向かいに腰を落ち着ける。太宰は礼を述べ、いただきますと手を合わせて供された桜餅を口にした。「うん、美味しい」と満足そうに菓子を頬張る。
「何だか悪いね、またご馳走になっちゃって」
「気にするな。彫り物を入れるのは体力が消耗するから、事前に何か腹に入れておいた方が良い」
じっと動かずに激痛に耐えるのは拷問を受けているようなもので、強い忍耐力を要求される。痛みを堪える気力、体力がなければ刺青は完成することなく半端彫りで終わってしまう。彫りの痛みに音を上げて途中で来なくなった客も珍しくない。刺青の過程で最も痛みを伴うのはぼかしと呼ばれる、
「食い終わったなら、作業を始めるぞ」
「はーい」
太宰は口を付けていた湯呑み茶碗を置いて、昨日と同じく衝立の向こう側へ廻ると着物を諸肌脱いで包帯を解き、日光に温められた敷き布の上に俯せになった。国木田も手を清めに座を立ち、作業場へと足を踏み入れる。この瞬間、否応なしに気分が高揚して彫り師としての矜持が強く意識された。
春光に照らし出される太宰の素肌は白妙に眩しく、細い背筋が
「何……?」
「否、今更だが、何だかお前の肌に墨を入れるのが惜しい気がしてな」
昨日は白雪の如く美しい肌に魅せられてこの背一面に己の手で華麗な図を彫り込むことに深い法悦を感じたが、今では真逆の思いを抱いていた。白磁の背に漆黒の線が走っているのを眺めて、清雅な白百合の花弁を惨たらしく毟り取ってしまったような罪の意識が不意に上ってきたのだ。これまで国木田も彫り師として幾人かの客に墨を入れてきたが、こんなふうに罪悪感を覚えたことはなかった。
――あまりにも彼の肌が美しいからか。
国木田は自分自身の心の動きを奇妙に思いながらも、刺青の道具を手にして「始めるぞ」前置きしてから鋭利な針を肌理細やかな、滑らかな手触りの皮膚へと突き刺した。
筋彫りを施されている太宰は痛みを少しでも遣り過ごそうと敷き布の端をきゅっと握り締め、唇を噛んで耐えていた。肌を貫く痛みに太宰は時折、呻吟して苦悶に眉根を寄せては躰を強張らせた。躰が痛覚に緊張すれば、より痛みを感じやすくなる。国木田は躰の力を抜けと云うのだが、なかなか思うようにいかないのか、白く秀でた彼の額には脂汗が光るばかりで苦痛の激しさを窺がわせた。前日のように痛い痛いと騒がない分、妙にいじらしく、却って痛みを強いている国木田の方が変な居心地の悪さを覚えずにはいられなかった。しかし引き受けた仕事を完遂せねばならぬと気を引き締めて、国木田は手を休めずに黙々と太宰の背中に牡丹の輪郭を彫り込んでいった。
一刻ばかり過ぎた頃、少し休憩しようと国木田は握った道具を手放した。
「大丈夫か?」
国木田は辛そうに浅い呼吸を繰り返している太宰の横顔を覗き込んで、額に浮いた汗を懐に入れていた手巾で拭ってやる。
「……うん、何とか。でも、やっぱり痛いね」
へらりと太宰は笑ってほう、と躰の緊張を解いて深く息を吐いた。くったりと脱力して敷き布に身を委ねて少しの間、目蓋を閉じた。窓から吹き込む柔らかな風が素肌を撫ぜる。心地の好い軽やかなそれは僅かに血が残る部分に沁みて、ひりつくような痛みを齎した。太宰は長い睫毛を慄わせて目を開くと、傍らで指先についた血を拭っている国木田を見遣る。
「どれくらい進んだ?」
「まだ全体の一割にも満たないな」
「えー、そうなの? 刺青は先が長いなあ」
太宰はうんざりした口調で告げて枕にこてんと額を載せる。
「仕方あるまい。俺とて師匠に毎日のように彫って頂いて完成まで三月ばかりかかった」
「え? 国木田君も背中に図が入ってるの?」
「俺が初めて人の躰に彫る時、祝いの意味を込めて師匠が彫ってくださった」
「へえ、そうなんだ。背中、見せてよ」
俄然興味を惹かれた様子で太宰はちょいちょいと国木田の袂を引っ張る。しかし国木田はまた今度だと取り合わず、それよりも、と話の矛先を彼に向ける。
「俺は師匠からお前について何も聞かされていないのだが、森と云う男は裕福な商人のように見受けられるが、お前の縁者か?」
すると太宰は「うふふ、気になる?」悪戯っぽい笑みを作る。
「師匠繋がりの客だが、素性が知れないのは気になるな。それに。躰に彫り物を入れるのは鳶や飛脚が通例だが、どうもお前はそれに見えぬし、彫り物も違っている」
建築業や町内の警備、火消しの役割を担う鳶や飛脚は職務柄、地肌を晒すことが多く、その羞恥から肌を隠す目的で肌に刺青を纏う。中でも火事場に駆けつけ火消しを行う鳶は雨を呼び込むと云われている龍神を自身のお守りとして躰に彫るのだ。そう云った粋の象徴とも云える勇壮な姿からは目の前にいる彼は程遠い。そうなると残る可能性は。
「やはり役者か?」
「役者に見える?」
「それくらいしか思いつかん」
「残念、外れ」
太宰は楽しげに笑う。
「じゃあ、一体何だ?」
「私を連れてきた森さんね、あの人は
予期せぬ彼の言葉に一瞬目を見開いた。
「……彼は人買いなのか」
驚きを隠せない国木田に、まああの人は他にも色々と手広く何かしているみたいだけどねえ――何処か他人事のようにして太宰は呟く。
そして太宰は思う。
森の優しげな表情を。何時でも鷹揚な態度を崩さない彼を。決してその瞳が笑っていない男を。森は何を考えているのか解らない、底が知れぬ恐ろしい男だと。
気まずそうにしている国木田を見て太宰は淡く微笑する。国木田は森の生業を聞いて大方、察したのだろう。
「国木田君が思っている通り、私は男娼さ。とは云ってもまだお客さんを取ったことはないんだけどね。この背中の牡丹の図が完成したら、きっと水揚げになるんじゃないかな」
水揚げと聞いて国木田は僅かに頬を赤らめた。その言葉が意味するのは初めて客を取り、肉の契りを結ぶことだ。また春をひさぐ者がその肌に彫るのは心中立と云って永遠の愛を誓う証として相手の名を彫り込むのが大半であるのだが、太宰の場合は些か特殊で、彼が云うには客の目を楽しませるために背中一面に彫り物を入れるらしかった。そしてそれは万が一、色里から逃げ出した時のための目印の役割も担っているのだと彼は国木田に説明した。
太宰が男娼だと知った途端、急に彼の痩躯が生々しく国木田に迫ってきて、目のやり場に窮した。嬌艶なその姿態、輝くばかりの肌、美しい
「私、三月前に川に流れているところを森さんに拾われてね。行くところもない、お金もない、死に損なってしまったしで、彼に着いて行ったんだよね。寝床や食事も用意するからと云われて。その時はまだ森さんが廓に遊女や男娼を斡旋する女衒だとは知らなくてさ」
日がな一日、のんべんだらりと無為に過ごしていても森は何も云わなかった。太宰は気の向くまま町中をぶらついたり、与えられた部屋で惰眠を貪ったり、好き勝手に過ごしていた。一銭も無ければ困るだろうからと時折、森は太宰に小遣いを持たせた。その金で安酒を呑むこともあった。そうしているうちに桜が綻ぶ季節になり、卯月に入った。
「或る時、森さんに連れられて種田って云う人のところへ行ったんだ。そうしたら種田さんが私を見て『森殿の云い値で買いましょう』って。其処で初めて森さんの生業を知ったよね。自分が廓に売られたことも」
太宰の言によれば種田と云う男は遊女や男娼を置いて客と遊ばせる店――妓楼を複数持っている、その界隈では名が知れた遣り手の主人だと云う。
「お前は其処で何も意見しなかったのか?」
「森さんに拾われた時点で私には拒否権なんてないのさ。森さんや種田さんから逃げ出したところで私には行く宛てがある訳でもなし、以前のように只、生きるためにあちらこちら放浪する生活にも疲れちゃったし。また川に飛び込むしかないよねえ」
「……川に身投げしたと云うのは、それが理由か?」
国木田は神妙な面持ちで問う。安易に訊いてはいけないように思えたが、それでも問わずにはいられなかった。すると太宰は何でもないようにふんわりと笑んで肯定する。
「毎日毎日、生きるための糧を得るのに必死で、どうしてこんなことばかりして生きなければいけないのか、途中で解んなくなっちゃったんだよね。だから入水してみようかと」
まあこの通りぴんぴんしてるけどねえ――おどける太宰を国木田は怒りを含んだ目で見た。自ら命を絶つなど――赦し難く思った彼の胸に死に別れた両親や親しかった人達の面影が幾ばくかの哀惜を伴って去来した。
しかしその一方で太宰の気持ちも解るような気がするのだ。
人は飢えを凌ぐだけでは生きてゆけない。人は決して食べるために生きている訳ではないのだ。生きることの理由や目的はもっと複雑で深遠なものだ。太宰は糧だけが目的の繰り返される日々に心が倦んで、ふっと魔に魅入られるようにして川に身を投じたのだろう――国木田はそう思い直して憤りを収めた。が、それでも釈然としない表情を浮かべていたのか、太宰は少し困ったように眉尻を下げる。
「別に私は今の境遇に不満はないよ。寝るところもあるし、ご飯もちゃんと食べられるし、多少のお金なら自由に使えるし、まあ刺青は痛いけど、此処に来ればおやつ出して貰えるしね。廓に売られるのだって良くある話でさ。貧しい村では口減らしに親が女衒に子供を差し出すのは珍しいことじゃあないよ」
太宰が云うようにこの手の話は巷に溢れているし、国木田もそれくらいのことは理解している。また公然と廓があるのが何よりもの証左である。彼が自分を特段不幸だとは思っていないのも、その口振りからして本当であろう。しかし国木田は無用だと知りながらも同情を禁じえなかった。
「何だ、お前は俺のところに菓子を食いに来てるのか」
身勝手な憐情を隠すようにして呆れて云うと、
「おやつは楽しみだよ。明日のおやつは何?」
にこにこと無邪気な笑顔。
「……それは後で考えておく」
「ふふふ、楽しみにしておくよ」
国木田は再び針が括りつけられた竹棒を握る。
「――さて。もう少し作業を進めたいのだが、良いか?」
「明日のおやつに観月堂の羊羹を買ってきてくれたら良いよ」
「そのような交換条件は呑めんな」
冷淡に告げながら背中に被せた布を取り除ける。陽春の光に照る素肌を国木田は眩しそうに目を細めて見詰めた。
「ええッ。酷い、国木田君。痛いの頑張って耐えてるのにー」
「精々、半端彫りにならぬよう、頑張るんだな」
「ううッ、国木田君の鬼ッ」
「何とでも」
そうしてまた太宰の背に針を突き刺して牡丹の花弁を描いた。
――太宰が帰った後、国木田は彼が所望した観月堂の羊羹を買い求めに走るのだった。
太宰は不平を洩らしながらも毎日欠かさず国木田の元へやって来た。作業に入る前に太宰に振舞っていた茶菓子も何時の間にか国木田も相伴するようになっていた。時折、太宰が菓子を買ってくることもあって他愛のない世間話をしながらそれらを食した。
或る時、ふと気になったことを太宰に訊ねた。
「何時も
「うん。今もまだ森さんのところに住まわせて貰ってるんだけどさ、戻ったら芸事のお稽古をしてるんだ」
太宰は少し疲れたように云う。
「色々なお客さんを相手にするからさ、それなりに教養と云うか、芸事も出来ないと駄目だって種田さんがね。これまでそんなものとは無縁で生きてきたから今更、身に付けようたって限界があるし、所詮付け焼刃だからそのうちボロが出ると思うんだけどねえ。私は面倒臭くて厭なんだけど、そうも云ってられないし。前に何回かサボったら怒られちゃったよ」
芸事の稽古は確かな筋の師範を招いて行われると云う。唄や踊りに始まり、手習い、算術なども学んでいるらしい。格式高い花魁は芸事に長け、高い教養を有することは何とはなしに国木田も耳にしていたが、彼もまたそのような地位に引き上げるべく種田は考えているのだろう。確かに太宰程の美貌の持ち主なら、引く手数多、瞬く間に色里の頂点に坐す高嶺の花となろう。
「それはまあ、大変だな」
躰を休める時間はあるだろうが、刺青の激痛に耐えた後での稽古は流石に身に堪えるだろう。事情を知って気の毒に思っていると俄に太宰は立ち上がり、
「ちょっと踊り、見てくれない?」
「俺が? 見るのは構わんが、俺は舞踊については門外漢だぞ」
「それでも良いからさ」
「ふむ。では、拝見しよう」
国木田は居住まいを正して痩身を見上げた。
太宰は一瞬、はにかんだような笑みを見せてから口元を引き締め、すっと白い手を翳した。右手に扇を持っている振りをしながら細腰をなよやかに屈めて、紫紺の着物の袂を優美に翻す。目に見えぬ扇を操る手、伸ばされた腕の動き、足の運びはしなやかに、舞うその姿は何処までも軽やかで、開いた花の上に集い、美しい文様の翅を羽ばたかせる蝶のようであった。
国木田は彼のたおやかな一挙一動を陶然とした心地で瞳に映していた。舞踊の細かな作法は彼の解するところではなかったが、只、その美しさに深く感じ入った。
「――どう?」
舞踊を披露し終えた太宰は期待と含羞とを綯い交ぜにした表情を浮かべながら座布団に腰を下ろした。
「え? ああ、まあ、良いんじゃないか」
現実に引き戻された国木田は胸に残る恍惚感を引き剥がすようにして冷めた茶を口にした。
「えー、もっと他に感想ないの?」
これじゃあ踊り損だよう――口吻を尖らせて不満を洩らす。
「だから、俺は舞踊に関しては門外漢だと初めに云っただろうが。助言も評価も出来ん」
「そうだけど。でももうちょっと何か云ってくれても良くない? 別に助言とか正当な評価とかは良いからさ。国木田君の感想を教えてくれ給えよ」
「感想と云われてもだな……」
国木田は座布団の端を指先で弄んで視線を落とす。何故だか面と向かって所感を述べることが憚れた。口を閉ざして黙っている彼を太宰は「ほら早く。一言で良いから」とせっつく。このままでは何時まで経っても刺青の作業に入れまいと悟った国木田は諦念の息を吐いて、
「……その……綺麗、だった」
小声で呟いた。
一欠けらの世辞も含まれていない言葉を受けて太宰は面映さに耳を染めながら
◇◇◇
卯月の末日。
太宰を帰した正午過ぎ、国木田は屋敷町にある師匠――福沢の邸宅に向かっていた。
福沢と顔を合わせるのは半月振りであった。普段であるならば四日に一度は宅へ伺うのだが、今回引き受けた森の依頼が大きな仕事故に、そちらに集中出来るようにと福沢が適宜取り計らったのである。今日、福沢の元に参じたのは他でもない彼が国木田を呼び寄せたからであった。恐らく仕事の進捗具合の確認だろうと国木田は思っていた。
薄曇の下、足早に歩けば暖かい陽気に肌が汗ばんだ。
額に滲んだ汗を手巾で拭き拭き、足取り軽く福沢宅を目指した。国木田は心の隅で密かに楽しみにしていることがあった。福沢宅に身を置く娘――お栄の存在である。
立派な構えの切妻破風門を潜り、玄関の引き戸を訪うと直ぐ様小気味良い音と共に戸が開いて、先刻から待ち構えていたらしいお栄がこんにちはと愛想良く会釈した。
お栄は艶やかな黒髪を娘らしく結い上げて、蝶を象った髪飾りを着けていた。彼女が身動きする度にその蝶は羽ばたくように煌いた。繊細な光を放つそれは彼女の清楚な美しさを引き立てていた。国木田は何か眩しいものを見るようにして色素の薄い双眸を眇めた。
「国木田様、お待ちしておりました。小父様もお部屋でお待ちですわ」
さあどうぞと促されて国木田は履物を脱いで式台に上がった。それから小脇に抱えていた包みをお栄に手渡す。
「お栄さん、菓子を持って参りました。宜しければ師匠と召し上がってください」
「まあ。国木田様。このようなお土産を頂いてしまって……」
黒目勝ちな瞳を見開いて恐縮しているお栄に気にすることはないと薄く笑んでみせれば「それでは有難く頂戴致します」と彼女は嬉しそうに包みを受け取った。お栄の可憐な微笑みに一瞬、国木田の鼓動が跳ねて胸底がさざめいた。僅かに頬が火照るのを感じながら、彼女の案内で鏡の如く磨かれた廊下を進む。
「師匠はお変わりないですか」
「ええ。お陰様で。この頃は時々庭にやって来る野良猫を構っているうちに、何時の間にかすっかり家に居付いてしまって。小父様は毎日楽しそうに膝の上に猫を載せて書見していますわ」
お栄は福沢が猫と戯れているのを思い出したのか、鈴を転がすような声音で朗らかに笑う。あどけなさを残す唇から白い歯が零れるのを国木田は見逃さなかった。再び胸が騒ぐのを覚えながらそれとは悟られぬようにそっと視軸を逸らす。
「ほう、猫ですか」
厳しい容貌の師匠と可愛らしい猫とを思い浮かべて国木田も危うく笑い出しそうになった。福沢は無類の猫好きなのである。
廊下を中程まで進むと左手にある締め切られた襖の前でお栄は立ち止まって膝をついた。国木田もその後ろに控える。
「小父様。国木田様がお見えになりました」
軽く戸を叩けば中からくぐもった返答があり、静かにお栄は襖を開けた。国木田は両手をついて失礼しますと丁寧に頭を下げ、面を上げれば卓の陰から覗く福沢の膝に三毛猫の姿。と、猫は突然の来訪者に驚いたのか膝の上から逃げるようにして卓の下へと身を隠した。
「……すみません」
「否、構わん。入れ」
彼等のやり取りが可笑しかったのかお栄はひとり俯いてくすくすと小さく笑っていた。
福沢に招かれて国木田は卓を挟んで彼の前に端坐した。お栄はそっと襖を閉めて包みを手に茶の用意に立った。それを見送ってから、床の間を背に学者然とした風情で座る福沢は早速、愛弟子へ近況を訊ねた。
「仕事の方ですが、筋彫りは六割方済みました。順調に進めば水無月の初めには仕上がる見通しです」
「そうか。思っていたよりお前は仕事が速いな」
福沢は感心した様子で生真面目に唇を引き結んでいる国木田を見遣る。精悍に整った容貌はすっかり成人のそれであり、時の流れを感じずにはいられなかった。
あの時から十年近く経つのか――福沢は目の前の若者の顔に幼き頃の面差しを重ね合わせる。稚気が削がれ、彫りの深い顔立ちへと変貌を遂げる中で、鋭い光を宿して澄んだ色を湛えている両の眼だけは変わらない。そして彼の裡ある物事に対する強い意志や激しさも、また。
初めて出会った頃――まだ十を幾つか過ぎた頃の国木田は既にその幼い瞳に烈々とした光の片鱗を宿していた。一目見て福沢は彼の性質やその聡明さを感知した。実際、国木田の彫り師としての修業は目覚しいものがあった。乾いた土が雨水を吸うようにして様々な知識を覚え、基礎となる絵の技術も短期間のうちに著しい変化を遂げた。福沢は早くに鬼籍に入った先代に代わって一門を率いる頭として幾人かの弟子を抱えていたが、その中で一番目をかけたのはやはり国木田であった。弟子の中で彼は一番若年であったから、無意識に父親代わりも務めようとしていたのかもしれない。とは云っても自身の子は持ったことがないのだが。
国木田は福沢が褒めても決して増長したり、慢心することはない。寧ろ、益々気を引き締めて精進すると云った有様である。その点も福沢は好ましく思っていた。
不意に襖が叩かれ外から「失礼します」と声がした。開いた襖の陰からお栄が姿を現した。彼女は卒のない動作で運んできた盆から湯呑み茶碗と饅頭が載った小皿とを彼等の前に置いて「お饅頭は国木田様から頂戴しました」にこやかに福沢に告げると、国木田の方のを見てにっこり微笑んでから退室した。何やら意味ありげな彼女の微笑に国木田は耳に朱を灯らせながら、膝の上できつく拳を握った。そんな彼を目の当たりにした福沢は僅かに目許を緩めて「お前もそういう年頃だな」独り首肯すると、
「えッ!? い、否、お、俺は、べ、べ別に、お、お、お、お栄さんとどうこうなりたいとかは……ッ!」
ぶんぶんと首を激しく横に振って否定する。その顔の赤いこと。これまで見たことのない国木田の甚だしい動転ぶりに福沢は苦笑を洩らした。
「そう隠さずとも良い。お前を此処に呼んだのは仕事の進み具合を訊くためでもあったのだが、本件はお栄のことなのだ」
「それはどう云う……?」
国木田は襟を正して福沢の顔を窺う。
「単刀直入に訊くが。国木田、お前はお栄のことをどう思っているのだ」
「それは……」
国木田は温かな湯気を立てる湯呑み茶碗に視線を落とす。
お栄は福沢の遠縁にあたる娘である。国木田が耳にしたところによると、不幸にもお栄は流行り病で両親を亡くしたらしく、近くに頼れる親族もいないために、繋がりの遠い福沢を頼ってきたらしい。彼女とは殆ど顔を合わせたことがなかったが快く迎え入れた。それが一年程前の話。
国木田は初め、お栄は福沢の身の回りを世話する下女だとばかり思っていた。事情を知るまで彼女が福沢のことを『小父様』と呼ぶのが不思議でならなかった。或る時、兄弟子等がお栄の身の上を噂し合っているのを聞いて彼女について漸く知り得たのである。
お栄とは福沢の宅で顔を合わせるだけの間柄であるが、今年の桜の盛りには彼女を交えて一門皆で花見をした。満開の桜の下で見るお栄はとても綺麗だったと国木田はその記憶を鮮明に脳裏に描く。
桜花を透かして降り注ぐ柔らかな陽光の中で彼女のふっくらとした白い頬は薄紅色に染まり、結った髪に花弁が散る様は儚くも美しい幻影のようで。日々、まめまめしく立ち働く手は荒れもせず、その指先は桜貝の如く艶やかであった。国木田はお栄の優しげな、温かそうな手に触れてみたいと思った。
お栄は白粉も紅もまだ知らぬ、可憐な蕾のような女だ。飾り気のない、慎ましやかな美しさ。共にいれば心安らぐような雰囲気のある女だった。彼女の少女めいた楚々とした容姿をはじめ、くりくりとした可愛らしい黒い瞳と善く笑う性根の明るさ、気立ての善さが国木田の気に入るところであった。
口を噤んだまま俯いて黙している国木田に福沢は厳かに切り出す。
「俺はお栄をお前に娶らせるつもりでいるのだが、どうだ?」
思いもよらぬ言葉に国木田は弾かれたように面を上げて師匠を見た。それから意を決して口を開く。
「そんな……俺には勿体無い女性です。師匠の大切な縁者でいらっしゃるお栄さんを頂くのは俺には過ぎたことです」
「しかしお前はお栄を好いているのだろう」
嘘や偽り、誤魔化しは赦さぬと云った語調で福沢は国木田を見据える。向けられる強い眼差しに国木田は真情を吐露する他なかった。僅かに睫毛を伏せて告げる。
「確かに俺はお栄さんを慕っております。しかしお栄さんは……俺のことなど、何とも思ってはいらっしゃらないでしょう。師匠の元に出入りする只の弟子としか……」
「この方面になると途端にお前の頭は鈍くなるな」
「え?」
「お栄もお前を慕っているとすれば、どうする?」
「……お栄さんが……?」
国木田は信じられない思いで福沢を見た。
「お前もお栄も、互いに想い合っているならば俺はお前達を一緒にしてやりたいと考えている。お栄ももう直十八になる。そろそろ縁付くことも考えなければならん。何時までも俺のところで下女のように働いていては可哀想だ。お栄を嫁にやるなら俺も信用出来る確かな相手でなければ彼女を預かる身として彼女の両親にも申し訳が立たない。その点を鑑みるにお前は血を分けた息子も同然。お栄もお前に好意を寄せているようだしな。これ程善い条件が揃った縁談もあるまい。殆ど婚約も成立したようなものだ」
「しかし師匠。とても有難いお話ですが、あまりにも急で……その、何と云いますか、心の準備が……」
「勿論、今すぐとは俺も云わん。お前も今は大事な仕事を抱えている。正式な話は一先ず、森殿の依頼が済んでからでも遅くはあるまい。それで、どうだ?」
「はい。結構でございます。お栄さんとの縁談、何卒宜しくお願い申し上げます」
国木田は深く
卓の下で三毛猫が福沢に代わって返事をするかのように、にゃあと鳴いた。