無垢肌に散りて
(壱)
春陽麗らかな卯月の或る日。
部屋で仕事道具を広げていた国木田は戸を訪 うのを聞きつけて客人を迎えた。引き戸を開けると壮年の男がひとり。その後ろに隠れるようにしてもうひとり人影があった。
「やあ、君が福沢殿の愛弟子の国木田殿だね」
壮年の男は柔和な笑みを湛えてにこやかに告げる。彼は黒髪を肩の上で切ったまま垂らして、見るからに上等な着物に身を包んでいるその様は大きな屋号を持った裕福な商人のように見受けられた。
「はい。私が国木田でございます。貴方様は先日、お手紙を頂戴した森鴎外様でございますか?」
国木田の問いかけに男はいかにもと頷いて「しかし驚いたね。福沢殿の愛弟子が君のような若者とは……私はもっと年嵩の人物を想像していたよ」値踏みするかのように彼は国木田を見遣って歳を訊ねる。二十二になりますと答えれば、おやと森は僅かに目を見開いて背後を振り返ると「彼も君と同い年のようだ。ほらご挨拶なさい」手を引いて後ろに控えていた連れを国木田の前に押し出だした。
「……どうも」
呟くように云って軽く頭を下げた人物は、すらりと背の高い華奢な躰付きの若者だった。そのまま歌舞伎の女形として舞台に上がっても違和感のない秀でた彼の容貌に国木田は目を瞠った。大きな鳶色の瞳が印象的であった。
「こら、太宰君。そんな挨拶では国木田殿に失礼だよ」
森は連れ合いを諫めてから困ったように眉尻を下げて「すみませんねぇ。躾がなっていなくて。これでは先が思いやられる」最後は殆ど独り言のようにして溜め息を吐いた。太宰と呼ばれた男は無表情のまま所在無げに立っていた。
「いえ、そのようなことは……森様、此処ではなんですからお上がりになってください。むさ苦しいところではありますが、お茶を振舞いましょう」
「否、ご厚意を無下にして申し訳ないが、私は此処で結構。これでも忙しい身でね。すまないね。――さて。金子の相談なんだが、彫賃は如何程かね?」
「仕上がりまでの日数によりますが、二両程かと」
「二両? それでは随分安価 過ぎるでしょうに。相場は五両から十両程だと聞いていますが。最低でも五両はお支払いするべきでしょう」
「そんなに頂く訳には参りません。私はまだ……」
「ふむ。それではこうしましょう。彫り上げた図 を福沢殿に見て頂いて、彼の判断で君が提示する二両に金額を上乗せする――それで、どうです?」
森の提案に国木田は少し考えを巡らせていたが最終判断が師匠である福沢の目であるならば間違いはないだろうと思って「ええ、ではそれで結構でございます」と請合った。
「彫賃については私の方からも福沢殿に話を通しておきましょう。国木田殿、どうぞこの子を宜しく頼みます。君の素晴らしい腕で太宰君の背に美しい花を咲かせてやってください」
そう云って森は深々と頭 を垂れた。国木田はすっかり恐縮して慌てて頭を上げてくれるように半ば頼み込むようにして云えば森は可笑しそうに笑って「流石は福沢殿の秘蔵っ子だけのことはある」そんなような言葉を洩らす。
「万事、承りました。必ずや森様も、それから……太宰様にもご満足頂ける図 を精魂込めて彫り上げましょう」
「仕上がりを楽しみにしているよ、国木田殿。――太宰君、くれぐれも粗相のないようにね」
森は云い聞かせるように軽く太宰の肩を叩くと、正午 には迎えの者を寄越す旨を告げ、では私はこれで失礼しますと去り際に再び軽く会釈をしてから、外に待たせてあった駕籠 に乗って去って行った。
森を見送った国木田は土間に立ったままでいる太宰に中へ上がるように促した。彼はあまり気が進まない様子で履物を脱ぐと、式台に足を踏み入れた。
「太宰様、此方へどうぞ。お茶をお出ししましょう」
「はあ、それはどうも」
彼の気の無さそうな返事を聞きながら国木田は部屋に案内し、座布団を勧めてから茶の支度へ立った。
その間、ひとり部屋に残された太宰は物珍しげに室内を見回した。然程広くはない部屋には調度品が少なく、些か殺風景だった。こざっぱりした住まいには彼独りで寝起きしているのだろう。隅々まで手入れの行き届いている様子は家主の性質を端的に示しているようであった。
太宰の左手には仕切りとして障子紙が張られた衝立が置かれ、柔らかく陽光を透かしていた。彼は好奇心に駆られて衝立の向こう側を覗いてみた。開け放たれた窓からは明るい青陽が差して、畳の上に延べられた敷き布を清潔に照らしていた。その他に枕と畳まれた白い布切れがあり、傍らに木箱が置かれていた。木箱の中には朱、弁柄、赤、緑青 、群青、白、黒などの顔料が整然と収まっており、その横に平たい竹の柄の先端に数本の銀の針が括りつけられた道具があった。其処は国木田の――彫り師の仕事場であった。
程なくして国木田が茶を淹れた湯呑み茶碗と桜餅を載せた盆を手にして戻ってきた。どうぞと恭しい手付きで国木田は太宰の前に持て成しの茶と桜餅とを並べる。
「わあ! この桜餅、伊織屋のでしょう? 前から食べてみたかったんだよねえ」
無感動な態度だった太宰は先程とは打って変わって、俄に瞳を輝かせて嬉しそうに云った。彼の豹変振りに一瞬、戸惑いながらも「左様でございますか」国木田が頷けば、
「ね、そんな堅ッ苦しい喋り方しないで良いよ。私まで肩凝りそう。疲れちゃうよ」
太宰は大仰にはあと溜め息を吐く。
「否、しかし、太宰様は俺の、いえ、私の師匠の旧知の仲であらせられる森様のお連れ様とあらば、ぞんざいな口も利けませぬ。それに師匠からも丁重にお持て成しをするように仰せ司っております故……」
「ふうん、そう。でも私が良いって云うんだから、そんな莫迦丁寧に喋って鯱張 らなくて良いよ。別に何処かから君のお師匠さんが監視している訳じゃないでしょう?」
「それはそうだが……」
「じゃあ決まり。――ねえ、桜餅、食べて良い?」
「え? ああ、どうぞ」
いただきます、と太宰は喜色を浮かべながら小皿に載った桜餅を口へと運んだ。もぐもぐと茶菓子を頬張る姿は頑是無い子供のようで。国木田は我知らずふと目許を緩めた。と、目が合う。
「うん? 何?」
「否、随分美味そうに食うから、そんなに伊織屋の桜餅は美味いのかと思ってな」
伊織屋は巷では知らぬものがいない程、その名を馳せている老舗の菓子屋である。噂では御上御用達の店でもあるらしい。伊織屋の品はどれも上等で人々の味覚を楽しませていたが、殊に季節ものの菓子になると売れ行きに拍車がかかり、買うのもなかなかの骨折りであった。国木田も今日のために朝早く伊織屋へと足を運んで桜餅を買い求めたのだった。
「……もう一つあるが、食うか?」
森に出そうとして残ってしまった分である。
「え? 良いの? 君は食べないの?」
「ああ、俺はいい」
後で自分の分として食べるつもりでいたが、俺よりも美味そうに食っている彼にやった方が食われる桜餅も本望だろう――そんなことを思って国木田は炊事場から残りの桜餅を持ってきて太宰に出した。何だか悪いねえと上機嫌に微笑みながら彼は二つ目の桜餅を食した。自分が拵えたものではないが、食べ物を美味しそうに頬張る姿は傍から眺めている国木田に不思議な充足感を齎した。
「食い終わったら早速、作業に入りたいのだが……その、太宰さんは何処か怪我でもしているのか?」
国木田がずっと気になっていたのは太宰の躰に巻かれた白い包帯だった。腕や首に巻かれたそれは国木田の目に痛ましく映った。もし、背中にも傷があるならば治癒するまでは墨を入れることは出来ない。だが太宰の返答は国木田の予想とは違っていた。
「ああ、これ? 只、巻いてるだけだよ。何だかこれがないと落ち着かなくてね。それと、私のことは呼び捨てで構わないよ。私も君のことは国木田君って呼ぶから」
良いよね?――笑む瞳には有無を云わせない強さがあった。相手は大事な客人である。彼の好きにさせるのが一番だろうと判断して首肯した。国木田も太宰の砕けた態度は厭ではなかった。馴れ馴れしいと云うよりも親しさの表れであるかのように感じられ、初対面である筈なのに不思議と以前からの顔馴染みの如く思えた。彼の気楽な姿勢に国木田の肩の力も抜けるようだった。気を張り過ぎて無理をしていたらしい。
「ふむ。そうか。怪我がないなら良い。――さて、そろそろ良いか?」
太宰が手にした湯呑み茶碗を置くのを見計らって促すと彼は頷いて立ち上がる。
「着物と包帯、取れば良いの?」
「ああ、背中全面が見えるようにな。衝立の向こうに敷き布を敷いてあるから、俯せに横になってくれ。俺は手を清めてこよう」
国木田はそう云い残して部屋を出て行く。太宰は衝立の向こう側へと廻って着物の前を寛げた。腕を抜き諸肌脱いで、巻きつけた包帯を取り除いていく。するすると細長い布が畳の上に蜷局 を巻く。左腕、右腕、次は首から下へ。殻を脱ぎ捨てるかのようにしてすっかり上半身裸になった彼はふるりと躰を慄 わせた。幾ら暖かい陽射しがあるとは云え、こう無防備に素肌を晒しては些か肌寒い。太宰は云い付け通り、敷き布の上に横になった。たっぷりと日光を吸った其処は思いの外暖かく、ほっと息を吐いた。目を閉じればそのまま眠ってしまいそうだ。そんなことを思っていると国木田が戻ってきた。
太宰の傍らに膝をついた国木田は光を受けて純白に輝く白磁の肌に見入った。黒子 一つなく、しみも痣もない、日焼けすらしていない真っ新な無垢肌は触らずとも極上の滑らかさを持っていることは容易に知れた。肌の肌理 細やかさは男のものとは思えぬ程。何か見てはいけないような、犯しがたい、触れてはならぬ神聖な美しさに目を瞠りながらも、この端正な肌に針を刺し、墨を入れ、美しい花を咲かすのだ、他ならぬ俺の手で――国木田は背筋に慄えが走る程の法悦に喉を鳴らして、思わず膝の上で拳を握った。
「国木田君……? どうしたの?」
沈黙したまま身動きしない彼を太宰は不審そうに見遣る。その鳶色の瞳は僅かに微睡みを含んで物憂く、光線を受けて潤んでいた。素肌を惜しげもなく晒して横たわる彼が酷く艶かしく見え、瞬時にカッと国木田の血が滾った。目のやり場に惑いながら、耳の熱を払うように咳払いをしつつ、事前に森から受け取っていた図案が描かれた紙片を木箱の脇から取り出して広げた。すると横からひょいと首を伸ばして太宰が紙面を覗き込む。
「その図 が私の背中に入るの?」
「そうだ。と云うか、お前は聞かされていないのか?」
「うん。花って云うのだけは知っていたけど。へえ、凄いね」
何処か他人事のような口吻で太宰は感歎する。国木田も改めて見て見事だと思った。
紙面を鮮やかに彩っているのは牡丹の花だった。大きく花開いた赤い牡丹と満開までまだ少し間のある薄紅色の牡丹が絶妙な均衡を以って配置されている。華美な花の上を一匹の揚羽蝶が優雅に舞っていた。真に美麗な図であった。この図は森の依頼を受けて国木田の師匠である福沢が描き起こしたものだった。
国木田は紙片を畳の上に置いて刺青の道具を手に握ると太宰に寝姿勢を直すように云ってから「始めるぞ」一言断って白皙の肌につぷりと銀の針を突き刺した。途端に太宰は身を捩って痛みを訴える。
「痛ッ! 痛い痛い痛いってばッ……!」
「痛いのは当然だ。針で刺しているのだからな。こら、動くな。線がぶれる」
「そんなこと云われたって……痛いものは痛いんだよう。もっと優しく……ッ! いたたた……ッ!」
痛がる彼を他所に国木田は淡々とした手付きで筋彫り――花の輪郭を彫っていく。つぷりつぷりと一針入れる毎に赤い血の玉が膨れ出て連なり、大きな粒となってやがて皮膚の上を細く流れた。血が出る様さえ妖しいまでに美しく、国木田は零れる血を拭うことも忘れて暫し見蕩れた。
「はあ……刺青ってこんなに痛いんだね。森さん、背中はそんなに痛くないって云ってたのに。嘘吐きだなあ」
うう痛い――恨めしそうに呻吟して痛みを遣り過ごそうと敷き布の端をきゅっと握り締めた。苦痛に眉根を寄せる太宰の額にはじんわりと汗が滲んでいた。墨を入れる度に痛がっていた彼は次第に声を上げなくなった。多少、痛みに慣れたのもあるが、どんなに痛がっても国木田が手を休めないことを知って騒ぐだけ無駄だと悟ったのだ。無意味な抵抗は体力を消耗するばかりである。そうは云っても痛いものは痛い。時折、太宰の唇からは苦しげな吐息が洩れた。
国木田は手を動かしながら激痛に苦悶する彼に若干の憐憫を催しつつ、しかしそれも仕事を進めていくうちに薄れて、只管に鋭利な針を薄い肌に食い込ませ、滲み出る紅玉を拭いながら黒墨を皮膚に沁み込ませて牡丹の繊細で複雑な輪郭を彫り込んでいった。
暫くの沈黙を挟んで徐に太宰が口を開いた。じっと黙っているよりは何か話をしていた方が痛みが紛れる気がしたのである。
「ね、痛みを感じなくなる薬とかってないの?」
「無いな」
「これって彫り終わるのにどのくらい掛かりそう?」
「そうだな……毎日作業をして早ければ二月半か……三月は掛かるかもしれん」
「ええッ、そんなに掛かるのッ?」
太宰は素っ頓狂な声を上げて身を起こしかけた。と、急に動いたら危ないだろうと直ぐ様国木田に肩を押し返され、俯せになる。
「なるべく早く仕上がるように善処するが……俺も此処まで大きな仕事を引き受けるのはこれが初めてでな」
「ふうん。そうなんだ。私と同い歳らしいけど彫り師は長いの?」
「実際に人の肌に彫り出したのは三年前からだから、まだ駆け出しだな。それまでは紙面に絵を描いて絵の修行をしていた」
「どうして彫り師になろうと思ったの?」
「……師匠に拾われたからだ」
国木田は遠い過去を想起して語る。
「俺が生まれ育った村は近くに清い川があってな。そのためか肥沃な土地が一帯に広がっていた。清流には人が集まる。作物も善く採れるから村はそれなりに豊かだった」
今でもありありと思い出される、長閑で平和だった村の風景。村人は日の出から日没までまめまめしく善く働いた。子供であった国木田も大人達に混じって農作業を手伝った。夏の暑い盛りは歳の近い子供等と川へ遊びに行き、泳ぎの速さを競ったり、魚を捕ったりと水遊びに興じていた。日々の生活は決して楽ではなかったが、それでも村人達は皆満足そうに暮らしを営んでいた。だが、そんな平穏な日常は突如、破られた。
「あれは梅雨時期だった。その年の梅雨は随分と雨が降って、文月の終わりになっても雨季が明けなかった。降り止まない雨に或る晩、とうとう近くの川が氾濫した」
ゴォォッと云う不気味な唸り声と共に津波の如く濁流が押し寄せた。水の勢いは凄まじく、村ごと浚うようにして、あっと云う間に流し去った。家も、田畑も、人も、悉く。一晩明けて朝陽に照らし出された村の有様は惨憺たるものだった。倒壊した家屋、夥しい汚泥、流されてきた倒木や塵、それに混じって幾つもの無惨な遺体があった。水によって村は殺されてしまったのだ。
「生き残ったのは数人の大人達と子供は俺だけだった。家族を亡くして身寄りも行くところもない俺は大人達と山を一つ越えたところにある寺に身を寄せることになった。大人達は暫くして寺を出て行ったが俺は残って住職から手習いや算術を教わる傍ら丁稚として働いた」
この頃、初めて触れる学問に強い好奇心を覚え、学ぶことの楽しさに夢中になった。一日の仕事が終わり、寝る前に蝋燭の灯かりの下で広げる草双紙の面白さは格別であった。熱中するあまり、夜更けまで起きていて住職に叱られたことも一度や二度ではない。
国木田は手を休めずに言葉を続ける。太宰も痛みを堪えてじっと耳を傾けていた。
「寺には四年程いた。十を幾つか過ぎた頃、何の用事だったのか寺に師匠が訪ねて来てな。その時、住職が俺のことを話したらしい」
すると福沢は国木田に会って話をしたいと云い出したのだ。子供ながら勉強熱心で真面目な姿勢が福沢には好ましく映ったらしい。また福沢の職人としての勘が訴えるところもあったようだ。与えられた仕事を黙々とこなしていた国木田は住職に呼ばれ、福沢と面会した。
「師匠は俺に生涯此処に留まって然るべき時が来たら仏門に入って此処の住職になるつもりなのかと問い質した。俺は其処まで考えていなかったから解りませんと答えた。それならば絵の勉強をしてみないかと誘われた」
その時、咄嗟に思い出したのは胸を躍らせて読んだ草双紙の挿絵であった。福沢は国木田の胸中を見抜いたように云った。絵は絵でも紙に描くそれではない。人肌に描く図である、と。どうだと問われて、国木田が返答出来ずにいると福沢は徐に着物を諸肌脱いで背中を見せた。其処には見事な獅子が彫り込まれていた。それは福沢の師匠である先代の手によって彫られた図であった。
「その刺青を見て彫り師に?」
「そうだ。俺はあの背に圧倒された。雷に打たれたようになって、暫く口が利けなかった程だ。俺は一目で刺青の力強い壮麗さに目を奪われた。紙の上に描かれる絵よりずっと生き生きとして見えた。そう云う訳で俺は住職の元を去って師匠に連れられて此処へ来た」
「国木田君も大変な子供時代だったんだね」
太宰はしんみりと労わるような口調で呟いた。
「良くある話だ。別に珍しいことではない」
水害や旱魃 、飢饉や大きな地震、そう云った自然の脅威とは何時も隣り合わせだ。人知の及ばない自然の力の前にあって人間は酷く無力な存在である。家族を、親しかった人達を亡くした当時は悲しみに暮れた。何故、自分ばかりが生き残ったのかと罪悪感を覚えた。思い悩む国木田に住職は良くこう云ったものだ。お前が生き残ったのは御仏の御意志なのだと。生きてお前が為せることを為せと。命を落とした者達は真に気の毒であるが、それもまた天命。彼等は苦しみのない極楽浄土へ渡ったのだと僧侶らしい言葉で慰め、諭した。それも、遠い昔の話。
「和尚さんとお師匠さんは国木田君の父親代わりでもあるんだねえ」
国木田はふと手を止めて薄く笑った。
「まあ、そうだな。随分厳しい父達だが。――さて、今日は此処までにしておこう」
手にしていた道具を木箱の横に置くと、太宰の背に布を当てて血を吸い取る。白かったそれは今や彼の血汐を吸って絞り染めの如く赤い模様を描いていた。
「もう良いの?」
「ああ、お前も疲れただろう。それにそろそろ正午 になる。迎えが来ると云っていたからな」
その言葉に太宰はほっとしたように息を吐くとゆっくり身を起こした。針から解放されたとは云え、背中の痛みは直ぐには治まらず、ジクジクと皮膚を苛んだ。筋彫りを施された部分は赤くなり、少しだけ腫れていた。太宰は身仕舞いをしようと脇にあった包帯を手にして、のろのろと巻き付ける。ぎこちない手付きなのは痛みのせいだろうと見兼ねた国木田は貸せと彼の手から包帯を半ば奪うようにして器用に肌を覆っていった。元通り包帯を巻き付けると今度は着物を着せて緩んだ帯を締め直してやる。
「ほら、出来たぞ」
「うん、ありがとう」
子供のように世話を焼かれたのが恥ずかしかったのか、太宰は仄かに耳を染めて視線を外す。そんな彼を不思議そうに一瞥してから、木箱の顔料を整理していると不意に戸が叩かれた。迎えの者が来たのだ。
国木田は玄関の戸口まで太宰を見送った。
「それじゃあ、また明日」
「ああ。気を付けてな」
太宰は笑んで頷くと迎えの駕籠に乗り込んだ。駕籠かきが合図をすると、太宰を乗せた駕籠は人夫の素早い足捌きで往来を去って行った。遠ざかる駕籠を見詰めながら、ふと彼の素性が気になった。彼は何処へ帰って行くのだろう。森と云う男とはどのような関係にあるのか、また森自身についても何者なのか国木田は俄に興味を覚えた。福沢からは只、森とは旧知の仲であることしか聞かされていなかったので。明日訊ねてみようと心に決めて国木田は懐手で雲一つない碧空を仰ぎ見てから家の中へ入った。
春陽麗らかな卯月の或る日。
部屋で仕事道具を広げていた国木田は戸を
「やあ、君が福沢殿の愛弟子の国木田殿だね」
壮年の男は柔和な笑みを湛えてにこやかに告げる。彼は黒髪を肩の上で切ったまま垂らして、見るからに上等な着物に身を包んでいるその様は大きな屋号を持った裕福な商人のように見受けられた。
「はい。私が国木田でございます。貴方様は先日、お手紙を頂戴した森鴎外様でございますか?」
国木田の問いかけに男はいかにもと頷いて「しかし驚いたね。福沢殿の愛弟子が君のような若者とは……私はもっと年嵩の人物を想像していたよ」値踏みするかのように彼は国木田を見遣って歳を訊ねる。二十二になりますと答えれば、おやと森は僅かに目を見開いて背後を振り返ると「彼も君と同い年のようだ。ほらご挨拶なさい」手を引いて後ろに控えていた連れを国木田の前に押し出だした。
「……どうも」
呟くように云って軽く頭を下げた人物は、すらりと背の高い華奢な躰付きの若者だった。そのまま歌舞伎の女形として舞台に上がっても違和感のない秀でた彼の容貌に国木田は目を瞠った。大きな鳶色の瞳が印象的であった。
「こら、太宰君。そんな挨拶では国木田殿に失礼だよ」
森は連れ合いを諫めてから困ったように眉尻を下げて「すみませんねぇ。躾がなっていなくて。これでは先が思いやられる」最後は殆ど独り言のようにして溜め息を吐いた。太宰と呼ばれた男は無表情のまま所在無げに立っていた。
「いえ、そのようなことは……森様、此処ではなんですからお上がりになってください。むさ苦しいところではありますが、お茶を振舞いましょう」
「否、ご厚意を無下にして申し訳ないが、私は此処で結構。これでも忙しい身でね。すまないね。――さて。金子の相談なんだが、彫賃は如何程かね?」
「仕上がりまでの日数によりますが、二両程かと」
「二両? それでは随分
「そんなに頂く訳には参りません。私はまだ……」
「ふむ。それではこうしましょう。彫り上げた
森の提案に国木田は少し考えを巡らせていたが最終判断が師匠である福沢の目であるならば間違いはないだろうと思って「ええ、ではそれで結構でございます」と請合った。
「彫賃については私の方からも福沢殿に話を通しておきましょう。国木田殿、どうぞこの子を宜しく頼みます。君の素晴らしい腕で太宰君の背に美しい花を咲かせてやってください」
そう云って森は深々と
「万事、承りました。必ずや森様も、それから……太宰様にもご満足頂ける
「仕上がりを楽しみにしているよ、国木田殿。――太宰君、くれぐれも粗相のないようにね」
森は云い聞かせるように軽く太宰の肩を叩くと、
森を見送った国木田は土間に立ったままでいる太宰に中へ上がるように促した。彼はあまり気が進まない様子で履物を脱ぐと、式台に足を踏み入れた。
「太宰様、此方へどうぞ。お茶をお出ししましょう」
「はあ、それはどうも」
彼の気の無さそうな返事を聞きながら国木田は部屋に案内し、座布団を勧めてから茶の支度へ立った。
その間、ひとり部屋に残された太宰は物珍しげに室内を見回した。然程広くはない部屋には調度品が少なく、些か殺風景だった。こざっぱりした住まいには彼独りで寝起きしているのだろう。隅々まで手入れの行き届いている様子は家主の性質を端的に示しているようであった。
太宰の左手には仕切りとして障子紙が張られた衝立が置かれ、柔らかく陽光を透かしていた。彼は好奇心に駆られて衝立の向こう側を覗いてみた。開け放たれた窓からは明るい青陽が差して、畳の上に延べられた敷き布を清潔に照らしていた。その他に枕と畳まれた白い布切れがあり、傍らに木箱が置かれていた。木箱の中には朱、弁柄、赤、
程なくして国木田が茶を淹れた湯呑み茶碗と桜餅を載せた盆を手にして戻ってきた。どうぞと恭しい手付きで国木田は太宰の前に持て成しの茶と桜餅とを並べる。
「わあ! この桜餅、伊織屋のでしょう? 前から食べてみたかったんだよねえ」
無感動な態度だった太宰は先程とは打って変わって、俄に瞳を輝かせて嬉しそうに云った。彼の豹変振りに一瞬、戸惑いながらも「左様でございますか」国木田が頷けば、
「ね、そんな堅ッ苦しい喋り方しないで良いよ。私まで肩凝りそう。疲れちゃうよ」
太宰は大仰にはあと溜め息を吐く。
「否、しかし、太宰様は俺の、いえ、私の師匠の旧知の仲であらせられる森様のお連れ様とあらば、ぞんざいな口も利けませぬ。それに師匠からも丁重にお持て成しをするように仰せ司っております故……」
「ふうん、そう。でも私が良いって云うんだから、そんな莫迦丁寧に喋って
「それはそうだが……」
「じゃあ決まり。――ねえ、桜餅、食べて良い?」
「え? ああ、どうぞ」
いただきます、と太宰は喜色を浮かべながら小皿に載った桜餅を口へと運んだ。もぐもぐと茶菓子を頬張る姿は頑是無い子供のようで。国木田は我知らずふと目許を緩めた。と、目が合う。
「うん? 何?」
「否、随分美味そうに食うから、そんなに伊織屋の桜餅は美味いのかと思ってな」
伊織屋は巷では知らぬものがいない程、その名を馳せている老舗の菓子屋である。噂では御上御用達の店でもあるらしい。伊織屋の品はどれも上等で人々の味覚を楽しませていたが、殊に季節ものの菓子になると売れ行きに拍車がかかり、買うのもなかなかの骨折りであった。国木田も今日のために朝早く伊織屋へと足を運んで桜餅を買い求めたのだった。
「……もう一つあるが、食うか?」
森に出そうとして残ってしまった分である。
「え? 良いの? 君は食べないの?」
「ああ、俺はいい」
後で自分の分として食べるつもりでいたが、俺よりも美味そうに食っている彼にやった方が食われる桜餅も本望だろう――そんなことを思って国木田は炊事場から残りの桜餅を持ってきて太宰に出した。何だか悪いねえと上機嫌に微笑みながら彼は二つ目の桜餅を食した。自分が拵えたものではないが、食べ物を美味しそうに頬張る姿は傍から眺めている国木田に不思議な充足感を齎した。
「食い終わったら早速、作業に入りたいのだが……その、太宰さんは何処か怪我でもしているのか?」
国木田がずっと気になっていたのは太宰の躰に巻かれた白い包帯だった。腕や首に巻かれたそれは国木田の目に痛ましく映った。もし、背中にも傷があるならば治癒するまでは墨を入れることは出来ない。だが太宰の返答は国木田の予想とは違っていた。
「ああ、これ? 只、巻いてるだけだよ。何だかこれがないと落ち着かなくてね。それと、私のことは呼び捨てで構わないよ。私も君のことは国木田君って呼ぶから」
良いよね?――笑む瞳には有無を云わせない強さがあった。相手は大事な客人である。彼の好きにさせるのが一番だろうと判断して首肯した。国木田も太宰の砕けた態度は厭ではなかった。馴れ馴れしいと云うよりも親しさの表れであるかのように感じられ、初対面である筈なのに不思議と以前からの顔馴染みの如く思えた。彼の気楽な姿勢に国木田の肩の力も抜けるようだった。気を張り過ぎて無理をしていたらしい。
「ふむ。そうか。怪我がないなら良い。――さて、そろそろ良いか?」
太宰が手にした湯呑み茶碗を置くのを見計らって促すと彼は頷いて立ち上がる。
「着物と包帯、取れば良いの?」
「ああ、背中全面が見えるようにな。衝立の向こうに敷き布を敷いてあるから、俯せに横になってくれ。俺は手を清めてこよう」
国木田はそう云い残して部屋を出て行く。太宰は衝立の向こう側へと廻って着物の前を寛げた。腕を抜き諸肌脱いで、巻きつけた包帯を取り除いていく。するすると細長い布が畳の上に
太宰の傍らに膝をついた国木田は光を受けて純白に輝く白磁の肌に見入った。
「国木田君……? どうしたの?」
沈黙したまま身動きしない彼を太宰は不審そうに見遣る。その鳶色の瞳は僅かに微睡みを含んで物憂く、光線を受けて潤んでいた。素肌を惜しげもなく晒して横たわる彼が酷く艶かしく見え、瞬時にカッと国木田の血が滾った。目のやり場に惑いながら、耳の熱を払うように咳払いをしつつ、事前に森から受け取っていた図案が描かれた紙片を木箱の脇から取り出して広げた。すると横からひょいと首を伸ばして太宰が紙面を覗き込む。
「その
「そうだ。と云うか、お前は聞かされていないのか?」
「うん。花って云うのだけは知っていたけど。へえ、凄いね」
何処か他人事のような口吻で太宰は感歎する。国木田も改めて見て見事だと思った。
紙面を鮮やかに彩っているのは牡丹の花だった。大きく花開いた赤い牡丹と満開までまだ少し間のある薄紅色の牡丹が絶妙な均衡を以って配置されている。華美な花の上を一匹の揚羽蝶が優雅に舞っていた。真に美麗な図であった。この図は森の依頼を受けて国木田の師匠である福沢が描き起こしたものだった。
国木田は紙片を畳の上に置いて刺青の道具を手に握ると太宰に寝姿勢を直すように云ってから「始めるぞ」一言断って白皙の肌につぷりと銀の針を突き刺した。途端に太宰は身を捩って痛みを訴える。
「痛ッ! 痛い痛い痛いってばッ……!」
「痛いのは当然だ。針で刺しているのだからな。こら、動くな。線がぶれる」
「そんなこと云われたって……痛いものは痛いんだよう。もっと優しく……ッ! いたたた……ッ!」
痛がる彼を他所に国木田は淡々とした手付きで筋彫り――花の輪郭を彫っていく。つぷりつぷりと一針入れる毎に赤い血の玉が膨れ出て連なり、大きな粒となってやがて皮膚の上を細く流れた。血が出る様さえ妖しいまでに美しく、国木田は零れる血を拭うことも忘れて暫し見蕩れた。
「はあ……刺青ってこんなに痛いんだね。森さん、背中はそんなに痛くないって云ってたのに。嘘吐きだなあ」
うう痛い――恨めしそうに呻吟して痛みを遣り過ごそうと敷き布の端をきゅっと握り締めた。苦痛に眉根を寄せる太宰の額にはじんわりと汗が滲んでいた。墨を入れる度に痛がっていた彼は次第に声を上げなくなった。多少、痛みに慣れたのもあるが、どんなに痛がっても国木田が手を休めないことを知って騒ぐだけ無駄だと悟ったのだ。無意味な抵抗は体力を消耗するばかりである。そうは云っても痛いものは痛い。時折、太宰の唇からは苦しげな吐息が洩れた。
国木田は手を動かしながら激痛に苦悶する彼に若干の憐憫を催しつつ、しかしそれも仕事を進めていくうちに薄れて、只管に鋭利な針を薄い肌に食い込ませ、滲み出る紅玉を拭いながら黒墨を皮膚に沁み込ませて牡丹の繊細で複雑な輪郭を彫り込んでいった。
暫くの沈黙を挟んで徐に太宰が口を開いた。じっと黙っているよりは何か話をしていた方が痛みが紛れる気がしたのである。
「ね、痛みを感じなくなる薬とかってないの?」
「無いな」
「これって彫り終わるのにどのくらい掛かりそう?」
「そうだな……毎日作業をして早ければ二月半か……三月は掛かるかもしれん」
「ええッ、そんなに掛かるのッ?」
太宰は素っ頓狂な声を上げて身を起こしかけた。と、急に動いたら危ないだろうと直ぐ様国木田に肩を押し返され、俯せになる。
「なるべく早く仕上がるように善処するが……俺も此処まで大きな仕事を引き受けるのはこれが初めてでな」
「ふうん。そうなんだ。私と同い歳らしいけど彫り師は長いの?」
「実際に人の肌に彫り出したのは三年前からだから、まだ駆け出しだな。それまでは紙面に絵を描いて絵の修行をしていた」
「どうして彫り師になろうと思ったの?」
「……師匠に拾われたからだ」
国木田は遠い過去を想起して語る。
「俺が生まれ育った村は近くに清い川があってな。そのためか肥沃な土地が一帯に広がっていた。清流には人が集まる。作物も善く採れるから村はそれなりに豊かだった」
今でもありありと思い出される、長閑で平和だった村の風景。村人は日の出から日没までまめまめしく善く働いた。子供であった国木田も大人達に混じって農作業を手伝った。夏の暑い盛りは歳の近い子供等と川へ遊びに行き、泳ぎの速さを競ったり、魚を捕ったりと水遊びに興じていた。日々の生活は決して楽ではなかったが、それでも村人達は皆満足そうに暮らしを営んでいた。だが、そんな平穏な日常は突如、破られた。
「あれは梅雨時期だった。その年の梅雨は随分と雨が降って、文月の終わりになっても雨季が明けなかった。降り止まない雨に或る晩、とうとう近くの川が氾濫した」
ゴォォッと云う不気味な唸り声と共に津波の如く濁流が押し寄せた。水の勢いは凄まじく、村ごと浚うようにして、あっと云う間に流し去った。家も、田畑も、人も、悉く。一晩明けて朝陽に照らし出された村の有様は惨憺たるものだった。倒壊した家屋、夥しい汚泥、流されてきた倒木や塵、それに混じって幾つもの無惨な遺体があった。水によって村は殺されてしまったのだ。
「生き残ったのは数人の大人達と子供は俺だけだった。家族を亡くして身寄りも行くところもない俺は大人達と山を一つ越えたところにある寺に身を寄せることになった。大人達は暫くして寺を出て行ったが俺は残って住職から手習いや算術を教わる傍ら丁稚として働いた」
この頃、初めて触れる学問に強い好奇心を覚え、学ぶことの楽しさに夢中になった。一日の仕事が終わり、寝る前に蝋燭の灯かりの下で広げる草双紙の面白さは格別であった。熱中するあまり、夜更けまで起きていて住職に叱られたことも一度や二度ではない。
国木田は手を休めずに言葉を続ける。太宰も痛みを堪えてじっと耳を傾けていた。
「寺には四年程いた。十を幾つか過ぎた頃、何の用事だったのか寺に師匠が訪ねて来てな。その時、住職が俺のことを話したらしい」
すると福沢は国木田に会って話をしたいと云い出したのだ。子供ながら勉強熱心で真面目な姿勢が福沢には好ましく映ったらしい。また福沢の職人としての勘が訴えるところもあったようだ。与えられた仕事を黙々とこなしていた国木田は住職に呼ばれ、福沢と面会した。
「師匠は俺に生涯此処に留まって然るべき時が来たら仏門に入って此処の住職になるつもりなのかと問い質した。俺は其処まで考えていなかったから解りませんと答えた。それならば絵の勉強をしてみないかと誘われた」
その時、咄嗟に思い出したのは胸を躍らせて読んだ草双紙の挿絵であった。福沢は国木田の胸中を見抜いたように云った。絵は絵でも紙に描くそれではない。人肌に描く図である、と。どうだと問われて、国木田が返答出来ずにいると福沢は徐に着物を諸肌脱いで背中を見せた。其処には見事な獅子が彫り込まれていた。それは福沢の師匠である先代の手によって彫られた図であった。
「その刺青を見て彫り師に?」
「そうだ。俺はあの背に圧倒された。雷に打たれたようになって、暫く口が利けなかった程だ。俺は一目で刺青の力強い壮麗さに目を奪われた。紙の上に描かれる絵よりずっと生き生きとして見えた。そう云う訳で俺は住職の元を去って師匠に連れられて此処へ来た」
「国木田君も大変な子供時代だったんだね」
太宰はしんみりと労わるような口調で呟いた。
「良くある話だ。別に珍しいことではない」
水害や
「和尚さんとお師匠さんは国木田君の父親代わりでもあるんだねえ」
国木田はふと手を止めて薄く笑った。
「まあ、そうだな。随分厳しい父達だが。――さて、今日は此処までにしておこう」
手にしていた道具を木箱の横に置くと、太宰の背に布を当てて血を吸い取る。白かったそれは今や彼の血汐を吸って絞り染めの如く赤い模様を描いていた。
「もう良いの?」
「ああ、お前も疲れただろう。それにそろそろ
その言葉に太宰はほっとしたように息を吐くとゆっくり身を起こした。針から解放されたとは云え、背中の痛みは直ぐには治まらず、ジクジクと皮膚を苛んだ。筋彫りを施された部分は赤くなり、少しだけ腫れていた。太宰は身仕舞いをしようと脇にあった包帯を手にして、のろのろと巻き付ける。ぎこちない手付きなのは痛みのせいだろうと見兼ねた国木田は貸せと彼の手から包帯を半ば奪うようにして器用に肌を覆っていった。元通り包帯を巻き付けると今度は着物を着せて緩んだ帯を締め直してやる。
「ほら、出来たぞ」
「うん、ありがとう」
子供のように世話を焼かれたのが恥ずかしかったのか、太宰は仄かに耳を染めて視線を外す。そんな彼を不思議そうに一瞥してから、木箱の顔料を整理していると不意に戸が叩かれた。迎えの者が来たのだ。
国木田は玄関の戸口まで太宰を見送った。
「それじゃあ、また明日」
「ああ。気を付けてな」
太宰は笑んで頷くと迎えの駕籠に乗り込んだ。駕籠かきが合図をすると、太宰を乗せた駕籠は人夫の素早い足捌きで往来を去って行った。遠ざかる駕籠を見詰めながら、ふと彼の素性が気になった。彼は何処へ帰って行くのだろう。森と云う男とはどのような関係にあるのか、また森自身についても何者なのか国木田は俄に興味を覚えた。福沢からは只、森とは旧知の仲であることしか聞かされていなかったので。明日訊ねてみようと心に決めて国木田は懐手で雲一つない碧空を仰ぎ見てから家の中へ入った。
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