戀―REN―

100円が告げる愛

 太宰はショッピングモールを独りで訪れていた。今日は日曜日のせいか、随分人出が多い。家族やデート中のカップル達が明るい笑い声を立てながらぼんやりと柵に凭れている太宰の横を通り過ぎていく。時折、人の視線を感じて其方に目を向けると女学生くらいの年若い二人組と目が合った。太宰は彼女達ににっこり微笑んで見せた。途端に女学生風の二人組は満更でもなさそうに賑やかな黄色い声をきゃらきゃらと上げて、その場を立ち去っていく。何時もなら心中を持ちかけて口説いているところだが、それをしなかった。する理由も意味もないからだ。――国木田が傍にいないから。今日は公休日なのだ。太宰も国木田も。
 太宰は仲睦まじそうに手を繋いで楽しげな様子の恋人達を無表情で眺め遣って「良いなあ」呟きと共に大きな溜め息を吐いた。
 そうしてから徐に外套の衣嚢ポケットから携帯電話を取り出して、メッセージボックスを開く。釦を操作してメールを選択すると画面に表示されたのは丁度一ヶ月前――二月十四日のバレンタインデーに国木田から送られてきた短いメッセージである。

 ――来年はお前からも寄越せ。

 もう何回、このメッセージを読んだか解らない。眠れない夜に縋るように読み返すこともあった。我ながら女々しいと思いながら、メールが消えないように保護機能まで使って。だが、それも無理からぬことなのだ。業務連絡のメールは数あれど、国木田からの私信を受け取ったのはこれが初めてであったから。
  ――これじゃあまるで本当に恋する乙女じゃないか。
 太宰は苦く自嘲しながらも、送られてきたメッセージをたった一つのよすがのように後生大事にしているのだった。
 再び携帯電話の画面を見る。素っ気ない文面から不機嫌そうな声音が聞こえてきそうだが、しかし太宰は国木田から発せられたメッセージに込められた意味、彼の真意を図り兼ねていた。
 都合良く考えれば、相手にもそれなりの好意があると受け取れるし、そのように考えたいところだが、しかしあの四角四面な相棒である。壮大な配偶者計画なるものまで作って本気で実行しようとしているのだ。彼と同性である自分は掠りもしないし、そもそも圏外だろう。そうなると、益々国木田のメールは不可解である。単純にお礼としてチョコレートを寄越せと云っているのだろうか? しかしお礼と云うならホワイトデーの今日、渡すべきだし、メッセージを書くにしてもそのように書くのが普通だろう。何故、来年なのだろうか。バレンタインの時期にしか買えない好きな銘柄のチョコレートでもあるのだろうか。だが、其処でも疑問が付き纏う。
 国木田は甘い物を嫌っているふうではないが、特に好んで食べている様子でもないからだ。
 ――意味が解らない。
 ああでもないこうでもないと考えるより、本人に問うてみるのが一番早いと太宰自身理解していたが、しかし訊くのは憚れた。それに口惜しい。――何となく。
「そう云えば国木田君、文ちゃんにちゃんとお返しあげたのかなあ」
 数日前、休憩時間に文に何を贈ったら良いのかと与謝野やナオミに尋ねていたのを思い出す。女性陣にホワイトデーは三倍返しだと囲まれていた国木田は心なしか青い顔をしていた。バレンタインデーに文から貰った物の値段に見当が付かなかったようだ。恐らく彼女から贈られたものは手作りだったに違いない。それでも彼は生真面目に女性陣の意見を参考にしようと手帳に控えていたのを、太宰は長椅子ソファに寝転がりながら視界の端に捉えて知っていた。
 其処でふと思いついて電話をかけた。何度目かの呼び出し音の後にもしもし――聞き慣れた張りのある声が応じる。
「やあ、国木田君。御機嫌よう」
 見えない相手に向かって微笑みかける。頭の片隅で仏頂面を思い浮かべながら。
『何だ太宰。休日に。事件か?』
「本当に君は仕事熱心だねえ」
 思わず洩れる苦笑に電話の向こうでむっとしたような気配の後、国木田の声のトーンが落ちる。迷惑だと云わんばかりに。
『要件を早く云え。俺は忙しいんだ』
  ――電話を切られないだけましか。
 太宰は身を反転させて柵に凭れ掛かり、吹き抜けの天井を見上げる。照明が眩しい。
「ほら、今日、ホワイトデーでしょ。国木田君、ちゃんと文ちゃんにお返し渡したのかなあって。少し前に何を贈ったら良いか悩んでたから」
『そんなことで電話をかけてきたのか?』
 明らかに不審そうな口調である。だが太宰は敢えて無視をして何でもないように能天気に返す。
「私今丁度、駅前のショッピングモールに買い物に来てるんだよね。ついでに良さそうな物、一緒に選んであげようか?」
 すると国木田が押し黙った。何か考えているのか。随分と長いこと沈黙が続くので電波状況が悪いのかと「あれ、もしもし? 国木田君? 聞こえてる?」呼びかける。
『聞こえている。――太宰、今晩暇か?』
「え、うん。何?」
『晩飯食いに来い』
「急にどうしたの?」
 思いもかけない誘いに目を丸くする。
『別にどうもしない。冷蔵庫の余りものを片付けたいだけだ。少し早いが、六時頃来い。じゃあな』
 国木田は早口で告げると太宰の制止を振り切って一方的に電話を切った。無機質な不通音が流れてやがて途切れる。狐につままれたように唖然として太宰は手にした携帯電話を眺めた。それから目的を達せられなかったことにどうしたものかと思考を巡らせていたが、一先ず先に買い物を済ませてしまおうと衣嚢に携帯電話を放り込んで歩き出した。

***

 午後六時になって太宰は国木田の家を訪れた。
 余りものと云うには円卓テーブルに並んだ料理は品数が多く、彩りも鮮やかだ。用意された座布団の前に立って温かな湯気を立てている料理を眺めていると「どうした? 座れ」二人分の茶を淹れてきた国木田が促す。つくづく相棒はマメで器用だと思いながら太宰は手に提げたビニール袋を脇に置くと静かに外套を脱いで座布団の上に腰を下ろした。
「そう云えばさ、文ちゃんにホワイトデーに何をあげたの? ちゃんと三倍返しした?」
 つけっ放しのテレビから流れる、お菓子のコマーシャルを切っ掛けにして太宰はずっと気になっていたことをさり気ない調子で訊ねた。昼間、電話でそれとなく探りを入れようとして果たせなかったことである。今はこうして対面しているために持って回った云い方をするよりは素直に訊ねた方が自然だろうと判断したのだ。
 国木田は魚の煮付けを綺麗にほぐしながら小さく頷く。彼は食べ方も綺麗だ。見ていて気持ちが良い。
「何か使えるものが良いと思ってな。手巾ハンカチを選んだ」
 それだけでは物足りない気がしたから見た目にも華やかなお菓子も添えたと云う。
 ――彼は手巾を贈る意味を知っているのだろうか。否、恐らく知るまい。
「ふうん。それで、文ちゃんは何て?」
「別に。普通だったぞ」
「またまたあ。将来のお嫁さんじゃないか。もっと何かあるでしょ。隠したってだーめ」
「だから何もないと云ってるだろうが。執拗しつこいぞ」
「それじゃあ私が文ちゃんに電話して直接訊いちゃおうっと。彼女の連絡先、知ってるんだよねえ」
「止せ、莫迦」
「なあに?  もしかして、訊かれて困ることでもあるの?」
「ある訳なかろう、阿呆っ」
「じゃあ良いじゃない」
 太宰は洋袴ズボンの衣嚢から携帯電話を取り出す。国木田は箸を置いて彼の手から小さな機械を取り上げた。これは没収だ—―取り返そうとする手を払い、目許を険しくさせて相棒を睨み付ける。
「本当に辞めろ。と云うか、どうしてそんなに拘るんだ。お前、何だか変だぞ?」
「別に拘ってなんか—―」
「嘘吐け」
 鋭い声音にぴしゃりと頬を叩かれたような気がした。
 —―国木田は怒ってる。
 平素から怒りっぽい彼であるが—―と云うよりも太宰が怒らせているのだが—―普段の脊髄反射のような、あの怒気とは違う。静かに、だが本気で怒っているのが解った。自業自得とは云え、キリキリと心が痛む。彼を怒らせたい訳ではない。只、少しばかり揶揄からかっただけだ。自分の報われない恋心を茶化して、何かの冗談として処理したかっただけだ。これ以上、傷付きたくないから。所詮、自分が可愛いだけなのだ。そんな己に反吐が出る。どうして人は恋をすると、こんなにも憶病になってしまうのだろう。
 太宰が視線を落として押し黙っていると国木田はやや困惑したように「太宰?」顔を覗き込むようにして首を傾げた。
「……ごめん」
 目を上げぬまま、ぽつりと呟くと、「あ、いや……俺の方こそ、すまん」
 これは返す—―太宰の前に携帯電話を置く。気拙い空気を払拭するようにして国木田は話題を転換する。ふと目に留まった太宰の傍らにあるビニール袋を顎でしゃくりながらそれは何だと問うた。国木田は極軽い気持ちで訊いたのだが、太宰にとっては核心に触れるような問いだった。
「あー、これ」
 箸を置いてビニール袋を引き寄せる。
 袋の中身は百円の板チョコが二枚。一つはブラックチョコレート、もう一つはホワイトチョコレートだ。先月、国木田から板チョコを貰ってから、甘い物が欲しい時は何となく同じものを買うようになっていたのだ。ホワイトチョコレートは今日に因んで買い求めた。ショッピングモールでホワイトデーの贈り物をあれこれと見て回ったが、どれもぴんと来なかったのだ。それで結局近くのコンビニエンスストアで二種類の板チョコを買ったのである。
 たかがチョコレートだが、買うのも此処へ持ってくるのも、散々迷った。その迷いは今でも完全には振り切れていない。国木田が何も云わなければ、気が付かなければ、こっそり持ち帰っただろう。しかし、賽は投げられた。大袈裟な表現だが、太宰の心境としては正しく吉と出るか凶と出るか、伸るか反るか—―否、どう考えても大凶である。結果は玉砕。目に見えている。はっきりふられた方が却ってすっきりするに違いない。意を決する。
 太宰は袋の中身を取り出して白と黒の板を国木田に差し出した。
「はい、これ。君にあげようと思ってさ」
「俺に?」
 眼鏡の奥で意外そうに目を見開いて、国木田は二枚の板チョコと太宰との顔を見比べる。
「そう。だって今日はホワイトデーだからね。何方どちらも百円だけど。ブラックチョコレートは、まあ、おまけで」
「……それは、どうも」
 僅かに迷った後、チョコを受け取ろうとすると、太宰は手を離さなかった。おい――国木田が些か不満げな声を上げると、相手は何時になく真面目な顔で「ねえ聞いて」じっと見返した。平素から巫山戯通しの彼が見せた珍しい態度に国木田も自然と居住まいを正す。何を云う心算なのだろう――生唾を呑み込む。
「この際だから云うけど。私、君のことが好きだよ。特別な意味で」
 ――今、太宰は何て云った?
国木田は鸚鵡返しで問う。
「は? 特別な意味?」
 理解が追い付いていないのか、目が点になっている堅物な相棒を見遣って太宰は肩を竦めた。
「だから、恋愛的な意味ってこと。まあ、私はこの通りだし、君の配偶者計画に掠りもしないしね。どうせふられるのは解かってたから、今云った方がすっきりするかと思って。時機タイミングを逃すと余計云いづらいし――ってことで。はい、おしまい」
 感情を込めずに淡々とした口調で告げて、手にしていた板チョコを国木田に押し付けた。
 重たい沈黙がふたりの間に横たわる。
 国木田は黙したまま、身動ぎもしない。完全に固まっている。予想もしていなかった告白に衝撃ショックが大き過ぎたのだろうか。無理もないと思いながら、少しだけ胸がチクりと傷んだ。
「……えっと……国木田君? 大丈夫?」
 にじり寄って項垂れている彼の肩を揺さぶりながら下から覗き込む。凶悪な顔付きはこれ以上ないまでに眉間の皺が深い。怒気を漲らせた表情は慣れている太宰でも引いてしまうくらいだ。ぎろりと見据えられて反射的に「ひッ」と小さく悲鳴を上げた。
 結構――否、大分、怖い。
 すると呻くような声がした。地を這うような、低い声。
「……お前……本ッ当に、俺の予定を乱すのが好きだな」
「え? 何?」
 国木田は深く息を吐きながら顔を上げて手にしていた板チョコを円卓の上に置く。
「俺は、お前に来年と云っただろうが」
「……来年って何のこと?」
「だから、メール、送っただろうが」
 ぶっきら棒に云う国木田の目が泳いでいる。目許がほんのりと色付いているのは気の所為だろうか。太宰は凝視しながら自分の目がおかしくなっているのかと瞬きをする。おかしくなっているのは目じゃなくて頭かな――意識の片隅でそんな埒もないことを一瞬考えた。国木田はあらぬ方向に目を向けたままだ。
「来年って……あのメールのこと?」
 ――来年はお前からも寄越せ。
 何度も読み返した国木田からのメール。
「そうだ。来年――来年のバレンタインにお前に云おうと思っていた。手帳にも、そう書いた」
「何を?」
 惚けている訳ではなかった。太宰は本当に解らなかったのだ。
「な、何をって、それくらい解かれ、莫迦っ」
 漸く太宰の顔を見た国木田は真っ赤になって怒鳴った。
「解かれって――」
 太宰はぐわんぐわんと妙な音が鳴る頭で必死に彼が云わんとしている言葉の意味を繋ぎ合わせる。
 ――要するに。彼は。
 どくどくと蟀谷こめかみで脈打つ血の流れが速い。
「……私のことが好きってこと……?」
 途端に国木田は更に顔を赤らめる。首の方まで真っ赤だった。しゅうしゅうと湯気が出そうなくらいに。
「え、噓でしょ?」
 反射的に口を突いて出た。
 国木田が自分を好きだと云う。
 自分で云っておきながら、途轍もない嘘だと思ったのだ。そんなことはありえないと。だって、君の理想の恋人は。私とはまるで正反対だから――。
 半ば唖然としている太宰の耳を国木田の声が搏つ。
「俺は、嘘を云わない」
 噛み締めるように断言する言葉には真実そのものの重みがあった。その重たい響きは太宰の胸を衝き、はっとさせる。
 ――そうだ。
 国木田は何時だって愚直なまでに正直だ。傍から見ていて眩しく思うくらいに。嘘が下手な、不器用な人。それだから彼に惹かれたのだ。何処までも真っ直ぐな彼に。
 だがそれでも実感がない。太宰は確認するように云う。
「えーっと、じゃあ、私達は、両想い?」
「まあ、そう云うことだな」
 眉間に皺を刻んだまま頬を紅潮させて小さく頷く。まるで怒っているような表情に太宰は小さく笑った。国木田を好きだと思った。
 国木田は円卓の端に置かれた板チョコを見遣る。
 ほろ苦かった百円分の戀は蕩ける甘さの愛となって返ってきた。
「折角だ、後で一緒に食うか」
「うん」
 太宰は淡く笑んでチョコレートの甘さを思った。

 電灯の下、包装紙から僅かに見えるアルミの包み紙が眩く銀色に光っていた。
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