戀―REN―

100円が語る戀

「只今戻りました」
 外回りから戻って来た国木田は生真面目に云いながら事務所のドアを潜った。と、一斉に社員達の視線が彼に集まった。一体何だと訝しく思いながら、自席に歩み寄ると机の真ん中にちょこんと小さな箱が置かれているのを認めた。綺麗に包装されたそれを、はて何であろうかと首を傾げて見遣ると、長椅子ソファにのんべんだらりと横になっていた太宰が「おかえり~」呑気にひらひらと白い手を振りながら身を起こして云う。
「それ、文ちゃんからだよ」
「は? 文?」
 思いがけない人物の名前が出てきて国木田は目を丸くする。すると太宰がにやにやと意地の悪いような笑みを口元に浮かべながら相棒の隣に立ち、君も隅に置けないねえなどと肘で小突きながらのたまう。明らかに揶揄やゆする口調で。
「ほら、あの無差別爆弾魔の被害者の子でしょ。幸田文ちゃん。私も君の報告書を読んで知ってはいたけど。文ちゃん、可愛い子だねえ。将来は女傑って感じ」
「否、待て。どうして文が探偵社に――」
「どうしてって。だから、その小さな箱だよ。君に渡したくて来たんじゃないか」
 今日はバレンタインだからねえ――何処か楽しげな様子の太宰に、そう云えばそんな日だったかと思い出す。
  国木田は文が持ってきた小さな箱の意味をそれ程重大には考えていなかった。精々、あの事件に関するお礼であろう。そうとしか考えられなかった。しかし太宰は国木田の推測とは全く逆のことを、実に愉快そうに喋り倒した。くねくねと気色悪く身をくねらせながら。
 ――お前は軟体動物か。
 思わず相棒の頭を引っ叩きたくなるのを、一応、耐える。
「君、外回りでいなかったからね、代わりに私が応対しておいたよ。いや~、文ちゃん、随分国木田君のことを気に入っているようだったよ。可愛い顔を少し赤らめちゃったりして。あれはもう、完全に恋する乙女だね。良かったねえ、国木田君。嫁の来手があって。私も丁度良い組み合わせだと思うよ。文ちゃんの気性を思うと。まあ、間違いなく君は尻に敷かれるだろうけど。何がともあれ、祝福しよう。おめでとう、国木田君」
「はあ⁉  勝手なことをぺらぺらと喧しいわッ! 第一、文はまだ子供だろうがッ。それに俺の配偶者計画だって――」
 直接彼女に云ったのだ。
条件五十八項目中、三十一項を満たさんので却下だ、と。
「子供だって恋くらいするよ。それに、君が思っている以上に彼女は大人だよ」
 太宰はふと真顔になった。すうと細められる鳶色の瞳が国木田を一瞬、捕らえて、彼から言葉を奪った。二の句が継げられずにいると、ぱっと太宰は明るく笑って手を差し出す。
「私にチョコレート、頂戴よ」
「何故お前にチョコをやらなければならん。やる義理はない」
「あ痛ッ」
 ぺしりと手を叩いて斥けた。
「国木田君のケチ~」
 むうと膨れる太宰を睨むように一瞥して、自席に着く。
「ケチだろうが何だろうが、お前にはチョコはやらん。寧ろ俺の方が貰いたいくらいだ」
「え? 国木田君、私からチョコ欲しいの?」
 何かの聞き間違いではないかと訝しみながら瞳を瞬かせる。と、国木田は慌てたように音を立てて椅子から立ち上がり、大声を張り上げた。
「否、そうではなく! 決してそうではなくてだな! 只、日頃の迷惑料としてだ!」
 バン!と机上を叩く。派手な音に社内がざわついた。彼等に向けられた好奇の目は何時ものやり取りがまた始まったと、些か残念そうな色を見せながら呆気なく散っていく。
「何が『そうではない』の?」
 問われて、言葉に詰まった。しまった、と思った。
 一方、太宰は国木田の心裡を見透かすような目付きで凝視する。
 その視線の居心地の悪いことと云ったら。
 太宰の、こう云う目は嫌いだ。と云うか、少し恐ろしいような気がするのだ。己の凡てを暴き立てられるような、恐怖感。
 沈黙に耐え兼ねて国木田が口を開く。
「な、何だ?」
「――別に。まあ、チョコレートの件は考えておくよ」
 それだけ云うと太宰は再び長椅子に長身を横たえて、小さく欠伸をすると目を閉じた。
 堂々と仕事をサボるな――何時もの小言は、国木田の口から洩れることはなかった。代わりに大きな溜め息が零れた。
 机上に取り残された文からのチョコレートが酷く侘しげだった。本人に返すことも、況してや捨てることなど出来る筈もない。どうしたものかと考えた末、国木田は小さな箱を鞄の奥底へと押し込んだ。

***

 時間通り一日の業務を終えて、国木田は帰宅の途に就いていた。足早に歩む彼の後ろを追いかけるように太宰がついてくる。同じ社員寮に棲んでいるから、彼にその気がなくとも帰り道は一緒になってしまうのだが。
「ねえねえ、国木田君。チョコレート、頂戴よ」
「五月蠅い」
「君だって私からチョコレートを欲しがっていたじゃない」
「あれは、別に――忘れろ」
「私、チョコレートが食べたいなあ。頑張って仕事をした後は疲労回復に甘い物が覿面に利くんだよねえ」
「嘘吐け。お前、ずっと長椅子で寝こけてただろうが」
「やだなあ、寝るのにもそれなりに体力が要るのだよ。だから、チョコレート頂戴」
 国木田は足を止めて振り返る。
くどい! 俺にたかるな! そんなにチョコが食いたければ自分で買え! 直ぐ其処にコンビニもあるだろうがッ!」
ビシッと指差す方向に、煌々と夜道に明るい店構えのコンビニエンスストア。太宰は溜め息と共に声のトーンを落とす。
「だから。ずっと云っているでしょう。私は君からチョコレートが欲しいのだよ」
 薄く笑う顔が少しだけ寂しそうに見えるのは、気の所為か。はたまた店舗から洩れる光線のせいだろうか。深い色をした瞳が光に潤んで見えたのも、何かの錯覚なのだろうか。
「――あのさ、国木田君」
 云いかけた言葉を、国木田が遮った。
「……良い、解った。少し其処で待ってろ」
「え、国木田君?」
 追って来ようとする太宰の声を振り切って国木田はコンビニエンスストアへと向かった。
 その場に残された太宰はやや唖然として、店内へ入って行く長身をぼんやりと眺めていた。
 数分後。
 国木田は小さなビニール袋を提げて戻って来た。
「お前が欲しがっていたチョコレートだ。やる」
 問答無用に太宰に袋を押し付けると、戸惑う彼を他所に国木田は歩き出す。
「ちょっと国木田君。待ってよ」
 しかし彼は振り返らなかった。すたすたと歩んで角を右に折れ、やがて姿が見えなくなった。
 太宰は半ば項垂れて、抱えていたビニール袋の中を覗いてみた。入っていたのは一枚の板チョコ。何の飾り気もない、至って普通の、百円のチョコレートだった。しかも、ブラックチョコレート。
「……国木田君ってば」
 今時、コンビニにだってバレンタイン用のチョコレートが売っていると云うのに。本当に彼は、何も解っていない。あまりのことに笑いが込み上げてくる。だが、彼らしいとも云える。
 こうしてチョコレートをくれただけでも、有難く思わなければいけない。欲張ってはいけない。期待をしても、いけない。それでも、彼が好きだと云う気持ちは消せなかった。
 太宰はのろのろと寒い夜道を独りで歩いて帰った。

***

 帰宅した国木田は、部屋着に着替えて、鞄の奥底に仕舞っていた小さな箱を取り出して円卓テーブルの上に置いた。
  ――この小さな箱にどれだけの気持ちが籠っているのだろうか。
 太宰は恋と口にしていた。
「……恋、か」
 彼に渡した素っ気ない板チョコに恋情が込められているとは流石に思わないだろう。
 そう、国木田とて渡すべきチョコの種類ぐらいは解かっていたのだ。百円の板チョコではなくて、綺麗に包装された、少し特別感のあるものを。バレンタインを口実に、半ばどさくさに紛れるような形で想いを告げてしまえば良かったのかもしれない。
  太宰が執拗にチョコレートを要求したのは、文の話を面白がって囃し立てたのは、詰まる所、そう云うことなのだろうかと思ったのだ。が、それはあまりにも都合が良過ぎる考えだと打ち消した。単に何時もの、彼流の嫌がらせだろうと思い直して。だから、何の変哲もない板チョコ一枚を買って渡したのだ。
 ――太宰は、どう思ったのだろう。
  恋を知って欲しいと何処かで望みながら、しかし同時に知られたくないと彼から逃げている己を自嘲する。全くらしくない。自分を見失っている。
 恋は盲目とは良く云ったものだ。恋は、恐ろしい。恐ろしく、頭が莫迦になる。
 深く息を吐きながら畳の上に寝転ぶと、円卓の上で携帯電話が震えた。見ると太宰からのメッセージである。携帯電話を操作してメッセージボックスを開く。

――ご馳走様。

 粗方食べ尽くしたのだろう、包装紙の画像と共にそんな言葉が添えられていた。
 国木田は僅かに頬を緩めた。やはり彼を好きだと思った。
 そうして少し考えた後、返信した。

 ――来年はお前からも寄越せ。

 百円分くらい、この恋が伝わっていれば良いと、国木田は密かに思うのだった。
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