戀―REN―

I love you の訳し方

 夏の夜は闇が薄いように太宰は思った。何か一枚、薄絹を被せたように感じられて頬を撫でる夜気がざらついているのはその茫漠した薄膜の所為だと辺りを包む夜陰を思った。しかし隣を歩む国木田は違うふうで、夜は温く肌に貼り付いて不快だと眉間に皺を刻む。
「それって汗で襯衣シャツが湿っているからじゃない?」
「ああ、そうかもな」
 帰って早く風呂に入りたいと零す。
 日中の暑気を孕んだまま夜は深まろうとしていた。
 彼等は一日の業務を恙無く終えて、帰宅の途に就いていた。駅周辺の繁華な通りを過ぎて住宅街へと足を踏み入れた頃には、国木田はじんわりと背や首元に汗を滲ませていた。少し歩いただけでこれである。不快指数は上がる一方だ。
 まだ八月半ば。今年も残暑は厳しそうだ。冬の透った寒さを恋しく思いながら「お前、包帯を巻いていて良く平気だな。見ているだけで暑い」太宰を一瞥すると彼はのんびりと「まあ慣れているからね」唄うように告げる。慣れるものなのかと些か胡乱な目を相棒に向ければ、
「やあ、月が綺麗だ」
 声に倣って視線を宙へ放った。思わず感歎が洩れた。
「本当だ」
 濃紺のそらに十六夜月が孤独に浮かんでいた。月色は涼しげに冴えた檸檬色。街灯の明かりが月光を退けて薄めていたが、天から注がれるそれは瑞々しく滴る程の澄明な光だった。そう、まるで国木田の髪色と眸の色のような――太宰はそっと恋人を盗み見てひとり微笑む。
「そう云えばさ。I love youを月が綺麗ですねって訳した小説家がいたけれど。国木田君なら、何て訳す?」
太宰は悪戯っぽく夜を宿した瞳を細める。
 潤んだ眸の底に揺曳ようえいするのは月明かりか、それとも――。
 国木田は視軸を外して素っ気なく応じる。
「さあ、何だろうな」
「何それ。もうちょっと考える振りくらいしてくれても良くない?」
 不満に口吻を尖らせてむうと頬を膨らませる。その表情や仕草が少しだけ――否かなり可愛いと思ってしまうのはやはり惚れた弱みなのだろうか――ちらりと想い巡らしながら、しかし態度は崩さないまま国木田は問う。
「じゃあ、お前はどうなんだ」
 すると太宰は良くぞ訊いてくれたと云わんばかりに、にんまりと喜色を咲かせる。
「私? 私はね――私と心中してください、かな」
「云うと思った」
 国木田は呆れたように溜め息を吐く。毎日のように心中だ入水だ自殺ごっこだと騒いでいる男のことだ。容易に想像はつく。
 好みの美女を見つけては心中してくれとたわけた口説き文句を垂れている己の恋人である太宰。彼流の『I love you』、愛していると云う睦言。
 それを、自分以外の誰かに吐いて――只の戯言だと解っていても、赦し難い。自分の手を振り解いて死と戯れようとすることも、虚言でも誰かに愛を囁くことも。計算でも何かの駆け引きであっても――国木田は嫉妬の籠った眼で太宰を見遣る。
 太宰は十六夜月の真下に立って美しく笑っていた。それからふと真顔になる。
「――国木田君、私と心中してください」
 祈りを捧げるような、真摯な告白を国木田は間髪入れず撥ね付けた。
「断る。俺はお前と心中する覚悟は持ち合わせてはいない。あるのはお前と共に生きる覚悟だけだ」
「……それって」
 太宰は虚を衝かれたかのように瞳を大きく見開いて国木田を見た。
「愛してる」
「え?」
「だから、愛してる。――I love youを訳しただけだ」
 視線を逸らして、ぶっきら棒に、半ば吐き捨てるように告げる国木田の目許が仄かに赤い。不器用な恋人の告白に太宰は苦笑を禁じ得なかった。でもそれがとても彼らしくて、酷く愛おしい気持ちになった。
「それじゃあ、私も改めよう」
  ――愛してる。
 にっこり微笑んで告げると「さっさと帰るぞ」国木田が些か乱暴に手を掴んだ。含羞に火照る頬の熱は暫く冷めそうになかった。
 十六夜月の下を彼等は手を繋いで歩いていく。
 夏の薄い闇の中、肩を並べて。
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