戀―REN―

風光る桜の下の戀うる人

 昼食を終えた国木田は自席で愛用の手帳を広げていた。午後の業務を確認して手帳の頁を捲り、土曜日の欄に書き込まれた花見の文字を目に映して場所取りの段取りについて思考を巡らせていると「私、良い場所知ってるんだよね」突然背後から声を掛けられて、やや驚いたように振り返った。と、思いの他間近に太宰の顔があって面を喰らってしまう。しかし相棒は国木田の反応には意を介さず、彼の肩越しに開かれた手帳の頁を見遣って「去年は隣にポートマフィアの連中がいたからねえ。今年は場所を変えた方が良いんじゃない?」何処か険のある口調で告げる。
「ああ、確かに去年は彼奴等がいたな」
 相槌を打ちながら、太宰と中原が騒がしく飲んでいたなと口の中で呟いて記憶を辿る。主に突っ掛かっていたのは中原のように国木田は記憶していたが、太宰のことだ、どうせ碌でもないことをして挑発したのだろう。当の国木田と云えばあまり飲めぬのに注がれるままに酒杯を重ねてしまい、随分酔ってその後難儀したことを薄っすらと憶えている。あれは失態だったな――去年の花見のことはあまり思い出したくない。それなりに楽しい一時だったけれども。
「それで? 良い場所とやらは何処だ? 近くか?」
 問いながら訝しむ。この近辺に花見に打って付けの場所などあっただろうか。首を傾げている国木田に太宰は得意そうに笑う。
「結構近くだよ。人もあんまりいないし、なかなかの穴場でね。そうだ、今から下見に行こうじゃないか」
 天気も良いことだし――椅子に腰掛けている国木田の腕を取って立ち上がらせる。
「おい、太宰、待て」
 太宰の手を押し止めるように壁に掛けられた時計を一瞥する。午後十二時三十四分。
「大丈夫大丈夫。本当に近くだから午後の業務までに戻って来られるよ。さあ、行こう」
 渋る国木田を引き摺るようにして、太宰は足取り軽く事務所を出た。

 建物を出ると春陽の眩しさに、一瞬目が眩む。
 陽射しに温まった空気は柔らかく、気持ちの好い陽気だった。
 太宰が云うように今日は良く晴れていて空が抜けるように青い。ふんわりとした白い綿雲が呑気そうに浮かんでいる。国木田は色素の薄い双眸に天穹を映して、不意に眠気を覚えた。水蒸気の塊に過ぎない白い雲があまりにも長閑なので。まるで長椅子に寝転んでいる太宰みたいだ――そんな埒もないことを考えて、眠気を振り落とすように僅かにかぶりを振った。欠伸を噛み殺す。乾いた土瀝青アスファルトに濃く短い影が落ちるのを時折、目の端に映して歩む。
 一方、国木田の数歩先を行く太宰は上機嫌なふうで、砂色の外套の衣嚢ポケットに両手を入れて調子外れな鼻歌を歌っていた。道行く人達も心なしか皆一様に明るい表情だ。楽しげな人々のさざめき、忙しない雑踏が立ち並ぶビル群の壁面に反響して空へと音が抜けていく。
只、春と云うだけでこうも人は浮かれたような気持ちになるらしい。
 国木田も何か浮足立つような、漫ろな気分になる。それは太宰の鼻歌のせいかもしれなかった。
 やがて繁華な通りを抜けて、住宅街へと入り込む。
「太宰、こんなところに花見が出来る場所が本当にあるのか?」
 黙々と細い背を見ながら歩いていた国木田はどうにも腑に落ちない様子で、猜疑の目で辺りを見回す。仕事で何度か足を運んでいるエリアではあったが、花見に適うような桜の樹があったかどうか記憶にない。すると太宰がちらりと振り返って「大丈夫だって。ちゃあんとあるから。其処の角を曲がると直ぐだよ」きゅうと目を細めて悪戯っぽく笑った。
「なら良いが……」
 腕時計に目を落とす。結構な距離を歩いたように思ったが、時間にして十分程度しか経過していない。時間感覚が狂うのも春のせいかもしれない。襯衣シャツの下でじんわり汗ばむのを不快に思いながら国木田は目を眇めて太宰の後に続く。相変わらず太宰は調子の外れた、いい加減な節をつけて鼻歌を歌っていた。
 角を曲がり、唐突にひんやりとした影の中に入る。刹那、くらりと軽い眩暈を覚えた。陽射しから逃れた国木田はほう、と深く息を吐く。躰に籠った熱が徐々に冷めてゆく。
 細い路地に沿って連なる右手の古びたブロック塀から無数の竹が手入れもされぬままに無造作に伸びて、濃い影を落としていた。鬱蒼と茂る竹林は斑に立ち枯れて色褪せ、白茶けている。今年は季節の歩みが随分と早い。
 何気なく路地の奥――正面に視軸を転じると、はっと息を呑んだ。そのまま歩調を緩め、遂には立ち止まって国木田は目を瞠った。
 視界に飛び込んできたのは燃えるような薄紅色。金網柵の向こうに静謐に佇立している桜の巨木があった。
「どう? 凄いでしょう?」
「……ああ、凄いな」
 満足そうな笑顔の太宰に半ば呆然となって国木田は呟いた。
 降り注ぐ麗らかな陽光の中で爛々と花開いた桜は夥しい群れを成して国木田と太宰の視界を淡く染め上げる。壮絶な美しさ、凄艶なまでに咲き乱れた桜は、その全身であらん限りの生命いのちを燃やしていた。散り際の美しさ故に儚い夢のような花がこれ程までに力強く見えたことはなかった。
 春、爛漫――そんな言葉が思わず口を突いて出そうになるのを、国木田は寸前で呑み込んで陶然と花盛りの桜を見詰めた。
「どうせなら、もっと近くで見ようよ」
「え? ああ、そうだな」
 太宰に手を引かれて歩き出す。と、金網柵――桜の巨木の向こう側にちらちらと何やら不穏な物が見え始めて国木田の脚は重たくなった。厭な予感がする。否、予感ではない。確信である。
 ちらちら見えている物――天に伸びる細長い木の板、四角く切り出された石の群れ、薄らと漂ってくる線香の匂い。国木田の頬に苦り切った色が走る。痙攣するように口元が歪む。
「おい、太宰。此処は――」
「うん? ああ、そうそう。直ぐ其処は墓地だよ。墓地の向こう側にはお寺があって」
「否、待て待て。流石に目と鼻の先に墓地があるところで花見など――」
「何、国木田君。怖いの?」
 すうと太宰は目を細めて冷ややかな視線を送る。何処か小莫迦にするような笑みを含ませながら。国木田はぐっと言葉を詰まらせた後、がなり立てる。
「だ、誰が! 怖くなどないッ! 只、俺は墓地の近くで騒がしい花見をするなど非常識だと云っているんだッ」
「まあまあ良いじゃない。せっかく此処まで来たんだし、近くで桜を見て帰ろうじゃないか」
「太宰、待て! 俺は……ッ!」
「ほら、行くよ~」
 細腕の何処にそんな力があるのかと驚く強引さで太宰は喚く国木田をずるずると引き摺って桜の下――人気の途絶えた墓地へと進んだ。

 ――白昼の下、成人男性の悲鳴が響き渡ったとか何とか。

***

「国木田君、見給えよ」
 太宰は白い手を伸ばして地面の方へと傾いだ、花をつけている枝にそっと触れる。清楚な桜花はしっとりと水気を含んで天鵞絨ビロードの手触りだ。触れた花弁から淡い香気が立ち上る。花群れを透かして零れる春光は仄めいて白く太宰の蓬髪へ、かんばせへと落ちて照らす。
 モザイクのように、僅かに濃淡のある光と影の中に佇む太宰の端正な横顔を国木田は盗み見た。彼は、美しかった。
「此処を見つけたのは偶然だったんだけどね。あんまりにも綺麗だったからさ、君に見せたかったんだ」
 そう云ってはにかむように微笑する。花見云々は只の口実だったのかと国木田は合点して、そうか――目許を微かに和らげて彼を見返した。太宰の稚気ある心積もりを嬉しく思った。
「どう? 気に入った?」
「ああ、そうだな。とても、綺麗だ」
 云いながら国木田も可憐な花へと手を伸べる。触れた指先から桜の香りがふわりと匂うようだ。
 清風が黒髪を撫で、長い金糸を攫う。桜がざわめく。花は零れずに柔い風に身を慄わせる。
 国木田君――太宰は隣に立つ長身と向き直って真っ直ぐに見詰めた。鳶色の瞳はつよかった。揺るぎない感情――意思が双眸に、瞳の奥に煌めいていた。見据えられて縫い留められたかのように目が逸らせなくなる。
「好きだよ」
 国木田は目を見開いた。
 太宰の短い言葉は国木田から時を奪った。
 返すべき言葉も、視線も、呼吸すらも、何もかもを。
 只、その一言で国木田は凡てを奪われてしまった。そうして心の臓に花開くように、静かに情愛が充ちていくのを感じていた。永遠とも感じられる刹那の只中にあるのは太宰も同じだった。
 満開の桜の下、記憶に過去へと引き戻される。
 薄紅色が募る雲の如く たけなわだった穏やかな春の日。
 眩い陽射しに太陽のように髪色を輝かせていた彼を好きだと思った。澄んだ月色の瞳に縛され、胸を貫かれた。
 あの日から、ずっと。
 そして今も。
 太宰――国木田は一歩、距離を詰め、腕を伸ばして白い頬に触れる。
 彼の体温に身を委ねるように太宰は長い睫毛を薄く伏せると緩く抱き締められた。国木田の、己にすっかり馴染んだ匂いに包まれ、耳元に吐息を感じた。大きな手が背を抱き、片方の手は髪をくしけずる。こうされていると酷く安らかな、寛いだ気持ちなり、もっとと強請るように太宰は殆ど無意識に国木田に躰を擦り寄せた。優しい手付きで頭の後ろを撫でると、うっとりと夜色の眸が開かれる。切ないまでにふたりの胸は高まり、張り詰めて、溢れ出ようとするどうしようもない愛しさに衝かれて国木田は太宰の細い顎を捕らえた。
 涙の膜が張った目には桜と国木田が重なり合った像が映り込んで、しかしその虚像は程なくして崩れ去る。赤い眼裏まなうらに愛しい人と桜の残映を宿して、優しい熱を唇で受け止めた。背に回された腕に強く抱かれ、太宰もきゅっと黒い襯衣を握り込む。
 口付けは一度ほどけて、もう一度。
 熱を移し合うように深く唇を重ねて、想いを結び合わせて。
 何度でも、繰り返し、繰り返し。
 春風に揺れる仄めく花蔭の中で国木田と太宰はお互いの顔を見交わしながら淡く微笑んで、どちらともなく告げる。
 気高く咲き誇る桜に、この美しい春に誓うようにして。

 ――貴方を愛している、と。

(了)
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