戀―REN―

星を聴きながら

わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(春と修羅 序 宮沢賢治)


 時計の針が午前二時を指す頃、太宰の自宅のドアがノックされた。太宰はいそいそと襟巻マフラーと外套を身に着けて玄関へ向かう。扉を開けると、
「十八秒の遅刻だ」
 薄暗い電灯の中に仏頂面の国木田が立っていた。
「もう。それくらいは遅刻のうちに入らないでしょ」
 相変わらず時間に細かい相棒に口吻を尖らすと「遅れた分だけ時間が減るだろうが」国木田は低く独言を零し、ほら行くぞと促して先に社員寮の共用廊下を歩む。太宰は玄関を施錠して彼の後を追った。路上に出て肩を並べると国木田はやや歩調を緩めて太宰の手を掴んだ。
「お前、手袋をしてこなかったのか」
「あ、うん。忘れちゃった」
 すると国木田は左手の手袋を外して、使えと手渡す。云われるままに太宰はサイズの合わない手袋を嵌めると、国木田が素手になった左手で彼の右手を取り、指を絡めて繋いで自身の外套の衣嚢ポケットへと入れた。太宰が目を瞬かせて長身を見遣ると「い、今は誰も見ておらんからな」素っ気なく答えながら衣嚢の中で繋ぐ手に力を込める。馴染んだ体温が太宰の冷えた手を包み込み、じんわりと膚の深部へと沁み透ってゆく。繋いだ温もりから優しさまでもが溶け入るようで。ありがとう――小さく呟いて微笑んだ。彼の柔和な笑顔に国木田も僅かに頬を緩めた。
「それにしても、寒いねえ」
「夜中は特段に冷えるな」
 ふたりが吐き出す息は夜陰に白く漂う。澄んだ冷気は膚を切り付けるような鋭さで体温を奪っていく。風が無いのが幸いだった。
 国木田と太宰は寝静まった住宅街の中を言葉少なに歩く。月のない真冬の深夜は静寂に蒼褪めて深海の底を思わせた。土瀝青アスファルトに硬質な足音を響かせて彼等が向かうのは河川敷だった。
 先日、国木田の自宅でぼんやりとテレビを見ていた太宰が「ふたご座流星群だって。この辺でも明瞭はっきりと見られるそうだよ」そんなことを云ったので、一緒に見るかと何気なく誘ったのだ。寒がりな彼である。国木田は太宰の返答にはあまり期待していなかったが「じゃあ一緒に見ようよ」彼の言葉を些か珍しく思いながら、日時を決めて今日に至る。
「さっきから気になっていたけれど、その荷物は何だい?」
 国木田の右肩に掛けられた鞄は一体何が詰まっているのか重たげに膨らんでいる。
「防寒具や茶を持ってきた。お前のことだからきっと何も用意していないと思ってな」
 膝掛けや敷物、懐炉も持ってきたと云う。本当に用意周到な男だと心底感心しながら太宰は笑う。
「流石探偵社のお母さんだねえ」
「誰がお母さんだ」
「褒めてるのにぃ」
 冷ややかな国木田におどけて見せると不意に彼は立ち止まり、ずいと顔を近付けた。息が触れ合う距離に咄嗟に太宰は身を引いたが、国木田の腕が赦さなかった。尚も追いかけて迫る月色の双眸に耐え切れずに目を瞑る。口付けの予感に慄きながら触れる熱を待った。と、ふっと笑む気配がして太宰が薄目を開けると国木田がしたり顔で嗤っていた。意地悪そうな笑みに太宰は耳を火照らせて急激にのぼってくる熱を持て余し、戸惑った。心臓がやけに五月蠅い。
「も、もう、国木田君ってば」
「お母さんはこんなことをせんだろう」
 国木田は事もなげに云いおいて緩やかに歩き出す。繋いだ手は確り握ったまま。

 河川敷は眠らない街の明かりから隔たれて闇が濃かった。
 国木田は鞄から敷物を取り出して枯草の上に敷くと太宰を座らせて持参してきた懐炉と膝掛けを渡した。国木田も彼の隣に腰を下ろして同じように暖を取った。思いの他、躰が冷えていたのか懐炉が発する熱がじんと指先を痺れさせる。それから国木田は魔法瓶に詰めてきた茶を注いで太宰に手渡した。ありがとうと受け取った紙コップを両の手で包み込むように持って温かな湯気にすんと鼻翼を動かす。紅茶の香りに混じってぴりっとした匂いがした。息を吹きかけて冷ましながらいただきますと口に含むと生姜の風味が広がる。訊ねてみれば国木田曰く、生姜紅茶は躰を温める作用があると云う。寒い時期には打って付けであると。
「物知りだねえ」
「否、与謝野女医せんせいから聞いた」
 彼の口から少々意外な名前が出てきて太宰は僅かに目を見開いた後、にんまりと笑みを深めた。
「何だ、おかしな笑い方をして」
「ううん、何でもないよ」
 躰が温まるねと生姜紅茶を口にしながら太宰は夜空を見上げた。つられるように国木田も天に視線を放つ。
 深い漆黒には幾つもの銀色が小さく瞬き、目を閉じて耳を澄ませば星達の玲瓏な唄声が聞こえてくるようだった。遥か彼方の、途方もなく遠い過去から届く星の光は嘘のように美しく、何かの奇跡のようにふたりの眸に映った。
「あ、流れ星」
 白い指先が示す方へ国木田が目を向ける頃には跡形もなかった。が、流星は次々と現れて、広大な天穹を光の尾を引きながら翔け抜け、滑り落ち、燃え尽きて消えてゆく。丁度今がふたご座流星群のピークなのだろう。陰々とした長夜の慰めのように輝きながら流れ落ちる星に国木田は目を奪われていた。
「ほら国木田君、何かお願いごとをしなきゃ」
 太宰が国木田を肘で小突いて云う。
「む。願いごと? 家内安全無病息災か……?」
 咄嗟に思いついた言葉を口にすると、君らしいねと太宰は薄く笑う。
「お前は何だ? 美女と心中出来ますように、か?」
 やや皮肉めいた語調で問うと相棒は心外だと云うように鳶色の瞳を丸くする。そうしてからまた星空に視軸を転じて言葉を紡ぐ。
「真逆。そんなこと願ったりしないよ。私に願うものなんて何もないからね」
 夜の底に落ちる声は静かだった。
 悲観か諦念か或いは――しかし国木田が見詰める白い横顔には何の感情も浮かんではいなかった。決して触れられない裡側があることを突き付けられたように感じて国木田は眉を曇らせた。どれだけ親しかろうとも、幾ら愛していても踏み込めない、手の届かない領域がある――そんな当然すぎることを失念していた己を苦く思った。と、太宰は急に黙り込んだ隣の恋人を振り返り、そんな顔をしないでよ――少し困惑したように眉尻を下げる。
「私の一番の願いは――望みはもう、叶っているから」
「――そう、なのか?」
 思わぬ言葉に瞠目すると太宰は頷いて国木田の手に自身の手を重ね、そっと撫でた。情の籠ったそれはふたりだけの言語であり、また合図だった。
 互いの眸を合わせ、惹き付け合う。繋いだ温もりを辿るようにして近付いて、白い息が重なって混じる。愛おしい唇まであと少し。
――と云うところで、国木田は鼻先を摘ままれた。
「なあんて、ね」
 目を開けると国木田の視界一杯に悪戯っぽく瞳を細めている太宰の顔。
「おい」
「うふふ。さっきの仕返し」
 口をへの字に曲げている国木田をおかしそうに見遣って、ふと真顔になる。
「――君が傍にいるから。願うことなんて必要ないんだ」
「……太宰」
「前に国木田君、云ったでしょう。ずっと傍にいるって」
 相棒として。最愛の人として。
「私はその言葉を、君を信じているよ」
 真っ直ぐに向けられる鳶色の眸の強さに国木田は胸を衝かれた。
 太宰の真摯な眼眸まなざしは国木田の裡側の深部へと差し込む。恰も遥か彼方から届けられる清らかな光のように。美しく瞬きながらその存在を知らしめ、荒野を彷徨う旅人を導く煌星のように。その光は国木田の胸の中で小さな灯となって心を温めてゆく。やがてどうしようもないまでの愛しさが溢れ出す。
 国木田は身を寄せて太宰の手を握った。そうして愛しい人を見詰める。これ以上ないまでに、愛しさと慈しみの色を滲ませて。彼の両の眼は切ないまでに愛を告げていた。
「太宰。俺も、お前を信じているぞ」
「……うん」
 太宰は微笑を浮べて自分より一回り大きな手を握り返した。とても温かい手だった。

 音もないままに深更の空を星が流れていく。
 けれども確かにふたりは聴いていた。
 流星が奏でる美しい旋律を。
 星達の聖なる讃美歌を。
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