戀―REN―

Regression

 国木田が出張から戻った時、既に午後七時半を過ぎていた。同行していた社長と別れて、自宅には戻らずに荷物を抱えたまま探偵社へと向かう。疾うに就業時間は過ぎているから事務所には誰もいないだろう。そう思って無人の昇降機に乗り込み、目的の階で降りると事務所の扉に嵌め込まれた磨り硝子から明かりが洩れていた。取り出しかけた事務所の鍵を仕舞って、こんな時間まで誰が居残っているのかと扉を開けてみれば、意外な人物が其処にいた。
「あれ、国木田君」
 向かっていたパソコンの影からひょいと顔を覗かせたのは太宰だった。
「もう出張から戻って来たの? 帰りは明日じゃなかったっけ?」
 調査員等の行動予定を記すホワイトボードには太宰が云ったように国木田は明日の夕方戻って来るように書かれていた。
「ああ、予定より仕事が早く終わったからな。そう云うお前はこんな時間まで残業か。珍しいな」
 国木田は云いながら自席に歩み寄って机の傍らに荷物を置く。外套と襟巻マフラーを脱ぎ、共用のキャビネットの抽斗から書類を取り出して再び自席に戻ると彼を不思議そうに目で追っていた太宰が「もしかして、有給の申請?」僅かに見えた紙面から問い質す。国木田は頷きながら愛用の万年筆で日付を記入していく。書かれた数字は明日を示していた。彼の手元を覗き込んでいた太宰は目を瞬かせる。
「明日?  随分急だねえ。何か外せない用事でもあるの?」
 と云うか連絡をくれれば代わりに申請書出しておいたのに――何処までも律儀で生真面目だと思いながら、普段あまり目にすることがないネクタイ姿の国木田を見遣る。
「否、別に何もないのだが、社長に云われてな」
 日頃から仕事中毒のきらいがある国木田を社長である福沢は「きちんと休むのも仕事のうちだ」と諭し、半ば強制的に有給を取ることになったのである。国木田としては片付けてしまいたい事務仕事があるし、師走になると何かと慌ただしくなるので悠長に休んではおれないと思うのだが、社長命令ともあれば従う他ない。そんな話を聞きながら「良いなあ、有給」太宰がぼやくと「お前はほぼ毎日有給みたいなものだろうが。仕事をサボりまくっているのだからな」国木田は苦り切った表情で云い捨てる。
「大体、今残業をしているのも日頃のツケが回ってきた結果だろう」
「ええ~、私だって真面目にやってるよう」
「どうだかな」
 だが相棒の言葉を否定しきれないのもまた事実であった。太宰は飄々と巫山戯ているように見えてその実、事を上手く収めてしまう。それと悟らせることなく上手く糸を引いて物事を一番収まりが良いところへ導き、解決してしまうのだ。名探偵に引けを取らない頭脳を以ってして。そんな有様を国木田は相棒として間近で幾度も目にしてきた。嘗て太宰の驚異的な能力に己の力不足を感じたこともあったが、しかし相棒が務まるのはやはり自分しかいないのだと日頃の太宰の態度を見て思うのだ。何よりも此処に引き戻すのは己の役目であると。
 国木田は記入した書類を提出し、ホワイトボードに明日の日付と有給の文字を書き入れてパソコンと睨めっこしている太宰を振り返る。
「お前の方はまだかかりそうか?」
「ん~、あともうちょっとかな」
「待っててやるから、早く終わらせろ」
「良いよ、先に帰りなよ。国木田君だって戻って来たばかりで疲れてるでしょう」
「別に其処まで疲れてはおらん。――珈琲、飲むか?」
「あ、うん。お願い」
 太宰の生返事を背に聞きながら国木田は給湯室に立つ。水を入れた薬缶を火に掛け、棚からカップを取り出して即席の珈琲粉末を匙に掬い、白い底に投げ入れる。片方には砂糖とミルク。一瞬、迷って自分の分にも砂糖を加えた。糖分を欲するくらいには疲れているらしい。急に首元が窮屈に感じてネクタイを僅かに緩めた。
 沸騰した湯を注ぐと香ばしい馨りが湯気と共に立つ。やや安っぽい珈琲の匂いにほっと心が寛いだ。漸くヨコハマに戻って来た実感が湧いて、たった二、三日離れていたに過ぎないのにと自分でもおかしく思いながらカップを満たす漆黒を匙で掻き混ぜた。
 両の手にカップを持って太宰の席へ向かう。彼の分の珈琲を机上の隅に置くと「ありがとう」目をパソコンの画面に向けたまま告げる。細い指が忙しなくキーボードを叩いて、国木田は背後から液晶画面を覗き込んだ。彼が書いているのは数日前担当した依頼―― 事件の報告書だった。
 太宰の言によれば社長に明日の十時までに提出するように云われたらしい。確か社長は明日、何処ぞで会合があると云っていたように国木田は記憶していた。恐らくその事前資料として今相棒が書いている報告書が必要なのだろう。真面目にやっていると云うのは一応、本当らしい。
 国木田は自席に腰を落ち着けて甘みのある珈琲に口を付けた。そうしてから深く息を吐いて、室内の隅に置かれたクリスマスツリーを眺めた。
 先日までなかったそれは国木田が出張に出ている間に飾られたのだろう。きっと敦や鏡花、賢治、谷崎兄妹、乱歩と与謝野女医も交えて賑々しく飾り付けをしたに違いない。
 ――太宰はその場にいたのだろうか。
 ついそんなことを考えてしまう。
 振り返ってみれば、国木田が入社した当初は現在のような家庭的アットホームな雰囲気はあまりなかったように思う。それがどうであろう、今は自由過ぎるくらいに――風紀が乱れているとも云える程に、探偵社は変わった気がするのだ。国木田としては社風に頭を悩ませることはあれど、しかしその規定の枠に収まりきらない、一筋縄ではいかぬ、懐が深いような在り方を好ましく思っていた。社員と云う繋がりを越えた、同胞意識。まさしく其処にあるのは血縁によらぬ一つの家族だ。
「ふう、やっと終わったあ」
 椅子を軋ませて太宰は大きく伸びをする。
「お疲れ様」
「うん」
 何だか肩が凝ったなあ――太宰は大儀そうに細い首を左右に傾けて程良く冷めた珈琲に漸く口を付けた。一仕事を終えた後の珈琲が殊更美味しく感じるのは解放感だけではなくて、きっと淹れてくれた相手にも起因するのだろう。
 そんな思考を巡らせていると、何を思ったのか国木田が長椅子ソファへと移動して右端に腰掛けた。と、目で招かれて太宰もカップを手にしたままその隣に座った。ふと彼から何時もと違う匂いがして僅かに鼓動が跳ねる。
 国木田はクリスマスツリーに視線を放って、
「お前も一緒に飾り付けをしたのか?」
「真逆。私は見てただけ。皆楽しそうにしてたよ。サンタから何が欲しいかって盛り上がったりしてさ。何だかお願い事を云い合って七夕みたいになってたけれど」
  太宰はその時の様子を思い出して小さく笑う。
「あ、そうだ。せっかくだから、電飾点けてみようよ」
 そう云って立ち上がると飲みさしのカップを机上に置いて、事務所の電気を消す。ふっと闇に包まれて、束の間窓硝子から月光が差し込むと、クリスマスツリーに纏わる電飾が煌めき出した。赤や青、黄、緑の小さな明かりが不規則に明滅する。隣接する白い壁が鮮やかに染まって室内に蟠る夜も何処か華やいだ色を帯びる。
「綺麗だね」
 再び国木田の隣に座りながら太宰は光を放つツリーを見詰める。国木田も「そうだな」相槌を打って事務所の隅に佇立するクリスマスツリーを眺めた。
 灯る光は心底を温めるようにふたりの眸に映じて、薄闇が彼等の距離を相棒から恋仲のそれと変えてゆく。長椅子の上で手が重なり、国木田の肩に蓬髪が凭れ掛かった。馴染んだ重みに目を細めてそっと柔らかな髪を撫ぜる。こうして彼に触れるのは久し振りな気がした。太宰は薄く目を閉じてされるがままに――無防備に身を任せていた。恰ももっと、と強請るように。猫みたいだ――国木田は薄く微笑して髪を梳る。
「ふふ。何だか気持ちが良いよ」
 のんびりとした口調は少し眠たげで仄甘く、国木田の胸を乱した。不自然にならぬように身を離し、誤魔化しの咳払いを一つ落とす。
「――それで。今年は、どうする?」
「どうするって、何が?」
 太宰は鳶色の瞳を瞬かせて小首を傾げる。そんな仕草も今は目の毒にしかならないと云うのに。国木田は視線を惑わせて「だから、クリスマスだ。何処か、行くか」やや素っ気なく云いおいて、この室内の薄暗さを、邪な想いを僅かでも抱いてしまった己を恨めしく思った。
 ――明かりを点けなければ。でも、まだ。
「何時も通りで良いよ。年末近いと忙しいし。国木田君の家でケーキを食べられれば、それで」
「じゃあ、欲しい物は?」
「そうだなあ。蟹と美味しいお酒?」
「それでは普段と変わらんではないか」
 もっと別のものを欲しがると思っていた国木田としては肩透かしを食らった気分だった。意外そうに目を見開いている恋人にまあそうだねえ――太宰はふんわりと微笑みかける。
「でも本当に私が欲しいものは既に持っているからね」
 国木田の手を握って云う。
「皆で楽しそうにクリスマスツリーを囲って飾り付けしているのを見ていたら、何だか平和で良いなと思ってさ」
 嘗てはヨコハマの裏の世界に生きていた太宰にとって表の顔である探偵社は眩しく、生ぬるさを感じずにはいられなかった。特に社員等の間に生じる仲間意識や連帯感、恰も気のおけぬ親しい間柄のような雰囲気に居心地の悪さを拭えずにいた。自分は此処に馴染むことはないだろうと思った。ならば、それらしく擬態をしていれば良い――始まりは確かに欺瞞だったのに。
 何時の間にか望んでしまっていた。
 此処に居たい、と。
 赦されるならば国木田の隣に。
 そうして今、太宰は彼の傍にいる。最も近しい、他者として。
「今年も皆でクリスマス会が出来たら良いね」
 去年と同じく、会議室に集まって軽食やケーキを頬張りつつ、ささやかなプレゼント交換をして。包装を解いて現れた品物に一喜一憂、賑やかに笑い合う、束の間の平穏の時。
 国木田を想うように、太宰は己の居場所を、もっと云えば今ある世界を愛おしんだ。それを教えたのは他でもない国木田であり、探偵社の面々だった。守りたいものがある。この世界は生きるに値する。仮令、吹けば飛ぶような己の命であっても。
「そうだな。――そろそろ帰るか」
 立ち上がろうとした時、待って――細腕が引き留めた。
「ん? どうした?」
 首を傾げると白い貌が間近に迫る。
「だざ――」
 語尾は桜唇に奪われた。虚を衝かれて瞠目した後、唇を合わせたまま、国木田は太宰の手を、腕を辿って抱き寄せる。口付けは一度ほどけて、再び愛を結ぶ。静かに瞬く電飾が微かにふたりの影を作って、やがて重なり合うそれは離れてゆく。
「お、お前、こんなところで――」
「誰もいないから良いじゃない。国木田君だって拒否しなかった癖に」
「うっ。そ、それはそうだが……」
 どうにも決まりが悪くて国木田は目許を染めて視線を外す。と、今度は抱き着かれて、長椅子の上に危うく倒れ掛かった。
「お、おいっ。いきなり何を、」
 顔を顰めて肩を押し返そうとするが、国木田を抱き締める腕は強かった。
「――国木田君、おかえり」
 まだ云っていなかったから――耳朶を搏つ声音は少しだけ切ない響きを帯びていた。国木田は太宰の腕の中で躰を緩めて息を吐くと柔く抱き返した。唇に淡い微笑を刷く。
「ああ、ただいま。太宰」
 何時だって帰るべき場所は、己が居るべきところは、彼の隣であり、探偵社である、と。そしてまた太宰も同じ気持ちであったら良いと、電飾に彩られたクリスマスツリーを目の端に捉えて国木田は思うのだった。
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