戀―REN―

愛しているという一語の錨のような重たさ

 白い かんばせ は静かだった。伏せられた睫毛は影を落として、薄い胸は健やかに上下していた。そのことに国木田は深く安堵して寝台ベッドに横たわる太宰から初めて視線を引き剥がし、壁に掛けられた時計を見遣った。時刻は間もなく午後四時を迎えようとしていた。国木田が彼に付き添って一時間ばかり経過していた。
 消毒液のつんとした匂いが染みついた病室は茜色の西陽に染まり、変に明るい。国木田は腰掛けていた丸椅子から立ち上がって、鮮やか過ぎる斜陽を、窓掛カーテンを引いて遮った。一瞬、真面まともに夕陽を見てしまい、の底が痛んだ。光が目に灼き付いて青っぽい残像が視野に尾を引く。再び丸椅子に腰を落ち着けるとひっそりと息を吐いた。宛がわれた個室に落ちる彼の溜め息は酷くものうく、沈鬱だった。
 太宰は只、眠っていた。
 ――人の気も知らないで。
 彼が病院に運び込まれたのは何時もの自殺嗜癖――入水のせいであった。仕事を放擲した太宰はこれまた何時も通りに川に流れ、国木田も何時ものようにサボり魔の相棒を探し回り、水に漂っているところを引き上げて回収した。普段であるなら、その時点で太宰は意識を取り戻し、国木田に盛大に説教をされるのが常であったが、今日ばかりは違っていた。川から引き上げた時、呼吸が止まっていたのだ。
 彼を喪う恐怖に心臓が凍り付いた。
 今、思い出しても躰が慄えてしまう。
 己が拠って立つ場所が足元から崩れていくのを感じながら、国木田は何とか冷静さを取り戻して、救命処置を施した。そうしながら救急車を呼び、探偵社に連絡を入れて、付添人として到着した救急車に乗り込んだ。適切な処置を国木田が行ったのも功を奏して幸いにも太宰の命に別状はなく、今に至る。
「どうして、お前は――」
 死のうとするのか――言葉にならない問いは国木田を苦い気持ちにさせる。
 日頃、幾ら説教をして諭しても太宰は飄々として死と戯れることを辞めない。何が彼を死へと誘惑し、駆り立てるのか、一向に解らなかった。
 ――どうしたら太宰を現在ここに繋ぎ留めておけるのだろう。
 そんなものはきっとないのかもしれない。しかしそれでも国木田は思わずにいられない。都合の良い願望だと知りながら走り出した感情はもう抑えられない。身勝手で傲慢だと解っていても、尚。
 あの瞬間、自覚した太宰への想い。
 何故もどうしても、全てを踏み越えて、辿り着いてしまった真情。
 喫茶店カフェでどやしつけた時の、酷く驚いた顔が鮮烈に脳裏に閃く。鳶色の眸を大きく見開いて自分を見返していた太宰の表情――あの時、彼の素顔に触れたと何の根拠もなく強く思ったのだ。
 無造作に投げ出された白い手にそっと触れた。
 自分よりも低い体温が切なく胸を慄わせる。
 まだ、目を開けてくれるなと念じながら。
「――好きだ」
 太宰へ抱いた情愛が、彼を生へと繋ぎ留める錨になるならば。
 幾らでも心を、愛を、差し出すのに。

「――本当?」
 ぼんやりとした声がして国木田は伏せていた顔を上げた。と、ぱちりと開いた眸と目が合った。咄嗟に国木田は握っていた手を離して、ガタンと丸椅子を倒す勢いで立ち上がる。急激に熱がのぼってきて顔が燃えるように熱くなる。
「な……ッ! お、おお、おま、おま、お前……ッ! 何時から起きて……ッ⁉」
「君が私の手を握ってくれたところから」
 しれっと答える太宰に更に熱を募らせる。心臓が莫迦みたいに鳴って国木田は言葉に詰まった。
「ふふ、国木田君、顔真っ赤だよ」
 太宰は目を細めて笑う。
「う、五月蠅い! そ、それより、躰は――」
「もう大丈夫だよ。迷惑かけたね」
 ごめんね――へらりと眉尻を下げる彼に「全くだ。もうこんなことは辞めろ。金輪際、ご免だ」国木田は眉根を寄せて絞り出すように告げた。酷く苦しげな様子に――何時ものように自分を叱り飛ばさない彼の態度に太宰は本当にすまないことをしてしまったのだと内省に唇を噛んだ。
「医者を、呼んでくる」
 転倒した丸椅子を元に戻して、病室を出て行こうする国木田の腕を掴んで太宰は呼び止める。
「何だ?」
「さっきの話。ねえ、本当なの?」
「その話は、また後だ。医者を――」
「厭だ」
 太宰は身を起こしてじっと国木田を見据えた。頑是ない子供のような態度に、真っ直ぐに自分を見詰める深い色をした双眸に、国木田は絡め捕られて動けなくなってしまった。
 長い沈黙の後、手を離してくれと静かに云って丸椅子に腰を下ろした。深く息を吐いて、正面を向いた。揺るぎない覚悟を眸に宿らせて。この世にある光全てを集めたかのように国木田の目は澄んでいた。
 噛んで含めるように云う。
「さっき云ったことは、本当だ。俺は、お前が好きだ」
 女を戯けた文句で口説く様を見て嫉妬を覚える程に。
 彼を喪う恐怖に戦慄する程に。
 生きて欲しいと、生の理由が自分であれば良いと望むくらいに。
 何時も何時も目が離せなくて、放っておけなくて。
 傍に、いたくて。
 独り善がりだと解っていても――これが愛でなければ、何であろう。
 太宰は国木田の言葉を受けて、うっとりと微笑んだ。
「そっかあ。国木田君はそんなに私のことが好きなのかあ」
 先程まで意識を失って眠っていた者とは思えない程、のんびりした口調に「ふん。惚れたが、悪いか」国木田は眉間に皺を刻んで口元をへの字に曲げる。こうなったら自棄クソだ。
「悪かあないよ。――嬉しい」
 そう云って彼は本当に嬉しそうに笑った。国木田の目は釘付けになった。日頃見せる貼り付けたような笑みとは見違えるようだった。 国木田君――細腕が伸びてきて腕を掴まれ、引き寄せられる。国木田が椅子から立ち上がると胸へと太宰が身を傾けて、ぽすんと黒い蓬髪が収まった。太宰の手が黒い襯衣シャツに縋りつく。国木田は少しの間、逡巡した後、躊躇いがちに痩躯を緩く抱いた。
「何時も君が――国木田君が私をここに引き戻してくれているのだね」
 ありがとう、と呟かれた声は僅かに潤んでいた。
「……太宰……」
「――私も、君が好きだ。ずっと、好きだった」
 迷いのない言葉に国木田は瞠目した。
 自分達は同じ想いであったのかと。
 片戀の視線は決して交わることはないと思っていたのに。
 太宰は涙で光る眸を国木田に向けて微笑む。泣き笑いのような彼の表情に、と胸を衝かれた国木田は生れて初めて、大切な人に贈る言葉を唇にのせた。これ以上ないまでに、とても真剣な面持ちで。
「太宰。――愛してる」
 初めて捧げた愛の言葉が、錨となって彼の中に重たく沈めば良いと願いながら。
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