戀―REN―
赫い誘惑
国木田は化粧品売り場で長い時間、逡巡していた。目の前にはずらりと並んだ色とりどりのネイルの小壜。目に付いた色を手に取ってはまた棚に戻すと云う動作を繰り返す。その風貌故に――凡そ女性しかいないフロアであるが故に随分と国木田は周囲から浮いて見えた。図体のでかい男が仏頂面とも云える表情で真剣に品定めする様子は、傍から見れば恋人への贈り物を選んでいるようにも見えたが、しかしそれであっても奇異な感じは拭えない。ちらちらと好奇の目を集めるには充分だった。だが当の本人は全く気が付いていなかった。
彼がこうして化粧品売り場にいるのは彼がマネージャーを務めるバンドのギタリストである太宰のためである。ネイルを使うのは太宰で決して国木田ではない。本当なら彼も一緒に買い物に来る筈だったのだが、これまでの疲れが大分溜まっていたのだろう、今日は久しぶりのオフと云うこともあり、太宰はぐっすり寝入ったまま、昼を過ぎても起きなかったので彼を自宅に残して国木田ひとりで買い物に出たのである。尤も、彼を深く眠らせたのは国木田にも一因があるのだが。
普段、太宰がネイルに使っているのは黒だ。そろそろ使い切るからと新しく買い足しに来たものの、ふと彼に似合う色は何であろうと考え始めて、話は冒頭に戻る。
――太宰に似合う色は。
彼の肌の白さを想う。
指の形を辿る。
濁りのない白皙。節の目立たない、細く長い指。ネイルを落とした後の爪は薄紅色。何時も短く爪を切り揃えているのは楽器を演奏するためだけではない。背中に柔く立てられる爪。何も残らない、その痕。彼の傷が欲しい――。
そこまで考えて、思考が全く別の方向へと流れていることにはっとして国木田は昨夜の残像を脳裏から追い払った。耳が熱い。こんな場所で男が顔を赤らめている様は滑稽を通り越して気色が悪かろう。誰に向ける訳でもなく、国木田は咳払いをして深く息を吐くと、小壜を手に取った。
一つは黒。
もう一つは赫 。
皮膚の下にある熱い血汐を想った。
国木田は二つの小壜を手に、会計へと急いだ。
***
「ただいま」
国木田が玄関のドアを開けると「おかえり」リビングから声がした。
「何だ、起きていたのか」
リビングへ直行すると太宰はソファに座って寝間着姿のまま、濡れた頭をタオルで拭いていた。丁度、風呂上りらしい。清潔な石鹸の匂いがふと香る。
「うん。さっきね。てか、起きたら国木田君いないんだもん。買い物一緒に行こうねって約束してたのに」
久しぶりの買い物デートだったのに――頬を膨らませて口吻を尖らす。
「何度も起こしたが、起きなかったからな」
「まあ、お蔭で沢山眠れたけどさ。――何かお腹減っちゃったなあ。食べ物何かある?」
「飯か?」
国木田はキッチンに立ち、冷蔵庫とパントリーとを開けて中を検める。仕事で家を空けることが多いため、あまり食品類の買い置きをしていないから中身はどちらも乏しい。
「外に食べに行くか?」
間もなく十四時半になる頃であったが、今朝は国木田も食事が遅かったので軽く何かを食べるには丁度良い時間であった。しかし太宰は気乗りしない様子でソファにだらしなく寝そべって身支度するのが面倒だと云う。先程まではデートがどうとか不満そうにしていたのに。全く気紛れな奴だなと内心苦笑していると、俄かに太宰が身を起こして、
「あ、そうだ。国木田君、ホットケーキ作ってよ。私、ホットケーキ食べたい」
「ホットケーキ? それは構わんが。材料がないからこれから買ってくるが……待てるか?」
「もう。私、そんな子供じゃないよ。大人しく待ってるからさ。ホットケーキ作って」
「解った。他に欲しいものはあるか?」
「蟹缶とお酒」
にっこり笑って云う。どうやら今日は一日、家から一歩も出ない心算らしい。夜くらいは何処かで外食をと考えていたが、宛てが外れた。
仕事上、共に行動することが多いが、ふたりきりになることは少ない。お互いの関係は伏せているし、尤も公に出来ないからそれで良いのだが、しかしこうして恋人として数少ない休日を一緒に過ごすと、もっとそれらしいことをしたいと望んでしまう。デートをしたがっているのは国木田の方なのだ。気が付いて何だか居た堪れないような思いに駆られながら、国木田は財布と車のキーを持つと部屋を後にした。
――四十分後、ふたりは甘い香りが漂う中、食卓に着いて綺麗に焼けたホットケーキを食した。
***
「ネイル買ってきてくれたの?」
「ああ、其処にある」
国木田はキッチンで洗い物をしながらリビングを顎で刳 る。太宰が目で追うと棚の上に小さな包みがあった。中を開けると掌に転がり出たのは黒と赫の小壜。
「え、あれ? どうして二つも……」
太宰は振り返ってキッチンにいる国木田を見た。と、彼は些か歯切れ悪く告げる。
「うん? それは……何となく、……その、お前に似合うと思ってな」
「そうなんだ」
小壜をローテーブルの上に並べて太宰は薄く微笑する。国木田がそんなふうに自分のことを考えてくれたのだと思って自然と頬が緩んだ。そして一体、どんな顔をしてこれらを買い求めたのか――化粧品売り場に立つ彼を想像して、そのおかしさに噴き出しそうになってしまう。やっぱり外でデートをしたかったなと思いながら、次の休みは何時だろうかと頭の中で手帳を繰ってみても、判然としなかった。後で国木田に確認すれば良いかと思考を放り出して、赫いネイルを手に取る。
滴る血のように赫いそれは掌の中で更にその赤みを増したように見えた。
「ねえ、またネイル塗ってくれる?」
「ああ、良いぞ」
洗い物を片付けた国木田は濡れた手を拭うと、身に着けていた黒いエプロンを外しながら太宰が座っているソファへと歩み寄る。隣に腰を下ろしながら、
「なあ、それ。足に塗って良いか?」
彼が手の中で弄んでいた赫色を指差す。
「うん。別に良いけど……赫いのは足用に買ってきたの?」
「否、そう云う訳ではないが……」
太宰に似合う色として選び取った時、国木田が考えていたのは自分しか知らない彼の姿だ。誰にも見せたくない、自分だけが知っていれば良い彼の顔、姿態。夜に絡む脚と張り詰めた爪先と。彼の白い素足を見るのは自分だけが赦された行為だ。この赫色は太宰に似合う秘密の色なのだ。
国木田は棚からコットンが入った箱を持ち出して床に座ると恭しい手付きで太宰の細幅の右足を左手に包む。手入れされて間もない足の爪は切り揃えられて、桜貝の艶を帯びていた。綺麗だと思った。太宰は何処を取っても、美しい。容姿も声も、その笑い方も。
「何だかこうしていると、君に玻璃 の靴を履かされているみたいだね」
「御伽噺か。だが、必要ないだろう」
云いながら国木田は足の指の間に折り畳んだコットンを詰めていく。
「太宰?」
黙ったままでいるのを不審に思って目線を上げれば、彼は頬を染めて眉尻を下げていた。狼狽えているのか視線を惑わせている。
「何かおかしなことを云ったか?」
「……君ってさ、偶に凄いことを平気で云うからさあ……本当、困るんだけど」
凄いことを? はて何だろうか?――国木田は己の放った言葉の意味を真に解さないまま、少しの間、首を傾げていた。コットンを詰め終えると親指から順番に慎重な手付きで爪を赫く染めていく。ネイルを塗った足の指は白皙を際立たせ、艶やかな赫色もその色を深めていく。思った通りだ、と国木田は薄く笑む。
丁寧に時間をかけて彩られた足は酷く艶めかしく、国木田を蠱惑する。男の足とは思えない、かと云って女の足とも違う白い素足は只、美しい――その一言でしか云い表せなかった。
太宰――国木田は何処か陶然とした眼差しを向けながら、爪先が赫く染まった足を両の手で包み込むと、吸い寄せられるかのように足の甲へと唇を落とした。
「……国木田君、そんなに私を困らせないでおくれよ」
呟かれた言葉に顔を上げると潤んだ鳶色の瞳が国木田を捕らえる。耳に朱が灯り、目許は薔薇色に上気していた。
「では、俺はどうすれば良い?」
「――ベッドに、連れて行って」
太宰の腕が差し伸べられて国木田は痩躯を抱き上げる。
「国木田君」
「うん?」
「好きだよ」
耳元で小さく紡がれる言葉は秘密の色を纏っていた。
やがてその色彩はシーツの上を彷徨い、縺れて、纏わる。
国木田はその予感に胸を逸らせてリビングを後にした。
リビングに残された小壜は窓から差し込む西日を艶やかに弾いて、煌めいていた。
国木田は化粧品売り場で長い時間、逡巡していた。目の前にはずらりと並んだ色とりどりのネイルの小壜。目に付いた色を手に取ってはまた棚に戻すと云う動作を繰り返す。その風貌故に――凡そ女性しかいないフロアであるが故に随分と国木田は周囲から浮いて見えた。図体のでかい男が仏頂面とも云える表情で真剣に品定めする様子は、傍から見れば恋人への贈り物を選んでいるようにも見えたが、しかしそれであっても奇異な感じは拭えない。ちらちらと好奇の目を集めるには充分だった。だが当の本人は全く気が付いていなかった。
彼がこうして化粧品売り場にいるのは彼がマネージャーを務めるバンドのギタリストである太宰のためである。ネイルを使うのは太宰で決して国木田ではない。本当なら彼も一緒に買い物に来る筈だったのだが、これまでの疲れが大分溜まっていたのだろう、今日は久しぶりのオフと云うこともあり、太宰はぐっすり寝入ったまま、昼を過ぎても起きなかったので彼を自宅に残して国木田ひとりで買い物に出たのである。尤も、彼を深く眠らせたのは国木田にも一因があるのだが。
普段、太宰がネイルに使っているのは黒だ。そろそろ使い切るからと新しく買い足しに来たものの、ふと彼に似合う色は何であろうと考え始めて、話は冒頭に戻る。
――太宰に似合う色は。
彼の肌の白さを想う。
指の形を辿る。
濁りのない白皙。節の目立たない、細く長い指。ネイルを落とした後の爪は薄紅色。何時も短く爪を切り揃えているのは楽器を演奏するためだけではない。背中に柔く立てられる爪。何も残らない、その痕。彼の傷が欲しい――。
そこまで考えて、思考が全く別の方向へと流れていることにはっとして国木田は昨夜の残像を脳裏から追い払った。耳が熱い。こんな場所で男が顔を赤らめている様は滑稽を通り越して気色が悪かろう。誰に向ける訳でもなく、国木田は咳払いをして深く息を吐くと、小壜を手に取った。
一つは黒。
もう一つは
皮膚の下にある熱い血汐を想った。
国木田は二つの小壜を手に、会計へと急いだ。
***
「ただいま」
国木田が玄関のドアを開けると「おかえり」リビングから声がした。
「何だ、起きていたのか」
リビングへ直行すると太宰はソファに座って寝間着姿のまま、濡れた頭をタオルで拭いていた。丁度、風呂上りらしい。清潔な石鹸の匂いがふと香る。
「うん。さっきね。てか、起きたら国木田君いないんだもん。買い物一緒に行こうねって約束してたのに」
久しぶりの買い物デートだったのに――頬を膨らませて口吻を尖らす。
「何度も起こしたが、起きなかったからな」
「まあ、お蔭で沢山眠れたけどさ。――何かお腹減っちゃったなあ。食べ物何かある?」
「飯か?」
国木田はキッチンに立ち、冷蔵庫とパントリーとを開けて中を検める。仕事で家を空けることが多いため、あまり食品類の買い置きをしていないから中身はどちらも乏しい。
「外に食べに行くか?」
間もなく十四時半になる頃であったが、今朝は国木田も食事が遅かったので軽く何かを食べるには丁度良い時間であった。しかし太宰は気乗りしない様子でソファにだらしなく寝そべって身支度するのが面倒だと云う。先程まではデートがどうとか不満そうにしていたのに。全く気紛れな奴だなと内心苦笑していると、俄かに太宰が身を起こして、
「あ、そうだ。国木田君、ホットケーキ作ってよ。私、ホットケーキ食べたい」
「ホットケーキ? それは構わんが。材料がないからこれから買ってくるが……待てるか?」
「もう。私、そんな子供じゃないよ。大人しく待ってるからさ。ホットケーキ作って」
「解った。他に欲しいものはあるか?」
「蟹缶とお酒」
にっこり笑って云う。どうやら今日は一日、家から一歩も出ない心算らしい。夜くらいは何処かで外食をと考えていたが、宛てが外れた。
仕事上、共に行動することが多いが、ふたりきりになることは少ない。お互いの関係は伏せているし、尤も公に出来ないからそれで良いのだが、しかしこうして恋人として数少ない休日を一緒に過ごすと、もっとそれらしいことをしたいと望んでしまう。デートをしたがっているのは国木田の方なのだ。気が付いて何だか居た堪れないような思いに駆られながら、国木田は財布と車のキーを持つと部屋を後にした。
――四十分後、ふたりは甘い香りが漂う中、食卓に着いて綺麗に焼けたホットケーキを食した。
***
「ネイル買ってきてくれたの?」
「ああ、其処にある」
国木田はキッチンで洗い物をしながらリビングを顎で
「え、あれ? どうして二つも……」
太宰は振り返ってキッチンにいる国木田を見た。と、彼は些か歯切れ悪く告げる。
「うん? それは……何となく、……その、お前に似合うと思ってな」
「そうなんだ」
小壜をローテーブルの上に並べて太宰は薄く微笑する。国木田がそんなふうに自分のことを考えてくれたのだと思って自然と頬が緩んだ。そして一体、どんな顔をしてこれらを買い求めたのか――化粧品売り場に立つ彼を想像して、そのおかしさに噴き出しそうになってしまう。やっぱり外でデートをしたかったなと思いながら、次の休みは何時だろうかと頭の中で手帳を繰ってみても、判然としなかった。後で国木田に確認すれば良いかと思考を放り出して、赫いネイルを手に取る。
滴る血のように赫いそれは掌の中で更にその赤みを増したように見えた。
「ねえ、またネイル塗ってくれる?」
「ああ、良いぞ」
洗い物を片付けた国木田は濡れた手を拭うと、身に着けていた黒いエプロンを外しながら太宰が座っているソファへと歩み寄る。隣に腰を下ろしながら、
「なあ、それ。足に塗って良いか?」
彼が手の中で弄んでいた赫色を指差す。
「うん。別に良いけど……赫いのは足用に買ってきたの?」
「否、そう云う訳ではないが……」
太宰に似合う色として選び取った時、国木田が考えていたのは自分しか知らない彼の姿だ。誰にも見せたくない、自分だけが知っていれば良い彼の顔、姿態。夜に絡む脚と張り詰めた爪先と。彼の白い素足を見るのは自分だけが赦された行為だ。この赫色は太宰に似合う秘密の色なのだ。
国木田は棚からコットンが入った箱を持ち出して床に座ると恭しい手付きで太宰の細幅の右足を左手に包む。手入れされて間もない足の爪は切り揃えられて、桜貝の艶を帯びていた。綺麗だと思った。太宰は何処を取っても、美しい。容姿も声も、その笑い方も。
「何だかこうしていると、君に
「御伽噺か。だが、必要ないだろう」
云いながら国木田は足の指の間に折り畳んだコットンを詰めていく。
「太宰?」
黙ったままでいるのを不審に思って目線を上げれば、彼は頬を染めて眉尻を下げていた。狼狽えているのか視線を惑わせている。
「何かおかしなことを云ったか?」
「……君ってさ、偶に凄いことを平気で云うからさあ……本当、困るんだけど」
凄いことを? はて何だろうか?――国木田は己の放った言葉の意味を真に解さないまま、少しの間、首を傾げていた。コットンを詰め終えると親指から順番に慎重な手付きで爪を赫く染めていく。ネイルを塗った足の指は白皙を際立たせ、艶やかな赫色もその色を深めていく。思った通りだ、と国木田は薄く笑む。
丁寧に時間をかけて彩られた足は酷く艶めかしく、国木田を蠱惑する。男の足とは思えない、かと云って女の足とも違う白い素足は只、美しい――その一言でしか云い表せなかった。
太宰――国木田は何処か陶然とした眼差しを向けながら、爪先が赫く染まった足を両の手で包み込むと、吸い寄せられるかのように足の甲へと唇を落とした。
「……国木田君、そんなに私を困らせないでおくれよ」
呟かれた言葉に顔を上げると潤んだ鳶色の瞳が国木田を捕らえる。耳に朱が灯り、目許は薔薇色に上気していた。
「では、俺はどうすれば良い?」
「――ベッドに、連れて行って」
太宰の腕が差し伸べられて国木田は痩躯を抱き上げる。
「国木田君」
「うん?」
「好きだよ」
耳元で小さく紡がれる言葉は秘密の色を纏っていた。
やがてその色彩はシーツの上を彷徨い、縺れて、纏わる。
国木田はその予感に胸を逸らせてリビングを後にした。
リビングに残された小壜は窓から差し込む西日を艶やかに弾いて、煌めいていた。