戀―REN―

無防備な爪

 ――最高の一日を! 最高の夜を!  最高のラストを!
 ヴォーカルの敦が叫び、煽るとフロアを埋め尽くす観客が拳を突き上げて沸き立つ。
 明るい照明の下、ステージに立つメンバー達は皆一様に晴れやかだ。本編にあった張り詰めた緊張感は解けて清々しく、そしてやり切ったと云う達成感に溢れていた。マネージャーを務める国木田はステージ袖からそんな彼等を見守っていた。
 凡そ二ヶ月半に及ぶライブツアーも今日が最終日。不測の事態、機械トラブルがありながらも何とか公演をこなしてきた。思うようにいかなかった、悔いの残るライブもあった。しかしメンバーはその時々で最高の演奏を見せてきた。その集大成が今日のライブを作ったと云って良いだろう。ステージに立つメンバーはそれぞれの想いを胸に音を奏で、会場に響かせて。
 ステージ中央にある台に敦が立つ。再びフロアから歓声が上がり、ざわめき、犇めく。グローブを嵌めた手を真っ直ぐに天へと掲げる。一瞬の沈黙。アンコールもこれが最後。
 敦が叫んだ。
「ラストソーング!――Stray Dogs!」
 パァンッ!
 音と共に特効の銀テープがフロアに向かって放たれた。熱狂的な叫び声が割れんばかりに会場を激震する。照明を受けながら輝き、降り注ぐ銀色へ皆が手を伸ばす。
 この瞬間は何時見ても絶景だと国木田は思う。鳥肌が立つ。思わず目頭が熱くなる程だ。それは観客も同じで、首にかけたマフラータオルで目許を拭っている様子が見られた。ファンも汗と涙でぐちゃぐちゃだ。だが、メンバーと同じようにフロアを埋め尽くしている人々の表情も晴れやかだった。
 本当に、良い景色だ――国木田はステージと観客フロアとを見て薄く笑む。
 色々と気苦労も多く、一部のメンバーに振り回されて腹が立つことも一度や二度ではきかないが、それでもこの素晴らしい瞬間を目の当たりにすると彼等のマネージャーを務めていて良かったと心から思うのだった。
 今演奏されている『Stray Dogs』は彼等のデビュー曲だ。皆、笑顔で楽しそうに演奏をしている。五分押しでスタートしたツアーファイナルも無事に終えそうだ。国木田はほっと安堵して腕時計に目を向ける。
 だが、感慨に耽ってばかりもいられない。この後は打ち上げがある。メンバーは勿論、多くのツアースタッフや事務所の社長も交えての宴会だ。国木田はそれを取り仕切らなければならなかった。
 ライブツアーは今日で終わりだが、明日の夕方には雑誌のインタビューと写真撮影がある。国木田は指定の場所までメンバー達を送り届けなければならなかった。
 彼の手帳は予定で真っ黒だ。半年先までスケジュールは埋まっている。せめて明日くらいはメンバーを休ませたいところだが、一躍人気アーティストとなった彼等である。暫くは休みを取るのが難しいだろう。そしてメンバー達に付きっきりの自分もまた。
 今夜は何時間眠れるだろう――国木田は頭の中で手帳を繰って、そっと息を吐いた。

***

 終演後、国木田は宿泊しているホテルにメンバーを送り届けた。打ち上げは二十二時からである。その間にメンバー達はそれぞれシャワーで汗を流して着替え、国木田は先に宴会場に入って、用意された酒類や料理の数を確認する。広い座敷に整然と並んだ机と座布団の間を行き来して参加者の座る場所を脳内で振り分けていく。
 そうしているうちに、さっぱりした顔でメンバー達がぽつりぽつりと宴会場に姿を見せた。
「国木田さん、お疲れ様です」
 敦は明るく云ってぺこりと頭を下げる。彼の隣で鏡花も会釈する。
「敦も鏡花もお疲れ様」
「国木田さん、今日のライブはどうでしたか?」
「ああ、とても良かったぞ。素晴らしかった」
 手放しで褒められて敦も鏡花も面映ゆさに頬を仄かに赤らめながらも、嬉しそうに笑った。
 宴会場の出入り口に人が集ってきたので、座敷に入るように二人を促す。
「詳しい話はまた後だな。――お前達の席は彼処だ」
「解りました。では、また後で。鏡花ちゃん、行こう」
 二人は国木田が示した方へと連れ立って足を踏み入れ、その後にはツアースタッフ、関係者が続く。国木田はお疲れ様でしたと頭を下げながら人々を迎え入れた。
 社長の福沢も到着したところで乾杯の音頭が取られ、和やかに打ち上げがスタートした。
 国木田は出入り口に立ったまま、ざっと会場を見渡す。ひとり、足りない。
 ――あの莫迦……!
 慌てて国木田は会場を飛び出した。無人の昇降機で彼が宿泊している部屋があるフロアまで上がる。チンと云う澄んだ音と共に扉が開いて転げ出るように箱から降り、柔らかい絨毯の上を駆けた。
 一三〇四号室の前まで来ると国木田はドアを性急にノックする。
「太宰、いるんだろう。開けろ」
 尖った声でおとなうと、やや間をおいて、いらっしゃーい――ドアの影から濡れた髪のままの太宰が顔を出した。国木田は眉間に皺を深く刻んで室内へと素早く身を滑らせる。
「お前、打ち上げは二十二時からだと云っておいただろうが。何を部屋で寛いでいるんだ」睨み付けるとバスローブ姿の彼は悪びれる素振りは全く見せず、
「シャワー浴びたら何か疲れちゃってさ。着替えようと思ったところで力尽きちゃった」溜め息を吐くとベッドの縁に腰掛ける。
「もう打ち上げは始まっているぞ。早く着替えろ」
「えー、厭だ。面倒くさい。別に私ひとりいなくても、大丈夫でしょう?」
「阿呆。社長もお見えになっているんだ。挨拶しないでどうする」
「社長かあ。国木田君から宜しく云っておいてよ」
「そんな訳にいくか。莫迦者」
 半ば吐き捨てるように云って太宰に歩み寄る。と、彼の手が国木田の手を捕らえた。
「ねえ、本当に疲れちゃったんだよ。少し、休ませておくれよ」
 そうしたら打ち上げにも出るから――長身を見上げる瞳が縋りつく。その顔はメンバーのそれではなくて、恋人として国木田に甘えている顔だった。国木田は一瞬、苦虫を嚙み潰したような顔付になって、諦念の息を深く吐いた。
「――解った。三十分だけだぞ。良いな?」
 我ながら甘いと思いながら、彼の欲求を呑んでしまう自分が恨めしい。恋人としてはそれで良いのかもしれないが、マネージャーとしては失格である。苦いものを口の中に感じながら太宰の隣に腰掛けた。宴会場に戻らなければいけないと思いつつ、掴まれた手を振り解けなかった。一方、太宰は嬉しそうに微笑んで身を寄せてくる。痩躯を肩で受け止めると、ふ、と洗髪剤の甘い香りが国木田の鼻先を掠めていく。彼の匂いに不覚にも胸が乱れて視線が惑う。
「今日のライブはどうだった? 良かった?」
「あ、ああ、とても良かったぞ。だが、お前、アンコールの時に少し先走っていたな。周りより半テンポ早かった」
「あ、解っちゃった? 何だか気分が上がっちゃってさ。流石、敏腕マネージャーだねえ」
 くすくすとおかしそうに笑う太宰に国木田は顔を顰める。
「それくらい普通、解るだろう。それに。お前の演奏を何百回と耳にしているんだ。テンポのずれも些細なミスも直ぐ解る。――と云うか、寝ないのか? 疲れているのだろう。三十分経ったら起こしてやるぞ」
「うん。君の膝枕で寝るのも良いんだけどさ。その前に爪を――」
「爪? どうかしたか?」
 太宰は右手を差し出す。
「ちょっと爪が割れちゃってさ。ネイルも塗り直したくて」
 十の爪を染める漆黒は剥がれかかり、人差し指に至っては僅かに伸びた部分に亀裂が入っている。
「それなら明日、撮影の前のメーキャップで……」
 すると太宰は「あれ、明日そんな予定あったっけ?」首を傾げて惚けている。事前に知らせておいたのに、この有様である。全く此奴の頭は鶏だな――呆れて内心で毒づく。
 音楽のことになるとその才能やセンスを遺憾なく発揮するのに、他の事はからきし駄目なのだ、この男は。しかしそんな部分も可愛らしく思ってしまうのは完全に惚れた弱みだろう。口惜しいが、国木田は太宰と云う男を心底愛していたのだった。公には出来ない、秘密の愛ではあるけれど。
「国木田君、ちょっと爪を綺麗にしてよ」
 道具はあるからさ――国木田が否と口にする前に彼は立ち上がって部屋の隅に置かれた荷物を漁る。取り出されたのは爪切りとやすり、コットン、除光液、ネイルの小壜が三種。随分用意が良い。
「俺はそんなに上手くは出来んぞ」
「そう? でも前にも綺麗に爪塗ってくれたじゃない。少しくらいはみ出してもいいからさ」
 はいお願い、と手を出されて断れなくなった。国木田は仕方なしに応じて、まずは剥がれかかっているネイルを落としにかかった。それから爪切りで僅かな余白をパチン、パチンと切り落としていく。
 太宰の指は白く細い。繊細な指が素晴らしい旋律を紡ぎ出すと思うと何か神憑り的なものがこの指に宿っているのかと思ってしまう。そして色白故に濃い色のネイルも映えて美しい。自分の筋張った指とは大違いだ。改めて彼の指は綺麗だと思った。
「何かさ、良いね。こう云うの」
「何がだ?」
「国木田君の手で無防備にされていくのが」
「無防備に?」
 鸚鵡返しに問うて一瞥すると太宰は妖しく微笑んでいた。
「そう。爪って自分を守るものでしょう。そして誰かを傷付けるものでもある。そんな爪をこうして切り落とすことは、無防備になることだ」
 私の包帯を解くのと同じようにね――国木田は思わず手を止めて太宰を見た。視線が出会って鳶色の瞳がとろりと細められる。
「ねえ、国木田君。君を傷付けるものは切り落としたからさ――」
 太宰は国木田の耳元に唇を寄せて囁く。
 君も、無防備におなりよ――含まれる艶に縛されて、国木田は動けなかった。
 切り落とされた爪は、三日月に嗤っていた。
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