戀―REN―

やっぱり君が好き

 薄く目を開くとぼやけた視界に白色が映る。僅かに視線を動かせば、天井から吊り下げられた点滴バッグ。其処から伸びる管は自身の腕へと向かっていた。微かに匂う消毒液のつんとした匂いに漸く自分は病院にいるのだと悟った。だけれども、何故病院にいるのかが解らなかった。まだ覚醒しきらない頭で記憶の糸を手繰る。確か……そう、確か、五時限目の体育の授業で――水泳の授業をプールサイドで見学していた筈だ。其処までは思い出せたけれど、その後のことはぷつりと記憶が途切れていた。
 さて、どうしたものかと思っていると不意に閉め切られていたカーテンが開けられ、現れた看護師らしき女性が「気分はどうですか?」にこやかに尋ねてくる。特に気分は悪くない。だけれど躰を動かすには酷く億劫だった。手足が重たく、怠い。そんなことを云うと看護師は少し眉を曇らせて熱中症だと説明した。
 熱中症?――鸚鵡返しに問うと、プールサイドで倒れたのだと云う。そう云われれば、そんな気もしてくる。学校では処置が出来なかったので此処に搬送されたのだと経緯を口にしながら、看護師はてきぱきとした動作で検温し、血圧を測った。それから躰を冷やしている冷却剤を確認し、点滴の速度を腕時計で測定する。点滴バッグにはまだ半分以上、透明な液体が入っていて、終わるまであと三十分はかかると云った。そしてこの点滴は二本目だとも。一体、私はどれくらい意識を失っていたのだろう。粗方確認が済むと彼女は「付き添いの方を呼びましょうか」と云うので一体誰だろうと疑問に思ったまま頷いた。
 看護師と入れ替わりに病室に入ってきたのは意外にも国木田先生だった。
「先生、どうして――」
 声が掠れている。喉が貼り付く感じがして咳き込むと、先生は慌てた様子で手にしていたペットボトルの蓋を開けて「水だ。飲めるか?」差し出す。ゆっくりと半身を起こして白いベッドヘッドに背を凭れると、先生が飲み口を口元へと近付けてくる。本当は先生に飲ませて欲しかったけれど、私は何も云わず水を二口、三口と飲んだ。冷たい水が躰の中を流れて、人心地がつく。
「気分はどうだ? 大丈夫か?」
 先生は云いながら私の顔を覗き込んで額に触れる。何時も温かいその手がひんやりと冷たい。まだ少し体温が高いな――先生の手が冷たく感じるのは私の方が熱いからなのか。それとも水のペットボトルを持っていた所為なのだろうか。頭がぼんやりする。躰を起こしていると何だか目が回る感じがして、再びベッドの上に横になった。先生は私が横になるのを手伝いながら、捲れた薄いタオルケットを整える。冷却剤が布越しに気持ち良かった。
 先生は傍らにあった丸椅子に腰掛けて兎も角、目が醒めて良かったと安堵の息を洩らした。
「先生、授業は?」
 ふと気になって訊ねると、
「もう全ての授業は終わっている。今、四時を過ぎたところだ」
 腕時計に視線を落として云う。もうそんな時間なのか。カーテンに仕切られて窓は見ないけれど、茜色に燃え立つ西陽が暑そうだ。
「……そう。でも、これから会議とかあるんでしょう?」
 確か毎週水曜日は職員会議があった筈だ。学校に戻らなくて良いのかと訊くと、先生は「まあな」とやや曖昧に頷く。
「点滴が終われば帰って良いそうだ。そうしたらお前を家まで送って行かねばならん。今日は俺もこのまま直帰だ」
 てっきり先生は学校に戻ると思っていたので、少し驚いた。でも、嬉しい。先生が傍にいてくれる。先生と一緒におうちに帰れる。
 同じ屋根の下で暮らしながらも、普段、学校への行き帰りは別々だ。先生の方が朝早いし、帰りも遅い。学校でも顔は合わすけれど、先生は忙しいから私にはあまり構ってくれない。
「……先生、もしかしてずっと此処にいたの?」
「そうだが?  それがどうかしたか?」
 先生は不思議そうに私を見る。そっか、先生は私の傍にいてくれたんだ。仕事だってあっただろうに。どうしよう、嬉しい。
「うふふ。先生、好き」
 すると先生は俄かに顔を顰める。眉間に深い皺を刻んで。
「莫迦なことを云っていないで、寝ろ」
「だって。好きだなあって思ったから、好きって云っただけだよ。いけない?」
「……別に、今云わなくとも良いだろう」
 そんなふうに素っ気ない態度で云うけれど、顔が少し赤い。照れている証拠だ。
「そんな先生も好きだよ」
 にっこり笑いかければ愈々、先生は顔を赤らめる。半ば睨み付けるような表情で、
「五月蠅い。もう解かったから、いい加減、寝とけ」
 髪をくしゃりと撫ぜられた。口調とは裏腹にとても優しい手付きで。怒っているのか心配をしているのか。少し笑ってしまう。怒りっぽくて含羞が強くて、でもとても優しい先生。私の、大好きな恋人でもある先生。
 薄いタオルケットを口元まで引き上げながら、先生――呼んだは良いけれど、その後の言葉を口にするのは何だか恥ずかしくて云えなかった。と、私が急に黙り込んだのを不審に思ったのか、先生は「どうした?」気遣わしげな目を向けてくる。そう云うところも、好き。
「ううん、何でもない」
 私少し寝るから――目を閉じたところで、手を握られた。驚いて先生を見るときゅっと握る手に力が籠った。それから指を絡めて繋ぐ。
「寝るんだろう。ほら、寝ろ」
 なあんだ、先生には全部解っていたんだ。手を繋いでいて欲しいことも、傍にいて欲しいことも。
「……うん。先生、ありがとう」
 やっぱり、先生のことが好きだなあ。
 先生おやすみなさい――私は緩やかに意識を手放していく。
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