戀―REN―

此処ではせめて、素顔のままで

「んー、どれが良いかなあ」
 太宰は平台に並べられた眼鏡を眺める。照明を受けて艶やかに光る丸いレンズ、四角いレンズ、意匠を凝らした様々な色彩と造形を持つフレーム達。整然と陳列されたそれらの中から青いフレームの眼鏡を一つ手に取ってかけてみる。棚に備え付けられた鏡を覗き込んで微笑んでみれば、普段と違う己の顔があった。
「眼鏡も悪くないねえ」
 独り言を洩らして今度は深緑色のフレームを装着すると横から「何かお探しですか?」とにこやかに歩み寄ってくる店員。太宰に声をかけるタイミングを先程から見計らっていたらしい。太宰はかけた眼鏡を外しながら、連れを待っているだけだと告げて煩わしい店員を退けた。
 今日は国木田と揃って公休日であったので、買い物デートと称してショッピングモールへと足を伸ばしたのだが、ふと国木田が思い出したように少し眼鏡の具合を調整したいと云い出したので手近な眼鏡屋に立ち寄ったのであった。
 『眼鏡は顔の一部』とは良く出来たキャッチコピーだが、眼鏡は単に視力を矯正するだけではない。自分を演出する小道具、或いは己を覆い隠し、韜晦とうかいするための道具でもある。
 国木田は単純に視力を補うために眼鏡をかけているが、それでも彼の素顔を見た時、不思議な感慨がある。眼鏡の下にある彼の素顔は恋人である自分だけが見るに能うものだと太宰は思った。閨で無防備に躰を晒し合うに等しいような。実際、国木田の素顔を見る時は閨を共にする前後だ。レンズを介さない月色の眸は一層、強く澄んで、美しい。
 ――眼鏡をかけたら、少しは見えなくなるだろうか。
 彼に、見せたくない部分を。太宰はぼんやりとそんなことを思いながら店内の奥へと視線を投げると店員が甲斐甲斐しく国木田に眼鏡をかけたり外したりしている。どうやら先セル――耳にかける部分の具合を微調整しているらしい。少しの間、店員は同じ動作を繰り返していたが、漸く調整を終えたのか国木田が椅子から立ち上がる。店員は慇懃に会釈をして客を送り出した。
「すまん、待たせたな」
 国木田が足早に太宰に歩み寄ると、
「おかえりー。ねえねえ、国木田君。この眼鏡、どう? 似合う?」
 そう云って銀縁の、四角いレンズの眼鏡をかけて見せた。
「お前には似合わんな」
 軽薄面に拍車がかかる――国木田はにべもない。眉間に皺を刻む恋人を口吻を尖らせて見遣りながら太宰は戯ける。
「えー、何それ。国木田君、酷い。男前が上がってると思わない? 私、格好良いでしょう?」
「今度は自画自賛か。大体、お前、視力は悪くないだろう」
「解ってないなあ、国木田君。お洒落だよ、お洒落。伊達眼鏡。それにほら、仕事で変装する時とか使えるし」
「そう云ってお前は真面目に仕事をしないだろうが。兎も角。眼鏡は要らんだろう」
 国木田は仏頂面で太宰から眼鏡を取り去って陳列台に戻すと、行くぞと細腕を掴んで歩き出す。太宰は背中で「ありがとうございましたー」店員の言葉を聞きながら引き摺られてゆく。
 何処に向かっているのか、大股で歩む国木田に「ねえ、何か怒ってるの?」訝しんで問うと「別に」素っ気ない声が答える。確かに怒っているふうではないが、しかし些か機嫌が悪そうな様子に「ちょっと待ってよ」立ち止まって国木田の腕を引いた。気が付けば並ぶ店を突き抜けてショッピングモールの奥――人気ひとけのない階段まで来てしまっていた。白い壁に備え付けられた非常経路を示す緑色の電光表示の光が白いリノリウムの床に濡れたように照り落ちていた。
「国木田君、どうしちゃったの?  折角のデートなんだから機嫌を直してよ」
 すると広い背が翻った。国木田は俯いて、どう云う訳か口元を手で覆っている。耳が仄かに赤いのは気の所為だろうか。
「……えっと、国木田君?」
 太宰は不審に思って長身に近付くと顔を覗き込んだ。と、目が泳いで、困惑したかのように意味を成さない言葉を洩らす。国木田は太宰を一瞥すると視線を逸らせたまま、歯切れ悪く告げた。
「……否、その、すまん。別に機嫌が悪い訳ではなくてだな、只お前が……」
「私が? 何?」
「……さっき眼鏡を外したお前を見たら……やはり見慣れた素顔が良いと……」
「へっ?」
 思わぬ台詞に太宰は目を丸くする。
「だから、俺は、眼鏡をかけた太宰よりも、何時もの、素顔のお前が良いと思っただけだ」
 解ったか――半ば自棄クソのように云い捨てて鋭い目を太宰に向ける。険しい目許は含羞に色濃く染まっていた。
 ――どうして、この人は。
 太宰は目を細めて国木田を見た。視界が僅かにぼやけて、次第に顔を赤らめて所在なく立っている彼が滲み始める。
「――国木田君さあ、もっと上手に口説けるようになり給えよ」
 太宰は目尻に涙を溜めながら可笑しそうに笑う。腹を抱えて笑って可笑しくて堪らなくて泣いているふうを装う。そうしなければ、本当に泣いてしまいそうだったから。
「五月蠅い。――太宰」
 国木田は何処か決まりが悪そうにしていたが、不意に彼の腕を掴むと引き寄せて胸に抱き込んだ。此処まできたら、もう構うまいと自分に云い訳をして。
「何……?」
 一方、唐突に抱き締められた太宰は涙の膜が張った鳶色の瞳を瞬かせる。人気のない場所とは云え、いつ何時、人が現れるか解らない公共の場だ。こんな場所で何を――戸惑いながらも、国木田の腕を拒絶出来なかった。寧ろその腕の温かさにずっと浸っていたいような気持ちだった。
「どうせ俺はお前のように弁が立つ方ではないからな」
 耳朶を搏つ声音は柔らかい笑みを含んでいた。
「だが、先程、お前が何を考えていたのかくらいは大体解る」
「国木田君……」
「俺と一緒にいる時くらい、素顔のままでいろ。何かを隠すことも、取り繕うことも、しなくて良い」
 はっと太宰は目を見開いた。
 ――何時も、そうだ。
 どうして彼は、私の思惑や気持ちを易々と飛び越えてしまうのだろう。そんなことは何でもないと云うように。何時だって彼は見て欲しい部分も、見られたくない部分も、等しく見詰めて、慈しもうとする。
 国木田の手が髪に触れるのを感じて太宰は首元に額をうずめる。
「……うん」
 ありがとう――小さく呟いた言葉は国木田に聞こえたかどうか。
 結局のところ。
 ――素顔を隠す眼鏡なんて、彼の前では何の役にも立ちはしないのだ。
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