戀―REN―
美しや銀杏散る……、
高空に欠けた白い桂月が置き去りにされているのを太宰は眸の端に捉えた。淡いそれは風が吹けばふっと消え入りそうな頼りなさで孤独に浮かんでいた。晩秋が孕む寂寥を誘うようだった。空の蒼さが目の底を射抜いて、太宰は薄く目蓋を伏せた。一瞬、陽光に眼裏 が赤くなる。
太宰は麗らかな秋陽の下、人気のない銀杏並木をゆったり歩いていた。立ち並ぶ銀杏はどれも鮮やかに黄葉し、終わり逝く秋の餞のようにして金色 に燃え立っていた。天に伸びる葉群れの鬱金色と蒼穹の対比が眩しい。枯れ木が灰燼に帰す匂いをふと嗅いだ気がした。
短く己の影が落ちる石畳を歩き、銀杏並木が途切れるところで立ち止まった。手を伸べて冷たく悴む指先で秋色に染まった葉に触れようとした時、背後で怒号が飛んだ。
「こんなところにおったか、唐変木ッ!」
「やあ、国木田君」
手を下ろして振り向くと「やあ国木田君ではないわッ! 堂々と仕事をサボりおってッ!」不機嫌極まりないと云った風情で国木田は眉間に皺を深く刻み、相棒を睨み付ける。が、太宰は強い視線をひょいと躱して薄く笑む。彼に凄まれても暖簾に腕押し、糠に釘、馬耳東風、何処吹く風、である。
「あまりにも良い天気だったからね。ちょっと散歩しようと思って」
のほほんと答える太宰に国木田はほとほと呆れ返って漲っていた怒気も萎んでいく。
「全く、貴様と云う奴は。ほら、帰るぞ」
これ見よがしに盛大な溜め息を吐いて、国木田は太宰の手を掴むと来た道を――銀杏並木を歩き出す。
太宰は半ば引き摺られるような形で、数歩先を行く真っ直ぐな背を、其処に揺れる長い金糸を見詰めた。金に透った陽射しを受けて輝く彼の髪色が視界一面を染め充たす美しい銀杏のそれと重なって俄かに鼓動が早くなる。さざめくときめきが記憶の扉を訪い、開け放つ。
――三年前も、そうだった。
此処の銀杏並木を眺めて、彼を想った。抱いた恋情の強さに自分でも驚きながら、そしてこの恋は決して叶わないのだと彼の色に染まった葉に触れることさえ躊躇って。でも、今は――。
太宰は不意に歩みを止めた。と、国木田が振り返る。
「おい、どうした?」
「もう少し、ゆっくり歩こうよ」
まだこの景色を眺めていたかった。彼と、一緒に。
国木田は一瞬、渋面を見せたが、腕時計を一瞥すると改めて太宰の手を掴み、指を絡めて繋いだ。太宰は瞳を見開いて眼前に立つ相棒――恋人を見遣った。すると国木田は「何だ、呆けた顔をして」微かに笑う。
「え、だって……」
戸惑いを隠せない太宰に国木田はやや言い訳じみた言葉を吐く。釘を刺すことも忘れない。
「まあ、お前の云う通り良い天気だからな。だが、少しだけだぞ。此処を抜けたら社まで走って戻るからな」
「ええ~、走るの厭だなあ」
「つべこべ云うな」
行くぞと手を引かれ、緩やかな歩調で石畳を歩む。束の間の逢引に太宰はひとり頬を緩めて繋いだ手の確かさを噛み締めた。 二人は黄金に照る銀杏を仰ぎ眺めて、少しの間無言だった。沈黙を縫うようにして鳥の囀りが響く。雀とは違う啼 き聲 に目で鳥の姿を探したが、捉えることは敵わなかった。只、今、この時の凡てが酷く穏やかだと思った。
「綺麗だな」
「そうだね」
頷きながら、ちらりと国木田の横顔を盗み見る。
綺麗なのは何時だって君であるのに――口の端に上らない想いは心の底に沈んでいる。一粒の真珠のように。淡い光沢を纏ったそれは掌にそっと包んでおきたいような、愛おしい、密やかな感情だった。
「――前にも、こんなことがあったな」
小さく呟かれた言葉に太宰の胸が騒いだ。
「憶えてるの?」
三年前の秋の日を。
温かい手に触れた――私の手を離さずにいたあの日を。
彼にとっては取るに足らない、些細な日常の出来事の一つで、疾うに記憶の底に紛れて忘れていると思っていたのに。
一方、国木田は不用意に言葉を零してしまったと羞恥に似た気持ちを覚えながら首肯する。
「憶えているぞ。忘れる訳がない」
そう、忘れる筈がなかった。
国木田は胸奥に刻まれた過去を眼差 す。
何処か遠くを見詰めていた鳶色の瞳を、助けを求めているように見えた空に伸ばされた手を、掴んだその手の冷たさを、冷えた温もりが胸に鋭利な痛みを残したことも、凡て。 片恋の記憶は今でも抱き締めていたいような温度で国木田の裡にあった。その体温は寂然とした季節の中で儚く佇んでいた太宰そのものであった。
繋いでいる温もりが三年前のあの日と重なる。優しい言葉をかけてやれなかった自分に嫌気をさしながら、彼の細手を離したくはないと切望していた。だけれども、今は――。
「相変わらず、お前の手は冷たいな」
「国木田君の手は温かいねえ」
太宰は穏やかに告げて僅かに握り返す。この優しい温度が、大きな手が、どれだけ自分を暗闇から光差す場所へと導き、連れ出したのか、彼は知っているのだろうか。
駆けゆく秋風が銀杏の梢を揺らし、金色 を散らす。それは光の欠片として眩 く視野を染め抜いた。太宰も国木田も自然と歩みを止めて刹那の絶景に目を瞠った。
「――今の、凄かったね」
「ああ、とても綺麗だったな」
「散歩も悪くないでしょう?」
「職務中でなければな」
得意げに笑む太宰に対して国木田は苦み走った顔をする。
「もう、国木田君ってば。――あ」
「ん? 何だ?」
「髪に葉が――」
太宰は手を伸ばして国木田の頭に落ちたひとひらの葉を指先で摘まみ取る。と、じっと色素の薄い眸が間近に迫って、堪らず長い睫毛を伏せた。彼の気配が濃くなって、ああ接吻 される――そう思ったのは一瞬。
きゅっと鼻先を摘ままれ、驚いて目を開けると太宰の視界一杯に国木田の可笑しそうに笑っている顔があった。こんなふうに彼は笑うことが出来るのかと珍しいその表情に胸を衝かれた。
「――いきなり何するのさ」
期待してしまった自分を恥じて居た堪れない思いに駆られながら、頬を膨らませて口吻を尖らす。国木田は笑いを収めないまま「否、別に」答えて、ふと真顔になる。
それはあまりにも出し抜けだった。
眸も視線も出会わぬ前に。
太宰――薄く形の佳い唇が自身のそれを掠めて、馴染んだ匂いに包まれた。抱き締められていると理解するのに数秒要した。
明るい陽射しの下、幾ら人気がないからと云って。
考えてみれば今は就業時間中であるのに。
冷静さを取り戻そうとする程、太宰の耳は火照り、差した朱が色を増して胸を慄わせる。離れなければと思うのにどのような顔をして良いのか解らず、太宰は縋るように国木田の肩口に額を埋めた。
――国木田君は今、どんな表情をしているのかな。
僅かに面を上げた時、静かな声が耳朶を搏った。
「――明後日」
「え?」
目を瞬かせて国木田の顔を見遣った。彼は視線を外したまま告げる。羞恥が拭えないのか、仄かに目許が赤い。
「確かお前も休みだったな。もう一度、此処に来るか」
「えっと、それって逢引 のお誘い……?」
「それ以外に何があるんだ」
国木田は然も当然と云ったふうであったが、しかし刻まれた眉間の皺は含羞に深かった。そんな彼の態度に太宰は苦笑を禁じ得ない。誰が見ているか解らないところで接吻までしたのに――変なところで彼は大胆だと思いながら、しかしその思い切りの良さもまた自分を救ってくれた、紛れもない国木田の美点なのだと眩しく感じた。
「む。こうしてはおれん。社に戻るぞ」
国木田は何かを誤魔化すように腕時計に目を落として足早に歩き出す。銀杏並木は間もなく終わろうとしていた。
太宰は振り返って天を仰ぐ。白き月は淡く儚く、孤独のまま其処にあった。だが、不思議と遠くに感じなかった。手を伸ばせば届きそうな気がした。否、手を伸ばせば、己が望めば、確かに届くのだ。穢してしまうことを恐れて触れられなかった美しい色にも。
吹き抜ける風と共に銀杏の葉がはらはらと散り、秋が遠ざかって逝く。
何をしている早く来い――相棒の声が遠くでして、間延びした返事を返しながら銀杏並木を後にする。
太宰の視界を充たす黄金色も眼裏で輝く彼の金色 も、一点の穢れなく、何時までも燦然と煌めいていた。
高空に欠けた白い桂月が置き去りにされているのを太宰は眸の端に捉えた。淡いそれは風が吹けばふっと消え入りそうな頼りなさで孤独に浮かんでいた。晩秋が孕む寂寥を誘うようだった。空の蒼さが目の底を射抜いて、太宰は薄く目蓋を伏せた。一瞬、陽光に
太宰は麗らかな秋陽の下、人気のない銀杏並木をゆったり歩いていた。立ち並ぶ銀杏はどれも鮮やかに黄葉し、終わり逝く秋の餞のようにして
短く己の影が落ちる石畳を歩き、銀杏並木が途切れるところで立ち止まった。手を伸べて冷たく悴む指先で秋色に染まった葉に触れようとした時、背後で怒号が飛んだ。
「こんなところにおったか、唐変木ッ!」
「やあ、国木田君」
手を下ろして振り向くと「やあ国木田君ではないわッ! 堂々と仕事をサボりおってッ!」不機嫌極まりないと云った風情で国木田は眉間に皺を深く刻み、相棒を睨み付ける。が、太宰は強い視線をひょいと躱して薄く笑む。彼に凄まれても暖簾に腕押し、糠に釘、馬耳東風、何処吹く風、である。
「あまりにも良い天気だったからね。ちょっと散歩しようと思って」
のほほんと答える太宰に国木田はほとほと呆れ返って漲っていた怒気も萎んでいく。
「全く、貴様と云う奴は。ほら、帰るぞ」
これ見よがしに盛大な溜め息を吐いて、国木田は太宰の手を掴むと来た道を――銀杏並木を歩き出す。
太宰は半ば引き摺られるような形で、数歩先を行く真っ直ぐな背を、其処に揺れる長い金糸を見詰めた。金に透った陽射しを受けて輝く彼の髪色が視界一面を染め充たす美しい銀杏のそれと重なって俄かに鼓動が早くなる。さざめくときめきが記憶の扉を訪い、開け放つ。
――三年前も、そうだった。
此処の銀杏並木を眺めて、彼を想った。抱いた恋情の強さに自分でも驚きながら、そしてこの恋は決して叶わないのだと彼の色に染まった葉に触れることさえ躊躇って。でも、今は――。
太宰は不意に歩みを止めた。と、国木田が振り返る。
「おい、どうした?」
「もう少し、ゆっくり歩こうよ」
まだこの景色を眺めていたかった。彼と、一緒に。
国木田は一瞬、渋面を見せたが、腕時計を一瞥すると改めて太宰の手を掴み、指を絡めて繋いだ。太宰は瞳を見開いて眼前に立つ相棒――恋人を見遣った。すると国木田は「何だ、呆けた顔をして」微かに笑う。
「え、だって……」
戸惑いを隠せない太宰に国木田はやや言い訳じみた言葉を吐く。釘を刺すことも忘れない。
「まあ、お前の云う通り良い天気だからな。だが、少しだけだぞ。此処を抜けたら社まで走って戻るからな」
「ええ~、走るの厭だなあ」
「つべこべ云うな」
行くぞと手を引かれ、緩やかな歩調で石畳を歩む。束の間の逢引に太宰はひとり頬を緩めて繋いだ手の確かさを噛み締めた。 二人は黄金に照る銀杏を仰ぎ眺めて、少しの間無言だった。沈黙を縫うようにして鳥の囀りが響く。雀とは違う
「綺麗だな」
「そうだね」
頷きながら、ちらりと国木田の横顔を盗み見る。
綺麗なのは何時だって君であるのに――口の端に上らない想いは心の底に沈んでいる。一粒の真珠のように。淡い光沢を纏ったそれは掌にそっと包んでおきたいような、愛おしい、密やかな感情だった。
「――前にも、こんなことがあったな」
小さく呟かれた言葉に太宰の胸が騒いだ。
「憶えてるの?」
三年前の秋の日を。
温かい手に触れた――私の手を離さずにいたあの日を。
彼にとっては取るに足らない、些細な日常の出来事の一つで、疾うに記憶の底に紛れて忘れていると思っていたのに。
一方、国木田は不用意に言葉を零してしまったと羞恥に似た気持ちを覚えながら首肯する。
「憶えているぞ。忘れる訳がない」
そう、忘れる筈がなかった。
国木田は胸奥に刻まれた過去を
何処か遠くを見詰めていた鳶色の瞳を、助けを求めているように見えた空に伸ばされた手を、掴んだその手の冷たさを、冷えた温もりが胸に鋭利な痛みを残したことも、凡て。 片恋の記憶は今でも抱き締めていたいような温度で国木田の裡にあった。その体温は寂然とした季節の中で儚く佇んでいた太宰そのものであった。
繋いでいる温もりが三年前のあの日と重なる。優しい言葉をかけてやれなかった自分に嫌気をさしながら、彼の細手を離したくはないと切望していた。だけれども、今は――。
「相変わらず、お前の手は冷たいな」
「国木田君の手は温かいねえ」
太宰は穏やかに告げて僅かに握り返す。この優しい温度が、大きな手が、どれだけ自分を暗闇から光差す場所へと導き、連れ出したのか、彼は知っているのだろうか。
駆けゆく秋風が銀杏の梢を揺らし、
「――今の、凄かったね」
「ああ、とても綺麗だったな」
「散歩も悪くないでしょう?」
「職務中でなければな」
得意げに笑む太宰に対して国木田は苦み走った顔をする。
「もう、国木田君ってば。――あ」
「ん? 何だ?」
「髪に葉が――」
太宰は手を伸ばして国木田の頭に落ちたひとひらの葉を指先で摘まみ取る。と、じっと色素の薄い眸が間近に迫って、堪らず長い睫毛を伏せた。彼の気配が濃くなって、ああ
きゅっと鼻先を摘ままれ、驚いて目を開けると太宰の視界一杯に国木田の可笑しそうに笑っている顔があった。こんなふうに彼は笑うことが出来るのかと珍しいその表情に胸を衝かれた。
「――いきなり何するのさ」
期待してしまった自分を恥じて居た堪れない思いに駆られながら、頬を膨らませて口吻を尖らす。国木田は笑いを収めないまま「否、別に」答えて、ふと真顔になる。
それはあまりにも出し抜けだった。
眸も視線も出会わぬ前に。
太宰――薄く形の佳い唇が自身のそれを掠めて、馴染んだ匂いに包まれた。抱き締められていると理解するのに数秒要した。
明るい陽射しの下、幾ら人気がないからと云って。
考えてみれば今は就業時間中であるのに。
冷静さを取り戻そうとする程、太宰の耳は火照り、差した朱が色を増して胸を慄わせる。離れなければと思うのにどのような顔をして良いのか解らず、太宰は縋るように国木田の肩口に額を埋めた。
――国木田君は今、どんな表情をしているのかな。
僅かに面を上げた時、静かな声が耳朶を搏った。
「――明後日」
「え?」
目を瞬かせて国木田の顔を見遣った。彼は視線を外したまま告げる。羞恥が拭えないのか、仄かに目許が赤い。
「確かお前も休みだったな。もう一度、此処に来るか」
「えっと、それって
「それ以外に何があるんだ」
国木田は然も当然と云ったふうであったが、しかし刻まれた眉間の皺は含羞に深かった。そんな彼の態度に太宰は苦笑を禁じ得ない。誰が見ているか解らないところで接吻までしたのに――変なところで彼は大胆だと思いながら、しかしその思い切りの良さもまた自分を救ってくれた、紛れもない国木田の美点なのだと眩しく感じた。
「む。こうしてはおれん。社に戻るぞ」
国木田は何かを誤魔化すように腕時計に目を落として足早に歩き出す。銀杏並木は間もなく終わろうとしていた。
太宰は振り返って天を仰ぐ。白き月は淡く儚く、孤独のまま其処にあった。だが、不思議と遠くに感じなかった。手を伸ばせば届きそうな気がした。否、手を伸ばせば、己が望めば、確かに届くのだ。穢してしまうことを恐れて触れられなかった美しい色にも。
吹き抜ける風と共に銀杏の葉がはらはらと散り、秋が遠ざかって逝く。
何をしている早く来い――相棒の声が遠くでして、間延びした返事を返しながら銀杏並木を後にする。
太宰の視界を充たす黄金色も眼裏で輝く彼の