戀―REN―
言の葉の行方
国木田は愛用の万年筆を片手に円卓 に広げた便箋を前にして長いこと思考を巡らせていた。紙面は淡い色で印刷された罫線の他に並ぶものは一つもなく、積もった新雪の如くまっさらであった。国木田は万年筆の蓋を嵌めたり外したりと無意味な動作を繰り返して、何度目か解らない溜め息を大儀そうに吐いた。そうしながら慣れないことはするものではないと誰に向ける訳でもなく自嘲交じりに呟いて万年筆を便箋の上に放った。
国木田は或る人物に宛てて手紙を認めようとしていたのだが、いざ筆を取ってみるとそれが予想以上に難しい。一体何を書いて良いのか咄嗟に迷ってしまったのだ。伝えたいことがない訳ではない。だが、それを文字にすると妙に陳腐で安っぽい言葉となってしまうのだ。
――軽佻浮薄。
不意に浮かんだ四字熟語に彼の面影が閃く。
再び国木田は万年筆を握って紙面に宛名を綴る。
――太宰治様。
それだけ書いて、また手が止まってしまった。
国木田がこうして太宰に手紙を書こうなどと思いついたには訳がある。
それは数日前に遡る。
何時もの如く、太宰は何処をほっつき歩いているのか事務所には居らず、国木田はそんな彼の書いた報告書を探していた。なかなか目当ての物が出てこないので太宰を呼び戻す序 に電話で書類の所在を訊ねた。
『それなら私の机の抽斗にあるよ。上から二番目の抽斗』
云われるままに抽斗を開けると書類が出てきた。
「ああ、あった。太宰、十四時から会議だぞ。遊んでないで早く戻って来い」
『えー、面倒臭いから厭。国木田君出席しているから良いじゃない。後で教えてよ。それにどうせ今月に受けた依頼報告だけでしょう。報告書だって一応あるんだし、私ひとりいなくても問題ないでしょう』
「何を云ってるんだ、阿呆。真面目に仕事しろ。つべこべ云わずに今すぐ戻れ。良いな?」
電話の向こうで何やら騒いでいる太宰との通話を強制的に切って報告書を抽斗から取り出すと、その下から白い封筒が現われた。国木田はそれに目が釘付けになった。
封筒には探偵事務所の住所、宛名は太宰の名前。流麗な筆跡は女らしい柔らかさがあった。手紙の封は切られている。いけないと思いつつも、国木田は封筒を裏返して差出人を見た。女の名前が記されていた。彼女の名前は国木田も記憶していた。先月、受けた依頼主である。依頼を担当したのは他でもない国木田と太宰であった。
国木田はそっと封筒を元通りに置いて抽斗を閉めた。
報告書を抱えながらぼんやり思った。
彼女からの手紙はきっと恋文だろうと。
太宰はあの容姿である。人と接する時の物腰も柔らかい。歯が浮くような気障ったらしい言葉も平気で口にする。そしてそれがまた妙に板についているのだ。まるで違和感がない。女性の扱いに余程慣れているのは傍から見ていて国木田も良く知るところだ。太宰が人から好意――殊に恋愛感情を持たれるのも。今のように依頼人である女性から感情を向けられることは過去に幾度かあった。その度に国木田は平静を失いそうになる。叫びたいような気持ちに駆られる。太宰を一番愛しているのは俺であるのに、と。
国木田は自席に戻って太宰が書いた報告書の頁を捲りながら、しかし文字は目に入っていなかった。只、先程見た手紙に心が乱されるばかりで。嫉妬に胸底を焦がしながら国木田は鈍い手付きで会議に必要な書類の準備に取り掛かった。そうしながらふと思いついた。太宰に宛てて手紙を認めることを。
凡そ手紙を書くに至った経緯はこのようなものである。
あの女性からの手紙がどうなったのか国木田は知らない。太宰が返事を書いたのかさえ知れない。彼女からの手紙を後生大事に取っておくのだろうか――考えるとまたチリチリと胸を灼くものが湧き起こって自分はこんなにも嫉妬深い人間だっただろうかと不思議に思った。それも太宰と云う恋人を得て知った新たな自分の一面なのだろう。
知らない己はきっとまだ太宰の中に隠れている。逆もまた然り。太宰が知らない彼自身を自分は隠し持っているのだ。この、心の裡に。
国木田は便箋を前に考える。
最愛の人に伝えたい言葉。
一番、知って欲しい想い。
どんなに陳腐でも安っぽくても良い。
紙面にペン先を走らせる。
太宰治 様
愛してる。
国木田独歩 拝
それ以上、何も書く必要はなかった。国木田は水墨 が乾くのを待ってから便箋を折り畳んで愛用の手帳の一番最後の頁に挟んだ。
或る日の夜。
太宰は国木田の自宅に招かれて夕食を共にした。食後に傾けた酒の酔いにのせて国木田が泊まっていけと云うので素直に応じて家主より先に風呂を借りて入った。太宰が風呂から上がると今度は国木田が浴室へ消える。
既に敷かれた布団の上に座りながら太宰は何処か落ち着かない気分だった。彼が「泊まっていけ」と云う時は大抵、閨の誘いである。彼との行為は厭うてはないが、やはり触れ合う前の、相手を待っている時間は面映さや羞恥故に気が漫ろになってしまう。国木田も風呂を使いながら似たような思いを抱えているに違いない。風呂から上がって居間に戻った時、彼は自分の顔を見なかったから。国木田の目許が仄かに朱色を帯びていたのは酒精 の所為だけではあるまい。躰でも愛し合うことは、もう数え切れないくらい繰り返しているのに。
太宰とて国木田を知るまでは、女性との肉体関係は極普通にあった。今思えばそれは恋愛とは呼べない空疎な躰だけの関係ではあったけれど――それなのに。
否、それだからか。
本当に愛している相手との行為を待ち侘びることの緊張感、羞恥心、そして酷く甘い期待。
太宰――熱を孕んで潤んだ声と眸が私の躰を辿って――其処で太宰ははっと我に返った。不埒な思考を引き剥がすように首を横に振って、ふと目に付いたのは部屋の隅に押し遣られた円卓にある国木田の手帳。躊躇いはなかった。何故なら時折、隙を衝いて掏 るから。見つかると手帳の角で思い切り頭を叩かれるけれど。しかし今は絶好の機会である。
太宰は『理想』と書かれた表紙を捲って頁をぱらぱらと繰る。と、ひらりと白い物が滑り落ちた。
「何これ?」
折り畳まれた紙片を摘み上げて広げて見た。
「――これは……」
瞠目して思わず呟くのと同時に大きな手が伸びてきて、太宰から紙を取り上げた。目で紙片を追うと顔を赤らめて立っている国木田の姿。決まりが悪いのか、視線はあらぬ方向に注がれている。苦り切った、不機嫌そうな表情で。
「貴様、勝手に人の手帳を見るなとあれ程……」
「ねえ、さっきの紙。あれ、私に宛てた恋文だよね?」
国木田の言葉を無視して太宰は云う。手帳から滑り落ちた紙片は彼が云うように国木田が数日前に認めた手紙であった。恋文と云うにはあまりにも短く、素っ気無い文であるけれど。
「その手紙、私にくれるのでしょう? 頂戴よ」
「や、やらん! 駄目だ!」
太宰が手を伸ばすと国木田はひょいと躱す。と、また太宰が国木田の手を追いかける。すると国木田は手紙を掴んだ右手を高くして逃げる。太宰は恋文を取り返そうと躍起になった。手が届かないならば、こうだ。
「えいッ!」
「おわあッ!」
太宰は上方ばかりに気を取られていた国木田に脚払いを食らわせた。見事にバランスを欠いた国木田は畳の上に尻餅をつく。打ち付けた痛みに顔を顰めている隙に太宰は彼の手から紙片を奪った。
「貴様……ッ、狡いぞ」
国木田はその場に胡坐をかきながら太宰を睨む。が、太宰は涼しい顔。寧ろ何処か楽しげですらある。
「私はズルなんてしてないよ? 今のは国木田君の負け」
「クソ……ッ! 後で覚えてろよ」
心底口惜しがる国木田を横目に太宰は改めて紙面を眺め遣った。
『愛してる。』
几帳面な字で綴られた睦言に自然と頬が緩む。ちらりと恋人を一瞥すると、彼は不機嫌そうな表情を崩さないまま、そっぽを向いている。だが本気で怒っているのではない。彼の態度は全てその含羞故だ。人一倍、照れ屋なだけで――太宰は笑みを深くして文を綺麗に折り畳む。そうしてから訊ねた。何故、このような恋文を書いたのかと。初め、国木田は答えようとしなかったが、太宰が問い詰めると歯切れ悪く云った。
「……その、……お前、少し前に……手紙を受け取っただろう。……依頼人の女から。それで……」
「うん? ああ、あれか。――それで?」
「……だから、……」
国木田の目が泳ぐ。
「だから? どうしたの?」
「……お前、全部解ってて云ってるだろう」
恨めしそうに睨み付ければ太宰はにんまりと笑う。
「ふふ、まあね。国木田君、あの手紙見たんだ。それで妬きもちやいちゃった、と。彼女と張り合って私に手紙を書くくらいに」
「ふん、悪いか。――一応云っておくが、中の手紙は見てないからな」
云い捨てて国木田は太宰から顔を背ける。開き直りながらも、居心地が悪いのか眉間の皺は深い。否、拗ねているのか。国木田君 ――太宰は優しく告げる。
「国木田君があの手紙の中身を読んでいないことは初めから解っていたよ。だって君、勘違いしているんだもの」
「勘違い?」
ぴくりと片眉を吊り上げて鸚鵡返しに問い返すと、太宰は頷く。
「あの手紙はね、恋文なんかじゃなくて、只のお礼状だよ。まだ私の机の抽斗の中にあるから確かめても良いよ。宛名に私の名前しかなかったのは、国木田君の名前をど忘れしちゃったからだったようだよ。そのことも手紙に書いてあったから後で読んでみると良い」
「――そう、なのか……」
とんでもない勘違いに目を丸くする国木田の口から洩れた呟きは完全に脱力していた。太宰は淡く微笑して「そうだよ」相槌を打ってから、
「誤解させちゃってごめんね」
手紙のことも忘れないうちに云えば良かったね――眉尻を下げて、ぎゅっと広い肩を抱いた。彼がとても愛おしかった。するとおずおずと云った風情で逞しい腕が抱き返してくる。
「――否、俺の方こそすまなかった」
勝手に勘違いして、勝手に嫉妬して、あまつさえ子供みたいに拗ねたりして。思い返すだけで恥ずかしい。穴があったら入りたいとは正にこのことだろうと忸怩たる思いに駆られながらも、国木田は深く安堵していた。肉の薄い背を抱いたまま、徐に口を開く。
「……本当は」
「うん? 何?」
「その手紙、お前に渡す心算はなかったんだがな」
独り言のように告げられる言葉に太宰は「どうして?」目を瞬く。不思議に思って国木田の顔を覗き込めば、彼は視線を惑わせる。
「書いた当初はお前に渡そうと思っていたんだが、なかなか渡す切っ掛けがなくてな。時間が経つにつれて、何だか……渡し辛くなったと云うか……」
「ふふ、恥ずかしくなっちゃったんだ」
「平たく云えば、そうだ」
「そっか。でも、私は嬉しいよ。国木田君、ありがとう。ずっと大切にするね」
太宰はにっこり微笑む。彼の優しい表情に胸の裡が穏やかに凪いでいくのを感じながら国木田もふっと笑んで、太宰――顔を寄せる。白い頬にそっと触れながら、囁く。愛おしいものを見る目付きで、色素の薄い双眸を細めて。差し向ける眼差しにはどうしようもない愛しさが溢れていた。切ない程の情愛が其処にあった。
「お前からの返事が欲しい」
――今、直ぐに。
太宰は唇を国木田の耳元へ寄せる。
国木田君――ありったけの愛しさにのせて。
「君を、愛してる」
国木田は愛用の万年筆を片手に
国木田は或る人物に宛てて手紙を認めようとしていたのだが、いざ筆を取ってみるとそれが予想以上に難しい。一体何を書いて良いのか咄嗟に迷ってしまったのだ。伝えたいことがない訳ではない。だが、それを文字にすると妙に陳腐で安っぽい言葉となってしまうのだ。
――軽佻浮薄。
不意に浮かんだ四字熟語に彼の面影が閃く。
再び国木田は万年筆を握って紙面に宛名を綴る。
――太宰治様。
それだけ書いて、また手が止まってしまった。
国木田がこうして太宰に手紙を書こうなどと思いついたには訳がある。
それは数日前に遡る。
何時もの如く、太宰は何処をほっつき歩いているのか事務所には居らず、国木田はそんな彼の書いた報告書を探していた。なかなか目当ての物が出てこないので太宰を呼び戻す
『それなら私の机の抽斗にあるよ。上から二番目の抽斗』
云われるままに抽斗を開けると書類が出てきた。
「ああ、あった。太宰、十四時から会議だぞ。遊んでないで早く戻って来い」
『えー、面倒臭いから厭。国木田君出席しているから良いじゃない。後で教えてよ。それにどうせ今月に受けた依頼報告だけでしょう。報告書だって一応あるんだし、私ひとりいなくても問題ないでしょう』
「何を云ってるんだ、阿呆。真面目に仕事しろ。つべこべ云わずに今すぐ戻れ。良いな?」
電話の向こうで何やら騒いでいる太宰との通話を強制的に切って報告書を抽斗から取り出すと、その下から白い封筒が現われた。国木田はそれに目が釘付けになった。
封筒には探偵事務所の住所、宛名は太宰の名前。流麗な筆跡は女らしい柔らかさがあった。手紙の封は切られている。いけないと思いつつも、国木田は封筒を裏返して差出人を見た。女の名前が記されていた。彼女の名前は国木田も記憶していた。先月、受けた依頼主である。依頼を担当したのは他でもない国木田と太宰であった。
国木田はそっと封筒を元通りに置いて抽斗を閉めた。
報告書を抱えながらぼんやり思った。
彼女からの手紙はきっと恋文だろうと。
太宰はあの容姿である。人と接する時の物腰も柔らかい。歯が浮くような気障ったらしい言葉も平気で口にする。そしてそれがまた妙に板についているのだ。まるで違和感がない。女性の扱いに余程慣れているのは傍から見ていて国木田も良く知るところだ。太宰が人から好意――殊に恋愛感情を持たれるのも。今のように依頼人である女性から感情を向けられることは過去に幾度かあった。その度に国木田は平静を失いそうになる。叫びたいような気持ちに駆られる。太宰を一番愛しているのは俺であるのに、と。
国木田は自席に戻って太宰が書いた報告書の頁を捲りながら、しかし文字は目に入っていなかった。只、先程見た手紙に心が乱されるばかりで。嫉妬に胸底を焦がしながら国木田は鈍い手付きで会議に必要な書類の準備に取り掛かった。そうしながらふと思いついた。太宰に宛てて手紙を認めることを。
凡そ手紙を書くに至った経緯はこのようなものである。
あの女性からの手紙がどうなったのか国木田は知らない。太宰が返事を書いたのかさえ知れない。彼女からの手紙を後生大事に取っておくのだろうか――考えるとまたチリチリと胸を灼くものが湧き起こって自分はこんなにも嫉妬深い人間だっただろうかと不思議に思った。それも太宰と云う恋人を得て知った新たな自分の一面なのだろう。
知らない己はきっとまだ太宰の中に隠れている。逆もまた然り。太宰が知らない彼自身を自分は隠し持っているのだ。この、心の裡に。
国木田は便箋を前に考える。
最愛の人に伝えたい言葉。
一番、知って欲しい想い。
どんなに陳腐でも安っぽくても良い。
紙面にペン先を走らせる。
太宰治 様
愛してる。
国木田独歩 拝
それ以上、何も書く必要はなかった。国木田は
或る日の夜。
太宰は国木田の自宅に招かれて夕食を共にした。食後に傾けた酒の酔いにのせて国木田が泊まっていけと云うので素直に応じて家主より先に風呂を借りて入った。太宰が風呂から上がると今度は国木田が浴室へ消える。
既に敷かれた布団の上に座りながら太宰は何処か落ち着かない気分だった。彼が「泊まっていけ」と云う時は大抵、閨の誘いである。彼との行為は厭うてはないが、やはり触れ合う前の、相手を待っている時間は面映さや羞恥故に気が漫ろになってしまう。国木田も風呂を使いながら似たような思いを抱えているに違いない。風呂から上がって居間に戻った時、彼は自分の顔を見なかったから。国木田の目許が仄かに朱色を帯びていたのは
太宰とて国木田を知るまでは、女性との肉体関係は極普通にあった。今思えばそれは恋愛とは呼べない空疎な躰だけの関係ではあったけれど――それなのに。
否、それだからか。
本当に愛している相手との行為を待ち侘びることの緊張感、羞恥心、そして酷く甘い期待。
太宰――熱を孕んで潤んだ声と眸が私の躰を辿って――其処で太宰ははっと我に返った。不埒な思考を引き剥がすように首を横に振って、ふと目に付いたのは部屋の隅に押し遣られた円卓にある国木田の手帳。躊躇いはなかった。何故なら時折、隙を衝いて
太宰は『理想』と書かれた表紙を捲って頁をぱらぱらと繰る。と、ひらりと白い物が滑り落ちた。
「何これ?」
折り畳まれた紙片を摘み上げて広げて見た。
「――これは……」
瞠目して思わず呟くのと同時に大きな手が伸びてきて、太宰から紙を取り上げた。目で紙片を追うと顔を赤らめて立っている国木田の姿。決まりが悪いのか、視線はあらぬ方向に注がれている。苦り切った、不機嫌そうな表情で。
「貴様、勝手に人の手帳を見るなとあれ程……」
「ねえ、さっきの紙。あれ、私に宛てた恋文だよね?」
国木田の言葉を無視して太宰は云う。手帳から滑り落ちた紙片は彼が云うように国木田が数日前に認めた手紙であった。恋文と云うにはあまりにも短く、素っ気無い文であるけれど。
「その手紙、私にくれるのでしょう? 頂戴よ」
「や、やらん! 駄目だ!」
太宰が手を伸ばすと国木田はひょいと躱す。と、また太宰が国木田の手を追いかける。すると国木田は手紙を掴んだ右手を高くして逃げる。太宰は恋文を取り返そうと躍起になった。手が届かないならば、こうだ。
「えいッ!」
「おわあッ!」
太宰は上方ばかりに気を取られていた国木田に脚払いを食らわせた。見事にバランスを欠いた国木田は畳の上に尻餅をつく。打ち付けた痛みに顔を顰めている隙に太宰は彼の手から紙片を奪った。
「貴様……ッ、狡いぞ」
国木田はその場に胡坐をかきながら太宰を睨む。が、太宰は涼しい顔。寧ろ何処か楽しげですらある。
「私はズルなんてしてないよ? 今のは国木田君の負け」
「クソ……ッ! 後で覚えてろよ」
心底口惜しがる国木田を横目に太宰は改めて紙面を眺め遣った。
『愛してる。』
几帳面な字で綴られた睦言に自然と頬が緩む。ちらりと恋人を一瞥すると、彼は不機嫌そうな表情を崩さないまま、そっぽを向いている。だが本気で怒っているのではない。彼の態度は全てその含羞故だ。人一倍、照れ屋なだけで――太宰は笑みを深くして文を綺麗に折り畳む。そうしてから訊ねた。何故、このような恋文を書いたのかと。初め、国木田は答えようとしなかったが、太宰が問い詰めると歯切れ悪く云った。
「……その、……お前、少し前に……手紙を受け取っただろう。……依頼人の女から。それで……」
「うん? ああ、あれか。――それで?」
「……だから、……」
国木田の目が泳ぐ。
「だから? どうしたの?」
「……お前、全部解ってて云ってるだろう」
恨めしそうに睨み付ければ太宰はにんまりと笑う。
「ふふ、まあね。国木田君、あの手紙見たんだ。それで妬きもちやいちゃった、と。彼女と張り合って私に手紙を書くくらいに」
「ふん、悪いか。――一応云っておくが、中の手紙は見てないからな」
云い捨てて国木田は太宰から顔を背ける。開き直りながらも、居心地が悪いのか眉間の皺は深い。否、拗ねているのか。国木田君 ――太宰は優しく告げる。
「国木田君があの手紙の中身を読んでいないことは初めから解っていたよ。だって君、勘違いしているんだもの」
「勘違い?」
ぴくりと片眉を吊り上げて鸚鵡返しに問い返すと、太宰は頷く。
「あの手紙はね、恋文なんかじゃなくて、只のお礼状だよ。まだ私の机の抽斗の中にあるから確かめても良いよ。宛名に私の名前しかなかったのは、国木田君の名前をど忘れしちゃったからだったようだよ。そのことも手紙に書いてあったから後で読んでみると良い」
「――そう、なのか……」
とんでもない勘違いに目を丸くする国木田の口から洩れた呟きは完全に脱力していた。太宰は淡く微笑して「そうだよ」相槌を打ってから、
「誤解させちゃってごめんね」
手紙のことも忘れないうちに云えば良かったね――眉尻を下げて、ぎゅっと広い肩を抱いた。彼がとても愛おしかった。するとおずおずと云った風情で逞しい腕が抱き返してくる。
「――否、俺の方こそすまなかった」
勝手に勘違いして、勝手に嫉妬して、あまつさえ子供みたいに拗ねたりして。思い返すだけで恥ずかしい。穴があったら入りたいとは正にこのことだろうと忸怩たる思いに駆られながらも、国木田は深く安堵していた。肉の薄い背を抱いたまま、徐に口を開く。
「……本当は」
「うん? 何?」
「その手紙、お前に渡す心算はなかったんだがな」
独り言のように告げられる言葉に太宰は「どうして?」目を瞬く。不思議に思って国木田の顔を覗き込めば、彼は視線を惑わせる。
「書いた当初はお前に渡そうと思っていたんだが、なかなか渡す切っ掛けがなくてな。時間が経つにつれて、何だか……渡し辛くなったと云うか……」
「ふふ、恥ずかしくなっちゃったんだ」
「平たく云えば、そうだ」
「そっか。でも、私は嬉しいよ。国木田君、ありがとう。ずっと大切にするね」
太宰はにっこり微笑む。彼の優しい表情に胸の裡が穏やかに凪いでいくのを感じながら国木田もふっと笑んで、太宰――顔を寄せる。白い頬にそっと触れながら、囁く。愛おしいものを見る目付きで、色素の薄い双眸を細めて。差し向ける眼差しにはどうしようもない愛しさが溢れていた。切ない程の情愛が其処にあった。
「お前からの返事が欲しい」
――今、直ぐに。
太宰は唇を国木田の耳元へ寄せる。
国木田君――ありったけの愛しさにのせて。
「君を、愛してる」