戀―REN―
君との終わりはきっと、美しい
夜陰の中で咲く染井吉野は冴やかな月光を受けて淡く発光しているようであった。
満開の桜の下に立つ国木田と太宰は頭上を覆う花の雲を見上げて、春を告げる儚い美しさに歎息した。
「綺麗だね」
「そうだな」
彼等が退社後、立ち寄ったのは社員寮の近くの公園である。中へ足を踏み入れることを誘ったのは太宰の方だった。国木田としては予定外の残業で遅くなってしまったこともあって早く帰宅したかったのだが、恋人の誘いを無下に退けることは出来ず彼に付き従った。
時刻は間もなく午後八時になろうとしている時分で、広い敷地内には流石に彼等以外、誰もおらず、辺りは静まっていた。
桜は公園の敷地の外縁に沿って等間隔で植樹され、何れの樹も花盛りであった。
太宰は何を思ったのか目と鼻の先にあるブランコに腰を下ろして、緩く遊具を揺らす。キィと寂しげに軋む音。
「やあ、童心に帰るようだねえ」
唄うように告げる太宰に、国木田はこの男にも子供の頃があったのだと不思議な気持ちになった。一体どのような幼少期を経て今まで生きてきたのか、どのようにして彼が今の彼になったのか、国木田には想像がつかなかった。恋仲となってそれなりに月日を重ねてはいたが気軽に訊ねるにはまだ太宰との間に距離があるように思われた。と云うのも、太宰が入水だ心中だ自殺ごっこだと騒ぐ度に、何処かで国木田を撥ね付けるような、目に見えない隔たりを感じていたから。
勿論、国木田は太宰が死と戯れるのを良しとしない。だから問答無用で、力ずくでも死の淵から彼を引き上げ、掬い上げる。どれだけ五月蝿がられようとも説教し、諭し、懇願する。そう云う莫迦げた遊びはするなと。万が一、本当に死んだらどうするんだと。俺を置いて逝くのかと――国木田がそう口にした時、太宰が一瞬、何かに傷付いたような表情をしたのを見逃さなかった。
「国木田君はさ、公園ではどんな遊びが好きだった? すべり台? それとも砂場遊び?」
出し抜けに訊ねられて国木田は現実に引き戻された。太宰の隣のブランコに腰掛けて僅かに揺らす。キィキィと軋む音が記憶の扉をノックする。だがその向こうにある筈の光景は霧に包まれた如く曖昧模糊としていた。
「……さあ、何だったか。――お前は、何だ?」
「私? 何だと思う?」
太宰は謎めいた微笑みを美しく浮かべて、夜を宿した眸を国木田に向ける。視線が絡む。と、国木田は深い双眸から視軸を転じて天に掛かる、今にも滴りそうな檸檬色の弓張り月を見詰めて、そうだな――思案する。そうしながら胸に浮かぶのは、隣にいる男は月だと云う儚い想いだった。
決してその裏側を見せず、くるくると形を変え、夜に棲まう孤高。美しく、見る者を魅了しながら、しかし手を触れることを赦さない。
――こんなにも、近くにいるのに。
太宰が遠くに感じるのは何故だろう。漠然とした不安感に衝かれて国木田は太宰を見遣った。強い眼差しを差し向ければ近くて遠い恋人は小首を傾げる。
「うん? 何?」
「……否、降参だ。答えを教えてくれ」
「ふふっ、良いよ。――ブランコだよ。……ブランコを漕ぐとどんどん空と近くなるでしょう。空に近付けば近付く程、自分は高く高く、自由に、何処までも遠くに行けるって思ったんだ」
本当はそんなことないのにね――笑む白い顔には寂しげな陰影が揺曳していた。蒼白い美貌は脆く崩れそうで。国木田の胸を衝く。深く、鋭く、寂寞が突き刺さる。その痛みは恐らく太宰も感じているであろう、虚ろなもの。埋めようのない空白。
「今も、そう思っているのか?」
力なく夜に落ちる国木田の呟きに太宰は瞳を丸くして、後に破願した。おかしそうに噴き出す。
「真逆。何云っているの、国木田君。子供の頃の話だよ。私は何処へも行かないよ。と云うか、今更行く場所なんてないもの。―― 私の居場所は国木田君の隣。そうでしょう?」
国木田は彼の言葉を聞いて僅かに眸を見開いた。目を離した隙に勝手に行方を晦ます彼が自ら宣言したことが信じられないような気持ちだった。が、太宰の台詞は嘘偽りのない真実であることは国木田自身が一番良く知っていた。何故なら、そう云い聞かせたのは他ならぬ己であったから。
太宰は少しだけはにかむ。仄かに目許が染まって見えるのは頭上にある桜花のせいか、はたまた。国木田が口を開く前に、太宰が桜を仰いで言葉を継ぐ。
「桜って散り際も綺麗でしょう。それを見ていたらね、何だか終わりがあることも悪くないんじゃないかなって思うようになったんだ。――私、ずっと国木田君との終わりが来るのが怖かった。特に死に別れてしまうのが」
人の生は何時何処で絶たれてしまうのか、誰にも解らない。況してや自分達は明日の命も知れぬ世界に身を置いている。何時、今生の別れとなってもおかしくはないのだ。
「始まりがあれば必ず終わりがある。それは決して避けられない。でも国木田君を好きになって、愛して貰えて、解った。喪うことの恐怖ばかりを見ていては駄目だって。国木田君は何時だって今、この瞬間を強く、私よりもずっとずっと深く愛しているんだなって。だから突然、終わりが来ても、きっと大丈夫だって思えたんだ」
上手く云えないけれど――太宰は困ったように眉尻を下げて微苦笑する。
この時、初めて国木田は太宰の深部に触れたと思った。虚ろに思えた其処は温かな血が通っていた。埋めようのない空白だった部分は既に充たされていたのだ。お互いの存在で。太宰に感じていた隔たりは己の思い込みに過ぎなかったのだ。
国木田はブランコから立ち上がり、太宰の正面に立った。
「国木田君……?」
そっと白い頬に触れる。彼は今、此処にいる。手を伸ばせば何時でも触れられる距離にいる。孤独な月ではない。自分が傍にいるから。
国木田は太宰の頤を捉えると長身を屈めて口付けた。柔らかな熱を享受しながら太宰は月光に映える金糸が流れる広い肩に縋る。
僅かに唇を離して、太宰が立ち上がると月影に落ちる蒼い影が再びひとつに溶け合う。
暫くの間、彼等は桜の下で抱き合った。
「すっかり躰が冷えているな」
少しでも温めるように国木田は痩躯をきつく胸に抱いた。
「うん。春でもやっぱり夜はまだ寒いねえ」
笑みを含んだ声音に国木田も薄笑みを浮かべて相槌を打つ。
「帰ろう。帰って、何か温かいものでも作って食うか」
「お邪魔して良いの?」
「元よりそのつもりだったからな。食材は用意してある」
「やった。国木田君が作るご飯は何でも美味しいから、楽しみだよ。――でも。ご飯も良いけどさ。私、国木田君にも温めて貰いたいなあ」
悪戯っぽく微笑みながら太宰は自分より一回り大きな手に触れて繋ぐ。と、ぎゅっと握り返された。彼が見せた予想外の反応に太宰はきょとんと目を丸くする。何時もなら恥ずかしがってがなり立てる国木田だったが、今夜は只、小さく頷くだけで。それでも夜目に解る程、顔は真っ赤だったけれど。太宰はふ、と淡く微笑する。彼を好きだと思った。
「国木田君、帰ろう」
「ああ」
指を絡めて手を繋いで歩き出す。
肩を並べて帰路に就きながら、国木田は思う。
どちらが先に逝くのかは解らない。出来れば彼を置いて自分が先に逝くことは避けたいとは思っているけれど。
死の間際、きっと今夜のことを鮮やかに思い出すだろう。
美しく命を散らしていく桜の花と共に。
――君との終わりはきっと、美しい。
夜陰の中で咲く染井吉野は冴やかな月光を受けて淡く発光しているようであった。
満開の桜の下に立つ国木田と太宰は頭上を覆う花の雲を見上げて、春を告げる儚い美しさに歎息した。
「綺麗だね」
「そうだな」
彼等が退社後、立ち寄ったのは社員寮の近くの公園である。中へ足を踏み入れることを誘ったのは太宰の方だった。国木田としては予定外の残業で遅くなってしまったこともあって早く帰宅したかったのだが、恋人の誘いを無下に退けることは出来ず彼に付き従った。
時刻は間もなく午後八時になろうとしている時分で、広い敷地内には流石に彼等以外、誰もおらず、辺りは静まっていた。
桜は公園の敷地の外縁に沿って等間隔で植樹され、何れの樹も花盛りであった。
太宰は何を思ったのか目と鼻の先にあるブランコに腰を下ろして、緩く遊具を揺らす。キィと寂しげに軋む音。
「やあ、童心に帰るようだねえ」
唄うように告げる太宰に、国木田はこの男にも子供の頃があったのだと不思議な気持ちになった。一体どのような幼少期を経て今まで生きてきたのか、どのようにして彼が今の彼になったのか、国木田には想像がつかなかった。恋仲となってそれなりに月日を重ねてはいたが気軽に訊ねるにはまだ太宰との間に距離があるように思われた。と云うのも、太宰が入水だ心中だ自殺ごっこだと騒ぐ度に、何処かで国木田を撥ね付けるような、目に見えない隔たりを感じていたから。
勿論、国木田は太宰が死と戯れるのを良しとしない。だから問答無用で、力ずくでも死の淵から彼を引き上げ、掬い上げる。どれだけ五月蝿がられようとも説教し、諭し、懇願する。そう云う莫迦げた遊びはするなと。万が一、本当に死んだらどうするんだと。俺を置いて逝くのかと――国木田がそう口にした時、太宰が一瞬、何かに傷付いたような表情をしたのを見逃さなかった。
「国木田君はさ、公園ではどんな遊びが好きだった? すべり台? それとも砂場遊び?」
出し抜けに訊ねられて国木田は現実に引き戻された。太宰の隣のブランコに腰掛けて僅かに揺らす。キィキィと軋む音が記憶の扉をノックする。だがその向こうにある筈の光景は霧に包まれた如く曖昧模糊としていた。
「……さあ、何だったか。――お前は、何だ?」
「私? 何だと思う?」
太宰は謎めいた微笑みを美しく浮かべて、夜を宿した眸を国木田に向ける。視線が絡む。と、国木田は深い双眸から視軸を転じて天に掛かる、今にも滴りそうな檸檬色の弓張り月を見詰めて、そうだな――思案する。そうしながら胸に浮かぶのは、隣にいる男は月だと云う儚い想いだった。
決してその裏側を見せず、くるくると形を変え、夜に棲まう孤高。美しく、見る者を魅了しながら、しかし手を触れることを赦さない。
――こんなにも、近くにいるのに。
太宰が遠くに感じるのは何故だろう。漠然とした不安感に衝かれて国木田は太宰を見遣った。強い眼差しを差し向ければ近くて遠い恋人は小首を傾げる。
「うん? 何?」
「……否、降参だ。答えを教えてくれ」
「ふふっ、良いよ。――ブランコだよ。……ブランコを漕ぐとどんどん空と近くなるでしょう。空に近付けば近付く程、自分は高く高く、自由に、何処までも遠くに行けるって思ったんだ」
本当はそんなことないのにね――笑む白い顔には寂しげな陰影が揺曳していた。蒼白い美貌は脆く崩れそうで。国木田の胸を衝く。深く、鋭く、寂寞が突き刺さる。その痛みは恐らく太宰も感じているであろう、虚ろなもの。埋めようのない空白。
「今も、そう思っているのか?」
力なく夜に落ちる国木田の呟きに太宰は瞳を丸くして、後に破願した。おかしそうに噴き出す。
「真逆。何云っているの、国木田君。子供の頃の話だよ。私は何処へも行かないよ。と云うか、今更行く場所なんてないもの。―― 私の居場所は国木田君の隣。そうでしょう?」
国木田は彼の言葉を聞いて僅かに眸を見開いた。目を離した隙に勝手に行方を晦ます彼が自ら宣言したことが信じられないような気持ちだった。が、太宰の台詞は嘘偽りのない真実であることは国木田自身が一番良く知っていた。何故なら、そう云い聞かせたのは他ならぬ己であったから。
太宰は少しだけはにかむ。仄かに目許が染まって見えるのは頭上にある桜花のせいか、はたまた。国木田が口を開く前に、太宰が桜を仰いで言葉を継ぐ。
「桜って散り際も綺麗でしょう。それを見ていたらね、何だか終わりがあることも悪くないんじゃないかなって思うようになったんだ。――私、ずっと国木田君との終わりが来るのが怖かった。特に死に別れてしまうのが」
人の生は何時何処で絶たれてしまうのか、誰にも解らない。況してや自分達は明日の命も知れぬ世界に身を置いている。何時、今生の別れとなってもおかしくはないのだ。
「始まりがあれば必ず終わりがある。それは決して避けられない。でも国木田君を好きになって、愛して貰えて、解った。喪うことの恐怖ばかりを見ていては駄目だって。国木田君は何時だって今、この瞬間を強く、私よりもずっとずっと深く愛しているんだなって。だから突然、終わりが来ても、きっと大丈夫だって思えたんだ」
上手く云えないけれど――太宰は困ったように眉尻を下げて微苦笑する。
この時、初めて国木田は太宰の深部に触れたと思った。虚ろに思えた其処は温かな血が通っていた。埋めようのない空白だった部分は既に充たされていたのだ。お互いの存在で。太宰に感じていた隔たりは己の思い込みに過ぎなかったのだ。
国木田はブランコから立ち上がり、太宰の正面に立った。
「国木田君……?」
そっと白い頬に触れる。彼は今、此処にいる。手を伸ばせば何時でも触れられる距離にいる。孤独な月ではない。自分が傍にいるから。
国木田は太宰の頤を捉えると長身を屈めて口付けた。柔らかな熱を享受しながら太宰は月光に映える金糸が流れる広い肩に縋る。
僅かに唇を離して、太宰が立ち上がると月影に落ちる蒼い影が再びひとつに溶け合う。
暫くの間、彼等は桜の下で抱き合った。
「すっかり躰が冷えているな」
少しでも温めるように国木田は痩躯をきつく胸に抱いた。
「うん。春でもやっぱり夜はまだ寒いねえ」
笑みを含んだ声音に国木田も薄笑みを浮かべて相槌を打つ。
「帰ろう。帰って、何か温かいものでも作って食うか」
「お邪魔して良いの?」
「元よりそのつもりだったからな。食材は用意してある」
「やった。国木田君が作るご飯は何でも美味しいから、楽しみだよ。――でも。ご飯も良いけどさ。私、国木田君にも温めて貰いたいなあ」
悪戯っぽく微笑みながら太宰は自分より一回り大きな手に触れて繋ぐ。と、ぎゅっと握り返された。彼が見せた予想外の反応に太宰はきょとんと目を丸くする。何時もなら恥ずかしがってがなり立てる国木田だったが、今夜は只、小さく頷くだけで。それでも夜目に解る程、顔は真っ赤だったけれど。太宰はふ、と淡く微笑する。彼を好きだと思った。
「国木田君、帰ろう」
「ああ」
指を絡めて手を繋いで歩き出す。
肩を並べて帰路に就きながら、国木田は思う。
どちらが先に逝くのかは解らない。出来れば彼を置いて自分が先に逝くことは避けたいとは思っているけれど。
死の間際、きっと今夜のことを鮮やかに思い出すだろう。
美しく命を散らしていく桜の花と共に。
――君との終わりはきっと、美しい。
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