戀―REN―

アダムの林檎

 国木田が風呂を上がり、髪の毛を乾かして居間に戻った時には既に電灯は消されていた。先程まで炬燵こたつで寛いでいた筈の太宰の姿はなく、その代わりに敷いた布団がこんもりとなだらかに隆起している。枕元に黒い髪の毛が僅かに覗くばかり。その様を見て国木田は些か落胆している己に苦笑を禁じ得なかった。
 布団をそっと捲る。太宰は身を丸めるようにして横臥し、白い目蓋を閉ざしていた。ゆっくりと健やかな寝息を立てて。普段、眠りが不安定な彼がこうもあっさりと寝入っているのを目の当たりにすると余程疲れていたのか、或いはあまりにも不眠が昂じていたのかと、傍に居ながら気が付いてやれなかった自分を苦く思った。
 ――まあそれでも。
 太宰が気持ち良さそうに眠っているならそれで良いと思い直し、彼を起こさないように隣に長身を横たえて、国木田も眠りに身を委ねて目を閉じた。と、隣でもぞもぞと身動ぎする気配がしてぴたりと国木田の躰に身を寄せて来た。目を開けて視線だけで左隣を見遣ると鳶色の瞳と目が合った。
「すまん、起こしたか?」
 すると太宰は「寝たふりをしてただけ。国木田君、どうするかなって思って」悪戯っ子のようににんまりと笑う。国木田は太宰と向き合うように寝返りを打って、お前なあ――呆れて溜め息を吐く。
「据え膳食わぬは男の恥って云うじゃない」
「そんな据え膳は食える訳なかろう。莫迦者」
「ま、君ならそうだよねえ」
 くすくすと可笑しそうに笑って、満足そうに喜悦を浮べる。一方、国木田はしてやられたと口元をへ文字に曲げて恋人に背を向けた。先程の落胆を見抜かれたようで妙に気拙い。身の置き所がないように思えて彼の眸から逃れたかった。
「寝るなら、寝ろ。俺も、寝る」
「寝ないよ。――私を、眠らせて」
 結わえられることなく背に流れる金糸に太宰は額をうずめた。細腕が縋るように国木田の胴に回される。布越しに伝わる低い体温と知っている匂いが国木田の鼓動を跳ねさせた。
 こっち向いて――云われるままに彼と向き合う。こつりと白い額が合わさって、眼眸まなざしが互いの眸の奥底へと挿し込む。間近にある夜を宿した瞳は切望に熱く潤み始めていた。細く吐き出される湿度を孕んだ吐息に国木田は誘惑されて、薄紅色の唇に口付けた。
 接吻に太宰の肉の薄い背が戦慄き、両の手は国木田の胸元をきつく握り込む。
「……あ……」
 国木田は痩躯を抱き寄せてもう一度、唇を重ねようとした時、太宰が彼の喉元に――尖った喉仏に柔く喰らい付いた。
「……っ」
  不意を搏たれた国木田は片目を眇めて、思わず恋人を抱く腕に力を込めた。一度離れた唇は、もう一度同じところに触れて、名残を惜しむように舌尖がゆっくりと辿り、再び離れていく。太宰が口付けた喉元が酷く熱かった。焚き付けられた小さな情火は少しずつ国木田を灼いてゆく。擡げる慾に涙を滲出させながら、国木田は目の前で妖艶に微笑している太宰を見詰めた。と、彼は白い指先で喉仏をつ、となぞる。ひくりと国木田の喉がふるえた。躰が甘く痺れる。
「この部分は、異国の言葉ではアダムの林檎と云うそうだよ」
 曰く、アダムが禁断の実を食べ、その実が喉に詰まって喉仏になった、と。またイブの食べた木の実は乳房になったと云う。
「――それで? 何が、云いたい?」
 焦れる国木田に対して太宰は唄うように告げる。
「私も最初の人間と同じように、禁断の実を食べてしまったのだなあと思ってね」
 国木田と云う美しい人を。
 彼が差し出す凡ての愛を。
 太宰は国木田の首元に額を伏せて薄く目を閉じて独白する。
「――私はもう何も、欲しくはなかったんだ」
 手に入れた瞬間に喪失が約束されるが故に。
 喪うことの痛みがあまりにも激しく、已み難いから。
 それなのに。
 彼に魅せられてしまったのだ。
 手が届かぬなら諦めることも出来たのに――。
「……後悔をしているのか?」
 問う声音は優しく太宰の耳朶を搏つ。国木田はそっと蓬髪に手櫛を入れて くしけずる。宥め、慰撫するように。
「ううん、後悔はしていないよ。――只……」
「只?  何だ?」
 云い淀む言葉の先を国木田は知っていた。だけれども、敢えて問うた。抱えている恐怖や不安を余すことなく、聞かせて欲しかったから。彼の凡てをまるごと受け止めたかったのだ。だが太宰は打ち明けることはしなかった。口にしたのは、ごめん――それだけだった。
 そうか――国木田は追及せずに、密かに息を吐きながら、恋人の口から零れた謝罪の意味を噛み締めていた。
 黒髪を撫でる右手は項を滑り、細い背中へと降りてゆく。そうしてから彼の背を静かに布団へ押し倒した。蓬髪が白い敷布シーツに散る。太宰は覆い被さる恋人を見上げた。窓掛カーテンを透る蒼白い月光が国木田の金糸を煌かせ、潤んだ月色の双眸を輝かせていた。彼を、綺麗だと思った。
「……国木田君……」
 太宰は愛しい人に腕を伸べ、日に焼けていない頬に触れた。
 こうなればもう、止まらない。
 国木田は酷く愛おしむように眸を細めて、彼に応えた。

 ――嗚呼、俺もまた。

 美しく、それはそれは甘美な、禁断の果実を食べてしまったのだと。
 後悔は、只の一つもなかった。

 ふたりは抱き合いながら、夜の底へと沈んでゆく。
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