戀―REN―
10.1gの愛
四時限目の授業を終えた国木田は教材や小テストのプリントの束を抱えて教室を後にした。昼休みを迎えた校内は俄かに活気づき、生徒達の賑やかなさざめきがチャイムと共に響く。
職員室に戻る前に国木田は手にしている荷物を置きに数学準備室へと立ち寄ることにした。リノリウムの廊下を歩きながら、ふと何か甘い匂いを嗅いだ。それは焼き菓子の牛酪 の匂いであった。きっと何処かの学級 が調理実習で菓子でも作ったのだろう。そんなことを思いながら渡り廊下を過ぎて別館にある数学準備室へと向かった。
別館は美術室や視聴覚室、特別教室、生徒会室、家庭科準備室、社会科準備室等で構成されており、普段から生徒や教員の姿は殆どなく、ひっそりと静まり返っていた。生徒達のお喋りや雑踏を遠くで聞きながら、国木田は数学準備室の施錠を解こうとして、鍵が開いていることに気が付いた。
――真逆。
厭な予感がして、そっと引き戸を開けると、
「先生、お疲れ様~」
国木田が使っている机の椅子に堂々と腰掛けてにこやかに告げる太宰の姿があった。
ああやっぱり――国木田はうんざりして大きく溜め息を吐くと、
「邪魔だ、退け」
努めて素っ気なく云い放って机に歩み寄り、どさりと態と大きな音を立てて抱えていた教材とプリントの束を置いた。
「あれ、先生、何か怒ってる?」
太宰は椅子に腰掛けたまま鳶色の瞳をぱちくりと瞬かせて不思議そうな顔で国木田を見遣る。
「当然だ。勝手に此処に入るなと何度云ったら解るんだ。いい加減にしろ」
「えー、ちょっとくらい、良いじゃない。私と先生の仲でしょ?」
「阿呆。何が仲でしょ、だ。俺とお前は只の教師と生徒だ」
――少なくとも今、この場所では。
「と云うか、早く退かんか。邪魔だ」
国木田は眉間の皺を深くして追い立てる。と、太宰は立ち上がりながら「私、先生のために良いものを持ってきたんだけどなあ」不服交じりに云う。
「別に要らん」
「先生、冷たい。私のこと可愛くないの?」
「ふん。お前が良いものと云った時は大抵、碌なものではないからな。だから要らんと云ったんだ」
そう云って国木田は太宰の言葉尻を無視する。先生酷い、私のこと嫌いなんだ、こんなに先生のことを愛しているのに――太宰は顔を両の手で覆ってわっと泣き出す。無論、嘘泣きである。が、それでも国木田は内心、狼狽えてしまう。太宰は普段から人を食ったような態度で、教師である自分を振り回して面白がっているけれども、だがその心裡にあるのは寂しさだ。飄々として年齢の割には大人びたところがある彼だが、本当はとても寂しがり屋なのだ。それを解っているだけに、結局最終的には国木田が折れて赦してしまう。自分でもあまり良い傾向ではないと自覚しながらも、太宰に甘くなってしまうのは彼に特別な情を抱いているからに他ならない。決して公には出来ない関係だけれども。
国木田はまた何時ものパターンだとひっそり息を吐いて、
「解った。解ったから、その良いものとやらを出せ」
すると太宰は顔を上げて「うふふ」と笑う。ほらやっぱり嘘泣きだ。口をへの字に曲げそうになるのを何とか堪える。
「先生、抽斗を開けてみて」
云われるままに国木田が机の抽斗を開けてみると、ラップに包まれたハート型の乾蒸餅 が三枚。
「……これは……」
「さっき家庭科の授業で作ったんだよ」
廊下に漂っていた甘い香りの正体はこれであったのかと国木田は焼き菓子を手にする。授業をサボるのは彼の十八番、もとい常習犯であるが調理実習には真面目に出席したらしい。珍しいこともあるものだと思っていると、片付けは面倒だったから途中で抜け出してきたけどね――太宰は悪戯っぽく目を細めて笑う。
「ね、先生、食べてよ。先生に食べて欲しくて持ってきたんだから」
国木田は太宰と乾蒸餅とを見比べる。ハートのそれは綺麗に焼けており、見た目は美味しそうだ。
「……変なものは入っていないだろうな?」
「もう、先生ったら。変なものなんか入っていないよ。信用ないなあ」
「お前に妙な茸を食わされた過去があるからな」
「ああ、あれ。ふふ、あの時の先生、凄かったねえ。もう一回、食べたいならまた採ってこようか?」
「い、要らんッ」
ふとその時の記憶が薄っすらと脳裏を過 って国木田は慌てて打ち消した。思い出したくもない苦い記憶。
「それじゃあ、はい」
太宰は国木田の手からラップの包みを奪うと一枚乾蒸餅 を摘まみ、硬く引き結ばれた国木田の口元へ運ぶ。気恥ずかしさに口を開けることを少しの間、躊躇っていたが、菓子を唇に押し付けられて一口、齧った。
さっくりとした触感と牛酪の風味。手作りのそれは素朴な味わいがあった。
「どう? 美味しい?」
期待の眸を向けてくる太宰の手から欠けたハートを摘まんで残りを食す。
「ああ、及第点をやろう」
「そこはさ、素直に美味しいって云ってよ」
不満の色を滲ませる彼に国木田は微かに苦笑しながら、もう一枚乾蒸餅を摘まんで太宰に「食え」と差し出す。一瞬、太宰は驚いたふうに目を見開いて差し出されたそれを半分、唇で食むと、
「太宰――」
国木田は立ち上がり、彼の細い頤を捉えて焼き菓子ごと薄く色づいた唇に喰らい付いた。
「――美味かった」
細い背を抱きながら耳元で囁く。情の籠った声音に太宰は頬を酷く赤らめて、国木田の胸元に顔を埋 めた。きゅっと襯衣 を握り込んでしがみつく。俄かに起こった激しい動悸を鎮めるようにして。
「……先生の、莫迦」
「これに懲りたら、もう勝手に此処に入るのを止めるんだな」
勝ち誇ったような笑みを乗せた声音に太宰は答えられなかった。
大人は狡い――只、そう思うのが精一杯だった。
四時限目の授業を終えた国木田は教材や小テストのプリントの束を抱えて教室を後にした。昼休みを迎えた校内は俄かに活気づき、生徒達の賑やかなさざめきがチャイムと共に響く。
職員室に戻る前に国木田は手にしている荷物を置きに数学準備室へと立ち寄ることにした。リノリウムの廊下を歩きながら、ふと何か甘い匂いを嗅いだ。それは焼き菓子の
別館は美術室や視聴覚室、特別教室、生徒会室、家庭科準備室、社会科準備室等で構成されており、普段から生徒や教員の姿は殆どなく、ひっそりと静まり返っていた。生徒達のお喋りや雑踏を遠くで聞きながら、国木田は数学準備室の施錠を解こうとして、鍵が開いていることに気が付いた。
――真逆。
厭な予感がして、そっと引き戸を開けると、
「先生、お疲れ様~」
国木田が使っている机の椅子に堂々と腰掛けてにこやかに告げる太宰の姿があった。
ああやっぱり――国木田はうんざりして大きく溜め息を吐くと、
「邪魔だ、退け」
努めて素っ気なく云い放って机に歩み寄り、どさりと態と大きな音を立てて抱えていた教材とプリントの束を置いた。
「あれ、先生、何か怒ってる?」
太宰は椅子に腰掛けたまま鳶色の瞳をぱちくりと瞬かせて不思議そうな顔で国木田を見遣る。
「当然だ。勝手に此処に入るなと何度云ったら解るんだ。いい加減にしろ」
「えー、ちょっとくらい、良いじゃない。私と先生の仲でしょ?」
「阿呆。何が仲でしょ、だ。俺とお前は只の教師と生徒だ」
――少なくとも今、この場所では。
「と云うか、早く退かんか。邪魔だ」
国木田は眉間の皺を深くして追い立てる。と、太宰は立ち上がりながら「私、先生のために良いものを持ってきたんだけどなあ」不服交じりに云う。
「別に要らん」
「先生、冷たい。私のこと可愛くないの?」
「ふん。お前が良いものと云った時は大抵、碌なものではないからな。だから要らんと云ったんだ」
そう云って国木田は太宰の言葉尻を無視する。先生酷い、私のこと嫌いなんだ、こんなに先生のことを愛しているのに――太宰は顔を両の手で覆ってわっと泣き出す。無論、嘘泣きである。が、それでも国木田は内心、狼狽えてしまう。太宰は普段から人を食ったような態度で、教師である自分を振り回して面白がっているけれども、だがその心裡にあるのは寂しさだ。飄々として年齢の割には大人びたところがある彼だが、本当はとても寂しがり屋なのだ。それを解っているだけに、結局最終的には国木田が折れて赦してしまう。自分でもあまり良い傾向ではないと自覚しながらも、太宰に甘くなってしまうのは彼に特別な情を抱いているからに他ならない。決して公には出来ない関係だけれども。
国木田はまた何時ものパターンだとひっそり息を吐いて、
「解った。解ったから、その良いものとやらを出せ」
すると太宰は顔を上げて「うふふ」と笑う。ほらやっぱり嘘泣きだ。口をへの字に曲げそうになるのを何とか堪える。
「先生、抽斗を開けてみて」
云われるままに国木田が机の抽斗を開けてみると、ラップに包まれたハート型の
「……これは……」
「さっき家庭科の授業で作ったんだよ」
廊下に漂っていた甘い香りの正体はこれであったのかと国木田は焼き菓子を手にする。授業をサボるのは彼の十八番、もとい常習犯であるが調理実習には真面目に出席したらしい。珍しいこともあるものだと思っていると、片付けは面倒だったから途中で抜け出してきたけどね――太宰は悪戯っぽく目を細めて笑う。
「ね、先生、食べてよ。先生に食べて欲しくて持ってきたんだから」
国木田は太宰と乾蒸餅とを見比べる。ハートのそれは綺麗に焼けており、見た目は美味しそうだ。
「……変なものは入っていないだろうな?」
「もう、先生ったら。変なものなんか入っていないよ。信用ないなあ」
「お前に妙な茸を食わされた過去があるからな」
「ああ、あれ。ふふ、あの時の先生、凄かったねえ。もう一回、食べたいならまた採ってこようか?」
「い、要らんッ」
ふとその時の記憶が薄っすらと脳裏を
「それじゃあ、はい」
太宰は国木田の手からラップの包みを奪うと一枚
さっくりとした触感と牛酪の風味。手作りのそれは素朴な味わいがあった。
「どう? 美味しい?」
期待の眸を向けてくる太宰の手から欠けたハートを摘まんで残りを食す。
「ああ、及第点をやろう」
「そこはさ、素直に美味しいって云ってよ」
不満の色を滲ませる彼に国木田は微かに苦笑しながら、もう一枚乾蒸餅を摘まんで太宰に「食え」と差し出す。一瞬、太宰は驚いたふうに目を見開いて差し出されたそれを半分、唇で食むと、
「太宰――」
国木田は立ち上がり、彼の細い頤を捉えて焼き菓子ごと薄く色づいた唇に喰らい付いた。
「――美味かった」
細い背を抱きながら耳元で囁く。情の籠った声音に太宰は頬を酷く赤らめて、国木田の胸元に顔を
「……先生の、莫迦」
「これに懲りたら、もう勝手に此処に入るのを止めるんだな」
勝ち誇ったような笑みを乗せた声音に太宰は答えられなかった。
大人は狡い――只、そう思うのが精一杯だった。