戀―REN―

残香―金木犀―

 濃密な深更の中を黒塗りの車が静かに走る。夜に紛れてひた走るそれに太宰は揺られながら窓の外を流れてゆく闇を無感動な眸で眺めた。尤も、窓硝子にはスモークが貼られているので殆ど何も見えないのだが。只時折、思い出したように現れる街灯の明かりがぼんやりと視界を過ぎていく。
 程なくして車が滑らかに停車する。運転手の男が手早く後部座席のドアを開けて、慇懃にこうべを垂れた。恰も太宰の顔を見ることが不敬であるかのように。素性を隠すように、或いは一つの駒として動くために個性を殺す黒眼鏡をかけた男の視線が何処に向けられているかは不明だった。が、それも太宰の前では無意味である。気配、視線、僅かな呼吸の乱れで、相手の心の裡、心的、肉体的な動きを、黒衣を纏った男は鋭敏に、的確に、把握した。
「夜明け前に」
 他言詮索は無用――感情の籠らない声音で一言告げると太宰は降車して目の前に聳える黒々とした切妻破風門を潜った。その時、ふと金木犀の香りを嗅いだ。この家の庭にある金木犀が咲いたのだろう。途端にふっと彼は表情を和らげて酷く懐かしそうに目を眇めながら、国木田君、と呟いた。彼の名を口にするのは久し振りであった。
 太宰は玄関の軒下に立って、控えめに戸をおとなった。と、直ぐ様引き戸が開いて家主が顔を出した。長身の、眼鏡をかけた、美しい金色の髪と眸を持つ、良く知った男。松葉色の着流しが佳く似合っていた。
「遅かったな」
 発せられる声音は咎めるふうではなく、安堵が宿っていた。しかし顔だけ見れば相変わらずの仏頂面である。彼の不機嫌そうな表情は昔からだ。如何に立場が変わろうとも、彼は少しも変わらない。そのことが太宰を安心させ、心を寛がせた。
「うん。ごめんね。ちょっと仕事で手間取ってね」
「お前でも、そんなことがあるのか」
 眉尻を下げる太宰に対して、彼――国木田はさも意外そうに目を瞬かせて見せる。
「そりゃあね。別に私だって万能な訳ではないよ」
 太宰が苦笑交じりに云うと国木田は深く息を吐きながら小さく呟いた。
「――正直、今夜は来ないと思った」
「真逆。君と会うためなら、どんなことをしてでも都合をつけるさ」
 現にこうしてお忍びで来ている訳だし――何処か不安そうな翳りを湛えている月色の眸に太宰は微笑みかける。国木田に向けられる柔らかな表情は裏社会に身を置く者達が決して見ることのない顔だった。
 太宰は現在、ポートマフィアの首領として闇の玉座に君臨していた。そして国木田は義とされる武装探偵社の長として立っているのだった。二人は或る時から袂を別ったのだ。背中を、命を預け合う相棒から、ヨコハマの光と影、銀貨コインの表と裏となったのである。
「そろそろ上がっても良い?」
 云われて国木田は気を取り直し頷く。太宰はお邪魔します、と唄うように告げて式台に上がった。無造作に靴を脱ぐ姿にある種の懐かしさを覚えて国木田は小さな笑みを零した。
 先に廊下を進みながら食事は済ませたかと問う。太宰が訪れる日はどんなに遅い時間であっても料理を拵えて待っているのが常であった。あの頃とはもう違うのだと解っていながら、それでも食が細く偏食気味な彼が心配になってしまう。また太宰も国木田の手料理を食べたがった。会食で出される料理には既に飽きていたし、矢張り好きな人が作る料理を一番美味しく思うのだ。
 彼等は無意識であったが、嘗て過ごした時間を再現することで関係性を確認している節があった。国木田が太宰のために自ら料理の腕を振るうのも、太宰が国木田に手料理を強請るのも、自分達は何も変わってはいないのだと証明する手続きの一つなのだ。まるで今にもほどけそうな糸の結び目を、手で引っ張って確かめるみたいに。手で引けばその分、糸は傷んで切れやすくなってしまうのに。
「軽くは食べたけど。でもちょっとお腹減ったかも」
「そうか。料理を温めてくるから居間で待ってろ」
「国木田君――」
 台所へ行こうとする彼の手を掴んで引き留める。一体何だと振り向く国木田を太宰は腕を引いて引き寄せ、首に細腕を絡めた。そうしてのまま、桜色の唇で接吻を強請り、国木田に迫った。眼鏡の奥で色素の薄い双眸が見開かれる。
 ――間近で見る白いかんばせ も夜を宿した瞳も、以前のままで。
 国木田は錯覚してしまう。まだ太宰が相棒として隣に立っているのではないかと。本当は敵対する者ではなく、駆け引きも打算も介在しない同胞であるのではないかと。――今では決して混ざることも、交わることもない、白と黒であると云うのに。危うい均衡の上に立つ、手を触れてはならない相手だと云うのに。
「……腹が減っているのだろう」
 国木田はやんわりと太宰の肩を押し返す。何か、そうしなければいけないような気がした。この期に及んで国木田は苦い後ろめたさを感じずにはいられなかった。太宰との関係が赦されないばかりに。
「そうだけど。でも、早く国木田君が欲しい」
 ねえ国木田君――太宰は愛しい人の肩口に額をうずめ、着流しの袂をきゅっと握り込む。反射的に国木田は身を硬くして、拳を握った。
 ――躊躇いも罪悪感もなく、彼を抱き締められたら。
 以前は当たり前のように腕に抱いていた彼が、酷く遠い。
「私、君に会うために、今日のために、頑張ったんだよ。そんなふうに云うと君は苦い顔するかもしれないけれど。でも、本当なんだ。国木田君に会いたくて堪らなくて、せめて声だけでも聴けたらって思って何度も電話をかけそうになって……だけど、そんなことをしてしまったら君が困ってしまうものね。だから、ずっと我慢していたよ」
 本当に会いたかった――吐露される真情は涙に潤んでいた。彼が零した言葉は酷く切なく、鋭利な刃となって国木田の胸奥に突き刺さった。彼を愛し抜くことの覚悟が足りなかった自分をまざまざと突き付けられた瞬間だった。
「太宰……」
 国木田は躰の強張りを解くと、小さくふるえる細い肩を抱いてそっと柔らかな蓬髪に手櫛を入れる。彼を宥めながら、己の怯懦を恥じて唇をきつく噛んだ。
 背負うものも、抱えるものも、あの頃とは比べ物にならぬ程、多く、重たい。自分も、彼も、等しく。否、もしかすると裏社会と云う、特殊な世界に生きている太宰の方がずっと抱えて立つものが重たい筈だ。一寸先は闇――少しでも選択を誤れば無慈悲に屠られ、闇に葬り去られる熾烈な裏の世界にいるのだ。僅かでも隙や弱さ、甘さを見せれば一瞬で喉笛を掻き切られるような。武装探偵社も薄暮の集団とは云え、曲りなりも義が罷り通る表の世界に生きている国木田とは違うのだ。
 それであるのに、どうであろう。太宰は以前と変わらず、躊躇いもなく国木田を求めて愛そうとする。相棒であったあの頃と何も変わってはいないのだと示すように。国木田を信じ、愛する様は殆ど祈りと云って良かった。願うものを持たない筈の彼であるのに。
彼を、つよいと思った。それに比べて自分はどんなに脆いことか――太宰を安んずる心算が、その実、彼の方が国木田の不安を拭っていてくれたのだ。大丈夫だよと優しく微笑んで。
「……すまない」
「謝らないで。解っているから。――私を、赦して」
 此処へ来ることを。
 貴方を、愛することを。
 まだこんなにも、切望しているから。国木田が腕の力を緩めるとどちらともなく、顔を見合わせて唇を重ねる。待ち望んでいた温もりに胸を慄わせて、彼等は感歎の吐息を洩らす。一分一秒が惜しかった。痩躯を横抱きに抱えて国木田は寝室へと向かう。
 薄青い闇が蟠る閨にそっと太宰を横たえると彼が静かに呟いた。
「金木犀の匂いがする」
「ああ、少し前まで窓を開けていたからな」
 太宰は右手にある閉め切られた障子を一瞥すると眠らぬまま闇夜に甘い香気を放つ小さな橙色の花を目蓋の裏に追想しながら云う。
「金木犀の香りを嗅ぐと何時も国木田君のことを思い出すよ」
「俺を?」
「うん。此処で初めて君に抱かれた時も金木犀の香りがしていたからね」
「そ、そうか」
 当時の記憶が蘇ったのか、国木田は顔を赤らめて太宰から目を逸らす。変わらない含羞の強さに太宰は頬を緩めて覆い被さる恋人を見上げ、精悍に引き締まった頬に触れる。
「国木田君、忘れないで。私はこうなってしまった今を後悔していないよ。君を救うためなら何だってする。――君を愛しているから」
 太宰がポートマフィアに再び身を投じたのは偏に探偵社の窮地――長として組織の頂点に立つ国木田をたすけるためであった。彼が自分を救い上げ、光差す場所へ連れ出してくれたように、国木田を扶けたかったのだ。それが自分に出来る最大の恩返しであり、彼を守り、愛することだった。
 太宰は微笑む。その笑顔は国木田の胸を軋ませ、抜けない棘となって苛んだ。この痛苦は一生、続くだろう。彼を愛する限り。
「大好きだよ、国木田君。あの頃と変わらず、ずっと」
「――俺も、愛している」
 夜の底に落ちる国木田の声は僅かに濡れていた。

***

 太宰は眠っている国木田を起こさぬようにそっと布団から抜け出して手早く身なりを整えた。既に迎えの車が来ているだろう。戻ったら早速今日の執務が堆く待ち構えている筈だ。愚図愚図している暇はない――しかし、直ぐにはこの場から立ち去れなかった。
 離れ難い。名残惜しい。まだ傍にいたい。せめて「おはよう」を云いたい。でも。
 夜は間もなく終わる。残酷な朝がやって来る。まばゆく差し込む残忍なあさひが埋めた距離を引き裂く。あんなにも焦がれていた光が、今は憎い。
 ずっと夜が明けなければ良いのに――何度、願ったことだろう。ポートマフィアに戻ったのは確かに己の意思であったが、しかし銀貨コインの表と裏に立ち戻るこの瞬間が一番堪えた。
 もう行かなければ――目に焼き付けるように穏やかな寝顔を晒している国木田を見詰めた後「またね」秀でた額に唇を落として、静かに寝室を後にした。

 玄関を出ると黒塗りの車が路肩に停車していた。太宰の姿を認めるなり、控えていた運転手が素早く後部座席のドアを開ける。無言のまま車に乗り込むとドアが閉じられ、程なくして車が滑らかに走り出す。
 太宰は座席にゆったりと座りながら、今しがた別れた愛しい男のことを考えていた。滅多に涙を見せない彼が、愛していると云いながら泣いていた。
 ――この恋は、この愛は、間違っているのだろうか。
 只、彼を苦しめるだけならば終わりにした方が良いのだろう――そんなことは決して出来やしないのに。太宰は独り自嘲する。
 嘗て国木田に云った言葉が脳裏を翻る。
 ――君になら撃たれてもいい。
 何時か探偵社とポートマフィアが全面衝突することがあるのならば。
 その時は。
「……私を撃つのは君だよ、国木田君」
 最後まで君に殉じることを赦しておくれ――胸に抱いた切望は果たして彼に届くだろうか。
 スモークを貼った窓の外に視線を投げると微かに空が明るんでいるのが見えた。太宰はすっと表情をなくして酷く無感動な眸で東雲しののめの空を見詰めていた。

***

 国木田は太宰が立ち去るのを待って瞑っていた目を開けた。寝たふりをしていたのである。彼がいなくなる時は何時もそうしていた。狸寝入りをしながら太宰を引き留めてしまう衝動をどうにか堪えていたのだった。
 布団から抜け出て枕元に置いてあった眼鏡を装着し、脱ぎ散らかした服に袖を通す。ふわりと動いた空気に太宰の匂いが淡く漂った。消えないように彼の残り香を抱き締めていたかった。少しでも彼の痕跡が欲しかったのだ。だが、もう何もない。残り香は儚く霧散し、合わせた膚と躰の深部まで灼いた熱は疾うに冷めていた。それが途轍もなく寂寥を募らせる。途方もない空虚が心を蝕んでゆく。束の間、放心したようにぼんやりと広い寝室の中央に立ち尽くした。
 時計の針が六時を打つのを聞いて我に返った国木田は、庭に面した障子を開け放ち、縁側に立って硝子戸を引いた。と、金木犀の濃密な香りが夜の名残を孕んだ冷気と共に流れ込んでくる。
 ふと囁き合った睦言が耳の奥で鳴った。
 ――金木犀の花言葉、知ってる?
 出し抜けに問われて首を傾げる国木田に太宰は目を細めて悪戯っぽく笑っていた。
 ――気高い人。
 国木田君みたいだね――彼は一層笑みを深めてそう云ったのだ。
「……俺は、そんな人間ではないのに」
 醜い慾も、脆弱さも、狡さも胸の裡にあると云うのに。太宰がそれを知らぬ筈がない。長く一緒にいたのだ。何よりも彼の眸の前にあって、隠し事は出来ない。
 それなのに。
 ――否、それでも、か。
 次、太宰と会うことが出来るのは何時になるだろう。
 逢瀬の連絡は何時も太宰の方からだ。国木田から約束を取り付けることは赦されなかった。それも偏に国木田の立場を慮ってのことである。太宰は細心の注意を払うと共に、万が一の場合を考えて国木田に逃げ道を作っているのだった。何かあった時は凡ての責任を独りで引き受ける心算でいる彼の優しさと気遣いに胸が潰れる思いだった。無論、国木田とて責任を負う覚悟は充分にあった。
 太宰ばかりに背負わせる訳にはいかない。彼を、愛しているから。だが彼は頑として譲らなかったのだ。
 ――私はどうにでもなるから。
 何でもないふうに笑って。
 太宰は、後悔はしていないと云ったが、それが真実だとしても、苦しんでいない訳ではない筈だ。
 愛せば愛す程、首を絞めてしまう。
 自分も、彼も。
 しかし、どうしようもないのだ。今更好きだと云う気持ちに嘘は吐けない。
 国木田は朝焼けの空を見詰める。黄金の旭光が充ちてゆく。
 ――待つ身が辛いか、待たせる身が辛いか。恐らく、どちらも等しく。
 逢瀬の連絡を待っている間、毎回思うのだ。
 もう二度と恋人として会うことは叶わないのではないかと。
 今度顔を会わせる時は、殺し合う時なのではないかと。
 そんな未来の予感に慄きながら、尚。
 国木田は濃い葉群れの中で咲く橙色の小さな花を眺め遣って、愛しい男を想うのだった。
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