戀―REN―

睡れぬ夜は声を抱いて

 月宿る深更は底冷えする寒さだった。張り詰めた冷気は耳が痛くなる程の静寂しじま
 一向に訪れないねむりに連れ出されて太宰は月色に蒼く染まった午前二時の住宅街を独り宛てもなく歩いていた。吐き出される息は白く凍って夜陰に溶ける。悴む手を外套の衣嚢ポケットに入れて天高く坐す月輪を仰ぎ、今彼が昏々と睡っているから夜があるのだと思った。彼が目を醒まし、朝を迎えた時、自分はふっと消えてなくなるのだろうと奇妙な思いに捉われる。
 ――此処に国木田君がいたら。
 きっと有無を云わせぬ力で家に連れ戻されるだろう。勝手にふらふらと何処かへ行くなと眉間に皺を寄せて。或いは冷えた躰を温めんとして強く抱くだろうか。あの時のように。思い出して唇に薄笑みを刷く。
 太宰は歩調を緩めながら衣嚢の中にある携帯電話を操作する。器械から流れる音声が夜の底に落ちる。真摯な、低い声音。耳朶にすっかり馴染んだそれは、やや緊張を孕んで響いた。

『……あの時のことを俺は謝る心算はない。――太宰。好きだ。今直ぐとは云わん。返事を聞かせて欲しい――』

 雑音混じりに音声が途切れて静寂が返って来る。
 しかし太宰は携帯電話に記録された一年前の真冬の深夜に取り残されたままだった。

 その日は社員一同集って宴会が開かれていた。一年の労をいたわる、所謂忘年会と云う酒宴であった。未成年組は茶やジュース類で、年長組は酒精アルコールを片手に出された料理をつつきながら、宴会を楽しんだ。未成年者等は遅くならない時間に解散となったが、酒が飲める者はかなり遅い時間まで酒杯を傾けていた。
太宰は元来、酒に強い方であるので然程酔っていなかったが、相棒である国木田は強かに酔っていた。あまり日に焼けていない肌は首元まで血色を濃くしていた。本人もあまり酒に強くないことは自覚しているので普段は節度ある飲み方をしていたが、身内の宴席となるとそうもいかないようで、社長や与謝野から勧められるままに酒杯を重ねていた。
 太宰はそんな国木田に、何時ものように他愛もない揶揄やゆを仕掛けながら、さり気なく水や茶を飲ませて酔い潰れるのを阻止した。泥酔した彼を引き摺って帰るのはご免だったので。
 そうしているうちに時刻は深夜を廻り、程なくして酒宴はお開きとなった。最後まで残っていた社長や与謝野は車を呼んで帰ったが、国木田は酔い醒ましに歩いて帰ると云い出した。宴会場となった店から社員寮までやや距離はあるが、徒歩で戻れない距離ではない。何となく一緒に帰った方が良いような気がして、太宰も連れ立って帰路に就いた。
 国木田は酒精に肌を染めながらも、帰途の足取りは確りしていた。
 特に話すこともなく、黙したまま冷たい夜の中を歩んだ。硬質な足音が土瀝青アスファルトを搏って長夜の静寂しじまを深めてゆく。吐息は白く、冷気に肺が痛いような寒さだ。もし今天候が崩れるならば忽ち雪になるだろうと思われた。
 冷え冷えとした夜更けは月光が妙に明るく、数歩先を行く国木田の背で微かに揺れる金糸を淡く輝かせていた。煌めくそれに月があると太宰は思った。と、不意に真っ直ぐな背が硬直した。危うくぶつかりそうになって歩みを止めると金糸が翻る。
「何? どうしたの?」
 国木田は酷く真剣な――悲痛とも云える面持ちで太宰を見詰めた。熱っぽく潤んだ双眸は醒めきらぬ酒精のせいか。寒月の真下に立つ彼は苦しげで、もうこれ以上は耐えきれないと云うようにして目許を力ませていた。
「国木田君?」
 一瞬、彼が泣くのかと思って差し向けられる眼眸まなざしを両の目で受け止めると突然腕を取られた。抗う隙も問う間もなく引き寄せられて、そのまま噛み付くような接吻キスをされた。何の前触れもなく、タイミングすらちぐはぐな口付けに只、驚くばかりで太宰は動けなかった。時が止まったとはこのような瞬間を云うのだろう。今や凡てが呼吸を止め、鼓動を止めて静まっていた。
 初めて受ける唇は清酒の香を残して熱かった。
 国木田は縋るように痩躯を抱き締めた。そうしなければ立って居られないとでも云うように。激しい抱擁は溺れる者のそれであった。確かに彼は溺れていた。迸る熱情に、抱いた恋情に、そして太宰に。
 平素の国木田からは全く想像もし得ない突飛な行動に「酔って誰かと間違えてるんじゃないの」太宰は皮肉めいた口調で告げて拘束する腕から逃れた。国木田はその場に立ち尽くして何も云わなかった。
 彼の沈黙が、己が吐いた言葉が、胸裡で反響しながら深部を抉った。知らない痛みが太宰を苛んだ。
 ――血脈に呼応する痛みの意味を、後に理解することになる。

 携帯電話に残された音声は、この出来事から一ヶ月後のことである。
 当時、太宰は職場で国木田と顔を合わせても何事もなかったように振舞った。と云っても、何時ものように仕事を放り出していたから、相棒と顔を突き合わす頻度は然程でもなかったけれど。
 兎にも角にも、あの日のことは国木田が酔っていたせいだと思って忘れようとした。しかし忘却を望めば望むほど、記憶はより鮮烈に、より強固になって太宰の胸の裡を占めた。
 蘇るのは唇の熱さと抱き締められた腕の強さと已まない痛みと。
 或る日、北風に吹かれながら暮れゆく河川敷を歩んで太宰は思い耽った。
 ――もし。もし、彼が自分を好きだと云ったら。
 夢想は甘く心臓を痺れさせ、已み難い疼痛を癒した。

 ああ、私は。
 彼が好きなのだ。

 解き難い謎のような、欠落していた何かがあるべき場所に収まった瞬間だった。

 何時から国木田を好きだったのか解らない。ずっと前からそうだったような気もするし、あの時の強引な、身勝手とも云える口付けが切っ掛けだったのかもしれなかった。
 女性にとんでもない理想を抱き、その手の方は全くの音痴と云って良い程に鈍く、初心うぶ晩熟おくてな彼が想いを告げる前に、それも此方の感情を一切無視して迫ったのは、やはり酔っていたせいもあったのだろう、と太宰は思う。
 あの時のことについて触れるのは何となく禁忌タブーな気がして、殆ど話題にしたことはない。問えば国木田も真面目に答えてくれただろうけれど。しかし今更、問い質す意味もない。
 国木田は云い訳も、弁解もしなかった。只、好きだと云った。それが凡てだ。

 一年前に吹き込まれた国木田の音声は睡れない夜のための安定剤だった。彼の声が宛てもなく彷徨う太宰を引き戻す。生に、朝に、帰るべき場所へと。目に見えない手が太宰の手を温かく掴んで導くのだ。
 月は明るく、夜明けはまだ遠い。
 国木田が善く睡っていれば良いと思った。
 太宰は外套の衣嚢に手を入れたまま蒼い夜の中を独り歩く。
 愛しい人の、声を抱いて。
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