ヒエロス・ガモス

 朝食に目玉焼きを作ろうと思って卵を割ったら、中から眼球が転がり出てきたので今日は奇妙な一日になるだろうと思った。
  鬱々とした雨の中を傘をさして歩く。湿度を纏った空気が肌にまとわりついて重苦しい。真綿で首を絞められているような息苦しさ。
 昨晩から降り続いている雨は世界を濡らして水の中に沈めようとしているみたいだった。いつかすっかり雨水に溺れてしまう様を想像して熱帯の魚になって泳ぐのを夢想する。水の中の方がきっと息がしやすい。鰓呼吸、肺呼吸、吐息、溜息。吐き出される息は雨に溶けて消える。呼吸をする度に私の躰の中が空っぽになっていくようで時々怖くなる。いつしか私の中は虚ろになって重力を失くしたら風船のように浮き上がって戻れなくなるかもしれない。空虚を漂う海月のように。海月はその命を終える時、躰は海へ溶けて消失するらしい。私もそんなふうに躰を溶かして死にたい。火葬なんて野蛮すぎる。
 降り頻る雨が水溜まりに絶え間なく波紋を作る。一瞬、私の影が小さな水面に映って崩れて通り過ぎる。雨、雨、雨。天から飽和する水はやがて海へ辿り着く。空は海を映したものにすぎない。だから同じ青い色をしているのだ。青、青、青。無重力の色。あの眼を思い出す。瞼も瞳も真っ青だったその人。ナジャ。ロシア語で「希望」の意。でもナジャは決して幸せそうではなかった。
 ――雨音が音楽に聞こえる。ピアノの鍵盤を叩くみたいに。だから雨の日は一日中、音楽を聴いているみたいになって頭痛がするから鎮痛剤ばかり飲んでしまう。
 ナジャは濃い化粧の下で気怠そうな表情(かお)をしてそう呟いていた。手放せない鎮痛剤、白い錠剤、ジクロフェナク、アセトアミノフェン、アスピリン。血中濃度〇.〇〇一パーセントの抗炎症剤。ニコチンもナジャは手放せないようで四六時中バニラの香りがする外国製煙草を吸っていた。モルヒネがあったら良いのにねえ――ナジャは薔薇色に染めた片頬に弱々しく笑みを浮かべていた。ナジャが鎮痛剤を常用していたのは止むことない心痛を麻痺させるためだったのかもしれない。
 傘を打つ雨音に耳を澄ます。私には音楽に聞こえない。ただパラパラと不規則な音が聞こえるだけだ。ナジャは雨音にどんな音楽を聴いていたのだろう。室内音楽のように静かな旋律か、あるいはジャズのように荒々しくも情熱的な調べか。雨音は単調だ。聴いていると眠くなる。雨垂れの音は睡眠の足音。ひたひたと耳の中を満たして鼓膜をノックする。眠れと私に告げるホワイトノイズ。
 ナジャ、ナジャ、ナジャ。男であり、女でもあり、あるいはどちらでもない人。派手なメイクと衣装に身を包んでステージに立ち「暗い日曜日」を歌う。いわくつきの音楽。その曲を聴いた者は自殺するという、嘘か本当かしれない話。私はナジャが歌う「暗い日曜日」を聴いても自殺しなかったけれど、歌っていたナジャはある日突然死んでしまった。白いバスタブの中で溺れて。鼻から血を流し、濁りのない青い瞳を見開いて。白いタイルの上に転がった携帯電話からはエリック・サティの「グノシエンヌ第1番」が流れていた。ナジャが最期に聴いていた音楽だったから、ナジャの葬儀にはその曲が使用された。ピアノの旋律に重なる弔いの鐘の音が荘厳さを添えていた。
 私は朧げな記憶を頼りに「グノシエンヌ第1番」を鼻歌で歌う。不穏な空気を孕んだ静寂を謳う曲。調性不明な曲。もしかしたらナジャには雨音が「グノシエンヌ第1番」に聞こえていたのかもしれない。それは大いにあることだ。傘を打つ雨音に鼻歌が混ざる。雨音のメトロノーム。早すぎず、遅すぎもしない。私の脈拍と同じくらいの速度。
 鬱々とした雨の中を傘をさして歩く。湿度を纏った空気が肌にまとわりついて重苦しい。雨に溺れてしまう。ナジャみたいに。どうしてナジャは死んでしまったのだろう? 死因は不明。たくさんの花に囲まれ、埋もれたナジャの白い死に顔を思い出す。この人の素顔はこんな顔をしていたのかと不思議な感動があった。化粧をしていない顔、無防備な顔、無垢な顔。素性がしれない、その人。歌い手、バーの従業員、トランスジェンダー、ドラァグクイーン。享年二十七歳。メイクをしていない彼は別人みたいだった。
 不意に頭上でボトリと鈍い音がして軽い衝撃があった。一体何だろうと傘の下から空を見上げる。と、足元に耳――右耳が転がっていた。右耳の耳朶(じだ)には何かの目印のように黒子(ほくろ)があった。それに見覚えがあるような気がした。私は少し躊躇った後、右耳を拾いあげ、ズボンのポケットに仕舞った。白い雨の中、帰路を急いだ。

  拾った耳は血色を失くして白く、滑らかな手触りだった。耳殻の天辺が少しだけ尖っており、複雑な凹凸は美しい貝殻を思わせた。耳は貝殻の名残り。私達がまだ海でしか生きられなかった時代の残り香。海と私達を繋ぐ臍の緒。空から耳が降ってきたということは、やはり空はもう一つの海なのだ。そして人の躰にも海がある。胸骨の奥にある〇.六六一ポンドの海。絶え間なく拍動し続ける心の臓。掌で包み込める程度の海。
 私はベッドに潜り込んでそっと拾った耳を左耳に押しあてて目を閉じ、欹(そばだ)てる。聞こえてきたのは静かな雨音――やがてそれは「グノシエンヌ第1番」となって鼓膜を慄(ふる)わせた。奇妙な旋律に惹き込まれて瞼が重くなる。薄青いハルシオンのように音楽が躰を満たして私を眠りの淵へと引き摺っていく。恰も絞首台に連れていかれる死刑囚のように。重い足取り。雨が降る。降る、降る、降る。降り続ける雨。雨は夜を塗り潰す。
 ――全部嘘だよ。
 笑いながらそう言っていたナジャの声を夢現に思い出す。

 ◆◆◆

  翌日も雨だった。そして昨日と同じことが繰り返された。朝食に目玉焼きを作ろうと思って卵を割ったら、中から眼球が転がり出てきた。潤った青い瞳と目が合う。私は素手で眼球を掴んで頭上にかざし、矯(た)めつ眇(すが)めつする。瞳の奥を覗き込むと青空が見えた。どこまでも晴れ渡った蒼穹が目に眩しい。青が目に沁みる。窓の外は雨。雨、雨、雨。憂鬱、陰鬱、懶(ものう)い。頭が痛くなる。頭痛にはアスピリンを、心痛にはモルヒネを。青い瞳の中にある晴天が恋しくてずっと眺めていたかった。きっとこの蒼天はナジャが見た空なのだろう。彼の葬儀の日は酷く天気の良い日だったので。
 ふと思いついてエプロンのポケットから昨日拾った右耳を取り出し、眼球とそれとを白い皿の上に並べてみた。
 ――こちらは『なんでもない人の切り落とされた記憶』でございます。
 額縁で飾ればそんなタイトルの一点物の美術品になるだろう。歪な美。完璧な美。私は冷蔵庫からケチャップを取り出して白い皿の余白に唇を書いた。真っ赤な唇、GIVENCHYのルージュで彩られた唇、ナジャの唇。薄すぎず、厚すぎない。いつしか戯れにキスしたそれ。
 携帯電話を操作して音楽を流す。シェレシュ・レジェー作曲「暗い日曜日」。寂しげな旋律が部屋に響く。繰り返し何度も聴いたナジャが歌う「暗い日曜日」。自殺を誘発する曲。

 私はダイニングテーブルにコスメを広げて小さな鏡を覗き込む。アイシャドウパレットを手に取り、真っ青なパウダーを瞼の上にのせ、黒いリキッドアイライナーを引いた。黒い瞳、見慣れた眼、私の顔。それから真っ赤な口紅でリップを塗った。女である女、女である私、ナジャのパロディ。ナジャのなり損ない。 ナジャとは彼が勤めるバーで出会った。煌びやかな衣装を纏い、派手なメイクを施してステージの上で歌う彼の姿に目を奪われた。何かの事故にあったような衝撃だった。しかしそれは恋とは違った親密さを求めるもので、実際彼とは友達になった。知り合った頃の彼は堂々としていて美しかった。
 ――ナジャって良い名前でしょ。友達の家の本棚にあった本のタイトルが記憶に残ってたから、そう名乗ることにした。私はその本読んだことないけど。小説ってどれも書き手の妄想でしょ。本一冊、まるごと妄想だなんて、何だか気が狂ってるみたい。
 ――本当の名前は言いたくない。好きじゃないから。
 ――別にはっきりと女になりたいとか、男でいるのが厭だとかは思ってない。ただ、どちらでもあってどちらにもなりたくないだけ。私はナジャでいたい。 ナジャ、ナジャ、ナジャ。ロシア語で「希望」の意。彼は幸せじゃなかったから自らの存在を希望にしたかったのだ。
 私はキッチンから耳と眼球がのった皿と果物ナイフを持ってきて鏡の前に座り直すとナイフを左眼に突き刺した。ごりっとした手応えと共に眼球を抉り出す。溢れ出す血が頬を伝って顎から滴った。焼けるような痛みが脳を揺さぶる。虚ろになった眼窩に碧眼を嵌め、続いて右の耳を切り落として耳朶に黒子がある右耳をさっぱりした側頭部に押しあてた。
 エリック・サティの「グノシエンヌ第1番」の旋律が頭の中に響きだす。
 ――全部嘘だよ。
 悪戯っぽく笑うナジャの声が聞こえる。
 外は雨、雨、雨。
 左眼の中は真っ青に晴れている。

(了)
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