不変容
白いバスタブの底に座り込む。
淡い電灯の光を受けて鱗が真珠色に輝く。
あなたは包丁の柄を強く握り締めて振り被ると下腹をめがけて勢い良く振り下ろした。
(壱)
この辺は変わらないね――あなたは呟きながら四方に視線を配ると隣を歩む幼馴染が曖昧な返事を寄越す。
墓参りの帰りだった。展墓したのは幼馴染の妹である真美の墓である。丁度今日が彼女の命日なのだった。運良く仕事の休みが重なったあなたは電車を乗り継いで故郷に舞い戻った。地方都市から片道三時間の列車の旅は職場と自宅を往復するだけの日々に僅かながら彩を添えた。見慣れた灰色のビル群が乱立する景色から山や海が見える拓けた眺望へと移り変わってゆく様は幾ばくかの郷愁を呼び起こした。
吐く息が白い。底冷えする寒さに耳が痛くなる。頭上には雪雲が重く垂れ込み、今にも白い欠片を落としてきそうだった。凍結した道を滑らないように慎重な足取りであなたは進む。左手には雪原が広がり――恐らく休耕地だろう――、その反対側は鬱蒼と茂る雑木林があり『国有地』と辛うじて読める看板が立っていた。視軸を遠くに投げれば曇天の下に霞む山の稜線。然程標高が高くない、小山といえる小規模な山は三つ連なってこちら側へと長く伸びて迫っていた。真冬とだけあって山頂は白く染まり
「この後、どうするの。実家に顔出すの」
幼馴染――蘇芳は少しだけ歩調を緩めてあなたに訊ねた。
「ううん。親にはこっちに帰ってきてるのを知らせてないから。今日は旅館に泊まるつもり」
あなたは微笑みながら右手に提げた小ぶりな旅行鞄を少し持ち上げてみせる。そうしながらもう何年も顔を合わせていない母親の姿を思い浮かべる。最後に会ったのは十年近く前だろうか。彼女を想起するだけで躰の深部が冷えていく。できればもう二度と会いたくはない。もし会うことがあるならどちらかが棺桶に入った時だ――順当にいけば母親が先だ。彼女が骨壺に収まった時、やっと全部終わったと解放されるのだろう――あなたはそう思って密かに片頬に笑みを浮かべた。
「そうか。この間君のお母さんがうちに買い物しに来てくれたよ。元気そうだった」
「元気なら何より」
殺しても死にそうにない、いかにも頑強そうな母親の顔付きが束の間脳裏に閃いて再会はまだ遠そうだとあなたはひっそり溜息を吐いた。
「蘇芳はこの町から出たいと思わないの」
あるのは山と海と雪ばかり。子供頃、皆で雪遊びしたっけ――蘇芳と彼の妹である真美とそれからもう名前も顔も思い出せない近所に住んでいた同じ年頃の子達と。無邪気に笑っていたあの頃は今は酷く遠く、まるで夢の中の出来事のようだ。
「俺は店があるからね。両親も年だし、今更出てはいけないよ」
蘇芳は薄く笑って答える。彼は五十年以上続く和菓子店『観月堂』の次期店主――若旦那なのである。若旦那というと全国に名の知れた大店で多くの従業員を抱えているように聞こえるが、『観月堂』は彼と両親、従業員一名の四人で細々と営んでいる小さな店だ。観光客で賑わう夏以外は地元の人間が主な顧客らしく、特に二月は購買力が落ちる時期なのだと以前蘇芳が愚痴ともつかない口ぶりで零していたのを聞いたことがある。
「そっか。じゃあ結婚は――あ、今こういうのは訊いたら駄目なんだっけ」
あなたは十センチ程背が高い蘇芳を見上げる。同じ四十路とは思えないほど彼は若々しい外見をしていた。まだ二十代半ばといっても違和感がないくらいだ。
――さーちゃん、いっしょにあそぼう。
どこか舌ったらずな言い方で纏わりついてきた四歳の真美。大人になった彼女の姿を上手く思い描けない。
「別に良いよ。――俺はしないよ。
無理無理、と彼は眉尻を下げて顔の前で手を振ってみせる。と、ちらと覗いた手首の内側がきらと光ったように見えた。ブレスレットだろうか。
「珍しいね、蘇芳がアクセサリーつけてるの」
「え? ああ、うん。たまにはね」
蘇芳は曖昧に笑って右手首をもう一方の手で軽く抑えた。
緩くカーブした道を歩いていくと小さな駅舎が見えてくる。あなたはダウンジャケットのポケットから携帯電話を取り出すと時刻を確認する。十四時七分。画面をタップして電車の時刻を調べる。次の電車が来るまであと三十分ほどあった。この辺りに時間を潰せるようなカフェなどは何もない。ベンチに座って待っているしかないかとあなたが考えていると「――真美が」蘇芳が低く呟いた。駅舎の前で立ち止まる。
「真美ちゃん? 何?」
「いや、真美も君が来てくれて喜んでいるかなって」
「うん。なかなか仕事が忙しくてあまりこっちに帰って来られなくて真美ちゃんにも申し訳ないけれど」
「そんなことないよ。あいつのこと忘れずにいてくれるのは兄としても嬉しく思う」
遠いところまで来てくれてありがとう――蘇芳は深々と頭を下げた。
あのさ――幼馴染は顔を上げるとふと神妙な面持ちで口を開く。
「真美がどうして死んだのかは憶えてる?」
「瓢箪池に誤って落ちてそれで……だよね?」
三十五年前の夏。あなたが五歳だった頃。子供達の遊び場になっていた小高い丘の裏手にあった池で当時四歳だった真美は溺れ死んだのだ。
「君は信じないかもしれないけれど――それどころか皆信じなかったけれど――俺あの時見たんだよ」
――真美が人魚に足を掴まれて池の中に引き摺り込まれるのを。
(弐)
芯まで冷えた躰に熱い温泉の湯が沁みてじんとする。あなたは深く息を吐いて頭を広い浴槽の縁へ乗せて湯気で白く霞む高い天井を見上げた。橙色の柔らかい電灯の光が滲んで見えた。
早い時間帯のせいか、それともシーズンオフのせいか今夜宿泊する旅館の大浴場を使うのはあなた独りだけで静かだった。誰に気兼ねなく手足を伸ばして温泉に浸かれるのは気持ちが良かった。開放的な気分になる。だがその一方で胸裡には鉛のように重たいものが
あれはどういうことだったんだろう――あなたは湯の中に
人魚に足を掴まれて。
引き摺り込む。
池の中に。
池。
――そもそも池に人魚なんているのか。
人魚がもしいるとしたら海ではないのだろうか。子供の頃読んだ絵本でも人魚いたのは海だったはずだ。
蘇芳は妹が池に落ちる――引き摺り込まれる瞬間を見たといったが、それは何かの見間違いなのではないのだろうか。今の時期、池は凍っている。現実的に考えれば、幼い彼女が池に落ちたのは張っていた氷をそれと知らず踏み抜いてしまったからだろう。そして泳げない彼女は溺れてしまった――。
彼が言っていたことは妹を突然亡くしたことによるショックのあまり生み出した妄想ではないのか。いや、これはどうだろう。人魚に殺されたと思う方が心的負担は大きい気がする。不幸な事故死と思った方がまだ諦めがつくだろうし、納得しやすい。では蘇芳が見たというのは妄想でも何でもなく事実なのだろうか。
池に人魚。
人魚が人を殺す。
絵本の中に描かれた人魚はどこまでも美しく、儚げであった。そんな人魚が人を殺すなんて。優美な姿と上手く結びつかない。
「……人魚ねぇ」
そう独白した時、不意に右足を引っ張られるような感覚がしてあなたは短い悲鳴を上げて反射的に立ち上がった。湯の表面が乱れて泡立ち、天井から投射される光と自身の影が崩れる。あなたは身を竦ませてつぶさに浴槽の中を見、広い浴場を見渡した。整然と並ぶ鏡とシャワーヘッド、隅に置かれ数個の椅子と桶。あなた以外、誰もいない。浴槽の中に源泉が注ぎ込まれる音が絶え間なく響き渡る。あなたは背筋を
部屋に戻り、寛いでいるといつの間にか
お食事でございます――女将自ら運んできた夕食の膳が座卓の上に並べられる。メインは今が旬の越前蟹で、カニ刺し、浜茹で、焼きガニと蟹尽くしの料理が目を惹く。他にも河豚の唐揚げ、寒鰤の煮付け、蟹汁、山の幸では猪肉、越前
女将は懐石用コンロに火を着けると「さ、おひとつどうぞ」卒のない動作で徳利を手に取り猪口を出すように促す。あなたは少々まごつきながら白磁の猪口を女将に向けるととろりとした液体が注がれた。ふわりと酒精の香りが鼻先を
「美味しいですね」
「お気に召して頂けて何よりです。お客様が召し上がっているお酒は地酒の一つで“若返りの水“なんて呼ばれてるんですよ。なんでも
女将は饒舌に語る。
「八百比丘尼はご存じですか? 日本全国に色々な言い伝えがありますけれど、ここも彼女
「ええ、存じております。私も生まれがこっちでしたから」
そうだ、ここにも人魚だ――あなたは言いながら八百比丘尼の伝説を思い出す。人魚の肉を食らって不老長寿になった少女の話だ。
ある時彼女は父親が持ち帰った人魚の肉をそれと知らず食べてしまい、それ以来不老長寿となり村で暮らすが、夫に何度も死に別れたり、知り合いも皆死んでしまったので出家して比丘尼となり、全国を巡り歩いたとされている。
「まあそうでしたか。そうとは知らずに失礼しました」
これじゃあ釈迦に説法ですわねお恥ずかしい――女将はころころと笑う。五十路は
「あの、人魚って池にいると思いますか」
口に出してからその莫迦莫迦しさにあなたは鼻白んだ。それは女将も同じだったようで彼女は瞳を一瞬見開いてあなたを見遣った後、口元に淡い笑みを湛えて「さあ……どうでしょうかねえ」小首を傾げる。
「江戸時代の頃には人魚の絵なども多く描かれたようですが、どれも日本海側での目撃が多かったと記録が残っているそうです」
それらは実を明かせばアザラシやアシカなどの海獣類、リュウグウノツカイのような深海魚だったようですけれども――女将は慎重な口ぶりで告げて「でももしかたら池にもいたかもしれませんわね。八百比丘尼が振舞ったとされる湧き水に人魚が棲んでいたのかもしれません」あなたを慰めるように付け足した。あなたは猪口に注がれたとろりとした酒に目を落とす。どこか不安げなあなたの顔が映っていた。あなたは白磁の器を手に取ると一息に呷った。
◆◆◆
あなたは池の
水面は暗い。けれど澄んでいるのをあなたは知っている。透明な暗闇を
池。
瓢箪池。
八百比丘尼が村人に振舞った若返りの水。
人魚の水。
不老不死の水。
水。
漆黒の、水。
あなたは身を屈めて水面を覗き込む。自身の姿は映らない。
――さーちゃん。
懐かしい声が水底から聞こえてくる。幼い呼び声は水の中を揺蕩いながら泡のようにこちらへ届く。ゆらゆらと儚い呼び声。ひとつ、またひとつ。あなたを呼ぶ。切なげに。慕わしく。
――さーちゃん。
――さーちゃん。
――ねえ、さーちゃん。
真美ちゃん?
あなたは漆黒の
――さーちゃん、いっしょにあそぼう。
ざっと水の中から現れたのはぞろりとした長い黒髪の、全身真珠色に輝く鱗に覆われた異形だった。真っ黒な虚空――眼窩があなたを見詰めていた。
あなたは悲鳴を上げながら飛び起きた。
どっと心臓が鳴り、早鐘のように胸骨の奥で震える。厭な汗がじっとりと寝間着を濡らしていた。
あなたは短く浅い呼吸を繰り返しながら辺りの気配を窺った。知らない天井、梅の花が活けられた床の間、隅に置かれた小さな旅行鞄、広い和室。暗い。誰もいない。静かだ。
あなたは緩慢な動作で枕元の携帯電話を手に取り、時刻を確認する。三時八分。起き出すにはまだ大分早かったが、寝付けそうになかったのであなたは布団から這い出て部屋の電気を付けた。蛍光灯の眩しさが目を射る。あなたは何度も瞬きをして布団の上に座り込むと寝間着の裾から覗く足首に妙な跡を見付けた。裾を捲ってみる。と、右足首にくっきりと手形が残っていた。それを目にした瞬間、ぞっと怖気が立ち、先程まで見ていた夢が返ってくる。
――さーちゃん、いっしょにあそぼう。
真珠色の鱗に覆われた人ならざるもの。
夢に出てきたのは果たして真美だったのか、それとも。
彼女もあんなふうに水の中から呼ばれたのだろうか。
何に?
人魚に?
――人魚。
八百比丘尼。
人魚の肉を食らって不老長寿になった女。
彼女は果たして幸せだったのだろうか。
ずっと若いままで長く生きて。
数多くの人と死に別れ。
自分ならきっと耐えられない――あなたはそう思う。
あなたは携帯電話を握り締めて画面をタップし、通話履歴を開くと幼馴染の名前が表示されている場所を選択する。だが、それ以上指は動かなかった。
これ以上、ここに居ることはできない。
今にも逃げ出したい気持ちを抱えながら朝一番にチェックアウトしようとあなたは決めて夜明けを待った。
(参)
小旅行から戻ったあなたは再び職場と自宅とを往復する日々に戻った。平穏だけれど代り映えのない日常はただ仕事に忙殺されて過ぎ、あなたに生まれ故郷で体験した不可思議な出来事の意味を考えさせる余地を与えなかった。
今日も
温かな光に満たされたエントランスを抜けてエレベーターに乗り、目的の階で降りる。真っ直ぐ通路を進んだ先にある五〇五号室のドアの施錠を解いて中に入った。
「ただいま」
無感情に呟きながら靴を脱いで部屋に上がった。と、膝辺りのタイツが破けているのにあなたは気が付いた。先程転んでしまった時に破けてしまったらしい。あなたは内心で舌打ちをしながら右膝を見遣った。
「……何これ」
剥き出しになった膝頭に薄らと残る血の跡と真珠色に輝く数枚の鱗。あなたはまじまじと見ながら薄い
――嘘。
あなたは驚愕に瞳を見開いて鱗が密生する膝を見詰めた。
叫び出したいような衝動に駆られてあなたは妖しく光る鱗を両の手で力任せに毟った。ぶちぶちと厭な感触と共に鱗が剥がれ落ち、血が滲んだ。出血したところから新たに真珠色の鱗が生え、その範囲は疥癬のように徐々に広がっていく。あなたは服を脱ぎ、バスルームに駆け込んだ。思い切りレバーを引き下ろしてシャワーを出し、熱い湯を頭から浴びると太腿の辺りまで広がった鱗を洗い流すように湯をかけた。
「何なの、これ……!」
ぶちぶちぶち。鱗は毟っても毟っても後からどんどん生えてくる。 毟り取られた半透明な鱗がシャワー流水に乗って排水溝へ溜まっていく。そのうち水の出口を塞いで湯が白いタイルの上に溢れ始める。水面を漂う無数の鱗、鱗、鱗。浴室の明かりを反射して煌めく様は真珠を撒いたよう。
あなたは混乱する頭で棚に置いてあった剃刀を手に取ると鱗の群生を根こそぎ削ぎ落すように銀色に光るそれを太腿に滑らせた。
「痛……っ!」
ざっくり切ってしまった傷口から血が溢れ、湯と共に皮膚の上を流れていく。だがそれも束の間。みるみるうちに傷口が真珠色の鱗に覆われて見えなくなった。あなたは信じられない気持ちで尋常ではない現象を凝視していた。そして唐突にあなたは悟った。
不意に幼馴染の姿が脳裏に翻る。
――あの時の、ちらと光ったのは。
あなたは泣き叫ぶように笑った。
「……もしもし? お母さん? 久しぶり。元気? ……うん、私は元気だよ。そう、最近忙しくて。うん、ごめんね。……この間蘇芳君に良いお肉をたくさん貰ったの。ブランド牛だって。お母さん好きでしょ? せっかくだからお母さんにも送るね」
あなたは包丁の柄を強く握り締めて振り被ると下腹めがけて勢い良く振り下ろした。
(了)
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